逃げろ、走れ、駆け抜けろ
起の章
『“奴”がこの町にいる!!。』
そう認識した瞬間、手といわず足といわず体中の汗腺から一斉に汗が噴き出す。興奮の
ために、一瞬にして顔が火照ってくるのがわかった。実際手にしたカバンは油汗ですべり、
額を流れ落ちる汗が目にしる。
その時唐突に後ろから自転車のベルが響き、はっと我に返って振り向いた。前籠に買い
物袋を無造作に突っ込んだおばさんが、我が物顔で自転車で突っ込んでくる。慌てて路肩
に体を寄せると、こちらを迷惑そうに睨みながら横をすり抜けて行った。
胸に溜まった息を吐き出し、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。右、左、後ろ、とさ
がしてやっと目的の物が見つかった。
くしゃくしゃに丸まったハンカチを取り出し額の汗をぬぐう。眼鏡も外し、まるで顔を
洗ったときのようにゴシゴシ汗をぬぐい取った。使い終わったハンカチは無造作にポケッ
トに突っ込んだ。
そして一度大きく深呼吸し、もう一度恐る恐る“奴”がいた場所を見た。
『いない!!。』
慌ててその近辺を見渡したが、どこにもいない。
その時あるシチュエーションが、稲妻の如く私の頭を貫いた。“今まで目の前にいた化
け物が消え伏せ、ほっとしているといきなり後ろから襲いかかられる。”という例のやつ
だ。
勢いよく後ろを振り返ったが、そこにはビルの壁があるだけで人っ子一人いない。自分
のすぐ近くに“奴”がいないことを確認して、もう一度さっきの場所を見た。
やはりいない。
『やはり、見間違えか?。あんまり目は良いほうじゃないしな。いやむしろ悪いから眼
鏡をかけている訳だし、・・・。』
まるで自分自身を無理やりにでも落ち着かせるが如く、妙な詭弁を頭の中で繰り返した。
『やっぱり見間違えたんだ!。』
納得しかかっていた。が一方で、
『自分はそんなに鈍くない!。どこかに潜んでいるはずだ!。』
否定する考えが頭をもたげてきた。”奴”の存在を否定しようとすればするほど、逆に
”奴”の存在がどんどん頭の中を占領していった。
ついにはいままでの中で一番恐ろしい考えが頭に浮かんできた。
『確認したほうがいいのでは?。』
悩んだ。その場に立ち尽くして、ただ悩んだ。
『見間違えだろうが何だろうがかまいやしない!。このまま家に帰ってしまえ!。』
『確認しろ!。見間違えならそれに越したことはない。でももし本当にいたらどうする
んだ?。』
相反する意識が頭の中を回りだした。長い間考え込んだ。
でも本当は一瞬だったかもしれない。
そして決断した。
『確認しよう!!。』
そして“奴”が立っていたであろう場所に恐る恐る近づいていった。
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ここでひとつ付け加えておこう。
私は何も勇気を持って現実に対処しようとしたわけではない。かといって自分自身を信
じ、自分の五感が正しかった事を証明したいからでもない。
私は事勿れ主義で臆病者である。正真正銘の小心者だ。ではなぜこんな大胆な行動にで
たのか。
それは私がまぎれもなく小心者であるが故だからだ。私は自分の小心さをよく心得てい
る。そして小心者故にとにかく変に想像力豊かだ。
このまま家に逃げ帰ることはたやすい、いつ何時今回の事件に関して想いを馳せるかも
しれない。
そして・・・、そしてその事に大いなる悪い想像をふくらませて、夜も眠れぬ日々を過
ごすだろう。
その想像の為に憔悴していき、いつしか物音に震え、暗闇を恐れるようになるだろう。
そうなった時、私に出来る事はただ“奴”が見つけ出せずに去っていくのを祈るだけで
ある。
それがいかに辛く、苦しい日々か。
私は今日まで人生の中で、何度も同じ事を繰り返してきた。
『そんな想いは、もう二度とごめんだ!!。』
そんな恐怖心が、逆に私を大胆な行動に走らせたのだろう。
しかし“見間違えの確率は50%以上ある”という自己分析も根底にあってのことだが。
(これこそ小心者の小心者たる所以で由縁である。)
**********
“奴”が立っていた場所に近づく。
ただそれだけの事が、心臓を強く圧迫する。別に“奴”が立っている訳でもないのに、
だ。
今いる場所から車道を隔てたその場所まで、どう考えても15メートルそこそこ。普通
の心理状態であれば、なんでもない距離だ。
しかし今の私には千里の道にも等しい道のりだ。
今、私はそれに挑もうとしている。
恐る恐る、一歩踏み出す。まるで見えない闇の中をを勘だけで歩くように。
数歩踏み出したときに、はたと気が付いた。今の自分の行動は、非常に不信なものでは
ないか。逆に人目を引いているのではないか。
急に不安になり、また立ち止まる。そして極力何気ないふうを装い、辺りを見回した。
今のところ特に私に注意を払っている者はいない。
そこで改めて“奴”がいたであろう場所を見る。
『やはり“奴”はいない。』
そうなると現金なもので“見間違い”と言う気持ちが少し確信に変わっていく。心持ち
気も軽くなり、周りを見る余裕すら出てくる。
時間は夕暮れ、午後5時半頃。場所は駅から500メートルくらい離れた車道脇の歩道。
この道の先には、大手スーパーマーケットがあり、子供連れの主婦や学校帰りの学生な
どが出入りしているのが見える。
今も私の横を仕事帰りのサラリーマンが通り過ぎ、そのサラリーマンを大きく避けるよ
うに車が走り去る。
何気ない動作、何気ない光景。ここにいる人たちにとって、今のこの状態は極めて日常
的な動作であり、当たり前の光景である。
さっきまでの私も自然にそれを受け入れ、そのように振舞っていた。しかし“奴”を見
たと思った瞬間、それらすべてが吹き飛んだ。
一瞬にして目の前が真っ暗になり、全ての物音が止まった。漆黒の闇、完璧な静寂の中
で自分自身の存在そのものが希薄になった。
しかし我に返るといつもと同じ日常があり、自分も紛れも無くその一部と化していた。
これから私が行おうとしている行為も、客観的には何気ないものであり、ごく普通の動
作である。
しかし私からすれば、大いなる気力と労力がいる行為である。そのギャップが大きすぎ
た場合どうなるのだろうか。普通に考えれば私の挙動が人目を引き、道行く誰かが私を見
る事になるだろう。そしてそれを見た誰かもまた私を見る。
その連鎖反応が続けば、大勢の人の注目を集めてしまう。そしてその中にもし“奴”が
いたら・・・。
『まずい、それは非常にまずい!。』
私はもう一度深呼吸し、気持ちを落ち着ける。落ち着いて、もう一度頭の中を整理する。
“奴”が立っていた場所は車道を隔てた反対側にあり、民家の前である。そのすぐ横が
細い道になっており、その細道の向こうにコンビニエンスストアがある。
『そうだ、コンビニエンスストアに行くつもりで行動しよう。そうすれば不自然じゃない。』
そう思い立つと、その手順を頭に思い描く。
そうと決まれば行動あるのみ、だ。
まず姿勢を正す。“奴”に見つからないようにと前屈みの姿勢ではおかしい。
次に左右を見回し、車がこないことを確認する。そして小走りに道を横切る。本当は走
りたくなど無いのだが、自然に見せるためには仕方がない。
道の反対にはあっけなく着いてしまう。当たり前だ、もともと大層な距離ではないのだ
から。
だが心持ち放物上に走ったようだ。“奴”のいた場所から4,5メートルほど離れた位
置に立っている。
あとは“奴”のいた場所を通り過ぎ、コンビニエンスストアへ買い物に行くように振舞
えばいい。
さっき拭いた汗がまた噴き出してくる。走ったことが原因で無いことは、火を見るより
明らかだ。心臓が痛いほど鼓動する。
しかしそれを表に出してはいけない。自然に振る舞わなければならない。あくまでも自
然に。
あと3メートル・・・。
あと2メートル・・・。
“奴”がいないことがわかっていながら、またもや緊張に体が強ばる。
あと1メートル・・・。
そしてついにその場所に立つ。
『着いた・・・、とうとう着いてしまった!!。』
恐怖の瞬間に頭の中が真っ白になる。しかし茫然自失になっている場合ではない。あわ
てて辺りを見回す。
“奴”がいないことを祈りながらも、“奴”の姿を求める。大いに矛盾した行為だ。
内心の動揺を隠しつつ、表面上は待ち合わせの友人を捜している風を装う。ゆうに1分
以上辺りを見回す。
『やっぱり、いない!!。』
しばらく辺りを見回し、やっと“奴”がいない事を確信する。そしてだんだん落ち着き
を取り戻していく。
そうなると勝手なもので、今までの自分の行動がひどく馬鹿らしく思えてくる。
“奴”が立っていたと思った場所に、しかも今はいないのが100%解っていながら、
ただそこへ行くだけの事に多大な体力を使った。頭をフル回転させ、ない智恵を絞ってあ
れこれと考えた。
にもかかわらず、その結果が最初から解っていた事実を再確認してだけとは。
思わず自嘲の笑みが込み上げてきそうになる。
そんな気持ちとは裏腹に、心が軽くなっていく。
他人にはごく普通の日常的光景、しかし私にとっての非常事態は、今ここに解除された
のだ。
他人と同じごく普通の日常的光景に戻っていく。
精神的負担で身も心もへとへとに疲れた。がその代わり、大いなる精神的安定を手に入
れた。
こんな気持ちは久しぶりだ。長く暗い受験戦争を乗り越え、晴れて希望する大学に合格
して以来だ。
そんな事を考えていると、急に一つの意識が強く頭に浮かんだ。
『腹が減った。』
しかも急激に、だ。
『一刻も早く家に帰って、飯を食おう。でも作るのが面倒くさい・・・。いいや、今日
は弁当でも買って帰ろう〜。幸い目の前はコンビニもあることだし・・・。ま、つい
でにデザートでも買おうかな(^.^)。』
たわいもない事を考えながら、今度は本当にコンビニエンスストアに向かって歩き出す。
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今の気持ちを例えるなら、“艱難辛苦を乗り越え、ついに大いなる使命を果たした。勇
気を振り絞り、弱気に打ち勝ち、彼は心身ともに大いに成長した。Fin=h、とでも
言うところか。
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コンビニエンスストアにドアの前に立つと、中からビニール袋をぶらさげた若いサラリ
ーマンが出てこようとするのが見えた。
腹は減っているが気分はすこぶる良かったので、入り口の脇に避け、サラリーマンが出
てくるのを待つ事にした。
その時、視界の端に何か気になる物を捉えた気がした。
嫌な予感がする。今までひいていた汗がまたもや吹き出してくる。
一瞬の躊躇後、意を決して気になる方を見た。
『いた!!。』
”奴”はいた。
“奴”は先ほど立っていた場所とコンビニエンスストアの間の細い道の奥にいた。しか
も今度は一人ではなく、誰かと話しているようである。
“奴”を見たまま、私の視線は凍り付いた。
が、次の瞬間には部屋に向かって猛然と走り出した。
まったく自分でも驚くほどの俊敏さだ。
『一刻でも早く家に帰ろう!。1秒でも早く!!。』
走る。とにかく走る。まるで刑事ドラマの犯人のように。
人々の好奇の視線を浴びながら、ただひたすらに走った。しかしそんな視線も全然気に
なら無かった。ただ頭の中には、一つの事が強く強く、繰り返し繰り返し浮かんでいた。
『やはり“奴”はいた!!。』
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やっとの思いで自分のマンションまでたどり着き、エレベーターのスイッチを押す。
あいにくエレベーターは最上階にいた。降りてくるまでの時間が非常に長い。
いつも遅いが、今日はそれ以上に遅く感じる。一瞬階段を上ろうか、とも考えたが止め
た。心臓が破裂しそうで、とても自分の部屋のある最上階までは昇れそうもない。
そんな事を考えているうちにエレベーターがやってきた。
幸い中には誰も乗ってはいなかった。慌てて乗り込み、階数ボタンと開閉ボタンを押す。
ゆっくりと扉が閉まり、エレベーターが動き出す。
イライラしながら、階数表示板を見る。なかなか着かない。
『遅い!。遅すぎる!!。』
いつもエレベーターをに乗っている時と同じ時間であるにも関わらず、どうする事も出
来ない分だけ恐ろしく遅く感じる。
『早く!。早く!!。早く!!!。』
やっとのことで最上階に着いた、焦る心とは反対にゆっくりと扉が開き始める。その扉
が開ききるのを待ちきれず、体を横にしてエレベーターを降りる。
エレベーターを降りたすぐ目の前が私の部屋だ。急いでカバンから鍵を取り出す。慌て
すぎて、危うく鍵を落としそうになる。
七転八倒しながら何とか鍵を空けて、玄関に飛び込む。慌てて施錠して、ドアチェーン
も掛ける。そして覗き穴から外を見る。
『誰もいない。』
目を凝らしてエレベーターの階数表示板を見る。エレベーターも動いていないようだ。
『良かった。誰にもつけられていない。』
ようやく人心地つく。
玄関にしゃがみこみ、ポケットからあのハンカチを取り出し、汗をぬぐう。
ハンカチはさっきの汗で湿っており、ひんやり冷たかった。しかしその冷たさが、逆に
気分を落ち着かせてくれた。
肺の中の空気全て吐き出しつつ思った。
『ささやかな希望は、遥かなる絶望よりも質が悪い。』