日常



家に帰らなくて良いのかと、だいぶ前に聞いた。
すっかり廃れきった天海市は僕の隠れ家にはうってつけの場所となり、
安すぎる賃貸マンションでの生活は交通の不便以外、文句無く快適だった。
無論、交通に関しても車で移動できる以上、僕には関係無く、
彼にしても、それは同じ。
お父さんとは仲直りしたらしい。
だからこそ、帰る必要もないと、彼は言っていた。
「監視しあう必要なんか、ねぇだろ」
拗ねたように、照れたように言うその言葉に、言い訳のような雰囲気も無い。
それは、良いことだと思う。
確かに、彼の父親の引っ越し先は彼が望む出版社への就職、通勤に難のある場所。
一人立ちを願う彼がここに居着く理由は見て取れた。
僕としても、助かる話だ。
今日も今日とて面接の返事を待つ彼は
大してホコリも見えないフローリングを掃除機片手に走り回り、
律儀に使い捨てモップまでかけている。
彼曰く、ホコリが見えるようになるまで掃除をサボるな。
転がっていくホコリを眺めるのも面白いが、
ホコリのように綺麗な床を自分が転がってみるのも面白い。
忘れ物を取りに行く時、土足で自分の部屋に入っても何とも思わなかった。
どちらかと言えば外を歩いている靴より室内用スリッパの方が
よほど汚いとさえ思っていた。
床に転がるなんて、とんでもない。
それが今や、裸足で歩けば足跡が気になるほどに磨かれている。
平日の午前中、日のあたる窓際で、床に灰皿を置いてひなたぼっこをしながらの一服。
薄手のカーテンを揺らす風が、タバコの煙を吸い込みながら窓から抜けていく様を
ただのんびりと見送った。
その視界を、彼が遮る。
わざとらしくモップの柄に乗せた手のひらに、あごを乗せて。
「さぁて…残ってんのはソコだけだ」
素直に「退いてくれ」とは言わない。
僕がくだらない物思いに耽っているさなかも、嫌味に僕の近くをモップ掛けして、
床に転がる身体をつついて行った。
解っていながらも動こうとしなかったのは、
やはりかまってもらいたかったからなのだろうか。
最近、自分の事が良く解らない。
妙に子供じみた事をするようになったと思う。
そのくせ、身体は年を取ったのか、動くのが億劫になる。
…年を取ると子供に返ると言うアレだろうか。
とりあえず、彼を見上げて笑ってみた。
僕の顔のマネをしているのか、珍妙な表情で笑い返しながら、彼が言う。
「…なんか言うことあるのか?」
「君が居てくれて、助かるよ」
口にくわえていたタバコを手に、灰を灰皿へと落としながら
うつぶせに伸ばした腕の上に見上げて疲れた首を下ろす。
灰皿のまわりにこぼれた灰を、苦い顔で眺めるように、
その言葉に対する照れを誤魔化す彼を、可愛いと思った。
そんな自分に対する苦笑を誤魔化すために、顔を伏せ笑う。
「君がそこに立っていてくれると、眩しくなくて良い」
笑いながら口元にタバコを持っていった直後、背中を踏まれた。
吸い込んだ煙が上顎の裏あたりに昇り、思わずむせる。
恨めしげに顔を上げれば、ムスッとした顔で差し出された大きな手。
仕方なくその手を掴んで立ち上がった。
「灰皿も持ってけ」
差し出された灰皿を受け取り、拗ねた顔を作る。
「わかったよ、ママ」
その言葉に、彼の顔が崩れた。
崩れたと言うよりは開いたと言うのが正解か。
その顔芸に、吹き出した。
「そんなに驚く事は無いだろう? 君の行動は、どこかの主婦と瓜二つだよ」
「いや…あんたの口から『ママ』って言葉が出てきたのがな…」
そう言われて、自分の言動が何となく気恥ずかしくなる。
「僕らしかぬ冗談だったかな」
タバコを挟んだ手の親指で頬を掻きながら、
彼と『ママ』を繋いだ出来事を、思い出した。
「テレビで見たんだよ。
 アイドルグループの一人が、主婦に変わって朝御飯を作るんだ。
 その人の歌が、先日、仕事を渡しに行った会社で…
 あれは有線かな? かかっていて、
 その後テレビでもよく見かけるようになったんだけど、
 でも、曲はなんとなく覚えていても、歌詞がよく解らなくてね」
「あぁ、あのオカマみてぇなヤツだろ?」
「うん、多分それだ。それを思いだそうとすると、
 必ず『ランチママは、料理上手♪』って…」
思い出しながらも指先で指揮を執りながら口ずさみ、我に返った。
その間抜けた姿に、我ながら、バカな話をしていると思う。
考えてみれば、PCがらみ以外で景気や社会事情の話はしたことがあっても
くだらないテレビ番組の話をしたことは無かった。
もしかしたら、生まれてこのかた、一度もないかもしれない。
ひどく、顔が熱くなった。
「…うん…僕らしかぬ冗談だった…」
彼に顔を見られないように背を向け、玄関へと逃げるように足を進める。
「ちょっと、風にあたってくるよ」
居たたまれず慌ててスニーカーに足を突っ込む丸めた背中越しに、長い腕。
後ろからあごを掴まれ、少し無理に首を曲げられ、中途半端なキス。
「歌詞にあっただろ。お出かけするときにはナントカ…ってのが」
頭の熱が、極限まで上昇する。
「あ…あぁ…うん、あった。…確かに、あったよ」
うん、あったあった…
訳も解らず舞い上がり、呟きながら、おぼつかぬ足取りで階段を降りた。
後から思えば、普段エレベーターで上り下りしているマンションを
完全な無意識の中、階段で降りて行った事実が信じられない。
彼の行動だって、掃除に邪魔な僕を一時的に追い出すための作戦だったのでは…?
そう気付いたのは、どこからか夕焼けこやけが聞こえてくる夕方の公園。
ベンチに佇むその手に、吸っていたはずのタバコは無い。
思わず、溜息を吐いた。
視線を下ろし、更に溜息。
肘の関節が固まった手のひらには、何故か冷え切った灰皿だけが、握られていた。



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