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「ネコだ!しかもまだ小さいよ」 ランチより一足先に屋上に上ったスプーキーは、 普段決して聞く事のないほど大きな声で、そう言った。 12階建てのマンションの12階の門部屋に住むスプーキーは、 新しく買い揃えたいパーツの見積もりに夢中なランチに遠慮してか、 ベランダでタバコを吹かしていた。 その時、ろくに上り下りできそうな階段の無い屋上から、 泣き声が聞こえると言い出したのだ。 屋上へ登る手段は、ベランダの横から見える今にも壊れそうな鉄のハシゴのみ。 「ちょっと見てくるよ」 そう言って、危ないと止めるランチの声に耳を貸さず、そのハシゴを上っていった。 仕方なく、その後を追うランチが やけに鼻に付く鉄とコンクリートの臭いに顔を顰めている時、 頭上からスプーキーのその声が聞こえてきたのだった。 ランチがようやく屋上の床から御自慢のドレッドを覗かせると、 その頭にやけに暖かい感触を得た。 顔を上げると、抱えた小猫を悪戯にランチの頭に乗せてゴキゲンのスプーキーが覗く。 「よかった。ずっとこんな所にいたら、死んじゃうよ」 ため息を吐きそうなほどホッとしたその顔に、ランチは困ったように微笑んだ。 「…まったく。運動音痴なくせに無茶するぜ」 ランチは、頼りない鉄のハシゴを上りきると、コートを脱いで、小猫を包んだ。 「先に下りてくれ。上からこいつを下ろすから」 スプーキーに、下で受け取れと言う事だろう。 「解った。気を付けるんだよ?」 そう言って恐々とハシゴを下りるスプーキーに、 「あんたの方がよっぽど危なっかしいぜ」 と、その心もとない足取りを見守りながら、 小猫と自分のどちらを心配していったセリフなのかを考えるランチ。 考えるまでもない。どちらも心配なのだろう事は当然、承知の内なのだけれど。 キシ…と、嫌な音が何度も聞こえる。 その度、自分の事のように体が反応する。 …ロープでも持ってくれば良かったな… 今更の後悔を胸に過らせるランチを尻目に、スプーキーは自室のベランダに足を付けた。 無意識に止めていた息が、ようやく、二人同時に吐き出される。 スプーキーはランチを見上げると、 さも何でもない事をこなしたような余裕の笑みで、手を差し出した。 その子供のような表情に、ランチはふっと目を細めて、 それから、屋上の床に這いつくばると、 小猫の入ったコートのすそと、そでのあたりを片手に持って、ゆっくりと下におろした。 小猫は脅えているらしく、泣き声一つ上げない。 スプーキーは差し出した手の平でしっかりと小猫をつかまえると、 コートごと、胸に引き寄せた。 胸元でようやくしっかりとした足場を確保した小猫が、鳴き声をあげる。 真っ白な、耳カキの付属品のようなふわふわの産毛の小猫は、 まだ生まれて数日経ったか経たないかくらいに感じられる。 …どうしてこんな所にいるんだろう? 不思議に思いながらも、屋上に晒されていた割にきれいな小猫の背に、頬をよせた。 ギシギシと音がする。 見上げると、足を乗せるたびにサビのパラつく鉄のハシゴを、 鳶職人のように軽い足取りで、ランチが下りてきた。 …パキッ… 明らかにひびが入ったか、もしくはひび割れた所が更に広がったような音。 スプーキーの心臓が、それよりも大きな音を立てる。 急に、恐くなった。 「…っランチ!」 ランチは、ハシゴから少し離れた、ハシゴと同じ素材で出来ている ベランダの柵に片足をかけると、そのままひょいとベランダに飛び降りた。 スプーキーの心臓は、まだドキドキ言っている。 「なんて顔してんだよ」 ランチは涼しい顔だ。 「…いや、すごい音がしただろう?」 うるさかった心臓は、しだいに、少しづつゆっくりと機能しはじめる。 こんな高さから落ちたら、間違いなく死んでしまう。 少し高い所から飛び降りても足がジンジンするスプーキーに、 その痛みは想像を絶する物だった。 それをランチが経験する事になるなんて、考えられない。 「無事で、良かったよ」 緊張で凝り固まった顔の筋肉が、ぎこちなく笑みを形作る。 「あんただって下りたじゃねぇか」 ランチは手を伸ばすと、指の背で、スプーキーの頬を二度ほど軽く叩く。 「心配するのが嫌だったら、心配させるような事するなよ」 「…そうだね」 ランチが自分を心配してくれていた事に、不謹慎ながらも喜びを隠せないスプーキーは、 小猫を抱えると、小猫を包んでいたダークグリーンの厚手のコートをランチに手渡した。 「あぁ。サンキュー」 渡されたコートの肩のあたりを掴んで波を作るように振り汚れを落し、そでを通す。 「…なんであんなとこにいたんだ?」 ランチはそう言って羽織ったコートにしわを作らないように手でなで下ろすと、 ベランダの柵に背を持たれた。 パキン! プラスティックのおもちゃが壊れたみたいな、ちゃちな音。 ランチの身体が大きく揺れた。 身体のラインがいくつもの残像を残す。 「…っランチ!?」 コートのすそが、ベランダの床を一辺に、三角形を描いていた。 底面が上に上がるように小さくなって、消える。 「ランチ!!」 知らぬ間に、大きな声でランチを呼んでいた。 頭の中が真っ白になった。 頭の中が真っ白になって……… …気付いた時には、スプーキーの身体は、どこも、地に付いていなかった。 ジャケットが風をはらんで千切れそうなほど音を立てる。 しかしその音も、スプーキーの耳には入っていなかった。 …正面からの風の抵抗が痛い。 ひどく、長かった。 内蔵が置いていかれるような感触に、吐き気がする。 目下に、はためくグリーンのコートが見え、ランチと、目が合った。 これ以上無いほど大きく広げられたその目が、追って来た自分を責めているのが解る。 手を、伸ばした。 風の抵抗を受ける面責の差だろうか? 二人の距離が、見る見る縮んでいく。 まるで、吸い寄せられるみたいだ。 コートの端に、手が届く。 力いっぱい掴んで、引き寄せた。 背中に手を回す。 二人の身体の間にあった空気は、もう、二人の間になかった。 ランチの胸に、鼻がぶつかる。 頭上から、舌打ちが聞こえた。 頭を、強く抱え込まれる。 …だめだ!このまま落ちたらランチが……! 地上までの距離は、もう解らない。 落ちている感覚も。 …嫌だ!…せめて…ランチだけは………!! その思いだけが、頭の中を支配した。 その時… 「………!?」 …ランチの身体が急に重くなった。 背中に回した手が千切れそうなほど。 抱えられた頭に回された手も、ひどく重い。 背中のあたりが、風の抵抗を感じた。 …僕は、この感覚を、知っている…? それは、思い出してはいけない感覚だと、誰かが言っている。 でも、今はそれが必要だと、そう、直感した。 バキッ…… その音が聴覚を通じて脳に理解させる前に、鈍く巨大な痛みが襲った。 「………っ!」 ランチの胸に、こらえきれない息を吐く。 …痛い。 僕は、この感覚を知っている。 どうすれば良いのかは、身体が知っている。 これは、翼だ。 翼の感覚。 翼が風を受けている感覚。 僕の汚れた、骨を残すだけの翼。 僕の頭を抱え込んだランチには確実に目にとまるだろう翼。 …見て、欲しくはなかった。 それでも、ランチを救いたかった。 今、僕が出来る事。 唯一、君を助けられる事。 折れたってかまわない。 折れるほどに、風の抵抗を受けてくれ! 少しでも、ランチが痛くないように。 少しでも……… 僕の背には翼が生えていて、 その翼は、 コールタールの海に落ちたみたいに汚れて、 使い物にならなくなっていた。 夢を、見た。 真っ白だった僕の翼は、 汚れた大気を吸い込んで、 真っ黒な骨を残すのみとなって、 枯れ果てていた。 …君は、誰だ? |