逃げろ、走れ、駆け抜けろ
転の章
今日はいつもより少し遅く目が覚めた。それもそのはず、今日は土曜日、休日だ。いつ
もならもう一度寝直すか、手近な雑誌でも手にとって布団の中でまどろむ。
だが今日は違う。珍しく用事があるのだ。先日、数少ない友人の一人が遊びに誘ってく
れたのだ。今までも何度かこういった事があった。あまり外出する機会のない私にとって
はうれしいことである。こういうときは相手に失礼のない様にと、極力約束の時間前に待
ち合わせ場所へ行くよう心がけている。
現在は8時半で、約束の時間は11時だ。待ち合わせ場所まで1時間もあれば十分行く
ことが出来るため、まだ十分余裕がある。出かける用意自体も20分もあれば出来るので、
慌てる必要は何もない。
だからといってもう一度寝直すには中途半端な時間だ。起きているしかない。結局やる
ことがないので用意は始めるが、あっけないくらいにすぐ終わる。それでもまだ約束の時
間に2時間以上もある。
もう出かけようかとも考えた。今から出かけて約束の時間まで何処かで暇を潰すという
ことも考える。しかし私自身は無趣味無芸の人間だし、普段一人で出かけたこともないの
で暇を潰す場所も知らない。
結局待ち合わせ場所で一人、ぼぉっとしているのが関の山だ。同じぼぉっとするなら外
より部屋の中の方が幾分マシだと思いなおす。かといってやる事もないから、テレビでも
見るしかない。特に見たい番組があるわけでもなくので、適当な番組にチャンネルを合わ
せる。面白くもない番組をただ暇にあかせて眺めている。
番組がコマーシャルになり、何気なく時計を見る。約束の時間までちょうど1時間半を
きったところだ。大きな伸びを一つし、緩慢な動作でテレビを切る。火の元を確認し、窓
の戸締まりし、カーテンをきっちり閉める。外出の準備を全て終えて玄関に向かう。
出発の時間が来たのだ。
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ここで不思議に思う人もいるかもしれない。待ち合わせ場所まで1時間もあれば十分で
ある。にもかかわらずなぜ1時間半前に出発しようとするのか。ただ単に友人を待たさな
いようする為にしては、30分という時間は少々長すぎるのではないか。
そうである。私は別に相手を待たすのが失礼だから、とこうしているのではない。また
1番早くに待ち合わせ場所に行って、それを話のきっかけにしたい訳でもない。
全ては“奴”のせいである。
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今の私の生活は大変窮屈なものである。当然だ。“奴”から逃れ、隠れ住む事を選んだ
のだから。
しかし実際の生活は、始めに思い描いていたものよりも辛く大変なものであった。隠遁
生活を始めて最初の内は、それこそ夢の中でまで“奴”の存在に脅えた。夢にうなされて
飛び起きたのも一度や二度ではない。起きてみれば真夜中で、全身は汗まみれ呼吸も荒く、
とても再び眠れるものではなかった。
出掛けの確認や留守中の偽装工作も大変であった。ある朝など隣の部屋の前で何やら話
しをしているらしく、なかなか人がいなくならなかった。私も仕事に行かねばならなかっ
たが、人がいる以上外には出れない。時間的に切羽詰まっていたので、そのまま飛び出そ
うかとも思ったが、話している人間が“奴”でないという保証は何処にもない。
結局部屋を飛び出す勇気がなく、そのままいなくなるのを待ってから外出した。その為、
会社には遅刻し、上司には起こられるという散々な目にあった。
またつい朝寝坊して、時間ぎりぎりになんとか部屋を出る事に成功したが、偽装工作を
する時間がなくてこれまた困った。偽装工作をしないで外出する訳にも行かず、さりとて
時間的余裕は一切ない。
やむを得ず会社・仕事と“奴”への恐怖を天秤に掛けてみたが、結果は“奴”の恐怖の
方が重かった事を再確認した。その為いつも通り、いやいつも以上に完璧な偽装工作を施
て、慌てて部屋に飛び込んだ。そこまでは良かったのだが綺麗に偽装工作したドアノブに
触ってしまい、それまでの努力をふいにしてしまった。その他、偽装工作中のところを近
隣の人に見られ、不審な目で見られたりもした。
外出する時もいろいろと大変なのだが、帰宅する時もそれに優るとも劣らぬくらい大変
なのである。
マンションが線路沿いに建っている事は前述したが、マンションのまん前にマンション
の前面に対して垂直に真っ直ぐの道がある。私は外出から帰宅する場合は、必ずこの道を
通る。この道の利点は駅への最短ルートである事と、なによりマンションの全体が見える
事である。
特に遠目からでも少し目を凝らせば、ある程度各階の部屋の玄関に人影があるかどうか
ぐらいは見える。これは非常に役に立つ。
あるときなど4階の部屋の玄関口に“奴”らしき人影を見て、慌てたことがある。慌て
ふためき来た道を戻ろうかとも考えたが、ある事に思い至り思いとどまった。
こちらから見えると言うことは、あちらからも見えると言うことである。それにに気付
き、仕方なくマンションの入り口に向かって再び歩きだした。しばらくして“奴”らしき
姿が見えなくなったところでいきなり脇道に逸れた。
これではしばらく部屋には帰れない。さりとて行くところもない。仕方がないので近く
のコンビニエンスストアで1時間ぐらい暇を潰して、もう一度“奴”がいるかどうか確認
しに戻った。その時にはもう誰もいなかった。私は慌てて部屋に逃げ帰った。ただこの時
の人影が“奴”であったかどうかは、今もって不明である。それ以来遠目からマンション
の各部屋の玄関を警戒する事は当たり前の事となった。
また人影がいないように見えても、マンションの前に不審な車やバイクが止まっている
事がある。こういう時はすぐはにマンションに入らず、マンションの周りを一回りする事
にしている。安全を確認してからでなければ、決して入るような事はしてはいけない。
部屋にいてもやはりいろいろ気を使うようになった。特に前述した音と光に関しては、
自分でも神経質なくらい気を使い出した。
音に関しては、静かなときでもなんとか聞き取れるぐらいの音しかださないようにした。
そのため電車が通ると何を言っているかさっぱり聞き取れなくなり、番組の途中で意味が
判らなくなることが頻繁にあった。その結果、最近ではテレビもあまり見なくなった。
また光に関しては、これだけ厳重に警戒しているにも関わらずどこかに必ず不安が残っ
た。その為電灯の蛍光灯を一つ外して、生活することにした。
その結果部屋全体が薄暗くなり、目が少し悪くなったような気さえする。
このような悪劣な環境で長く生活していると、暗い性格がより一層暗くなってしまうよ
うな気がした。いや実際友人からは、“性格が変わってしまった”とさえ言われた。そこ
で“気晴らしにでも行こう”という事に決まった。
今日がその日である。
**********
私は立ち上がり、玄関へと向かう。居間から玄関の途中に、2枚の毛布が天上から吊り
下げてある。これは前述した、簡易の防音材である。その毛布をめくって、玄関までたど
り着いた。靴を履き、出発の用意がすべて整ったところで、いつのも確認を始める。
まずは覗き穴の蓋いをはずし、外の様子に目を凝らす。特に人影は見当たらない。次に
エレベーターの階数表示板を見る。驚いたことに、エレベーターがこの階に止まっている。
頭の中に稲妻が走った。嫌な予感がした。もう一度辺りを見渡したが誰もいない。ドア
に耳を付けて外の音を聞く。何も聞こえない。
いつもならここで出かけるのだが、今日はまだ出かけない。いや出かけられない。さっ
きの予感がどうしても頭から離れないからだ。
もう一度覗き穴から覗いたり、ドアに耳を付け様子を伺った。やはり何も異常はない。
『深読みしすぎか?。もしかしたら、たまたま近所の人が朝飯でも買いに行っただけか
も知れない。』
若干の不安は残る。がしかし、誰もいない以上ここにいても仕方がない。気を取りなお
して出かけようと鍵に手を伸ばしたその時、“ガチャ”という音を聞いたような気がした。
一瞬、動きが止まる。私はまだ鍵を開けていない。という事は近所の誰かの仕業だろう
か。覗き穴を見るが誰もいない。もし聞き違えでなければ何か物音が聞こえるだろう、と
もう一度ドアに耳を付ける。何も聞こえない。しかし今度はもっとしっかり聞くために全
神経を耳に集中する。
しばしの沈黙の後、やはり何かが聞こえた。人の話し声だ。何を言っているかまでは聞
き取れない。しかし何かしら、穏やかはでない感じだ。
しばらく聞き入っていたが、“バタン”というドアの閉まるような音がして、ようやく
静かになった。しかし次に足音が聞こえ始めた。しかも心なし大きくなっている気がする。
こちらに向かって歩いてきているようだ。私は恐怖に身動きできず、ただ耳をそばだて
る事しか出来なかった。
足音が止まった。とその次の瞬間、“ピンポン”とドアベルの音が響いた。"ドキリ"と
した。
しかし若干遠く聞こえた。感じた通り、音の発信源は隣の部屋であった。しばらく間を
おいて再び二度ほどドアベルの音が聞こえた。
その時私は全てを理解した。
『“奴”だ!。“奴”が来たんだ!!。』
私は急いで、ドアから耳を離した。そして素早く、かつ音を立てないようにドアの覗き
穴を塞いだ。そしてゆっくりと靴を脱ぎ、2枚の毛布の間に逃げ込んだ。
"奴"は何度かドアベルを鳴らしているようだ。“ピンポン、ピンポン”という音で解る。
しかし先程より音が小さい気がした。先程はもう少し大きかったはずだ。
よほど動転していたのであろう、しばらく考えてようやく思い至った。
『この毛布のせいだ。この毛布が外の音を吸収しているんだ。』
部屋の音を外に漏らさないようにするためにつけた毛布が、逆に外の音も完全に遮断し
ていた。
『そうか。それで近所の部屋のドアベルが鳴ったのに気付かなかったのか。』
“奴”は先程出てきた部屋のドアベルも、当然鳴らしたのであろう。しかし自分が細工
した防音措置とテレビの音のせいで、私には全く聞こえていなかった。自分の発する音を
漏らさないようとに細工をしすぎて、外の物音をうかがう事を失念していた。
“策士私策に溺れる”というやつである。
しかし今の私には、ゆっくりそれを反省している暇はない。それよりも今をどのように
切り抜けるか考えなければならない。
悩んでいるうちに、ひときわ大きくドアベルの音が響いた。心臓が止まるかと思った。
今度鳴ったのはうちだ。私の体は凍りついて、身動きが出来ない。体中から汗が吹き出し、
その場に音もなくしゃがみ込んでいた。
以前“奴”が来た時のシミュレーションを考えていたが、そんな事はいっさいがっさい
消し飛んでいた。
“奴”は隣の部屋と同じくしばらく間を置いてからドアベルを何度か鳴らした。そして
しばらく同じ事を繰り返していた。
『早く行け!。早くどっかに行っちまえ!!。』
今の私は、ただ“奴”が早く去っていく事を祈るしか出来なかった。長い時間が過ぎた。
いや実際にはあっという間だったのかも知れない。ただ気がついたときには、いつの間に
かドアベルの音は聞こえなくなっていた。
しばしの静寂。安心して息をつきかけたその時、再びドアベルの音が鳴り響いた。慌て
てもう一度息を止める。そのとき気付いた。さっきあれほど大きかったドアベルの音がま
た少し小さくなっている。もう一度息を潜め、耳をそばだてた。すると確かに先程と比べ
て、音が小さくなっている。
“奴”は隣へ移動したのだ。
私の全身から力が抜け、その場に横たわった。廊下の冷たさが心地よかった。とにかく
危機は脱したのだ。肺の中の空気を全て吐き出し、緊張を緩和する。ただしまだ油断はで
きない。“奴”は隣の部屋に移動しただけで、まだすぐ近くにいるのだ。
しかしそうとは解っていても、当面の危機を逃れた事だけは確かだ。ほっとしたその時、
妙な考えが思い浮かんだ。
『いい機会だ、“奴”の姿を見てみようか。“奴”は一度ここを留守だと思いこんだは
ずだ。ならば今なら“奴”の姿を見ることが出来るんじゃないか。』
危険な発想だ。しかし今の自分の安全は保証されている。この状態での危険は、大きけ
れば大きいほど甘い誘惑のように思えてくる。
『ドアを空けて、正面切って見るわけじゃない。覗き穴からこっそり見るだけだ。』
自分で自分を納得させる。しかしいくら覗き穴が魚眼レンズになっていても、そうそう
隣のドアの前までは見えない。無駄とは解っていても挑戦してみたかった。
元来小心者なのだが、小心者故に要らぬ好奇心が強い。しかも安全を保障された危険な
誘惑には勝てないそうもなかった。
まだ隣の部屋のドアベルは鳴っている。チャンスは今しかない。足音を忍ばせて、ドア
の前に行く。そして覗き穴の蓋いを外し、静かにドアにもたれかかる。
覗き穴から外を覗き見る。以外にも“奴”の姿が見えた。“奴”はいきなりドアが空い
たときのことを考えて、ドアからかなり離れて立っていた。しかし見えるのは肩のあたり
が少しだけだった。もう少しこちら側にいれば、横顔ぐらいは見えるのだが。今は全然見
えない。
こうなるとなにがなんでも見たくなる。私は何とか“奴”の横顔なりとも見ようと、見
えそうな位置に体を動かした。
しかしそれがいけなかった。“ギシ”。不用意にドアに体重を掛けすぎて、ドアが少し
軋んだ。私は再びその場に凍りついた。心臓が停止してしまうくらいのショックを受けた。
動けない。その場から逃げ出すことも、いや指一本動かすことも出来なかった。全然動か
ない体とは正反対に、頭の中は後悔の念が飛び回っていた。
『要らぬ好奇心が、身の破滅を招く。』
頭がクラクラしてきた。倒れそうだ。しかしいまだ体はピクリとも動かない。長いよう
で短い時間が過ぎた。何とか体が動くようになりと、恐る恐る覗き穴から“奴”の様子を
見ようとした。しかし一瞬動きが止まる。
『“奴”に気づかれたのではないか。ここを覗くと“奴”の顔があるのではないか。も
しかすると再びドアベルが鳴るのではないか。』
しかし確認しないわけには行かない。持てる全ての勇気を振り絞り、覗き穴から外を見
た。“奴”はいた。しかし先程と同じ場所にいた。“奴”はさっきと同じように、しばら
く間を置いては隣のドアベルを鳴らす事を繰り返していた。
『気づかれてはいない!!!。』
安心の為に体中の力が抜け、今度こそ本当に倒れそうになった。しかし今ここで倒れて
音をたてては、本当にばれてしまう。気力を振り絞り、何とか持ちこたえた。
しばらくドアに寄り掛かったまま、身動きせずにいた。またドアベルが鳴った。しかし
先程よりももっと音が小さい。何とか体を起こし、覗き穴から外の様子をうかがうと、今
度は“奴”の姿が見えなくなっていた。
“奴”はもう一軒隣の部屋に移ったようだ。私は慌てて、しかし物音を立てないように、
居間に逃げ込んだ。居間に入ると、そのまま静かにベッドに倒れ込んだ。しばらく身動き
しないでいると、遠くの方で微かにドアベルの音が聞こえた。とりあえず落ち着きを取り
戻し出した。
ベッドから音もなく立ち上がると、洗面所に向かった。洗面所に掛けてあるタオルを取
ると、おもむろに顔の汗を拭った。居間に戻ると汗に濡れたシャツを脱ぎ捨て、もう一度
ベッドに横たわった。
今度は目を瞑り、自分を落ち着かせようとした。しばらくそのままでいると、やっと落
ち着きを取り戻した。その時ある事に思い至り、壁にかかった時計を見た。
『良かった。約束の時間までまだ1時間以上ある。』
実際その通りであった。先程出発しようとして立ち上がってから、まだ10分ぐらいし
か経っていない。私には30分にも1時間にも思えたのに、だ。
しかし今は、まだ時間に余裕がある事が嬉しかった。友人との約束に遅れないようにと
今出ていったのでは、"奴"と鉢合わせになってしまう。ここは時間ぎりぎりまで部屋にい
るのが得策であろう。
幸いまだ20分ぐらいは大丈夫だ。そのくらい待てば、“奴”はマンションからいなく
なるかもしれない。いや最悪でもこの階からいなくなるだろう。あとはこのままじっとし
ていれば良い。“奴”がいなくなるのを待って、外出するだけだ。本当は何処にも行かず、
このまま部屋に留まるのが一番良いのだがそうも行かない。せっかく誘ってくれた友人を
すっぽかす訳には行かない。
私はただ時間が過ぎるのを、ベッドに横たわり待った。1分、1秒が非常に長く感じら
れる。ただ何もせず待つ事しか出来ないのは、非常に辛い。だからといってテレビでも見
るなんて気分でもないし、そんな場合でもない。
そのうちに自然と目を瞑り、今の出来事について思い起こす。大変な状況ではあったが、
考えれば考えるほど反省点ばかりが浮かんでくる。いままで色々細工を試み、シミュレー
ションまでしたも関わらず、実際にはなんの役にも立たなかった。慌てふためいて、恐怖
に凍り付いていただけだった。
また愚かな好奇心のせいで自分自身の立場をより窮地に追い込んでしまった。ただ結果
として、当初の予定通り居留守を決め込む事にはなった。しかも皮肉な事に出かける準備
をしていたおかげで、シミュレーションよりも完璧な形で居留守と見せかける事が出来た。
所詮どれだけ頭で考えても、実際には何の役にも立たなかった。いままで私がしてきた
事すべてが道化であった。自分自身の愚かしさに笑いすら込み上げてきそうになった。も
う何も考えたくなかった。少なくとも今しばらくは何も考えたくなかった。