JAZZ   キィィィィ!!!!!!!! それが、世界で最後に聞いた音だった。 その後の世界は音をなくしてしまっていた。 急に、こうなってしまった。 事故と言われる突発的な事件で、自分は今何もできずにベッドで眠っているのだ。 眠れば。   闇しかない。 音のない世界というものを実感してしまったとき、自分が著しく衰えた気がした。 泣いても、笑っても、音がないのだ。 涙を肌で感じても、鼻をすする音も、聞こえない。   鳥のさえずりで目覚めることはもうないのだ。   つらい、と叫んでも、自分に自分の声は聞こえない。 ただ、自分の声の記憶が、自分の頭の中だけで組み替えられて、「ツライ」と叫ぶのだ。   初めて目をあけた時、唖然とした。 その後、切なくなった。 ああ、何で、と。 看護婦は手に花束を抱えていた。 それには「ゼフェルより」とかかれたカードが入っていた。 誰だろう? 聞いたことのない名前だった。しっくりと舌にのる名前ではない。 ? アンジェリークが首をかしげると、看護婦はホワイトボードと黒のボードペンを出して書いた。 『あなたと事故で接触した人ですよ』 「そうですか。」 自分だけ言葉で言うというのは変な感覚だ。自分自身の声も聞こえないのに。 でも。 他に言うべき言葉はみつからなかった。 音がないと、神経も鈍くなるようだ。事故で聴覚がなくなったことを知っても、もう何とも思わなくなった。看護婦に聞かされるまでもなく、感覚として音はアンジェリークの世界から消えていたのだから。 看護婦は実に哀しい目をしてアンジェリークを見つめていた。 そして、ボードが言う。 『ゆっくり眠って下さい。ゼフェルさんは明日来ると言っていました』 きれいな字が、しゃべった。 字では、声はわからない。だけど、きっときれいな声なのだろう。 そう、思った。 そしてまた、ゆっくりと、目を閉じた。         突然の出来事だった。 気が付いたら、ブチ当たっていた。 そして、救急車の中だ。 その後彼女のことを聞いて、心底悔やんで、昨日やっと目覚めた彼女に面会にきている。 バカな話しだった。 夜中に信号無視して飛ばしまくっていた自分はかすり傷くらいで、彼女は聴覚を失って。 眠っている彼女を見た時、実感がなかった。 どこかの知らない女だったのだ。耳が聞こえないという実感なんてぜんぜんない。ただ、責務を問われているだけだという感覚しかなかった。   しかし、病室のドアを開けようとしたとき、看護婦がホワイトボードを手渡した。 それでゼフェルはやっと、ああ、と感じたのだ。 彼女は耳が聞こえないのだ、ということ。 彼女をそんな風にしてしまったのは、自分自身なのだということ。 今やっと、わかったのだ。   そして。 思い病室のドアを開ける。 ぐっと、目をつぶって。 彼女の哀しい目を、見たくない、と。 でもそれは否めないだろうと覚悟して、また目を開く。 眩しいほどの日光が白い床に反射している。 その窓の左側に・・・・・・・。 いるのだ。 こっちを向いて。 哀しい目 なんて していない、女が。 ゆっくりとほほえんで、お辞儀なんかする女が。 哀しい目をしたのは、むしろゼフェルの方だったのだ。   JAZZ 3   ひどく緩やかな気分だった。どうでもいいわけではなく、何だか彼を見たとき、急に気持ちが穏やかになった。 バラのような真っ赤な目。オパールみたいな銀の髪。始めはアルビノかと思ったけれど、それにしては色の黒い肌。 何もかもが見慣れないものだった。 そして、そのバラに浮かんだ切ない色の輝き。   「こんにちは」 始めて口にしたのはそれだった。日は高く、アンジェリークが見つめていた外の風景が太陽の日差しを受けてキラキラと輝いていた。 けれど、病院の中は暗かった。 物質的には明るかったのかもしれない。しかし、ここは空気が暗すぎたのだ。言葉のない空間というものがいかに空気を停滞させるものか、アンジェリークには痛いほどわかった。 だから、言ったのだ。口にだして。 するとゼフェルらしき男は何かをつぶやいた。もちろんアンジェリークにその声が聞こえるはずなどない。無反応な彼女を見て、ゼフェルはボードをとりだして、書きなぐった。 左手で不思議な動きをするその腕。 アンジェリークはずっと見つめていた。 ずっと見つめていたいと思ったのだ。 音のない空間。 きっと「外の世界」ではキュッキュっという音はしているのだろう。アンジェリークはそれを想像した。それから、彼の声も。 そしてボードは力強く叫んだ。 『アンジェリークか?』 力強いというより、汚い字だ。しかし、アンジェリークには安心できる文字だ。ゼフェルの声は、きっとかすれている。 このときアンジェリークはそのことを確信して、そして。 「ゼフェルさんですか?」 言ってしまって、気が付いた。 彼が、呆然としていることに。 そして、自分は、泣いているのだ、ということに。   JAZZ 4   どうして泣いているのだろうと心底困惑し、そして、手を差し伸べてやりたいと思った。 自分が傷つけてしまった存在というものを、どうにかして修復してやりたいと思った。でもそれはかなわないことだ。 彼ハ彼女ヲ傷ツケタ。 彼女はゼフェルの助けなんて求めているだろうか。憐れむようなまなざしで微笑んだ彼女。アンジェリークという存在が、自分を受け入れて、許し、そしてゼフェルを必要としてくれるだろうか。 そんなこと、ありえなかった。 本当はすぐにでも消え去ってほしいに違いないのだ。 ゼフェルはアンジェリークをズタズタに切り裂いた。 その事実だけがこの狭い個室のこちら側と向こう側を隔てて横たわっているのだ。 ゼフェルが、 『アンジェリークか?』 ときいたのに、彼女は逆に聞き返してきたではないか。 「ゼフェルさんですか」 そして、泣いた。 何が厭なのかなんてわかっていた。 顔も見たくないような男とこんな個室で二人っきりで、しかも無理して彼女はゼフェルに笑顔を向けているのだ。 クソ・・・・ ホワイトボードは床に落下した。 その瞬間、太陽の光がボードに吸い込まれて痛いような輝きを放つ。 ゼフェルはそれに目をあてることもできずに、病室を出て行こうとしていた。 けれどそれはかなわなかった。 アンジェリークが。 声をあげたのだ。 それは音であって、声ではなかった。 うっと。 声をあげて泣き出したのだ。 まるでゼフェルが出ていくのを拒むように。 こっちを一心に見つめて、口元をおさえて泣いているのだ。 金の髪がかすかに揺れていた。 ゼフェルはその光景をみていた。 そして、キレイだ、と思った。 自分のもっているサックスよりも、もっとずっとキレイだ、と思った。 ゼフェルはアンジェリークに近寄った。 アンジェリークは少し身をひくように動いたが、ゼフェルはそれに構わなかった。 そして、彼女の耳元で大声を出す。 「「「アンジェリーク!!!」」」 自分の耳が、痛かった。 JAZZ 5   耳元でふっと、空気が動いた。鼓膜が振動することはなかったけれど、何となく聞こえた気がした。 空気のざわめきみたいなもの。 今まで感じたことのない感覚が、アンジェリークの涙を止めた。 でもその堤防はすぐに消えてなくなってしまった。 けれど彼女はもう泣かなかった。もう、堤防がなくとも、彼女の海は完全に凪いだのだ。 あ。 それはひんやりとした感覚。 背筋をぞくりとさせるような。 首筋を撫でられるような。 首筋を撫でたのは、あのバラの瞳だったのだ。 瞳が発する音。 風。 それがすべてアンジェリークの首筋を撫でていく。   好きになってはいけない人だった。 きっと、世間ではそう言われる人だっただろう。 その前に、好きになるはずなどない人だったのだろう。 だけど。 もう、きゅっと。 彼女の心はぐるぐる巻きに、されていたのだ。 ゼフェルという男、それだけで。     ゼフェルはアンジェリークの傍を離れた。 そして、何かを言った。 何か、10文字くらいあるような言葉をぺらぺらしゃべっていた。 そして、そのまま病室をあとにした。 また、音のない世界に逆戻りだ。 風を感じることもない。 アンジェリークは急に寂しくなる。 右を見たり、左を見たり。外のこずえを眺めたり。 足が直っていなから、立ち上がって窓の外を眺めることはできないけれど、梢がさらさらと揺れていることだけがわかった。 けれど、もうそれだけではがまんできなくなっていた。 彼が。 彼がアンジェリークの前に姿を現わしたから。 彼女の心をわしづかみにして、そのまま行ってしまったから。 待って。 行かないで。 置いていかないで。 そう、叫びたかった。 でもテンポをはずしてしまうと、もう二度と言えない言葉。 彼を好きだということを、認めてしまいたい心。 それを認めたくない、アンジェリークのかわいそうな聴覚。 外の世界では、そろそろ看護婦が足音をたててアンジェリークの病室にやってくるだろう。 彼女自身にとっては、何の前ぶれもなく。 けれど、彼女には新しい力が備わった気がした。 本当は、少し集中力が帰ってきただけ。 看護婦の気配を、何となく感じるように、なったのだ。 次の瞬間。 看護婦は勢いよく、ドアを開けた。 JAZZ 6   気が付いたら朝だった。あのあとのことはぼんやりとしか思い出せない。 看護婦がやってきてアンジェリークはすごく驚いていて、たぶん意味もなく暴れたんだろう。看護婦は何か叫んだみたいで、女の人がやってきた。その人は注射をもっていて、それをアンジェリークの腕に刺したら、そのあとのことはあんまり記憶に残っていない。 きっと、安定剤だったのだろう。落ち着いたというか、沈められたというか。そのあと不思議と眠い気がして、眠ってしまった。 夢を見ることもなく。 ゼフェルのことを考えることもなく。 それがとてもいけないことのように感じた。 ゼフェルのことを一晩中でも考えていたい自分という存在がハッキリと浮き彫りにされる。 怖かった。 こんなに一瞬で誰かを好きになることなんてありえないことだった。 アンジェリークはまた音のない世界で泣いていた。ゼフェルと叫ぶ自分がいる。ゼフェルに飢えた自分がいるのだ。 痛い。 苦しい。 切ない!!   ゼフェルに飢えると泣き出してしまう自分。そのせいで眠らされてしまう自分。何もかも憎らしかった。こんなにも自分が嫌いになるのは思春期以来かもしれない。 天井がやけに白い。梅雨入り前の日差しは暖かいだけの光りをこの部屋の齎す。   そういえば、彼は何と言ったのだろう。 アンジェリークはぼんやりとそんなことを考えた。 何かぺらぺらっとしゃべって、それからいなくなってしまった。私が心の中でいかないでと叫んだのに、彼は行ってしまった。   涙がまた溢れてきた。   もう、あえないかもしれないと思うけれど、でもどこかで必ずあえるという不思議な確信があるのだ。 それは本当に不思議なもので、アンジェリークの足の爪を一枚一枚ペデイキュアで塗っていくような。ちょっとひんやりとした感覚。 安定剤を打たれなければならなかった自分にちょっと笑ってしまう。ここは精神病棟ではないのだ、と思って、少しおかしくなった。そんな自分が何だか変だ、とも思った。 何にも、考えられないのだ。 ゼフェルのことしか考えられない。 開口一番、「ゼフェル」と言ってしまいたい。 会いに来てと言いたい。 独り言でもいいから、言ってしまいたいのだ。 でも怖かった。この感情を認めてしまうことがすごく怖い。でもゼフェルというCDは頭の中でエンドレスでかかり続けているのだ。彼女にあの感情をインプットしてしまおうと必死で回り続けている。 何か考えたいだけなのかもしれないのだ。何か、何でもいいからこの聴覚がないという不気味な世界から抜け出したいだけなのかも。 それで、ゼフェルというたまたまやってきた特異な題材を見つけてしまっただけなのかも。 それでも。 でも、だけど。 そんなはずないことぐらい、アンジェリークにはわかっていた。 これが恋なのだと知っていた。 あのバラの目を思い出すだけでゾクゾクする。その顔が近づいてきたと思うだけで胸が痛くなる。 締め付ける縄はほどかなくてはならないのに、アンジェリークは一生それにつかまっていてもいいかもしれないと思っていた。 何にしても。   会いたい、のだ。   「ゼフェル」   口にだしても、自分には聞こえないけれど。 それでも、声に出さずにはいられなかったのだ。 天井はただ何となくその声の気配を伝えたような気がしただけで、白くそこにいるままだ。     しかし。 何かがまたたいた。 何か金色のものが、アンジェリークが見つめていた天井の上を乱反射して行った。 それは奇蹟に近いもののように思えた。 まるで天使が降ってきたかのようなスローモーションで、金色の光りはアンジェリークに毎舞下りる。 それはただ、太陽の光がドアの開閉によって反射したためだったけれど。 アンジェリークにとっては、天使の降臨よりも喜ばしいできごとだったのだ。       『よう』 ホワイトボードは、そう言った。 JAZZ 7   昨日、どうして逃げてしまったのか不思議に思う。 あの後すごく後悔したのに、どうしても戻れなかった。 アイツを泣かせることなどわかっていて行ったのに。 それは自分のためだったのに、何故かもう、自分のことなどどうでもよくなった。ゼフェルは自分の罪の償いという名目でアンジェリークに会いに行ったはずだったのに。 そしてまたバイクを走らせる。 坂を随分と登って、そして止める。 目の前には長い階段が広がっているのだ。 ここを登らなければならない。 けれどゼフェルは「登る」ことへの決心など微塵もしていない。 彼は「会う」ことへの決心で頭がいっぱいなのだ。 会いたい。 泣いててもいいから。   ぐらっ   考えただけでめまいがする。 アンジェリークという女のあの顔。 今まで自分が大事にしてきたどんなものよりも守りたいと思った。 泣き顔でさえ、守りたいと。 これまで泣く女など目もくれてやらなかったのに、ゼフェルはアンジェリークの涙を見たとたん、心臓を打抜かれた。 それから、聴覚を確かめようとしたけれど、彼女が少し逃げ腰になってしまったのだ。 それがいけなかった。 思いきり、叫んでしまった。 どうしても、アンジェリークと名前を言いたかった。聞こえないのがわかっていると、ここまで大胆な行動にでられるものなのかと思う。 けれど「アンジェリーク」と叫んだ瞬間ほど、彼女の目が大きく見開かれた時はなかった。あの大きな緑の目が。 その時。 ドクン・・・・ ぐっと、胸ぐらをつかまれて、そしてフっ飛ばされた。 心がどこかへ逃げてしまったのだ。 ゼフェルは体ごと逃げなければならなくなった。 本当はもっとここにいたいと思ったが、これ以上いると自分が彼女に何をするかわからないだろうと思ったのだ。 そういう男ではなかったはずだ。 いつも女をからかい気味に接してきたはずだった。 何となくイイ女をたぶらかして自分に気を向けさせるなんてこと、朝飯前だっはずなのに。 アンジェリークというのはそうではなくて。 もう、今すぐにでも抱きしめて好きだといいたい。 好きだ。 好きだ。 聞こえない彼女の聴覚。 好きだと言っても聞こえない。 それは誰のせいだ?     クソ   階段を登るテンポが、少し揺らぐ。   それでも、会いたいのだ。 どうしてもアンジェリークに会いたい。 嫌われているかもしれない。あのとき逃げてしまったことを不審がっているかもしれない。 それでも、いいのだ。 ゼフェルはやっぱりエゴのために行動を起こしたのである。 会いたい。   ゼフェルの細胞の70パーセントは水分ではなく、「あいたい」でうめ尽くされていた。   JAZZ 8   ドアをあけた瞬間、風が瞬いた。 ゼフェルの銀の髪を揺らした。 それから、アンジェリークの匂いらしき甘い薫を運んできた。 ふっと、ゼフェルの口元がゆるむ。 会いにに来てよかった。 アンジェリークはビックリしていたし、たぶん今も泣いていた。 それでもゼフェルは会いに来てよかったと思ったのだ。 『元気か』 ホワイトボードをまた消して、また書いて。 簡単なことしか書けないけれど、それでも気持ちはこもっているのだ。 その気持ちというのは、 好きだ。 それだけになったけれど。 会いたいという欲求が満たされた今、ゼフェルを埋めるのは好きだという感情だ。これはゼフェルをどんどん地中にうめていってしまう。 好きだ。大好きだ。 抱きしめても・・   ハッ   その時大きく揺らいだ理性を立て直す。 風がまた彼女の匂いを運んで来たのだ。 そして彼女を見れば、微笑んでいる。 涙のあとも拭くことなしに。 「ゼフェルさん。私もうすぐ退院できるんです。」 やわらかな微笑みがゼフェルにはいたかった。 まだ2度しか会っていない。もっと話したいのに。 もっと近くにいたいのに。 アンジェリークはこの病院から去ってしまえば、もうあえないかもしれない。 彼女はそれを望んでいるのか。 ゼフェルになんかもう2度と会いたくないのだろうか。 足がしびれる。 足のうらが、マヒしてしまう。 そういう状態を想像するだけで、ゾっとするのだ。 ゼフェルは思わず身震いした。 何だかもう、アンジェリークが自分のものになってしまったという気持ちになっていた馬鹿な自分を叱咤しまくるのだ。 なんて馬鹿でうぬぼれたヤツなんだろうと。 だいたい、どうしてまた会いに来てしまったのだろうか、と。 退院という言葉は、もう来るなという意味かもしれないのに。   ゼフェルは思いきり頭をかかえこみたい衝動にかられた。 でもそれをここでするわけにはいかない。アンジェリークという女の前で、馬鹿な男としてふるまうことなどゼフェルには到底できないのである。 『よかったな』 考えあぐねいた末、そう書いた。   アンジェリークはまたそれに微笑んで・・・・・ 「でも・・・」 と答えたのだった。   JAZZ 9     勇気が欲しいと思う。 誰にも負けないくらいの勇気がほしいのだ。 ゼフェル。 心の中にはその奇蹟だけ。 彼に出会えるという奇蹟が起こったのなら、もう聴覚を犠牲にしてしまったことなんてどうってことないのだ。 アンジェリークをそこまで恋という病のふちに立たせてしまった男。 ゼフェル   アンジェリークの体全部を使ったって、この大きな感情を表わすことなんてできない。 ゼフェルがしゃべっている。心でいろいろ考えている。 ゆっくりと考えて、小さな言葉をホワイトボードに書くのだ。 むしゃくしゃしているように。イライラしているように。 汚い字で、左手で。 それはもうアンジェリークにとっては奇蹟だったのだ。 目の前に彼がいるということ。   『よかったな』 彼はそういった。 そうじゃない。 そうじゃないの。 アンジェリークは心底恋に溺れ続けていた。 ゼフェルに言ってしまいたい気持ちが山ほどあって、その山は崩れてしまいそうなのだ。 好き。 崩れる山の一つ一つの粒には、そう書いているのだ。 「でも」 アンジェリークはホワイトボードに返事をした。 「でも、聴覚がないので一般道路はあぶないんです。リハビリをしているんですが・・・えっと、それで・・・・」 アンジェリークはゼフェルが切り出してくれるのを願った。 これ以上言ったら、嫌われてしまうかも、と思ったのだ。 けれど言わなければならない。言わなければ、永久に彼とはあえなくなってしまうのだ。 アンジェリークには保険があった。 自分を事故にあわせた、という保険だ。ゼフェルはそれを無視したりはしないだろう。だから。 だから。 お願い。 「てつだって、くれますか?」   ホワイトボードの文字が走った。 元の字を消すこともなく。 『よかったな      わかった』     彼は・・・何を手伝うのか、聞きもしなかった。 JAZZ 10    何をするか、なんてどうでもいい。 ゼフェルはただ・・・・・・・・・・・・ アンジェリークの傍にいたいだけなのだ。 アンジェリーク。 名前を何度も何度も繰り返す。心の中だけで、何度も何度も。 擦り切れてしまうくらいに、つぶやいた。 愛しい名前。愛しい、愛しい。 できるなら、離したくない。けれど自分の思いを告げてしまえば、確実に嫌われてしまう。いや、彼女は嫌いだとは言わないだろう。それでも彼女がゼフェルを受け止めることなどないのだ。 眉間に深い皺が寄る。 黒いどろっとしたモノがゼフェルの胃のあたりをぎゅうぎゅうに締め付けるのだ。 言えない。 ゼフェルの好きだ、はアンジェリークには理解できないだろうから。ゼフェルにすかれても困るだろうから。 それだけはご免だった。心の中だけで嫌われて避けられるなんて死んでも厭だ。自分は責任をとるという形だけでもかまわない。 だから。 だから頼むから。 傍にいさせてくれ。 それが彼の忠実な願いだったのだ。     アンジェリークはゼフェルの返事を聞いて安心したように微笑み、荷物を家に運ぶ手伝いをしてほしいんです、と言った。 それだけか? がっくりと肩の力が抜ける。 まあ、急に一生傍でお世話して下さいなどとこのアンジェリークが言うはずもないのだが、それでもゼフェルにしてみれば小さすぎるお願いだったのだ。 『他には』 ホワイトボードにきゅっきゅっと書いて行く。 「え〜とじゃあ、お買い物に付き合って下さいますか?」 ニコ。 ぐら・・・・ めまいのする感覚だ。ひんやりとしていて、ちょっと気持ちのいいもの。ゾクゾクする。 『わかった』 本当はもっと、と思う。けれど今はこれでいいのだ。これ以上望むことは許されないのかもしれない。いずれは彼女は一人で生きていきたいと思っているのかもしれない。 もしくは。 厭な予感がゼフェルの頬をくすぐった。 男が。   その予感は、的中していたのだ。 残念なことだったけれど。 ゼフェルにとって、アンジェリークに関する一番厭な感情。 嫉妬、という醜い気持ち。 その獰猛な獣が、今まさにカーテンを潜ってゼフェルの背中に降り立とうとしていた。 「アンジェ」 呼んだのはゼフェルではなかった。アンジェリーク自身でもなかった。 ゼフェルが背中を向けているドアの方から聞こえてくるのである。 そして、ドアが開かれた。 その向こうから現われたのは。   嫉妬という名の「男」だったのである。