手のひらと翼の間で



海の守護神よ、
居るなら聞いてくれ。
アレは、あんたにやるよ。
この世にたった一つしかない、
俺の利き腕を、あんたにやる。
だから、あのガキにやってくれ。
あんたがもたらす、とびっきりの幸運を。
他のモンは自分で勝手に手に入れるだろうから。
とびっきりの勇気も、とびっきりの仲間も、
自分で勝手に手に入れるだろうから。
海に嫌われちまったあいつに。
とびっきりの幸運を。
…たのんだぜ?




「痛むのか」
「そりゃまぁ、適当に…な」
月光と潮風に冷やされた、体温の届かない左そでが痛々しい。
円に近い、左頭上に輝く月を、打ち落とす。
シミュレーション。
「夜の潮風は、度が過ぎると体に毒だぜ」
月の破片は、左手でそれを払うことのできない猛者を、容赦なく刺し貫く。
朱く、染まる、ヴィジョン。
あかがね色の刃の光彩を放つ、日に焼けた髪が振り返る。
「ハハッ! コイツの揺りかごで育ったんだ。毒なワケねぇ」
その、かげりのない表情に、救われる。
思わず、口元が緩んだ。
「そうか。じゃぁ、好きにするといい。潮のしみた包帯がどれほど傷に痛むか、
 知らないはずもねぇしな。どうせなら海水でもかけてやろうか?」
「バーカ。こっから海面までどれだけあると思ってんだ?
 大人しく待っててなんかやらねーよ!」
欄干に背をもたれ、カラカラと微塵の湿り気もなく笑う。
未だ遊び足りないのか、大人しく言うことを聞いてくれる様子もない。
…大人しく言うことを聞くことなど、ごく希にしかないのだが。
「そうだな。じゃぁ、コイツで我慢しよう。消毒にもなる」
近くにある木製のカップに、肘をかけていた樽から
蜜色の液体が舌鼓のような音を立てて注がれた。
腕一つ食いちぎられようと声なんてあげる事の無いだろうこの男が、
傷薬ひとつに歯をギリギリさせていた姿を思い出す。
まるで手当の仕方が悪いとでも言いたさげな文句と、恨めしそうな目で。
当の本人も、それを思い出したようだ。
「だっ…オイ! ちょっと待て!! そんなモンかけたらせっかく乾いた傷口が…」
「あぁ、さぞかし、しみるだろうな」
放り投げた。
カップは底面を水平にしたまま弧を描く。
落下先は、腕が続くことのない左肩。
弧の頂点に届いたカップが月の中心にシンクロした瞬間。
銃声が、響いた。
弾丸がかすめ、軌道が変わる。
カップのまわりを取っ手が移動しているような錯覚を見せるそれは、
胸の前で曲げられた唯一の腕の、唯一の手のひらに吸い込まれた。
…大丈夫だ。
そう、確信した。
月の破片は、彼を貫くことはないだろう。
「ヒュー…っ! おっかねぇ副船長だぜ」
言いながらカップに口を付け、付けたまま、
一筋の黒髪が遮断する切れ長の目の、小さな瞳を軽く睨む。
肩が、揺れた。
押し殺したような声は次第に大きくなり、
いつしか顔一杯に口を広げ、しばらく、笑い続けた。
笑い、そして一息ついて、カップに残った液体を一気に飲み干す。
「ッ…ふー! ごちそうさん!」
空のカップを掲げ、目を細めた。
手にしたそれを、勢いよく投げ返し、その反動で欄干から背を離すと、
「しゃーねぇ。今日の所は大人しく部屋に帰ってやるよ。
 面白いモノも見せてもらったことだしな!」
そう言って、船室に続く扉へと向かう。
頬に触れるほどすぐ隣を横切る赤髪をちらりと眺めて。
「寝る前になったら一声かけてくれ。包帯、取り替えてやるよ」
「………」
耳に入っているはずの申し出に、しかし何も答えずドアノブに手をかけ、
風に押され重たい扉を引いた。
扉をくぐり、そして振り返る。
息を吸った。
「…ッや〜なこった! そんなに度々傷口いじくられてたんじゃ、
 治るモンも治んなくなっちまうぜッ!」
憎たらしげに舌を出し、背を向けた。
ゲラゲラ笑う声と、逃げるような足音が、遠のいていく。
風で押された扉が、乱暴な音を立てて、声と、音を遮断した。
「明日泣きを見るのは、あんたなんだけどな」
苦笑を漏らし、頭を上げた。
二つ目の太陽が現れたと思えるほど、月は、眩しかった。
──────その曇りのない姿に。
どれほど濃厚な夜霧も、朧月も、晴れ渡るだろう。
投げられたカップも、月の破片も、彼を避けて通るだろう。
それは誰の意志で行われたものでもなく。
太陽が沈み、月が沈む。
そういった当然と思われる自然現象と同じように。
まるで、神の意志に守られているように。





海の守護神よ
あんたが奪ったあの腕のかわりに
何をよこしてくれるつもりなんだ?










     ──────翌日──────

「あガッ…ギッ…ギギッ…ギぃ──ってぇっ!!
              痛ぇっつってんだろ!?」

「人の言うことを聞かないからだ。
       あー…しっかりくっついちまってるぜ?」

「見りゃ解るだろ!
  ッちょ…ちょっと待て! もうちょっとゆっくり…」

「まったく…海賊頭が痛てぇ痛てぇ騒ぐんじゃねェよ」

「うるせっ! 痛ぇモンは痛ぇ…っデデデデ……ガァ!
    もういっそのこと一気にひっぺがしちまえ!!」

「…アイアイサー。口、押さえとけよ!」



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