#06 私たちは夢という翼を失い現実を歩く。


人はだれしもちいさいころに将来の自分を思い描くものだとおもう。
それは、非常に無垢で無謀を思い描く、
だが大半の人はその夢をかなえることが無く大人になり、
ある程度の方向性は持っているものの、ある意味惰性で仕事を得、夢を忘れていく。
何故ほとんどの人は夢をかなえることが無く生きていくのか不思議に思う。

直接的な理由は簡単だ、ただその夢に到達するために必要な努力を怠ったからである。
ちいさいころに持ちえた大いなる夢はその実現のために本人に多大な努力を要求する。
努力とはつらいものである学生の間、自身の夢をかなえるために努力するにはあまりに誘惑が多すぎる
友人・部活動・趣味・・・怠惰な忙しい時を過ごす。
やがて小さいころに描いた夢は埋没し忘れていく。
それはもしかしたらとても幸福で残念なことだ。

そうして大人になり、小さいころの夢を忘れた日々の間にふと思い出すことがある。
宇宙の図鑑を買い与えられたのが直接的な原因だと思う。
私の場合は宇宙飛行士になりたかった。
スペースシャトルの打ち上げや、事故のニュースを見るたびに
私の心は少しだけ寂しくなる。「ああ、昔の自分はあれに乗りたかったのだ」と。
昔、自分が小さかったころ憧れたものは実はとても遠いところにあることを知らなかった無知ゆえか、激しい羨望だったのかはわからない。
だがその実現には途方も無い努力が必要だった。

私は、決して学校の成績がよいわけでは無かった。別段悪いわけでもない。
俗に言う普通というやつだ。
それに中学・高校と特に夢をかなえるための努力も行わなかった。

結果は言うまでも無い、私は今ただ惰性で社会に出て行こうとしている。
そこに憧れた宇宙との関連性はどこにも無い。
世の中に生きていくほとんどの人はこの様にして夢を埋没させていく。
それが良いことなのか悪いことなのかは私にはわからない。
だが、夢をかなえることは険しい道だったと思う。
それに夢をかなえることができたとしてそれが幸せだとは限らない。
夢をかなえることそれ自体は終着点ではなく始まりだから。

もしかしたら人には夢を思い描くという言うこと自体が必要なものなのかもしれない。
人生には希望が必要だ。それを自分で思い描いたとしても不思議ではない。
人は神を作り出し、人生の希望を捏造するものだ、自分自身に都合のよい希望をつくりだしてもなんら不思議は無い。

では私たちの思い描いた夢は無駄なものだったのだろうか?
できることなら私はそうは思いたくない。
夢自体をかなえることは無かったがその夢事態が自分に与えた影響は、
自分(自我)というものを形成するうえでとても重要なファクターと考えられるからである。
夢に見た自分にはなれなくても、現実を見てみる限り夢を見た方向へ少しづつ人生は傾いている。
そして、傾いた人生の中でまた新しい夢を見つけていく。
大きな目標でなく小さな目標を掲げて達成していくという人生の送り方を身に着けたとき人はすでに大きな夢をかなえることができなくなっているのかもしれない。
小さいころに大切にしていた図鑑を手放し、地球儀を、天体望遠鏡を手放し、部屋は少し広くなり、そこに機能が詰め込まれていく。
自分の部屋は自分が生きていくことに順応し、夢を内包したがらなくなる。

そうして少しづつ夢を切り離し、そこ部分に現実を当てはめていくことで人は大人になっていく。
それは、人が生きていくためのシステムであり、生きていく方向を示し終わった夢を人は無慈悲に自分から切り離していく。
夢を消費し咀嚼し排他し現実を得ていく。
かなえられなかった夢はその人の中に少しだけ残り現実を生きる強さを与える。
とても完成された悲しいシステムだと思う。最後に残るものは思い出と、方向だけ。

夢を最大減に利用し、望む自分を得た人は今大いなる充足のなかにいるのだろうか?
それは夢を消費し、多くの現実を手に入れてしまいつつある私には知り得る事の無い問いだろう。
世の中には夢があふれている、輝かしい夢、微笑ましい夢、愚かしい夢、醜い夢。
だが、現実は夢以上に圧倒的物量で存在し、夢をかき消す。

どうか、心の奥の古びた輝かしい夢は現実に侵食されないように守りたいと思う。