あゆの夢
3章

見渡せば白い壁、薬品のツンと来る香い、窓際には手の届かない奇麗な花々・・・
現実とも虚像とも区別がつかない今、目の前にあゆは寝ている。
シューシュー。
左手に繋がっている細い管の先には、点滴の黄色い液体が静かに流れている。
小さな泡を弾けさせ、人工呼吸器が音を立てる。
まばたきもせず目は天井を見据えているが、視線の先に何かある訳ではない。
末期を迎えたあゆには、手足はもちろん目も口も首も動かす事は出来ない。
母さんは、今にも倒れそうな表情であゆの左手を握っている。
日を増すごとに、あゆの心音は弱まっている。
母さんが泣きながら俺に話してくれた。
「もう、長くない。」と。
医者である父さんは、冷静にあゆを診察している。
幾多の患者を見てきたんだろう、自分の娘であっても変わらないのかもしれない。
解っていた現実、解っていながら理解したくなかった現実。
その現実をもうすぐ迎えようとしている。
俺はあゆの手に触る。
いつもなら握り返す手。
俺はあゆの頬に触る。
いつもなら膨れる頬。
全てが過去の事。
表情の無いあゆの顔を見ていると、今はない笑い顔と共に今までの思い出が溢れてくる。
・
・
・
「・・・いたん、おにいたん。」
最初に溢れたのは、3歳のあゆ。
いつも俺の後ろを遅れてついてきた。
五月蝿くなって、走って道の角を曲がる。
赤い頬をさらに赤くさせ、涙で顔をクシャクシャにしながら俺の事を呼ぶ。
その後は居心地が悪くなり、おどける様に顔を出す。
泣き顔で突進してくるあゆ。
俺の腹にタックルすると力ない手で胸を叩く。
運動会で1等の旗を自慢げに持つあゆ。
小学校3年目にして初めての一番だった。
本当にうれしかったんだろう、いつまでも旗を放さなかった。
俺達家族はその旗と一緒に記念写真を取った。
中央で膝をつき、三角の布切れに赤マジックで「1」とだけ書かれた粗末な旗を
大事そうに胸の前で広げている。
それから旗はあゆの宝物のひとつとなった。
「お兄ちゃん、行こう!!」
毎日の様に、プールに通っていた夏休み。
セミの泣き声と日差しが徐々に強くなる時間、俺達兄妹は近所のプールに自転車を走らす。
中学生になった俺は兄妹で遊ぶ事を恥ずかしいと感じていた。
周りの皆もそんな事を言っては冷やかしの言葉を俺の前に置く。
仕方が無かった。あゆの一生懸命なお願いに負けたのだった。
泳ぎの練習。
努力はすごかった。本当に一生懸命だ。 でも、ちっとも進まない。
腹立たしいのだろう。興奮ぎみで動かす手足では余計に進まなくなる。
「もー、お兄ちゃんのばかー」
最後には八つ当たりで1日が終わる。
「はい、バレンタインのチョコレート。 どうせ誰からも貰わないんでしょう?
練習で作った物だけど、ありがたく食べてね。」
恩着せがましくチョコレートを俺に手渡すあゆ。
包みをあけると、花を模ったであろう歪な固まりが出てきた。
彼女の趣味から考えると、そうなのだが、とても花には見えない。
俺はあゆに複雑な表情をむける。「これは何だ?」と無言で訴える。
言いたい事に気づいたんだろう、「あ、あのね、桜の花を作ろうと思ったんだけど・・・」
ストロベリーのチョコレート。確かにそのようだ。見た時はピンクの亀と思ったけど。
照れ笑いをするあゆ。
・・・そのチョコレートは、俺の為に作った事を知っている。
桜が満開の入学式
向日葵の観察日記
家族で行った紅葉狩り
一緒に作った雪だるま
止める事が出来ない程の思い出は、音をたてる程に零れていく。
・・・なんで、今になって思い出が顔を出すんだ?
今日までこんな事は無かったのに。 これじゃ、まるで走馬灯じゃないか!
あゆが、両手で大事そうに小さな鉢植えを胸元にかき抱いている。
「・・・ねえ、知ってる? コスモスって秋桜って書くんだよ。」
テーブルの上を、指を滑らすように動かし漢字を書いて見せる。
「結構、地味な花なんだけど私は好きだな。華やかじゃ無くても鮮やかなピンク。
ピンクといっても色々あって、淡い色とか真ん中に輪を描いているもの。
それだけじゃ無いよ、白い花弁や黄色の輪。見渡す限りの野原にいっぱいに咲いているの。」
「花言葉って知ってる? 色々な花にね色々な意味があるの。 コスモスの花言葉は真心。
色によっても違いがあってね。ピンクは純潔、赤は愛情。」
「秋になると咲くコスモス。
青く澄んだ空をコスモスの花畑で寝ころがって見てみたいな。」
鉢植えのコスモスは、何処から吹いているのか解らない風に静かにゆれている。
「コスモスだ!!」
俺の突然の声に驚いたんだろう、病室の皆が一斉に振り向く。
「父さん、コスモスの花は? コスモスの花は咲いてない?」
「どうしたんだ、龍之助。コスモスの花が何っだて言うんだ?」
「コスモスだよ。どこかに咲いていないか?」
父さんは、俺の顔を見ている。何事が起こったかわかない顔だ。
コスモスだよ、花を摘んでこなきゃ。急がないと。
「あゆの為ですよ・・・」
母さんには解ったんだろう、父さんに向かって話す。
「あゆが好きな花ですよ、龍之助は見せたいんでしょう。」
「そうか。取りに行ってこい龍之助。この病棟の横に花壇があるだろう、あそこなら咲いている。」
父さんは微笑んでいる。
俺はうなずくと、病室から走り出した。