パラサイト・イヴ〜ゲーム本体と演出との一つの調和と一つの乖離〜


 次世代機になり、主なゲームメディアの提供手段として、CD-ROMが主流になってからもう久しい。

 大容量メディアを安価に、それも、それまでのROMメディアより手軽に提供することに成功したCR-ROMの功績は、確かに大きいが、反面、ゲーム製作者の不用意な堕落を生んだと極論することもできるかも知れない。

 それは、ゲーム性そのものとはまったく関係ない部分に対する労力の投入という形になって現れる。もっとも、筆者的にもゲームの内容、雰囲気ににぴったりマッチしていればという話でならば、それらゲーム以外のさまざまな演出を全否定するつもりはない。大容量メディアをプログラムのみで埋めよというのはナンセンスだし、そのメディアにあった表現手段を選ぶのはソフトウェア製作者として当然のことであるからである。

 ただ、現時点において、いわゆるCDーROMならではの表現技法と、ゲーム中に表現されるグラフィックなどの表現技術にははっきり差があるといわねばならない。同じポリゴン技術を使っていたとしても、たとえばゲーム中に動き回る自キャラのリアルタイムポリゴン映像と、挿入されるムービーのポリゴン映像とは〜あえて映像側がリアルタイムポリゴンに妥協するという手法を除いては〜大きくことなるのが通例である。

 新技術を導入して、よりすぐれた美しいムービーを挿入したとしても、それがゲーム中のグラフィックとの乖離をさらにすすめてしまうケースが多い。ムービーのポリゴンが極論すればCD-ROMに対する記述方法と読み出し方法によって決まるのに対し、リアルタイムポリゴンはハードウェアの演算能力に直接依存するから、リアルタイムポリゴンの技術はプログラム的に進歩してもハードウェアを改めなければ何の効果もないといった側面もあり、たやすく改善することのできるムービー部分の進歩が先に進むということなのだろう。

 結局そうなると、よりきれいにユーザーに製作者側の見せたいものを見せられるムービー部分に労力がより多く割いてしまうのは、クリエイターとしての製作者側としては無理からぬことなのかも知れぬ。だが、その思考は、あくまで表現者として偏った発想であり、ゲームクリエイターとしてエンターティナーの要素をより強く帯びるべき者の発想ではないということをここに確認する必要があるだろう。エンターティナーは客を楽しませること以外の意図で〜たとえば己の技術の誇示、己の想像物に対する無理からぬとは言え忌むべき愛着のために〜労力を割くべきではないのである。

 大容量メディアにマッチした美しいムービーはいい。直接録音された美しいBGMもいいだろう。好みの声優を多く使った臨場感溢れる会話を楽しむのもいい。だが、OVAではなくゲームを制作しているのならば、ゲーム本体とのバランスをもっとも留意されるべきなどではないだろうか。

 ここに、一本のゲームがある。パラサイトイブ。ファイナルファンタジーシリーズで名を馳せ、前年、次世代機で同作品の7作目をリリース、全世界的に大ブレークさせたスクウェアの作品である。スクウェアUSAを介してハリウッドのスタッフにムービーを依頼し、そのクオリティでユーザーを魅了した話題の作品である。

 このゲーム、試しに遊んでみると、決してつまらないゲームではない。ストーリーに重点を置いたRPGなのだが、さすが老舗というべきか、ゲームとしての完成度は必ずしも低くはない。

 その、売りの一つであるムービー、PSのゲームのなかでは筆者的に最高の完成度と思われるBGMは、一気にプレーヤーをゲームの世界に引き込まずにはおかない。そのキャッチにある、「シネマティックRPG」。そのムービーもさることながら、ムービーとゲーム中画面の画質の格差が、ほとんど感じられない。見せ方のうまさ、長年培われた技術力の発露がそこには感じられる。
 ムービーの美麗さは特筆すべきものなのだが、ゲーム中の画面の美しさがムービーに迫る出来というのはやはり尋常ではない作り込みを感じる。前述した次世代機のゲームにありがちな、ムービーとゲーム画面の乖離は、少なくともこの「パラサイト・イヴ」という作品ではほとんど起こっていない。

 システム的にもなかなか練られている。戦闘シーンの斬新さも特筆すべきで、アクションの要素も兼ね備えたその戦闘は、ともすれば惰性に流されがちなRPG中盤以降のアクセントとして有効であったろうし、より多くのプレーヤーに受け入れやすい楽しみやすいシステムではなかったかと考えられる。謎解きのほとんど要求されない素直で一本道なストーリー展開も、映画的・ドラマ的な手法で多くの次世代機ユーザーに受け入れられたことであろうし、反面ヘヴィゲーマーのための2回目以降遊びこむための要素もちゃんと用意されている。

 だが、私は、やはりこのゲームを、どうしても良く評価することができなかったのである。

 映画・ドラマとゲームとの違いを考えてみる。映画・ドラマが、作り手から一方的に流されるものを見るものがそれぞれの主観で受け止めるという形で成り立っている。ゲームはそれとは異なり、多かれ少なかれ必ずプレーヤー〜映画・ドラマでいう見る側〜からの働き掛けがあり、それによって何らかの反応があるもの。はじめの働きかけはほぼ確実にゲーム製作者サイドであるが、それ以降はゲーム(=製作者)とプレーヤーが交互に働きかけあうことによって成り立つ。いかなるタイプのゲームも突き詰めればこの図式は変わらない。アクションゲームとアドベンチャーゲームほどの差も、この観点からすれば、単なるプレーヤーからの働き掛けの頻度の差にすぎないのである。

 映画を目指したゲーム、と開発者自らが称した、「シネマティックRPG」パラサイト・イヴはどうだろうか。

 このゲームほど、プレーヤーからの働き掛けがないがしろにされ、むなしくなるゲームはない、と、僕は考える。

 ムービーの形で与えられた虚構をRPGという仮想現実をベースに感じようとすると、虚構の強さに翻弄され、虚構を眺めることに流されようとすればシビアなゲームとしてのRPGに引き戻される。壮麗なムービーの中で勇ましく敵の潜む建物へ歩み行く主人公を見せられた後に、アクションのの要素が高い戦闘シーンで雑魚キャラに翻弄され、壮大なスペクタクルシーンを見せられ、強力なボスを倒した後に、理不尽なハマリを受けいきなりゲームオーバーとなり、再びムービーの見直しを強いられる。

 圧倒的なムービー、音声は、確かにその世界にプレーヤーを引き込むが、引き込まれたプレーヤーはその虚構の中に投げ出され、与えられた虚構を持て余す。一方的に与えられていればいい映画と、自己の役割を演じて積極的に虚構に参加せねばならないRPGとの狭間で、プレーヤーはゲームのやりがいを失ってゆくのである。

 冒頭に論じた技術的、視覚的な乖離は克服されたが、それより深刻な乖離が残されてしまった。それは、プレーヤーのゲームを楽しもうという意欲と、製作者側の技術力にものを言わせて楽しみを与えようとする意図の乖離である。
 
 積極的なプレーヤーの働きかけを要するRPGは映画的な手法と融合させるべきではなかったのではないか。

 少なくともこのストーリーを、古典的ではあるがコマンド選択式のアドベンチャーゲームという形で与えられるか、デジタルノベルにムービーを加えた形式の述べるムービーで与えられていれば、ここまでプレーヤーとゲームそのものの乖離を生み出すことはなかったのではないか。

 戦闘シーン、ムービー、BGM、ストーリー、インターフェース、グラフィック。全ての要素が極北を極めているといっても過言ではない、だが、これらを一つにまとめてゲームとして見せる時、その組み合わせが必ずしも最高のゲームを生み出すとは限らない。観客たる立場と主人公という立場を与えられたプレーヤーはそのいずれの立場をも満足にこなすことができないまま、圧倒的な技術力の前に楽しさを感じることができずにいる。

 パラサイトイヴ。示唆的な名前である。
 圧倒的な技術力とメーカーのプライドに裏打ちされた演出にパラサイトされ、奇形化してしまったストーリーとロールプレイングゲームのタイトルとして。


 parasite eve
 1998 Square Soft / Play Station

written by とものり



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