遠い彼方の物語



「…どうなさいました?」
しゃがみ込む老人に、声をかけた。
別に僕は良い人なワケではなく、生前にもこんな事は、したことがない。
この場所の雰囲気に毒されたのだろう。
老人は、ゆっくりと顔を上げる。
「…失礼。御気分でも悪いのかと」
しかしその穏やかで品のある表情に、具合の悪さは伺えない。
「こちらへ来て、まだ日が浅いのでございましょう?」
そう言われ、恥ずかしくなった。
…そうだ。ここには病はおろか、痛覚すらも存在しない。
「お気遣い、痛み入ります」
老人は、立ち上がった。
外見的年齢のわりに背筋が真っ直ぐに伸びていて、
立ち姿一つにしても、品の良さがにじみ出る。
そして何より…
「…背が、お高いのですね」
その見上げる角度に、置いてきてしまった彼のことを想い出す。
…今頃、どうしているだろう…
「どなたか、心残りな方が、いらっしゃったのですか?」
老人は、優しく微笑む。
「えぇ。とても背の高い人だったんです。貴方のように」
そう言って、不思議に思った。
「何故お解りに?」
「ここは、そのような方が来る所なのでございましょう。
 この雲の隙間からは、下界の様子が伺えるのでございますよ」
老人は、先ほどまでしゃがみ込んでいた所を手の指をそろえて指し示し、
僕に場所を譲ってくれた。
「…貴方は?」
「私は、もう良いのでございます。もう、そこを覗く必要はございません」
その言葉に、老人が見守り続けてきた方が亡くなったのだろう事を、悟った。
しかし、何と言ったら良いのか解らなかった。
おめでたいわけでもなく、悲しいことでもない。
難しい顔をしてしまったのだろう。
老人は、その心中を察してか、優しく、言葉をかけてくれた。
「私も、複雑な思いでございます。
 しかしながら、天寿を全うされたことは、喜ばしく思います。
 私めには、成せなかった事でございますから」
…なんて迷いのない声なんだろう…
凛と張った、透き通るようような清々しい声。
僕は、この老人のように彼を待つことが出来るのだろうか…
雲の向こう側から、階段を上るような足音が聞こえ、そちらを向いた。
老人は、うっすらと涙を浮かべた瞳を微笑ませ、
ゆっくりと、流れるような動作で会釈をする。
彼の待っていた人が来たのだろう。
その過去は何一つ知らないが、思わず、嬉しくなった。
微笑んで、会釈をする。
雲の端から顔を覗かせたのは、この老人に似つかわしく、
品の良い、きりっとした顔立ちの、しかし未だ幼さの残る少年。
「ぼっちゃま」
老人のかけた声に、少年はこれ以上無いほど目を大きくして、階段をかけ上ってきた。
「山岡!!」
「あぁ、階段を走られては、あぶのうございますよ!」
老人が駆け寄る。
「山岡…迎えに来てくれたのか」
「はい。長い間お側にいることが出来ず、申し訳ございませんでした」
「何を言う。ずっと、側にいたではないか」
老人は顔を上げ、少年と目を合わせた。
少年は微笑む。
「ずっと見守っていてくれたのだろう?違うか?」
「…ぼっちゃま……何と、お優しい御言葉を…
 こんなに立派になられて、山岡は嬉しゅうございます…」
「相変わらず大げさだな。しかし、何故その姿なのだ?
 もっと若く、健康な肉体を望むと思っていたが」
「ぼっちゃまが、最も慣れ親しんだ姿です故。
 ぼちゃまは、そのお姿をお望みでございますか?」
「愚問だ。山岡が肉眼で見た、最後の姿だからな」
「おぉ…ぼっちゃま…それほどまでに…」
「さぁ、御父様、御母様に挨拶をしてこなくては。ゆくぞ、山岡」
「はい、ぼっちゃま」
老人は、去り際に、幸せと愛おしさを充満させた笑顔で、こちらに会釈し、去っていった。
…執事さんだったのか。どうりで品が良いと思った。
若干、時代錯誤気味な会話がおかしくて、顔が笑ってしまう。
でも…とても優しい会話だった…
ふと気が付くと、一人の女性がこちらに向かって歩いてくる。
少しきつい目元が、こちらに気付くと、ふっと優しく緩む。
「あなたも、心残りな方がいらしゃるのね?」
慈愛に満ちた、包み込むような、優しい声。
「はい。まだ新参者ですが」
「えぇ、こちらでは、お見かけしない方ですものね」
鈴のように、笑う。
笑うと、ひどく幼い感じになった。
「…恋人…ですか?」
何気なく口から出た言葉に、自分で慌てる。
「あぁ…失礼。とても…その…魅力的なものですから…」
「お上手ね。…そう、恋人みたいなものですわ。二人とも」
「…お二人?」
女性は、寂しそうに、微笑んだ。
「…夫と、息子です」
あぁ、この女性から感じられる優しさは、母親としての慈愛だったのか…
それは、ひどく居心地が良かった。
まるで、彼の側に居る時のような…
「…ごめんなさいね。こんな話をしてしまって」
「え?あぁ…すいません。そうじゃないんです。
 貴女と、どことなく似た人を、想い出してしまって…」
そう言って、気が付いた。
そのきつい目元、柔らかな髪も、長い指から、その笑い方まで…
「…お気づきになられてしまったかしら?
 …ごめんなさい、私、あなたのことを知っているの」
いたずらに微笑むその子供のような表情は、明らかに、彼を彷彿とさせた。
「ハハ…なるほど。どうりで…」
「ふふ…短い間でしたけど、息子が、お世話をおかけしました」
「いえ、僕の方こそ。旦那さんにも、一度、助けてもらったことがありますよ」
女性は、一歩進み出て、僕の頬に手を振れ、小さく、首を傾けた。
「あの子があんなに楽しそうにしているなんて…嬉しかったわ。
 仲良くして下さって、ありがとうございます」
「こちらこそ、お礼を言いたい。彼、貴女のことを時折話していましたよ。
 でも、想像以上に素敵な方だ。お会いできたことを、心より感謝いたします」
…まさかこんな意外な出会いがあるとは、思っても見なかった。
しばらくの間、共通の話題である彼の話をして、それから別れた。
そうだね。
そんなに悲観的になるものではないのかもしれない。
少ししたら、またあの雲の隙間をのぞきに行こう。
僕には何もできないけれど、祈りはきっと、通じるだろう。
そして、彼と深く関わった人たちを、ここで暖かく迎えよう。
そうすれば再び、彼に出会える日が来るだろう。
彼が幸せに、長い時を終えた後にでも。

………ランチ、君の幸せを祈るよ………



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