無題
よかった、と彼女は死の床で呟いた。
彼女が臥せるようになってどれくらい月が過ぎただろうか。
今日も彼女を間に、向かいに座ったイツ花が唇を噛み締め、神妙な面持ちで私を見る。
どうやら今日が峠のようだ。なんとなく、わかるのだ。そういった事が。
見たところ、痛みなどは無さそうだった。―顔に出さないようにと無理をしていないならば。
静かに死んで行く。ゆっくりと眠るように。みんなそうだった。
きっと彼女、朔良もそうなのだろう。
ぼんやりと、どこか宙の一点を見つめたままの朔良が、
小さいけれどはっきりと聞き取れる声で言った。
「私の身体の中にも 鬼がいるの
あれはいつだったろう。その月の討伐から帰還して、すぐの事。
イツ花が世話をしている猫に早く会いたかった。二ヶ月前に産まれたばかりの仔猫がいたのだ。
討伐中もずっと気になっていたその仔に会いたくて、屋敷に戻るとすぐにイツ花にたずねた。
いつもの変わらぬ笑顔で彼女は答えてくれる。
「餌を食べた後、外の方へ遊びに行ったようですよ。」
じっとしていないわね、と朔良は苦笑いして、一旦自室へと引き上げた。
戦装束を解き、家での普段着である白い着物へと着替える。
他のみんながお風呂に入る間に、猫をさがしてこようか。
そうして庭へ出ていった。
庭といっても、裏がすぐ小さな森のようになっているので、案外捜索範囲は広くなる。
こんなところでは見つからないかと思いながらも、奥へと進んで行く。
と、突然近くで激しい鳥の羽ばたきと、くぐもった鳴き声が聞こえた。
とっさに声のした方へと走り寄る。
そこには探していた猫が、鳥を鋭い爪で押さえつけている姿があった。
羽毛が辺りに飛び散っている。
なにしてるの、と声を荒げ、猫を追い払う。
食事の後だから、捕らえたものの弄ぶだけで食べるつもりはなかったらしい。
猫はおもちゃを奪われて不満げな声をあげると、すっと居なくなった。
鳥は必死に羽をばたつかせているが、どこか負傷したのだろう。飛べないようだ。
近くへ行って様子を見てみると、それは本当に小さく、真っ白な羽に包まれていた。
所々に傷から溢れた真っ赤な血が広がっている。
一瞬目が眩み、自然とまぶたを閉じて堪える。
倒れるかとも思ったが、大丈夫だったようだ。
再び目を開けると先ほどと変わらない風景が見える。
だが、視界がどうもおかしい。
自分が立っているのが見える。
「自分」はその場に膝をつき、そっと小鳥を手のひらへ乗せた。
感覚はある。膝の下に荒れた土の堅さ、草のしなやかさを着物ごしに感じる。
そして、手から伝わる小鳥の体温に、朔良は安心した。
まだ間に合うかも知れない。家に戻ってイツ花に見てもらおう。
「自分」は立ち上った。早く、早く家へ。
しかし、焦る朔良を尻目に「自分」はぴくりとも動かない。左の指で羽や頭を撫でている。
感覚はあるのだ。羽毛の柔らかさも、脈さえもちゃんとこちらに伝わってくる。
それなのに何故「自分」は自分で動かせないのか。
このままでは間に合うものも手遅れになってしまう。
その時、朔良は「自分」がうっすらと笑うのを見た。
瞬間、その手が小鳥を握り締める。指に徐々に力が入ってゆく。
嘴から泡のような血を吐きながら、甲高い悲鳴が響く。
感覚はあるのだ。もがこうとして抵抗する力。骨が軋む感触と、早まる鼓動。
朔良は堪えきれず叫んだ。
やめて。やめてやめて。
「鬼は平気で殺せても、鳥は駄目なの?」自分の声が彼女を捉える。
朔良は恐る恐る顔を上げた。いつしか「二人」は対峙していた。
鬼と鳥は違うじゃないの。
「違う?大した違いはないでしょう?」
搾り出すように反論する。
少なくとも悪行はしないわ。
「そうかしら。少なからず何かを殺してる。生きてる以上、必ずね。人に対してのみが悪行なの?」
静かな笑みをたたえながら、彼女は朔良を見つめている。
鬼 だ。
朔良は確信した。私の心の隙を突くつもりか。私の顔と声で、異なる言葉で惑わすか。
騙されるものか。私は私だ。私は私一人のものだ。
正体を現せ、鬼め。
そう言うと、「自分」は微笑んだ。ぞっとするほど妖しく、美しい。
「酷いこと言うのね、鬼だなんて」
彼女は一歩前に出る。朔良は身じろぎもしない。
「正体を現せ、か…」
一歩、また一歩。文字通り目の前まで近づく。
綺麗な琥珀色の瞳で、朔良の目を覗きこむ。
「私が鬼だって言うのなら」
声は移動し、耳元で囁かれる。
「あなたも鬼ね。」
朔良の視界がまた闇に染まった。
気がつくと、自分の部屋に居た。跳ね起きて周りを見まわす。
障子から入るやわらかな日差し。余計な物の置かれていない見なれた場所。
部屋の真ん中で眠っていたのだろうか。夢か?それにしては生々しい…。
座りなおし、しばらく呆然とする。
何とはなしに見ていた畳の目から目線は動き、自分の膝の辺りで止まった。
白い着物に、土のついた跡と草の汁。
一気に血の気が下がる。冷たい汗が流れ落ちる。
そういえば、何故この右手は握り締められたままなのか。
感覚は、ある。
やわらかで、冷たい。少し手に余るそれは。
見たくない。見たくないのに、腕は意思があるかのように、朔良の目の前で止まる。
力が込められたままの指がぎこちなく開かれてゆく。
目を背けることが出来ない。泣く事も叫ぶ事も出来ない。
すぐ耳元で、またあの声が聞こえた気がした。
「あなたも、鬼ね。」
そして そいつは日に日に大きくなったわ
体調が崩れはじめたのは、あの頃からではなかったか。
よかった…もう少しで私、そいつに食われそうだった…」
朔良の目から、涙が一筋つたった。
生きているうちは、悲願達成の日まで決して流さないと誓ったものだ。
すぅ、と息を吸う音がして、そのまま。
彼女は逝った。
私は自分の手で彼女の開かれた瞼を閉じさせ、イツ花の持ってきた白い布をその顔にかけた。
あと少しで討伐隊も帰ってきただろうに。せめて皆にも見送らせよう。
イツ花に下がってもらい、彼女の亡骸と二人だけになる。深くため息をついた。
どうにもならないこの呪いへの無念さと、ようやく自由になれた彼女への焦燥感。
何より、自分だけではなかったという奇妙な安堵と、更なる恐れ。
もう返事をする事もない彼女へ話し掛ける。
「私の中にも、鬼は居るのよ。」
もしかすると、他の者もこの恐怖と戦っているのだろうか。先に亡くなった父も、叔母たちもみんな。
家の中でも外でも鬼と向かい合わなければならないなんて、余程業が深いと見える…。
重い気持ちのまま私は立ち上り、襖に手をかけて一言。
「出来ることなら、わたし達が人として死ねるように見守っていて下さい。」
そう祈るように呟き、静かに戸は閉められた。