
|
※今回はやたら( )が沢山出てくるので一回目に読むときは、 出来れば読み飛ばして、後からみてもらった方がいいかも知れない。 高校の卒業式が厳かに、滞りなく終わったおかげで、 私は晴れて高校生を卒業したわけだが、なんとも奇妙な感じだ。 つい数日前まで自分の自己紹介をするとき名前や歳の後についていた 『〜〜高生です』というものが無くなった。 厳密に言えば3/31まで高校生と言うことになるんだが、 そう名乗る奴はもういないだろう。 自分が今まで付き合ってきた肩書きと言うものに別れを告げたとき、 (肩書きと言うものにもまた一筆あるのだが、それはまた次の機会に。) 私はなんとも言えない開放感を感じた。 それはむしろ『自由』を知覚したと表現するべきだろうか? これから、大学生になるという準備期間としての2ヶ月くらいの間、 私は何にも所属していない。自由な身となる。 親に扶養してもらっている以上、その時間は何をしようと法に 抵触しない限り私は自由の身となる。 勉強をしようがバイトをしようがまったくの自由。 なんともすばらしい響きだ。 だが、そう言う精神的な自由とは別に肉体的な自由はどうだろう? そう考えると、私が感じた自由は錯覚的な物となる。 確かに高校に所属している自分はいなくなったが、 家族に所属し、国家に所属し、極論だが人間と言う種族にも所属している。 我々は常に何らかの社会や組織に所属し、その規律の中で生活している。 規律に所属。まったく自由では無いではないか。 しかし実際にこの考えでいう自由を実現した社会があったとして、 正常に機能するだろうか。 どこの国家にも属さず、行きたいところに行き、好きなことをし、 食べたいときに食べ、寝たいときに寝る。理想郷のような世界だが、 (この場合どこかに食べ物や寝床を確保することが必要になるで矛盾が生じるが・・・) 皆が自由だと言うことは殺人も自由なワケで、人に恨まれることは すなわち死を意味し、死をまぬがれるためには徒党を組む必要があり、 そこには自然と上下関係や、ルールが生まれる。 人は人が二人以上で生活しようと決めたとき、そこに完全な自由は存在しない。 つまり、人がつがいで生きていくしか子孫をの残す方法のない現代。 (科学が進歩してクローン技術が進化したらどうか知らないが。 ちなみに人口受精は卵子を必要とするためそこにもう一人の異性が必要となる。) 人が完全に自由を得る方法は種の存続を否定することになるので、 不可能ということになる。 我々は自由をある種の快感としてとらえ、束縛を不快と感じる。 しかし完全な自由は実現不可能なのである。 所属と言う行動事態社会生活を円滑に進めるためだと言ったらこの話はそれまでだが・・・ では、束縛の代表=所属として、所属の必要性を考えてみよう。 私の敬愛する漫画家、士郎正宗氏が攻殻機動隊で同じようなことを言っていたので、 影響を受けているのだろうが、 『人が生きていくため(存在していると周りに認知されるため)には、 以外に多くの情報を必要をする』 と言うものを、大前提としてもらいたい。 理屈的にも間違っていない。 生きて(存在して)いるといる判断は常に第三者にゆだねられるからである。 たとえば、あなたは明日起きると家族・知人の記憶から自分の記憶がなくなり。 それでもなんの問題無く時が流れる世界になってしまったとしよう。 当然、国や政府・所属していた組織にあった自分の個人情報も失われるとする。 そして、自分が他人に印象を与えることが不可能な状態になったとしよう。 幽霊になってしまったと考えると妥当かもしれない。 現代の科学では命を定義することは出来ないが、他人に見え、自分が見え その他人とコミュニケーションをとることが出来る幽霊を死んだと考えるのは むつかしい。・・・話がそれた。話を戻そう。 そのときあなたは生きているのだろうか?存在しているのだろうか? 「私はここにいる!」といくら叫んでも他の人に気づかれない自分は、 第三者的観点から言うと存在しないということになる。 つまり、自分が存在するためには、どこかに所属し、 知人の記憶の中に自分というものを認識させなければならない。 (この場合2人以上。1人の記憶だと幻覚かも知れない(笑) 家や車、写真など自己を証明する物は多ければ多いほうがいい。 どうやら、自由うんぬん以前にが人が存在するためには 自分以外の異性を含めた3人が必要のようだ。 しかも上記のとうり、3人では完全な自由を得ることは不可能だ。 さて、このとうり自由と言うものは度がすぎれば恐ろしく危険なものだ、 しかし、自由はある種の快感があり、自由でありたいという思想が人にはある。 それが現実だ。 現に過去、自由を求めて起こった戦争は後を立たない。 人は、自由のために他人を殺しさえもするのだ。 おかしいでは無いか。私は種が持つ本能というものに無駄なものはないと思っている。 どう見ても完全な自由は存在しないし、人はそこに向かうために危険を犯す。 自由は危険だ。 人はなぜそのようなものを追い求めるように出来ているのだろう。 もしかしたら、究極の快感のひとつとして人が完全な自由を得ようとしても、 人が人である限り不可能だからこそ自由によって、 快感を得らるようになっているのかもしれない。 (∞に不可能だから。人は何かを突き詰めようとしたとき∞の不可能に常に阻まれる。 たとえば、宇宙の果てとか。心の定義とかうんぬん。 それが人であるがゆえの限界なのだろう。 私は神を信じていないがその∞の答えは神だけが知っている。 そう考えるのもいいと思うが?いかがかな?) けれど、もし人であることをやめたとき、考えることをやめた時、 自由を考える事も無くなるのだろうな。 それは悲しいかも知れない。 人が人であるために問われる問い、しかしその問に答えられる人は今後も現れないだろう。 ※快感という言葉を多用しているが、ここでは精神的充足感や、 達成感、開放感などを指す。 ※自由の意味不明な危険さと、所属の必要性について書こうと思ったんだが、 毎度の事ながら書いてるうちに複雑、意味難解(不明?)な文になってしまった。 文章力の無くて、読んでくれている方には申し訳無い。 こんな文章で意図が伝わるのだろうか・・・・ |

