| 天保10年 ―1839― |
・5月 蛮社の獄
1837年、アメリカは日本人漂流者たちを送還し、通商を開くよう要求した。しかし幕府は「外国船討払令」により砲撃を加え追い返してしまった。
この「モリソン号事件」の情報に接した高野長英、渡辺崋山、江川太郎左衛門ら洋学者は幕府に対して危機感をおぼえた。そして、「尚歯会」を結成し、海外事情に通じるために西洋の書物を研究する。
国際社会から阻害されることを憂慮したこのグループは、書物を通じ幕府に対し警告を発する。『夢物語』を書いた高野長英は、終身獄につながれ、『慎機論』を書いた渡辺崋山は蟄居させられ自刀する。
| 嘉永6年 ―1853― |
・6月3日ペリー率いる米艦隊が浦賀に来航
その日はどんよりとした雲が立ち込める蒸し暑い日だったという。
夕刻、米国東インド艦隊司令長官ペリー率いる四隻の黒船が、海兵隊を満載し、幕府の喉元である浦賀沖に現われた。
黒煙を上げるその巨体を目の当たりにした幕府首脳たちは、なす術もなく狼狽するだけであった。
大統領からの親書を届け、再来を告げるとペリーは引き上げていった。
そして、この日から「幕末」という動乱の時代が幕を開けた。
このペリー来日であるが、実はアメリカが日本に艦隊を送るという噂は、すでにこれより何年か前から各国の間で話題になっていた。嘉永3年には、オランダ政府より長崎奉行へその噂を知らせていたという。さらに来航の前年の嘉永5年には、東インド総督の公文書として同じく長崎奉行所に提出している。にもかかわらず、その後の情報伝達がスムーズにいかなかったのか(あるいは故意に事実を捻じ曲げて進言したか)来航のその日まで浦賀奉行の元には何の指示もなかったという。
| 嘉永7年 ― 1854 ― |
・2月 神奈川条約
ペリーは8隻の軍艦と2隻の補給船を率い再び来日。幕府はペリーの開国要求に対し、下田と函館を開港する条約を結んだ。
| 安政5年 ― 1858 ― |
・4月23日 井伊直弼 大老に就任
・6月 日米修好通商条約調印
直弼は着任早々、朝廷の許しが得られずに行き詰まっていた日米修好通商条約締結を断行する。
天皇をはじめ攘夷派の猛反対を押しきれずにいたこの条約締結を、勅許無しに断行したのである。
同時に松平忠固、堀田正睦の二人の料忠を更送、勘定奉行 川路聖謨を罷免するなどして、着々と井伊体制を整える。
・9月 安政の大獄 始まる
井伊直弼に血の粛清は、単に将軍継嗣問題にかかわり南紀派に反対した者への報復だけではなく、勅許なく条約を締結した幕府を指弾する攘夷派をはじめとする幕府批判勢力への弾圧だった。
主な人々は次の通りである。
徳川斉昭(前水戸藩主) 水戸において永蟄居 徳川慶篤(水戸藩主) 差控 一橋慶喜(一橋家主) 隠居・慎 徳川慶勝(尾張藩主) 隠居・慎 松平春嶽(越前藩主) 隠居・慎 山内豊信(土佐藩主) 慎 安島帯刀(水戸藩家老) 切腹 茅根伊予之介(水戸藩士) 死罪 鵜飼吉左衛門(水戸藩士) 死罪 鵜飼幸吉(水戸藩士) 獄門 鮎沢伊太夫(水戸藩士) 遠島 橋本左内(越前藩士) 死罪 頼三樹三郎(頼山陽の子) 死罪 飯泉喜内(幕臣) 死罪 吉田松陰(長州藩士) 死罪
このほか、梁川星巌は捕らえられる直前に病死、梅田雲浜・日下部伊左治は獄死した。
結局、死罪・切腹・隠居・慎などにより処刑された者は、75人に及んだ。
| 文久2年 ― 1862 ― |
・4月 寺田屋事件
薩摩藩の島津斉彬が安政5年に死去、藩主は忠義になっていたが、実質は"国父"としてその父の久光が実験を握っていた。
中央においては頓挫した公武合体論に代わり、長州を中心とする尊攘思想が脚光を浴び始めていた。そこへ久光が武装兵を率いて上洛するという計画が発表された。謀臣 堀次郎の起草した『紹述編年』という論策をたずさえ、幕政改革に関する勅諚を引き出し江戸に乗り込むという計画だった。
一方、清河八郎等の尊攘志士が九州を遊説し、関白九条尚忠、所司代酒井忠義を血まつりに上げ、二条城と大阪城を奪うという、京都義挙の計画を説いてまわっていた。薩摩の有馬新七や、久留米の真木和泉、田中河内介等の間で京都義挙の計画がまとまっていたところへ、久光上洛が発表されると、久光を巻き込んでの京都義挙という形で噂が流れた。薩摩を中心とする各地の志士が京都において過激な行為に走ろうとするのを、久光は伏見寺田屋に鎮圧の使者を派遣する。
4月23日夜、新七らは薩摩藩の使者と斬り合いを演じ、壮絶な死を遂げた。
・8月 会津藩主松平容保が京都守護職に赴任
攘夷の風潮が強まる中、井伊大老による安政の大獄の反動もあり江戸、京都では天誅と称する暗殺が頻発していた。
特に治安の悪い京都には、従来の所司代以上の組織である京都守護職が設置されることになった。その頃の実質的な幕府の責任者であった将軍後見職の一橋慶喜と政治総裁職の松平春嶽に、京都守護職になることを強く求められた容保は、会津藩の自滅行為だと猛反対する家臣たちの進言もあり再三固持する。しかし、会津藩祖保科正之よりの遺訓に象徴される将軍に忠誠を尽し徳川家と存亡を共にするということを家風として受け継いだ容保には、断ることはできなかった。
京都を死に場所と覚悟し、黒谷の金戒光明寺を本拠とした会津藩兵は、容保の指揮の元京都の治安維持のためにめざましい活躍を見せる。
| 文久3年 ― 1863 ― |
・5月 長州藩、外国船を砲撃
開港による物価上昇が幕政批判を浴び、世論は攘夷に傾きつつある中、朝廷からも攘夷の実行を迫られ、困惑した幕府は4月20日、将軍後見役の一橋慶喜を将軍家茂の名代として参内させ、5月10日を攘夷期日とする事を、しぶしぶ奏上することになる。
攘夷とは言っても「彼より襲来せば、之を掃壤すべし」という、正当防衛のみ認めるという姿勢であったのだが、長井雅楽の失脚により尊皇攘夷一色に塗り変わった長州藩は、これを恣意的に解釈し、関門海峡での攘夷戦という過激な行動に出た。
5月11日未明 久坂玄端が過激な攘夷浪士を集めて結成した「光明寺党」が長州軍艦に搭乗、海峡を通過しようとしたアメリカの商船ペンプローク号を砲撃。
5月23日早朝 下関の砲台からフランス軍艦キャンシャン号を砲撃。
下関に集結した藩兵500人も参加しての戦闘となり、フランスの水兵4人が死亡。
5月26日早朝 オランダ軍艦メジューサ号を砲撃。水兵4人が死亡。
とにかく黒船と見れば見境なく攻撃、薩摩の軍艦を外国船と間違えて砲撃するという狂騒ぶりであった。
6月1日午前10時 アメリカの軍艦ワイオミング号が来襲、自国の商船を襲われた事への報復として攻撃される。
旧式兵器しか持たない長州軍の劣勢は覆うべくもなく、この海戦では軍艦3隻が大破、沈没した。
皮肉にもこの日、長州藩に対し攘夷実行の詔勅が下り、意気多いに揚がろうとする矢先の敗戦であった。
6月5日早朝 フランス軍艦セミラミス、タンクレードが報復来襲。
前田砲台を沈黙させた上で陸戦隊が上陸、付近の村を焼き払って引き上げると言う惨状となった。
・5月20日 姉小路公知暗殺される
午後10時ごろ、勤皇派の公卿姉小路公知が宮中から退出して自邸へ帰る途中、朔平門外の猿ヶ辻で刺客に襲われ、重傷を負い、のちに絶命した。
現場には薩摩の刀が残されていた事から、薩摩藩の田中新平衛が逮捕された。
「人斬り新平衛」とまで言われた田中が刀を投げ捨てて去るとは考えられないのだが、一度も取調べを受けないまま、京都奉行所で自害したため、罪を認めて死を選んだと解釈された。このために薩摩藩は乾門の警護を免ぜられ、九門の出入りも禁じられた。
この事件により、長州藩にとってはライバルの失脚となり、これより政治は長州藩の独壇場となっていく。
・6月 奇兵隊誕生
フランス軍艦が長州兵をさんざんいためつけて引き上げて行った翌日の6月6日、高杉晋作が奇兵隊結成のために馬関にやってきた。
身分を問わず志あるものは集まれという晋作の呼びかけに応じて、農民をはじめとする庶民階層の若者がぞくぞく志願し、応募者は300人を超えた。
| 元治元年 ― 1864 ― |
・3月27日 天狗党、筑波山にて蜂起
天狗党と呼ばれる水戸藩尊攘派の過激活動家が中心となり、筑波山において尊皇攘夷の実践を叫んで放棄した。攘夷の勅命が幕府に下ったにもかかわらずそれを実行しない幕府に対する抗議とともに、天下にその魁を示そうとする行動であった。
「天狗」の名称は、藩主斉昭に協力して水戸藩の天保改革を推進した中下層の藩士たちを、保守門閥派の人々が侮辱をこめて呼んだのが始まりである。
この乱の実質的な中心人物は、尊攘志士の指導者として活躍した藤田東湖の四男である、当時23歳の藤田小四郎であった。
挙兵への参加者は、はじめ百数十人だったが、しだいに増え千数百人に膨れ上がった。しかし、この挙兵は藩内の党争に発展し、尊攘派が筑波勢とむすび、保守派は鎮圧に出動した幕軍と結託して、両派の武力衝突は数ヶ月にわたり続いた。
10月末、尊攘派は那珂湊で幕軍に降伏したが、藤田小四郎、武田耕雲斎ら約800人は太子村に走った。彼らは在京の禁裏御守衛総督の一橋慶喜に心情を訴えようと11月1日京に向かう。
しかし慶喜は幕府側に立ってこの件を処理する。
過激な攘夷行動に走る長州藩などを批判する立場でもあったし、また幕府の非難から水戸家を守るためでもあったのだろうか。彼はみずから討伐軍を指揮する役目を買って出た。
京都を目指していた天狗党一行は、途中で慶喜が討伐に出陣した事を聞き絶望する。越前藩に降伏し、翌年2月350名以上の者が敦賀で処刑され、あとは追放、流罪に処せられる。小四郎の首は水戸に送られさらし首となった。
この慶喜の非常な措置は批判を浴び、後々まで尾をひく事となる。
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