「Serial experiments lain」のページ

最終更新日(h18.6.25)

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見てしまった人を、ことごとく引き込んでしまいそうな魅力を持ったアニメである。
僕も、夏休みに東京の友達の家に遊びに行った時たまたまこのアニメを見て引き込まれた一人である。
実際、この作品に出会わなければ、CGを描くことを趣味にすることはなかっただろうし・・・
このホームページを作ることもなかったでしょう。
そういった意味で僕にとっては重要な作品です。




Contents of this page

「lain」の世界の魅力

岩倉家の人々

玲音という女の子(1)

学校の持つ意味

玲音という女の子(2)

RE:岩倉家の人々

この作品のテーマ









「CG gallary」に、lain の自作CGがいくつかあります。

下の画像をクリックすると、「CG gallary」へいけます。

 「Serial experiments lain」の世界の魅力
    情報化社会において、人は情報の海の中で何を思うのか?

    人は、居ながらにして世界中のあらゆる物事を見聞きし、あらゆる情報に自分からアクセスする、町に出れば、あらゆる物を手に入れることが出来る。手に入れられないものはあっても将来にわたって手に入れられないというわけではない。では神とは何であろう?

    今生きている世界で、人と神の間にあるものは思ったより希薄なものなんだろうか?

    lainの世界はこういった混沌の世界の、1つの極端なモデルであろう。僕らは、このモデル的なフィルターを通して、現実とはかけ離れていながらどこかつながっていそうな世界を目撃しているのであろう。だからこそ、このアニメに引き込まれ、魅せられてしまうのではないだろうかと考える。


 岩倉家の人々
    なぞの多い人々である、まともな神経を持ち合わせているのは玲音の姉だけであろうというのが率直な感想である。その姉にしても、第5話でもう一人の自分に、存在を乗っ取られて以来抜け殻のようになってしまった。

    でも、その姉に起こった出来事が、岩倉家の人々とはなんなのか端的に示していると思う。
    玲音の父も母も、元々は、普通の人だったのではないか?
    彼らも、やはりもう一人の自分に、自分という存在を乗っ取られてああなったのではないだろうか?
    いったい何の為に?

    いきつくところは、岩倉家の人々は、玲音をreal worldに存在させるための受け皿として用意されたものだということであろうか?「予言を実行せよ」というのは、玲音が変わっていくのを、当たり前だと受け入れる存在へと変化せよということなんだろうか?
    彼らは、本当の存在としてreal worldに存在するのだろうか?(過去に存在していたのは確かであろうと思うが。)


 玲音という女の子(1)
    おとなしくて、内気で自分の殻に閉じこもっている、チャームポイントは左前髪のおさげ?といった感じの女の子だろうか。それでいて、電車の中ではきついことを言ったりする。(第1話参照)本当は自我の強い女の子と見るべきだろうか?
    彼女は、たくさんのぬいぐるみに囲まれた部屋に生活し、熊の着ぐるみのパジャマを着て夜を過ごしている。一見してかわいいもの好きの少女趣味なのだが、彼女の性格が垣間見える。
    それは、ワイアードにアクセスするようになってまるで別の部屋のように、機械の館に変貌してしまったことからも言えるのだが、つまり、自分の部屋(自分の世界というべきか?)を自分色に染めないではいられない性格をしているのであろう。
    そう考えると、あの電車の中での一言も説明がつくと思う。(電車の中で)「黙っていられないの」と言うのは、ある意味「自分は黙って静かに乗っているんだから、まわりもそうあるべきだ」という価値観の押し付けに他ならない。(面と向かって言えないあたりが内気な一面でもあるが。)
    彼女に起きたは、ワイアードにアクセスするようになってからの変化は、自分を表現する方法を獲得したに留まると評価すべきであろう。根底にある人格は、むしろまったく変わっていないのでないかと、僕は考える。


 この世界の学校の持つ意味
    「lain」の世界の中に描かれている物は、非日常的なものが多い。玲音の家族はいわずもがなだし、登下校中やサイベリアなどのスポットは、なんとなく日常とかけ離れたものと感じる。そんな中で、学校だけが(正確には学校の友人のみが)通常の日常世界との接点として描かれていると思う。(現段階においてではあるが)玲音自身も、この友人の中に入った時だけは普通のちょっと内気なおとなしい中学生として溶け込んでいる。(そう装っているとは僕は思わない)
    ただ、玲音が登校中、授業中といった学校の中あるいは心は学校に有っても、必然的に一人の状況ではこういった学校、あるいは友達関係に対して元々違和感を感じていたんじゃないかと思う。それは、学校の景色が彼女の中でぼやけていったり、授業中そこにいることに対する違和感を妄想を通して感じている点から言えると思う。
    彼女が「WIRED」に、のめり込んだのは、そういった日常世界へのギャップを元々自覚していたんではないだろうか、つまりリアルワールドに自分の居場所はないと・・・。
    話はそれるが、この世界の中で、学校というものに日常性を持たせてあるのは、なにか必然性を感じる。(それは別に意図的なものではないとは思うが)つまり、私達の意識の中に学校とは(学校そのものは時代は変わって相対は変化してきているとしても、)自分なりの学校に対するイメージは、僕らが学生の時のまま色あせないものとしか捕らえられないということではないのであろうか?それが根底にあるこういった設定ではないだろうか?

 玲音という女の子(2)
    彼女を二重人格と考えるべきか、それともワイアードの玲音はリアルワールドの玲音とは別人だと考えるべきか難しいところである。確かに第7話を見る限りでは、彼女の別人格への変貌があったことは確かで、よって彼女が二重人格である事を否定するのはナンセンスであろう。(ただ変貌したのではなく彼女の本性があらわになっただけの可能性はあるが)ただ二重人格を示唆する所見はそれだけではない、ワイアードの玲音は、リアルワールドの玲音の意思に反してありすに対して酷い言葉を投げつけておりこれこそは明らかな二重人格の所見といえる。一般に二重人格者は別人格の時の記憶を持ち合わせていない場合が多いが稀に別人格の時にも意識を保持している場合もあり得る。
    玲音を二重人格と考えるとこれまでのいくつかの現象が説明できると思う。二重人格者とは所謂、精神分裂病の患者ということで、亜型として4種類あるが一般的な症状としてシュナイダーの一級症状を例にとって考えると(まるで診断学みたいだ)「話し掛けと応答の形の幻聴」と「自己の行為に随伴して口だしする形での幻聴」というのはいわゆる、玲音と自らを神と名乗る存在との会話であり、「身体への影響体験」というのは、第1話(だよね?)で玲音が学校において指からなにかもやもやしたものが立ち上るのを見て驚く場面がある、これがそれに当たると考えられる。シュナイダーの一級症状は8項目ありこの1つでも明瞭に認めたら臨床的に控えめに精神分裂病と診断できるというものなので精神分裂病と診断する事が出来る。こういった陽性症状のほかにいわゆる自閉、感情平坦化、談話の貧困といった陰性症状も認められるが、思春期といった若年者の発症(一般に発症は20代以降が多い)においてはさまざまな要因がからみあって複雑な症状を呈する場合も多いので当てはまると考えられる。
    だだ、精神分裂病だけでは説明できない事象も多いと思う。以前より玲音が別人格としてサイベリアを徘徊していたと考えるのは無理があると思うし(そんなに頻繁に夜出かけていたら家族が気づかないわけがない・・たとえあの家族でも)別人格の時に意識がある場合とない場合が混在している状態は異常である。なによりワイアードの存在がリアルワールドに具現するさまざまな現象はとても説明できたもんではない。
    謎はプシューケにあるのだろうか?
    玲音の父がプシューケを玲音に使って欲しくないような言動をしたのはなぜだろう?
    そのへんのことを考える必要があるだろう。


 RE:岩倉家の人々
    >玲音の父がプシューケを玲音に使って欲しくないような言動を したのはなぜだろう?

     エイリマサミに受けた役目(←不確定)「玲音というアプリケーションを リアルワールドに不自然なく存在させるための受け皿」  きっと、康雄さんはそういう役目を超越したところで、玲音のことが 単純に好きだった。
     だから、玲音がプシュケーを手に入れる事は、役目の完遂へと向かう事。  「喜ぶべき事だけど、寂しい気もする」という、父親独特の微妙な気持ち だったんだと思います。
     そして、全部終わった後にひとこと「あなたのことがすきでした」といって 去って行った。
     孤独のシグナルを聞いたとき、みんな誰も嫌いじゃないのにどうしても うまくいかない人と人とのつながりに対する絶望とあきらめを感じました。

     余談ですけど、あの歌ってちょうどエヴァでいうところの「カム・スーア・トート」に あたる歌ですよね。「人と人とのつながりに対する絶望とあきらめ」を感じる歌と、 自らの手ですべてをおしまいにしてしまうあたりが。


 この作品のテーマを考える
    本来、この問に答えなどないのかもしれない・・
    インターネットが一般的なものに成りつつある今の時代、ネットの中に新たな世界が無数に出現しつつある・・それは当事者にとっては現実的なもので、非当時者からみれば非現実的なものである。まあその程度のものなのだが、そう簡単には割り切れないほど人類は叡智を身に付けてしまっている。
    ネットに流れる情報と、今まで人類が受け継いできた記憶・経験・遺伝子というものはあまり差があることではないということに気づいてしまったのだ。だからこそ人は、ネットにある者は新たな可能性を見出し、ある者は恐怖する・・・
    ネットの世界は、現実世界の再現といえる。・・それは作っている人間が現実世界の住人であるからであり、それは、もし多くの人がネット上では別人格を演じているとしてもそうだろう・・・ネット上での違う人格も、自らは演じてるつもりでも、それも自分の根底にある何かが発現したものであり、それを見た誰かの中の自分も、自分を取り巻く現実世界での友人の中にある自分も真実であるという点でなんら変わらないものだと僕は考えるからである。
    まあ要するに、ネットの世界は現実の映しだと言いたいだけなのだが・・
    それを踏まえ、ネットの世界はある意味「他山の石」的な役割を果たしてくれるのではないだろうか・・・僕らは、ネット上で一番感じることは、玲音のセリフにもあった『何処にいても人はつながっている』ゆうことではある。だったら、現実世界も実際にはそうなのだ、人は他の誰かがいないと人間でありえない・・・
    今の時代、人と人の繋がりは希薄になってきたと言われている。でもその繋がりがなければ人は人間でいられない・・生きているとはいえない・・・そうゆうことを遠まわしに言いたかったのかもしれない。


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