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月がすごくきれいだった。 それが欲しくて手を伸ばしたら、僕はこんなところに落っこちてしまった。 真っ白な羽は重たいここの空気の中で飛ぶにはあまりにも弱くて脆くて。 僕は空には帰れない。 「高い所が好きだとは思わなかったぜ」 「高い所は好きだよ?どちらかと言うと高い所の方が…落ち着くかな?」 「何とかと煙は…ってヤツか?」 意地悪に笑うランチの隣りで、微笑んだ口元から白い紫煙を細く昇らせて。 「…この煙に乗っかって行ったら、どこまで行けるかな…」 目線で煙を追いかけて、町並みではなく、空を見上げる。 文明に汚された雲。 くすんだ空。 あれならきっと僕の体も支えてくれる。 ばふ…っと頭に乗せられた手に、ランチを見上げた。 「…その時は、俺もつれてってくれよ」 その手に、その言葉に、僕の足は地に付いて。 「大丈夫。どこにも、行かないから」 どこにも、行けないから。 こんな姿の僕ではきっと、帰り道を見つけても、受け入れてはもらえない。 それに何よりも、僕は、ここに居たいんだ。 羽は、まるでコールタールの海に落ちたみたいに重たくて、使い物にはならなかった。 初めて、何かを失う感触を知った。 それが恐かった。 僕の中の彼は、流れるような言葉をつづる。 彼の言葉はひどく巧みで、その言葉を真似てつづれば、自ずと道は指し示された。 僕は、「桜井雅宏」と言う名を、僕の物にした。 「流れ星みたいだって、最初思ったんだ」 黒いモニターに走らされたプログラムを、目で追いかける。 「真っ黒な夜空に流れる彗星群みたいだろう?」 「…まぁ、見ようと思えばそう見えなくもねぇだろうけど…」 僕の肩越しにモニターを覗き込むランチは、呆れたような感心したような感じで笑って。 「そんな事考えるのは、あんたぐらいだと思うぜ?」 と、ひどく優しい顔をする。 どうしてそんな顔をするのか解らないけど、その表情がすごく好きで。 「そうかな?」 そう言って、同じように笑ってみた。 「僕は最初これが作りたくて、プログラムを始めたんだ」 「桜井雅弘」は、星を操る知識をたくさん持っていた。 星を操れば月を手に入れられるかもしれない。 それは冒涜だ。 そう罵る声は、僕の中の彼が消し去ってくれる。 欲しい物を手に入れようとする思いの方が、どんなキレイな教えより、純粋だよ。 僕の中の正しさは硬度を増し、鋭利な諸刃の刃となる。 「君の名前は知っているよ。桜井雅弘君」 この街で一番大きなビルの一番高い所に、その人は居た。 人を見下したような目。 何となく、嫌な感じがする。 「君のプログラムには一部の人間に多大な影響を及ぼした。実のところ、私も、興味がある」 そう言って微笑む顔には絶対の自信が張り付いていて。 「なぜ、我が社へ?」 その問いに、桜井雅弘の緊張がひときわ大きくなる。 しかし、僕はそれを見ないことにした。 「一番、高いビルだったからです」 僕と、僕の中の彼が同時に声を発する。 「…ユニークな答えだ」 かすかに、笑い声が聞こえた。 書類に、何か文字を走り書き、重たい音のする判を押す。 「その高さが何を意味するかは知らないが…」 片づいたデスクにひじを乗せ、両の指を組む。 「期待しているよ。桜井君」 その、ひどく不敵な笑みに、にっこりと微笑みを返した。 「ご期待に添えるよう、努力します。門倉社長」 一番、月に近い場所。 気がつけば僕の欲しい物はいつの間にかすり替わっていた。 僕の中の彼は僕に肯定の言葉を投げかけ、それっきり居なくなった。 そうしてようやく、全てが一つの「僕」となった。 本当の意味で。 「えぇ!?そうなのかい!?」 いきなりの驚愕の声にランチの方が驚いた。 「あ…?あぁ、よく聞く話だろ?人間の両肩には天使と悪魔が乗ってるって話」 「じゃぁ、君は誰なんだい?」 普段あまり開くことのない目を大きく開かせて、瞬きもせず、真剣な表情。 スプーキーの問いたい事が理解できたのか、ランチは、ふっと口元をゆるめた。 「そりゃ、あんたが一番よく知ってんじゃねぇの?」 少しうつむいて、さもおかしそうに喉の奥で笑う。 ランチらしい笑い方だ…。 そう思った。 天使でも、悪魔でも、それ以外の物でも。 彼はランチ以外の何者でもない。 その結論に、苦笑した。 「…君はきっと悪魔だよ。意地悪な事ばかり言うからね」 なんだか可笑しさが込み上げて来て、小さく声を出して笑った。 ランチは両手をポケットに突っ込んで、少しすねたような顔をしてから、 「…かもな」 と、顔を崩して笑ってくれる。 「天使だって悪魔だっていいじゃねぇか」 笑顔が、ひどく優しい物に変わって。 「俺はランチで、あんたはスプーキー。スプーキーズのリーダーだ。…だろ?」 リアリストなランチが、どういったイメージでその話をしているのかは解らないけど。 受け入れてくれる彼の広さが嬉しかった。 ここに居れば、僕は、僕の好きな僕で居る事が出来る。 知らぬ間に僕は、強く、強く、ここに居る事を望んでいた。 「よかった」 「…ん?」 「君のとなりにいるのが僕で、本当に、よかったよ」 僕の中の彼の声? いったい何の話だい? 僕はみんなの知るままのスプーキーだ。 それ以外の何者でもない。 そうだ。 僕はスプーキー。 スプーキーズのリーダーだ。 …肯定の言葉は、僕が………。 燃え盛る鉄塔のにおい。 頭の奥で彼の声が響く。 …翼…? 真っ黒な翼。 遠い遠い昔を思い出す。 違うよ。 あれは夢だ。 遠い遠い昔の夢。 僕が白い翼を持っている夢。 だって僕はスプーキーだ。 翼を持たないただの人間だ。 では、これも夢…? この熱さも、このにおいも、この浮遊感も、彼の言葉に対する胸の痛みも!? 違う! 夢なんかじゃない!! この翼は僕の心。 彼らを信じる事の出来なかった僕の心。 僕の心の汚れた部分。 彼らに受け入れられないと、信じてもらえないと思い込んで彼らに嘘をついたその報い。 信じる事もせずに、信じてもらえないと被害者を演じた自分への報い。 今僕の体を操り、僕の口から言葉を発しているのは、他ならない。 …僕、なんだ。 「相手だと?あれはリーダーなんだろ?どうするんだ」 「頼む、リーダーを助けてやってくれ」 こんな姿の僕を見ても、僕をリーダーと呼んでくれる。 そのランチの言葉に、涙が溢れた。 汚れた僕の、黒い黒い涙。 それが頬を伝い、痕を残す。 …ここからは、全てが見渡せるんだ。 宙に浮いて、一番高いビルのてっぺんで、誰よりも高い位置にいて。 すべて見渡して、全てが、理解、出来た。 僕の中にある感情の全てが。 …全ては、憧れから始まった。 それがいつのまにか変化した。 妬み、嫉妬、自己防衛のための嘘、うそ、ウソ……… これが人間の狂気。 この世界を狂わせた狂気。 でも…こんな狂った生き物だけど…… ……僕は人間としてランチのとなりにいたかったんだ……… 横になった桜井雅宏の心臓は停止した。 僕の中にいた彼は地に。 僕は天に放り出された。 …体が、ひどく、軽い。 上に上にと昇っていく身体を、黒い涙の痕が停止させる。 いやだ!行きたくない!! …僕は帰るんだ。 スプーキーに。 スプーキーズのリーダーに! ランチが認めてくれた唯一の僕に!! バッと、両の手足を引き千切れるほど広げた。 「汚れた空気!くすんだ空!僕を…僕を地に落とせ!!」 …お願いだ………! 祈る気持ちで、うつむいて、ぎゅっと、ぎゅっと目を閉じた。 広げた手足が、少しずつ重くなっていく。 その両足が地に付いた時、羽はやせ細り、真っ黒な骨を残すのみとなっていた。 うつむいた時にできた陰が、黒い涙の痕が、感じてとれる。 醜い自分が容易く想像できた。 でも、その姿を写す物質が、何もなかった。 肉体であった桜井雅宏は、もう、存在しない。 ………? 肉体であった桜井雅宏。 僕の中の彼であったサタナエル。 そして、醜く変わり果てた自分。 ……スプーキーは? スプーキーはどこにいる? スプーキーは…ハンドルネーム。 スプーキーは………PCの、中に………!! すごくドキドキする。 こんな素晴らしいアイデアを生み出せる僕で、本当に良かったと思うよ。 まるでびっくり箱の中に隠れているピエロの気分だ。 この箱のふたを開ける鍵を、早く見つけておくれ。 君なら、きっと見つける事ができるから。 ランチ。 ランチ。 大好きだよ、ランチ。 早く君に会いたい。 君はかくれんぼの鬼をやっていて、途中で帰っちゃうような事はしないはずだ。 僕は冷蔵庫の中に隠れている子供と同じ。 早く見つけておくれ。 早く君に会いたいんだ。 僕が凍りついてしまう前に。 僕が、このSPOOKYと言う名のプログラムと融合してしまう前に。 僕が僕であるうちに。 早く、早く見つけておくれ。 あぁ、君と会ったら、僕はなんて言おう。 きっと僕はいつもみたいにカッコ付けてしまうんだろうけど。 君は、なんて言ってくれるだろう。 僕の姿は見えるのかな? 僕の姿が見えたら、どんな反応をしてくれるんだろう。 早く、見つけておくれ。 大好きだよ…ランチ……… 「ランチは、大きいね。だからかな?」 「ん?何がだからなんだ?」 「高い所から物を見ると、たくさんの物が見渡せるんだ」 「…あぁ?」 「だから、きっとそんなに広いんだろうね」 地にしっかり足を付けて、たくさんの物を見て、たくさんの事を受け入れてくれる。 君のとなりにいるのが僕で、本当に良かった。 大好きだよ…ランチ………。 ………一つだけ不思議なんだけど…僕はいったい、誰なんだろうね? |