逃げろ、走れ、駆け抜けろ

承の章

 私は28歳になるごくごく普通のサラリーマンだ。仕事はコンピュータ関係に従事して
いる。一口にコンピュータ関係と言っても、職種はいろいろだ。
 私はシステムエンジニアのように人前に出る職種ではなく、むしろプログラマーのよう
に裏方に徹する職種の方だ。
 そもそも今の仕事に就いたのも、“コンピュータの知識が豊富だから”とか“コンピュ
ータが好きだから”という積極的な理由からではない。
 ただ就職活動時に、“営業職はいやだ”とか“製造業はちょっと”と考えているうちに、
“これからはコンピュータの時代だし、コンピュータでもやってみようかな”という気軽
な気持ちから始まったのだ。
 ところがいざやってみると、案外自分の性に合っているのかもしれないと思う時もある。
 元々あまり人付き合いは得意なほうじゃないし、生来人見知りも激しい。要領もよくな
いし、どちらかといえば内向的なマイペース型の人間だ。
 その点この仕事の場合、与えられた仕事を自分一人で考え、自分のペースで進める事が
出来るので、妙に性に合っている。(あくまでも締め切りに余裕があればの話だが)
 昔は“コンピュータをやる人間は暗い”と言われていた時代あったが、今はこれだけイ
ンターネットも普及し、一般常識となりつつある。もはや“暗い”“明るい”などと言う
人もいなくなっている。
 しかし私の場合、時代に逆境するかのように“暗い”と言う言葉が当てはまる。だから
この年になっても独身。無論彼女の“か”の字もない。彼女いない歴は、恥ずかしくてち
ょっと言えないくらいである。
 また友達も決して多いほうじゃないし、休みの日には部屋でじっとしている事の方が多い。

                **********

 こんな私がこの町に引っ越してきたのは、今からちょうど3週間前の事だ。それまでは
会社の寮で暮らしていた。実家から会社へ行くのも不便なほどないのだが、“こんな性格
のままじゃいけない”と一念発起し、一人暮しを始めようとした。
 ところが就職したてのサラリーマンに、部屋を借りるだけの余裕があるはずもない。預
貯金なんて全然なかった。
 こんな状況で一人暮しをするためには、好むと好まざるとに関わらず、会社の寮に入ら
ざるを得なかった。
 しかし一口に寮と言っても昔の寮とは違い、今はワンルームマンションのような寮であ
る。お互いのプライバシーは守られているし、個々の契約も別々だ。鍵さえ閉めれば、無
用な干渉は一切ない。全くの自由である。
 このような環境の中で、私の一人暮しは始まった。
 最初は、生来の内向的な性格の為にいろいろと苦労もした。しかし何とか一人暮にも慣
れてきた頃、いきなり退寮を言い渡されたのだ。
 “自分の生活態度に何か問題でもあったのか”それとも“仕事で何か不手際でもやらか
たか”、いろいろ思い悩んだ。
 が、原因はいたって単純な事であった、退寮年齢に達した為である。

 『いまさら実家に帰るのもなんだし・・・、さりとてこのままここに居座るわけにも行
  かないし・・・。』

 今後の行く末を思い悩んだ挙句、しかたなしになけなしの貯金をはたいて、引っ越しす
る事に決めた。その引っ越し先が、たまたまこの町だっただけである。
 今は6階建ての築20年という古びたマンションに住んでいる。そしてそのマンション
の6階に私の部屋がある。一応鉄筋コンクリートで、エレベーター1基もついている。駅
からもそこそこ近く、買い物にも便利だ。
 と、ここまでいうと贅沢な生活をしているように見えるが、実際にはデメリットも結構多い。
 線路脇にあり、電車の音がうるさい。
 鉄筋コンクリートで最上階なものだから、夏はものすごく暑く、冬はものすごく寒い。
しかも悪いことにエアコンなしだから、状況は悲惨である。
 そんなこんなのメリット・デメリットを鑑みて、所詮私の稼ぎではこの程度が限界と諦
めてここに妥協したしだいである。
 しかし慣れとは恐ろしいもので、“住めば都”の言葉通り、こんな環境にも慣れ始めてくる。
 よくよく考えてみれば平日の昼間は部屋にいない訳だし、終電され終われば静かである。
金はかかるがエアコンもつければ問題はない。
 物は考えようである。
 こういう考え方が出来るようになったのも、これまでの一人暮しの経験によるところが
大きい。
 いろいろな問題を解決(ごまかし)しながら、今に至る。

                **********

 こうした状況、こんな性格の私に、今重大な事態が発生した。

 『“奴”を見た!!。』

 今思い出しても背中に冷たい汗が噴き出す。
 “奴”とはいったい何者なのか。いや正確には、“奴等”というのが正しいのかもしれ
ない。“奴”とは“奴等”の一人なのである。
 “奴等の組織”については、詳しい事は知らない。私が知っているのは、ただ“奴等の
組織”がとてつもなく巨大な事、そして“奴等”は非常に執念深い事くらいだ。
 “奴等”の執念深さは、日本的暴力集団か海外的暴力縁者並み、もしくはそれ以上とい
われている。
 とにかく蛇のごとく、執念深い。
 また“奴等の組織”たるや、国家的規模の集団であるともいわれている。へたな一流企
業とは比べ物にならないくらい日本全国に拠点を持ち、そのネットワークは海外にまで及
ぶという。
 そんな組織の手足として働いているのが“奴”だ。
 そして今ほかでもない私自身に、“奴等”の魔の手が延びてきたのだ。

                **********

 『この状況において、私の取るべき道とは?。』

 無駄な抵抗をせず“奴等”に全面降伏か、それともあくまでも徹底抗戦か。
 徹底抗戦といっても、噂に聞く“奴等”の組織の大きさでは、私個人の力では如何とも
し難い事は明白である。
 それではやはり全面降伏か。
 これもやはり問題がある。“奴等”の執念深さは前述した通りだ。一度降伏すれば二度
と自由になる事はかなわないだろう。

 『無駄な抵抗か、完全な拘束か。』

 どちらにしてもろくな結果にはならない。
 だからといって今のままでは、“奴”に見つかるのを座して待つだけになってしまう。

 『行くもならず、帰るもならず。さりとて留まるもならず。』

 熟考の末、取るべき道を決めた。
 
 『逃亡しよう。』

 しかし“逃げる”と決めたが、どのようにすれば良いのか。
 一番良いのは、この町から去る事だ。“奴”がこの町に出没する事が分かった以上、こ
のままここにいるのは得策じゃない。早急に引っ越しすべきだ。
 しかしこの方法には致命的な欠陥がある。
 “先立つ物がない”という事だ。
 3週間前に引っ越してきたばかりの私にとって、もう一度引越すだけの金銭的余裕はど
こにもない。
 だからといって金を貸りる宛もない。この貸し渋りの世の中、銀行など当てにならない。
返すあてがないのにサラ金から借りるなどもってのほかだ。
 親に借りるという手もなくはないが、そうなると今までの事情説明をしなければならな
い。

 『まずい、それは非常にまずい。』

 私と“奴等”との関係は、親はおろか友人にも話すわけにはいかない。自分自身の力で
切り抜けなければならないのだ。
 結論としては、引っ越しできない以上、ここを住み続けるしか道はない。
 ならばどのようにして、“奴”から逃れればいいのか。
 再び袋小路に迷い込んだ。今度は今までよりも条件が悪い分だけ悩みの度合いが深い。
 またもや長い時間考え込んだ末、一つの結論に達した。

 『隠遁しかない。』

 逃げ場がない以上、ここを拠点に隠れ住むしかない。全ての痕跡を消さなければならな
い。できれば誰も住んでいないと思わせるぐらいに。最低でも私という人間がここに住ん
でいる事を知られない様に。

 まず手始めに、表札を外す。当たり前の話、私が住んでいる事を“奴”に知らせる必要
はない。
 数少ない友人には訪問の際、必ず前もって電話を入れてもらうようにする。約束のない
訪問には一切応じない。いきなり訪ねてくるような輩は、全て何かの勧誘員や“奴”以外
にあり得ないからだ。

 次に集団ポストの表札も外す。
 郵便配達人が困りそうだが、郵便物に明記してある部屋番号で対応してもらう。郵便を
送りそうな友人知人親兄弟には、部屋番号の明記を徹底してもらう。それ以外の郵便は、
所詮ダイレクトメールの類であろうから無視しても構わないだろう。

 ドアの覗き穴も塞がなければならない。
 別に外から覗かれるのを防ぐ為ではない。逆に夜などに部屋の中の光が覗き穴から漏れ
るのを防ぐ為である。
 当然玄関側の窓にも分厚いカーテンを掛ける。光が漏れたり、カーテンがめくれたりし
ない様に、端は画鋲で留める。
 ただベランダ側の窓はそんなに気を使わなくても大丈夫だろう。何せ6階だから覗かれ
る心配はないし、うす光が漏れるぐらいであれば誰も気付きはしないだろう。

 光の次は音だ。
 とりあえず鉄筋コンクリートだから、そうそう音漏れはしないだろう。しかし用心の上
にも用心をしておかなければならない。
 まず電話のベルは最小にする。
 特に親しい友人知人には携帯電話に電話してもらう様にする。当然携帯電話の呼び出し
もバイブレーションモードに変えておく。
 普段のテレビも極力小さい音で見るようにする。イヤホンを付けて見るという手もある
が、それはちょっと悲しいので止める。
 極めつけは玄関口に毛布を暖簾の様に吊るす。これは毛布を防音材の代わりする為だ。
しかも念の為に2枚吊るす。イメージ的には一枚目の暖簾をくぐって中に入ると、1メー
トル先にもう一枚暖簾があるような感じだ。
 これだけやると夏は部屋が強烈に暑くなるだろうが、逆に冬は暖かくなると考えて、諦
める。

 部屋にいる時の対策はこれでいいとして、外出する時の対策も考えなければ。
 部屋から出て、ばったり“奴”にであったのでは洒落にもならない。部屋から出るとき
も細心の注意を払わなければならない。
 覗き穴から外を確認するのは当たり前の事だ。ついでに目を凝らしてエレベーターの階
数表示板も見る。これはエレベーターが動いていない、もしくはこの階から離れていく事
を確認するためだ。
 更に覗き穴で見えない範囲をカバーする為に、ドアに耳をあてて外の物音に注意する。
物音がするのは、この階に人がいて何かしている証拠だ。当然その人がいなくなるまで部
屋で待機する覚悟だ。

 ここまで確認事項がすべて“OK”になって、始めて部屋から出る。
 1階に降りるときも注意が必要だ。エレベーターが止まっている時はいれば、エレベー
ターを利用する事もある。
 しかし動いている時は問題だ。これはエレベーターに人が乗っている、または乗ろうと
している事を意味するからだ。
 そんなエレベーターに乗ろうとして、無人であったならともかく、中に人が乗っていた
場合問題である。ましてやエレベーターが開いたとたん、“奴”と鉢合わせでは本当に洒
落にもならない。
 そういう事にならないように、動いている時は素直に階段を利用する。

 また外出中の対策も講じなければならない。
 玄関の前に何か粉でも撒こうかとも考えた。そうすれば足跡が残って、留守中に誰か来
ていてもわかる。
 留守中に来るという事は、またもう一度来る可能性が高いという事だ。
 あまり考えたくもないが、もし“奴”だった場合は必ずまた来るだろう。そんな時の為
の警報代わりにちょうどいいように思った。
 しかし部屋の前がエレベーター乗り場であるために挫折した。近隣の人や私に無関係な
人がエレベーターを利用すれば、当然その上を歩く事になる。そうすると全然見分けがつ
かなくなってしまう。
 それでは意味がない。無意味に警戒心を喚起しても仕方がない。
 あれこれ考えて、ドアノブと呼び鈴に粉を付ける事を考えた。
 私に用のない人は、不用意にそれらに触る事はない。本当に私に用のある人だけしかそ
れらに触らない。これなら誰か来たかどうかだけ解るはずだ。
 この様にしておけば、外出から返ってきた時に粉の状態をチェックするだけでいい。
 ただしあまり多量に付けるとばれる可能性が高い為、少量にしておくのがポイントだ。
そうすれば粉に気付かれても、埃と勘違いするかもしれない。またうまくいけば、空き部
屋だと思ってくれるかもしれない。
 何事も程ほどがちょうど良い。

 留守を強調する事も考えなければならない。留守中ドアの郵便受けに古新聞を二つ三つ
突っ込んでおく事を考えた。これは、いかにもここしばらく留守にしているように見せる
為だ。
 なかなかいい方法だと思った。
 しかしこれだとあまりに不用心すぎるのでは、と思い至った。
 “奴”に見つからない為に留守を強調するのは良い。しかし留守を強調しすぎて、泥棒
に入られたのでは割に合わない。
 却下である。
 しかしアイデア的には捨てがたく、なかなか諦めきれない。悩んだ結果、より効果的な
方法が浮かんだ。
 在室中にすれば良いのだ。在室中であれば、泥棒の心配は要らないし、音や光の隠遁工
作との相まってより効果をあげることが出来るかもしれない。
 留守中の細工は粉だけでなんとか誤魔化せるだろう。

 色々、対策を練ってきたが、もう一つだけしておかなければならない事がある。
 それは不意にやってきた場合の対処方法だ。
 基本的には居留守を使う。
 今までの偽装工作が功を奏し、そのまま帰ってくれるかも知れない。しかし電気メータ
ーを見られたらどうしよう。
 “電気メーターで居留守がばれる”という話をよく聞く。確かに生活している以上、全
く電気を使わない訳にはいかない。
 またいつ来るかわからないのに、最小の電気で耐え忍ぶことも出来ない。
 夜になれば電灯を点けるし、暇つぶしにテレビも見る。暑かったり寒かったりすれば、
エアコンも点ける。いつもいつも電気メーターに気を配る事は出来ない。
 いっそのこと電気メーターにスモークフィルムでも付けようかとも思った。しかし電力
会社からクレームが来そうだし、いかにも居留守の細工っぽっくて逆にばれかねない。
 悩んだ結果、そのままに放置しておく事にした。ただメーターが回っていてもおかしく
ない上手い言い訳を考え付いた。
 今の世の中、電気用品には全てと言っていい程タイマーがついている。ならば留守中に、
電気用品がタイマーで起動していると考えればいいのではないか。
 ビデオ、炊飯器、エアコンなどが、帰ってくる時間に合わせてタイマーセットしてあっ
たと仮定する。それらがたまたま留守中に動いていても何ら不思議ではない。
 またエアコン・電灯等を点けっぱなしで、コンビニエンスストアに買い物に行くことな
んてよくあることだ。
 そう考えると、そのまま居留守を決め込んでも全然不自然ではない。
 逆に慌てて、音が漏れないようにテレビを消したり、明かりが漏れないように電灯を消
したり、また電気メーターを気にしてエアコンを止めるなど、決してしてはいけない。
 電気メーターが早くなったり遅くなったりすれば、逆にそこから居留守がばれてしまう
可能性がある。
 結論としては不意にやってきても慌てず、とにかく落ち着くよう心がける。電気用品の
電源は一切いじらず、音の出るものは音声のみ消し、光るものには覆いを被せる。
 あとは嵐がすぎるのをじっと待つのみ。
 所詮どんなに疑わしくとも、姿を見られなければいないと同じ事である。