逃げろ、走れ、駆け抜けろ
結の章
遠くに電車の音が聞こえた。その音にはっとして目を覚ます。頭の奥が鈍く痛み、親指
と中指で両方のこめかみを揉んだ。その効果が現れたのか、頭の中の霧が徐々に晴れてい
く。
その時全てを思い出した。眠り込んでしまったのだ。“奴”との一戦で心身ともに疲れ
果てながら、それでも見つからないようにとじっとしていたためだ。慌てて時計を見る。
『まずい!。10時を過ぎている!!。』
30分近く眠り込んでしまっていた。
『やばい、完全に遅刻だ!。せっかく気を遣ってさそってくれたのに、遅刻するとは何
たる失態!!。』
辺りを見回し、戸締まりを確認する。先程完全に戸締まりしたのを思い出して、慌てて
玄関に向かう。1枚目の毛布をめくった時に、頭にひらめくものがあった。
“奴”の存在である。
すくんだようにその場に立ち止まった。深呼吸してから、もう一枚の毛布を静かにめく
る。
そしてゆっくりとドアに近づき、覗き穴から外を見る。見える範囲には誰もいない。そ
れを確認すると、今度はドアに耳を付け外の気配を伺った。何も聞こえない。しかし先程
の状況が状況だけに、もっと慎重に気配を伺う。やはり何も聞こえない。慎重な行動とは
裏腹に、心の中は葛藤していた。
それは、誘ってくれた友人への申し訳なさと“奴”への恐怖だ。
“一刻も早く友人の元に行かねば”という思いはあるのだが、“奴に見つかっては”と
いう思いが攻めぎ合い、なかなか部屋を出ることが出来ない。しかしどちらかを選ばなけ
れば、このまま堂々巡りになる。
私は決断した。
『外へ出よう!。あれから30分も経っているんだ、もうこの階にいるはずはない。』
根拠のない確証を胸に、ドアの鍵を開けた。普段は気にもならない開錠音が、狭い玄関
口にこだまする。その音の余韻が消え去るまで、その場に立ち尽くしていた。静かに覗き
穴の蓋いをはずし、外を見た。
今の音に反応して“奴”が部屋の前にいるのではないか、と思ったからだ。幸い誰もい
なかった。
もう一度深呼吸し、ドアノブをゆっくり回した。これで部屋の守りは完全に無くなった。
もしいま“奴”がドアを引っ張れば、私は“奴”の前に転がり出るしかない。緊張の汗
ドアノブを持つ手がに滑る。改めてドアノブを握り直し、ドアにゆっくり力を加えていく。
かすかに開いたドアの隙間から、まぶしい太陽の光と町の騒音がに飛び込んできた。そ
の眩しさと騒々しさに頭がくらくらしてきた。しかし躊躇している暇はない。これから静
寂とした部屋から騒然とした外へ、出ていかなければならない。
もう力を加えると、ドアは外が覗けるくらいの隙間が開いた。ドアノブに手を掛けたま
ま、しゃがみ込んだ。そのままの姿勢で、恐る恐る外を覗いてみた。隙間から見える範囲
には、誰もいない。
ドアノブを支えにゆっくり立ち上がり、大きく息を吸い込んだ。そして勢い良くドアを
開け放った。
町の騒音がさっきよりも大きく耳朶を打つ。しばらくその姿勢のまま立ち尽くした。し
かし誰も私の前に現れなかった。
やはり“奴”はここにはいなかったのだ。私は安心すると同時に、慌てて外に飛び出し
た。
ドアを閉め、焦る心を押さえながら施錠した。
『ここまでは成功だ!。しかし次はマンションから脱出だ!!。』
そう思いつつ、エレベーターの方に向き直った。エレベーターは3階に止まっていた。
また新たな悩みが発生した。
『下に降りるにはどうすればいいのか?。階段を使うべきか、それともエレベーターを
使うべきか?。』
麻痺しかかっている頭を必死に動かし、考えた。
『そう言えば以前、新聞の勧誘員はマンションの全部屋を訪問するのに、上から順に下
へ廻っていくと聞いた事がある。
“奴”が全部屋を廻るつもりなら、同じようにするんじゃないだろうか。
あれから30分しかたっていないんだ、“奴”はまだこのマンション内にいる可能性
は高い!。』
その考えに思い至ると、足が竦み、部屋に逃げ込みそうになる。
『いっそそういう行動にでようか。』
そうとも考えたが、ありったけの理性でなんとか押さえる。ただ実際にそういう行動に
出れないためか、この後に及んで余計な考えばかり浮かんでくる。一種の現実逃避だ。
『今はそんなことを考えている場合じゃない。とにかく対策を考えなければ。』
今まで以上に真剣に、そして必死に考える。そのうちやっと問題点のみに集中して、考
えることができ始めた。
『とにかく“奴”の行動を推測するんだ!。“奴”の裏をかくことが、唯一ひとつの方
法だ!!。』
頭になかで色々とシミュレーションを繰り返す。“奴”に立場になり、“奴”の身にな
って行動を予測する。
そしてついに“奴”のとるであろう行動をひとつに絞った。
『“奴”は階を移動するに階段を利用するはずだ。たかだか1階分移動するのに、わざ
わざエレベーターを使う奴はまずいない。特に下りるだけならなおさらだ。』
予測した行動の中で、一番可能性が高い気がした。あくまで自分の中だけだが。
しかし今はそれに掛けるしか手が無かった。
幸いエレベーターは先程と同じく3階に止まっていた。急いでエレベーターのボタンを
押すと、それに反応するようにモーターがうなり出した。
あせる気持ちとは裏腹に、エレベーターはゆっくりゆっくり上がってくる。いらいらし
ながら、しかし何もできず、ただ階数表示板をみつめるだけである。
長く、短い時間が過ぎていった。“ガタン”とエレベーターが到着する音がした。扉が
開くのを、一日千秋いや一秒万秋の思い出で待っていると、階段の方から“ガチャ”とい
う音が聞こえてきた。
誰か階段を上ってきたのかと思わず振り返った。音は階段からではなく、階段の前の部
屋のドアが開いた音であった。
しかも中から出てきたのは、他でもない“奴”だったのである。とっさの事で“奴”か
ら目が離せず、見つめたまま凍り付いていた。
“奴”は部屋の外でて、中の人に向かって話かけているようだ。
そう認識した時、我に返った。
『逃げなければ!!!。』
しかしどこに逃げるというのか。部屋に逃げ込むのが一番良いが、鍵を開けなければな
らない。しかしそんな時間的余裕はない。エレベーターに逃げ込むのは良いが、もし見つ
かれば袋のねずみだ。だからといって階段を使うのは自殺行為だ。
数瞬のうちにそんな思いをめぐらし、決断した。いやそれしか取る道が無かった。
『エレベーターで逃げよう!。』
エレベーターに飛び込み、閉ボタンを押した。なかなか閉まらない。私は閉ボタンを連
打した。そうすることによって、少しでも早く閉まるかのごとく。
やっと扉が閉まり始めた。開く時もゆっくりだったが、閉まる時はもっとゆっくりな気
がした。
その時、靴音が聞こえた。
『“奴”が、“奴”がこっちにやって来た!!!。』
さっき以上に閉ボタンを連打した。なんの効果もない。当たり前だ。
しかしその間にも靴音は大きくなって行く。
『早く閉まれ!!!。』
パニックを起こしそうになったその時、願いが通じたのか、扉が閉まった。
安心のため全身の力が抜け、その場に座り込みそうになった。
『よかった!逃げ切れた!!。』
安心しつつも不安もあった。
『確かに今回は逃げ切れた。しかし“奴”がこのマンションをマークしだす事は想像に
難くない。
ただ私の顔は見られていないし、どの部屋に住んでいるのかもばれてはいない。
今後の対応如何によってはなんとかなるだろう。問題は山積みだが、今はとにかく逃
げ切れた事を喜ぼう。』
自分の中で一人エンディングを迎えていた。
しかし事態は自分の思い通りには進まなかった。
なんと一回閉まった扉が再び開き始めたのだ。私の内心の焦りをよそに、扉はゆっくり
と開いていく。それはさっきよりもゆっくりと、私の恐怖をより高めるかのように開いて
いく。
開いていく扉の隙間から、“奴”の顔が見える。そして目が合う。“奴”は薄ら笑みを
浮かべて私を見る。私も目は“奴”から離れないが、頭の中では別のことを考えていた。
『どうしよう?。“奴”を殴り倒すか、それとも“奴”の横をすり抜けて、階段から逃
げるか。』
物騒なことも考えたが、実際難しいものがある。殴りかかって勝てるとは限らないし、
横をすり抜けようにも隙間が狭すぎて無理だ。
絶望にとらわれた私にできることは、ただ後ずさりすることだけ。しかし狭いエレベー
ターの中でそれも無駄なあがきであった。背中にエレベーターの壁を感じた瞬間、その場
に座り込んでしまった。
その時、エレベーターの扉が全開した。
“奴”は不思議そうに私を見ながら、おもむろに口を開いた。
気が遠くなっていく私の耳に、“奴”の言葉が切れ切れに届いた。
「わたくし、国・放・局のもの・・・、視・料の・・・・・・・・・。」
――――――――――――――――――― 完 ――――――――――――――――――