アナクタシア
灰色の街。
この街で守りたいのは、ただ一人だ。
アンジェリーク。
ゼフェルの「魂の平和」の根源だ。
何を無くしても、何を奪われても、絶対に離しはしない。
そう心に決めているのだ。けれど、それを本人に言ったことなど一度もない。ただ、心に決めているのだけなのだ。
「ゼフェルー」
たんたんたん、と階段を書け登ってくる軽快な音。ゼフェルはそっちに首を向ける。いじっていたチビロボの電源を入れる。
「ねー、ゼフェルー」
声はまだ続いた。
「あのねー、いいもの持ってきたのー」
アンジェリークは声をはずませて、ゼフェルの元へ近づいた。屋根裏のような一室。ゼフェルの大好きな場所だ。
チビロボはアンジェリークのほうにカタカタと動いていく。
「「こんにちわ、アンジェリーク」」
「あ、こんにちわ、チビロボちゃん」
「何だ?」
こういう時、チビロボにはちょっと妬けてくる。自分よりもいい笑顔をチビロボなんかにくれてやるんじゃねえ、と思ってしまうのだ。
それでも、近づいて来たアンジェリークに、 微笑みを隠せない。自分は平静を装っていると思っていても、意外と顔に出るもの。幸せというものがこういう形で現われるとは思っていなかったゼフェルにしてみれば、この表情はもう、仕方ないのかもしれない。
「あのねー・・・・じゃん!」
出てきたのは、二枚のチケット。映画の前売り券のようだった。
「何だ、これ?」
きょとんとしているゼフェルに、ちょっとすねてみせるアンジェリーク。ゼフェルはそんなアンジェリークをみてしまうと、その頬に手をそえてキスをしたくなるのをぐっと我慢しなければならなくなる。でもそれさえも心地良い。
「行きたいって、私が言ってた映画のチケットだよー。忘れたの?」
忘れるはずなどないのだ。アンジェリークがどんなとき、どこで何を言ったのかさえも、正確に思い出せるほど。いつも彼女が傍にいない時はその思いでを巻き戻して何度も何度も見ているのだ。その度に、心臓から下腹にかけてゾクゾクする感じを忘れられない。
「忘れてなんか、ねえ、ぞ。」
今まで背中を向けて顔だけをアンジェリークに向けていた状態だったが、今度は正面からアンジェリークを見る。そのちょっとふくれた頬を右手で触れる。アンジェリークがその手を見つめる。その緑の目の動きを追いかけるように、ゼフェルの顔が近づいていく。
その唇へ、優しいキス。
もう、何のためのキスなのか、とか、そのときゼフェルがどういう心理状態だったから、とか、そんなことはどうでもいいのだ。とにかく、アンジェリークと一緒にいたい。一緒にできること、何でもしたい。キスでも、それ以上だって。
「ん!〜〜〜んっん・・・」
アンジェリークが抵抗をやめてからしばらくして、ゼフェルはその唇を離した。最後の方は優しかったはずのキスが、いつの間にかひどいキスになっていた。
もう一度、したい。
そう思ってゼフェルがその顔を近づけた瞬間。
「もうぅぅぅぅぅ〜〜〜!!嫌いになってやる!」
叫ぶ彼女。びっくりして動きの止まる彼。
アンジェリークは呆然としたままのゼフェルを見てクスっと笑う。
「ひどいことするんなら、すぐに嫌いになってあげるから!」
ゼフェルはアンジェリークがからかっていたことに気付いて、その顔をまた捕える。捕まえたものは、絶対に逃がさないのだ。そしてまた、有無を言わさず、長いキス。さっきよりももっと酷い。
「ぅ・・・ん・・・」
「・・・・嫌いになんて、なれねえだろうが」
ゼフェルの精一杯の強がり。ゼフェルがこれだけ好きなのだ。彼女にも、同じくらい好きでいてもらわなければ困る。「ゼフェル以外を好きになる」などという選択肢など、すでに彼女には与えられていないのだ。アンジェリークはゼフェルの「アナクタシア(魂の平安)」だ。彼女なしに、魂は落ち着きなどしない。それどころか、彼女自身が魂の平安なのだ。これはゼフェルにとっては一大事だった。
「嫌いになってやるぅ・・・」
弱々しく言うアンジェリークの頬を優しく捕まえて、今度は本当にやさしい、小さなキスをする。アンジェリークがクスっと笑う。それこそ、ゼフェルの目の前で。
それでまた、ゼフェルはアンジェリークにキスをし続けるのだ。
いくらひどくても、どんなに胸が痛くても、すべて、欲しい。そんな気持ち。それはお互いに同じで、まだそのことをお互いに告げられていないのだけれど。
そういうわけで、いつまでたっても、映画の話しは決まらなかった。
二人の横で、チビロボががしゃがしゃやっていることすら、二人にはどうでもいいことだった。
灰色の街に咲いた、小さな花のような、恋。
あとがき