#02 奇跡の価値は。


このまえ、ふとしたことで「奇跡が起きれば良いのになぁ」と思った。
まぁ、そのとき奇跡は結局起こらなかったが、奇跡というものへの疑問が残った。
そもそも奇跡というものはいったい何なんだろう?
僕が思うに奇跡というものは日常にごまんとあるのではないだろうか。
例えば、電車の中で隣に座った人はどうだろう。
その人は、もしかしたら朝寝坊して、仕方がなくその電車のその車両に乗ったのかも
知れないし、早起きしてたまには早く出かけるかと思いその電車に乗ったのかもしれない。
確かにお互いに気には留めていないがその二人は奇跡的に隣り合ってるということになる。

そう考えれば普段気にしないだけで、
我々の周りには奇跡は満ち溢れてるということになる。
しかし、それは奇跡だが「僕らが願う奇跡」とは違う。
僕らが言う奇跡とは、世の中に満ちている奇跡の中から自分に都合の言いのもをチョイスし
ラッキー呼ぶよりもむしろ奇跡と呼ぶほうがふさわしいモノを奇跡と呼ぶのである。
つまり、奇跡とは非現実的なものではなく以外と現実的なものなのだ。
奇跡といえど太陽が西から昇ったりすることはない。

そうすると、奇跡は確率の一種であるとも考えられる。
[奇跡=とてつもなく低い確率で起き得る現実]ということだ。
ゼロでは無く、ただ0.0000・・・1%のゼロの数が少々多いだけだ。 つまり、奇跡は自分の努力次第で発生率を上げることが出来る。 どうだろう?奇跡はとても崇高なものだと思っていがちだが、実はそんなに凄いものではない
だれもに、その可能性があるのだ。

可能性。
だんだん奇跡というのもがどうも日常的な台詞で片付くような気がしてしてきた。
人に不可能は無いとだれかが言った。
もちろん肉体的な限界はあるがそんな話をしてるのではない。
人には無限の可能性があるということだ。
無限の可能性はだれもが持っている。ただその可能性はただの可能性であって、
あくまで「〜出来るだろう」の仮定の域を出ないが。
その仮定の域を脱出するために皆努力をするのである。
少しでもゼロコンマの後ろのゼロを少なくするために。

実は奇跡は自分が起こしていたのだという考え方も出来る。
故意にしろ、他意にしろ、奇跡は奇跡だ。
別にそんなに凄いこっちゃない。起こるべくして起こったことだ。

だれにでも奇跡は起こせるし、まってるだけじゃ奇跡は起きないと思う。
そう考えると人間だって捨てたもんじゃないし、なんか幸せな気分になるだろう?

そのことに気づかず可能性を無駄にしてる人もたくさんいるんだよね。
コレじゃ起きる奇跡もますます起きなくなってしまうよ。
きっと奇跡ってのは、
自分の可能性を信じて頑張った人だけがもらえるモノなんだろう。

ん?・・・
ふと思ったが、それじゃラッキーってのはなんだ?
幸運?とりあえず、奇跡=幸運ではないと思うが。
そうすると「運」のことも考えないといかんのか。
厄介だなぁこういう不確定なものを考えると、答えがでた気になっても違うような
気がしてくる。どうしよう。
自分の中でも訳がわからなくなってきた・・・

まぁ、なにせ言いたかったのは、
「奇跡なんて安っぽいものに頼らずに自分の足で歩こう」ってことが言いたかったてわけだ。
せっかく足がついてるんだから。自分の足で歩け歩け。