あんたが出した左手が、いつまでたっても忘れられない。

「握手をする時は、普通、右手を出すもんだぜ?」
そう言われて、スプーキーは差し出した左の手の甲を、黙って眺めていた。
いつも、一緒に並んで歩く時、彼は必ず右側を歩いていた。
ふらふらと車道に歩いて行けない分、少しは安全かと思っていたが、
どうやら真っ直ぐ歩けないらしく、ビルの壁に何度も肩を擦り付けていた事を思い出す。
キーボードを打つときも、やけに右側に片寄っていたし、荷物を持つ手も左側だった。
「まぁ、あんたが左利きなんて、ぜんぜん意外性のカケラも無いけどな」
そう言って、放って置かれた少し小さな手の甲を、軽く叩いて捕まえた。
やけに冷たく、なかなか放すきっかけが掴めなかった。
「これで、あってるんじゃないかな」
スプーキーは、くわえたタバコを唇と一緒に持ち上げる。
「君の手は大きすぎて、握手をしたって掴めないよ」
「そんなにデカイ訳ねぇだろ」
苦笑する手の中で、冷たい彼は、暖かくなる。
死んでいるように動かなかったその小さな手の、内側に回された大きすぎる親指を包んで、
再び、動かなくなった。
「僕が掴める物の量なんて、たかがしれている。これが今の僕の精一杯だよ」
「…量より質って言葉、知らねぇか?」
「さすがに本人の口から聞いた事は無いなぁ」
「いや、俺の事じゃなくてさ」
ころころと笑うスプーキーは、ふるわせた肩をぴたりと止める。
空いている右手でタバコを口から放して、その灰を落とし、
もう一度口にくわえようとして、やめた。
唯一だったそのタバコは、灰皿の中で無惨に散らばる吸いカスの一つとなる。
質よりも、量を選んだ、その、末路。
「…だから、これが僕の精一杯なんだよ」
スプーキーは、悟ったような冷めた笑みで、顔を上げ、視線を交えた。
どこかが少し痛くなって、どこかで少し、安心した。
せわしなくキーボードを叩く音に、その決して器用そうとは言えない
小さな手を、思い浮かべた。
左手を、不浄の手と呼ぶ国もある。
全ての不浄を一身に背負って、浄化したかのような錯覚にとらわれる。
真っ白な羽が、墨を吸う半紙のように染まっていくヴィジョン。
でも墨は、まだまだたっぷり残っていて。
文明の犠牲者を救うはずだったスプーキーズのリーダーは、
今日の死亡者リストにも、その名をあげない。
いつものように直接的な殺傷力のないはずの文明社会に殺された者の数を数えて。
やりきれない記事の詰まったノートパソコンを、あの人曰く大きな手で閉じる。
デスクを片づけ、車のキーを掴んで、それで…。

あんたは今日も、その小さな手で、キーボードを叩いているのか?

明日になればまた増えている犠牲者の数を思い、あの人の手を思い出す。
その手には持ちきれないほどの幸せが乗っていることを、祈る以外に、術は、無い。



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