JAZZ 11   見るからに美男子である。 奇麗に通った鼻筋。ウェーブのかかった緑の髪。鳶色の明るい瞳。 すらっとした・・・ 長身。   男はゼフェルに目もくれてやらないでアンジェリークを見やった。 「アンジェ」 ゼフェルとは違う呼び方をする男。まるでゼフェルをあざけっているような。 クソッ 出会って間もないのだから、この男の方が親密なのは当り前のことなのだ。それはわかっているはずだった。 けれどこの奇妙な形の三角定規は、ブスブスとゼフェルの心臓を刺し続ける。 「あ〜、とアンタ。」 男はゼフェルの方を振り向いた。男はゼフェルを見るとフッ笑ったようにも見えた。 こンの優男めが。 ゼフェルは心のなかで毒づく。いかにも女をたぶらかしていそうな顔なのだ。チャラチャラした感じなのである。 こんなのが・・・いいのか? ゼフェルはつらいという気持ちを隠そうともしないで目でアンジェリークに問う。アンジェリークはただにこにこと笑っているだけである。 「アンタ、ホワイトボード貸してえや?」 そういうと男はゼフェルの手からホワイトボードをすっと抜き取ってしまう。 ゼフェルからは見えない位置で、この男は何事かをアンジェリークに語りかけた。それを彼女は「うん」と答えるだけである。いたたまれない。 「ああ、アンタ。オレな、チャールズ言うんや。よろしゅう。自己紹介、おそなってすまんかったな」 そう言うとチャールズはゼフェルの方を向き直った。 そしてその目が、キラリと光ったのをゼフェルは見逃さなかった。 コイツ・・・・・ 「オレは、ゼフェルだ。」 しかし、チャールズは次の瞬間、ホワイトボードを落としてしまう。 ゼフェルの方に完全にその体を向け・・・・・・ 胸ぐらを掴む! 「チャーリー!!」 向こうでアンジェリークが叫んでいる。ゆっくりとベッドから起き上がろうとしているようだ。 「やめて!」 アンジェリークは何度も叫んだ。けれどチャールズはかまわずゼフェルをそのまま壁へぶつけた。 「アンタか・・・・」 怒りという怒りがすべてゼフェルの目の中へと吸収されていく。けれどゼフェルは睨み返すことなどできないのだ。きっとチャールズの怒りの原因は、アンジェリークの耳を聞こえなくしてしまった自分のせいなのだろうから。 ゼフェルは目をふせた。じっと、チャールズの言葉を待つ。 「アンタ・・・どう責任取る気や!?アンジェをこないな目にあわせて、どう責任とるつもりなんや?アンタ、アンジェの耳が聞こえんことなったらどうなってまうか、知ってんのか!?」 ゼフェルは知らないのだ。何も知らない。この前の会話も、今回の会話も、数えられるくらいしかない。ゼフェルは本当に彼女について何も知らなかった。そんな自分が心底悔しいと思う。 「アンジェはなあ!!・・・・・・歌手なんや」 力なくだらりと言葉がもたげられる。 歌手。 歌を愛し、音楽を愛し。   ゼフェルも音楽を愛してやまなかった。 だからゼフェルはサックスを吹き続けていた。高校生のころからずっと。そして今は小さなバーを巡って生活しているというのに。 アンジェリークも。 ゼフェルは自分にあてはめて考えてみた。 ゾっとする。 すさまじい感覚が心臓を弾き破る。 音楽を愛するものが、これから一生音楽に接することができなくなったら。しかも突然に。   そんなむごいことを、ゼフェルはアンジェリークにしてしまったのである。 心底・・・・・・・ 自分が憎いと思った。 JAZZ 12   チャーリーが。 ゼフェルの胸ぐらを掴んでいる。 「やめて!」 叫んだけれど、チャーリーはその手を離そうとはしなかった。   「アンジェはなあ!!・・・歌手なんや」 その言葉はアンジェリークには届かなかった。 けれど、何を言ったのか、わかってしまった。 アンジェリークが歌手であったことを、ゼフェルに告げてしまったのだと。 ふらっと。 そのまま、その足のまま。 座り込んでしまう。 力が何もなくなってしまって、もう、どうしようもなくて。 チャーリー・・・ 言ってはいけないことを言ってしまったこと。けれどいつかは言わなければならないことだっただろう。 そしてその事実がゼフェルを傷つけることも、覚悟はしていたはずだったけれど。 ゼフェルさん・・・・・・・・ チャーリーはずるっとゼフェルから手を引き剥がした。 ゼフェルの薔薇の目が、枯れてしまっていた。 ああ。 ゼフェルを、傷つけてしまった。 自分の傷だって、もう癒えることなどないというのに、ゼフェルのことが気になってしまうのだ。 ゼフェル。 気にすることなどないと言っても、きっと彼は信じてくれないだろう。 自分がもしそうであったなら、きっと信じない。 でも、信じてほしい。 本当に、自分のことなどどうでもよくなってしまったのだから。 ただ、ゼフェルは何もかも忘れて・・・・ 愕然と。 唇が、乾いた。 自分のことがどうでもいいだけでなく、自分のことを忘れてしまってでも彼に幸せでいてほしいと願う自分がいるのだ。 恋をするはずなどない人間。 彼だって。 自分に恋をすることなどないのだろう。 何で! あぁ、何で!! 何で出会ってしまったの!? 何事もなく、暮らしていくはずだったのに! いつかは誰かと幸せに結婚して、普通に生活するはずだったのに!! 恋に焦がされたアンジェリークという女。 幸せは、もうゼフェルなしでは手に入らないのだ。 悔しい! お願いだから、もう。 苦しめないで 私のことなんて忘れてほしいの。   本当は忘れたいと思っていたのはアンジェリークの方だった。 ゼフェルのことを忘れて、声の限りにこの哀しみを嘆くことができたら! アンジェリークが愛してやまなかった音楽を奪った人間を憎むという生きる希望があったかもしれないのに。その希望が残酷なものだったとしても、アンジェリークはそれでも生きることができたのだろう。けれど、今の彼女はゼフェルを愛することしかできない。音楽を亡くし、ゼフェルを手にいれることこできずに。中途半端に、何もかも失っていくのだ。 「う・・・・・っっ」 アンジェリークは泣き出していた。むせび泣くような悲痛な声だった。 チャーリーはそっとアンジェリークに近づいていく。 そっと、手を差し伸べてやるのだ。 けれど、アンジェリークはそれをはね除ける。 「一人にさせて」 アンジェリークはただ、今はただ、泣きたかった。 JAZZ 13         誰か               助けて                     ダレカ                     助けて!!!!!     こんなに激しく叫んでいるのに。 頭の中には自分の声が響いているのに、誰一人としてアンジェリークを助けることができないのだ。 アンジェリークはただ、届かない思いを胸に、叫び続けるだけ。 叫んで、叫んで、叫んで。 いくつもの言葉たちが枯れていくのを目にして、そしてまた涙を流す。 こんなことがいつまで続くのだろう。 こんなに切ないのにそれを感じることしかできないのだ。 今まで愛してきたものすべてが憎らしい。 すべて、すべて。   絶叫していた。 ずっと、あの事故があった瞬間から。でも抑え付けられていたのだ。   助けてもらえないのに、どうしても叫びたい衝動に、耐えられなくて、涙を流して。ゼフェルという男に出会って、そしてコイをした。   コイ。 そんな言葉で片付けてほしくないシロモノ。 そんな、2文字なんかで表現できるものではないのだ。 まさに、 破れるような、ちぎれるような。   好きなの!!!!!     助けて。 そう叫びたい衝動は、不意にそんな言葉に変わってしまった。 誰もいない病室。誰も存在しない世界。この世が終わってしまったのに、唯一残ってしまった孤独な少女。 そういう風景。 殺風景な白が、今アンジェリークを包んでいる。 「好きなの・・・・・・・」 声に出しても、何も聞こえない。どうしても、どうやっても。 でも、彼に聞こえるのだ。 この病室には今存在していないアンジェリークが欲している彼に。 他の人達にも。 怖いのは、それだったのだ。 人に知られること。自分以外の―――――ゼフェルも含めた――――人間というものに、もう一度自分が触れること。 もう一度、できるの? 誰に対する問いかけでもない。答えはでないのだから。 いや、違うのだ。 アンジェリークはまだ気が付いていないだけなのだ。 答えを決めるのは、彼女自身なのだということに。 彼女しか、いないということに。 JAZZ 14     チャールズとかいう男に病室を追い出されて、もう1時間近くになる。 「ここにおりぃや」 そう言ってあの男はどこかに消えて行った。 そしてこんな病院臭い待合室でゼフェルは座っていなくてはならない。今日は確かに6時からリハーサルがあって、7時30分からは演奏が始まる。 今―――――5時12分。 この腕時計が正しければ、そういうことになる。 ゼフェルはため息を一つつくと、自分の足元を見つめた。   何もない、平坦なベージュのビニール。 自分の影が映っているだけ。他にはなにもない。 けれどゼフェルの耳にはしっかりと聞こえているのだ。 看護婦が患者の名前を呼ぶ声。人々の足音。自動販売機のクーラーの音。   何だよ、チクショウ・・・・・・・。   自分に聞こえているすべてのこの音がアンジェリークには聞こえないのだ。 すべて。音楽だけでなくても、自分の声でさえ。   ゼフェルは硬く目をつぶる。そして開く。そこには相変わらず平坦なベージュがあったけれど、自分のもの以外の影があった。   「アンタ。」 チャールズだ。 ゼフェルが気が付かないうちに近づいていたのだ。 「ちょっと、こっち」 ゼフェルは言われるまま立ち上がった。チャールズはそれを見て、すたすたとゼフェルの前を歩き出す。 「どこ、行くんだ?」 ゼフェルの声は低く、ぎこちない。 「黙れ」 チャールズは心底怒っているよだった。それ以上、ゼフェルはなにも聞くことができなくなってしまう。 おそらく。 この男はアンジェリークと深い繋がりがあるのだろう。 おそらく。 恋人とか、そういう――――――― 心臓が、燃える。 不完全燃焼したそれは、ゼフェルの肺に一酸化炭素を運びこむ。 死にそうな、感覚。目の前に、アンジェリークとそういう関係の男がいるのだ。ゼフェルの心は尋常ではいられない。けれど、どうしようもない。 ゼフェルの目は何となくチャールズの大きな背中を見るのを避けたがっていた。 JAZZ15   連れて行かれた先には、一台の黒い車だった。 チャールズは後部座席のドアを開けようと出てきた運転手を手で制して自らドアを開ける。 ギラっと彼の目が光り、ゼフェルに乗るように指示した。 おとなしくゼフェルはその革の座席についた。 運転席とは隔離された後部座席。 チャールズが乗り込むのに少し時間がかかっていた。たぶん運転主に何らかの指示を与えているのだろう。 彼が後部座席に着いた時、車は走り出していた。           「アンタ・・・・」 先に口を開いたのはチャールズの方だった。 ゼフェルはそれに無言で答えるだけ。 「アンタ・・・知っとったんか?アンジェのこと・・・」 「あ?」 ゼフェルには全くもって意味不明な質問だった。アンジェリークを、事故以前から知っていたのか、というのだ。 「知ってるワケねえだろ」 知っていたら、こんなコトにはならないのだ。この事故が、彼等の出会い。 「・・・それ、ホントか?」 チャールズの目は真実を求めてゼフェルの目の中を彷徨う。その鳶色の目は、ゼフェルのものとは比べ物にならないほど明るい。けれどきっとこの目は本来の明るさではないのだろう。チャールズの目の下の隈がそれを物語っていた。 「ほんとだ。」 ゼフェルはまっすぐにチャールズの目を見詰め替えして答えた。 チャールズが不意に目をそらし、なにもないはずの前方に目をやった。 「そっか。じゃ、偶然ってことやな。」 ゼフェルが怪訝な顔をした。それにきづいたチャールズは手にもっていた鞄の中から書類を出してゼフェルに手渡した。 「なぁんか見たことある顔や、思て、ちょっと調べさせてもらったで。・・・したらアンタも音楽カンケーやろ。ホンマ、ビックリや。アンジェと何か関係があって、ワザとやったんかと思ったわ。スマン、疑って」 「いや」 ゼフェルはそれだけ言うと、窓の外に目をやった。「見たことある顔」ということは、チャールズも音楽関係なのだろうか。いや、そんなことよりも、今日はライブだ。早く準備をしなくてはならないというのに、焦りが全くなくなってしまった。そんなどうでもいいことを頭の隅に追いやる。思うのは、アンジェリークのことだけ。たった、それだけなのだ。 今ごろ。 泣いているのかもしれない。いや、泣いているのだろう。確信に近い感情。泣かせたくなどない。けれど彼女がそれを望むのなら、仕方ないのかもしれない。 でも、できれば。 本当に、できれば。 自分の胸で泣いてほしい。 そのためになら、何だってするというのに。 そんな夢など今まで微塵も見たことがなかった。そんな、下らない夢、と思っていたのに。男の純情なんてモノ、どうでもいいものだったのだ。 アンジェリーク。 窓に、そういう文字が書いてあるような気がする。 窓の外に彼女がいるような気がするのだ。 スピードを出して走っているはずの、この車の外に。 まるで、亡霊のように、彼の脳裏から離れない。着かず、離れずの距離でゼフェルを拘束するのだ。   「ほんなら、しゃあないんやな・・・あれは、ホンマの事故やったんか。」 チャールズもゼフェルが見ているのとは反対側の窓を見ている。ぼんやりとつぶやくような声だった。 「そっか・・・。・・・今日は、ゆっくり眠れそうや。」 そう言って、ゼフェルの方を見る。ゼフェルはチャールズの目を見つめた。チャールズはふっと笑って、そのままうなだれるようにシートに深く座った。 「寝てねえのか?」 ゼフェルは目を閉じたチャールズに向かって言う。チャールズは左目だけを開けた。 「ああ、アンジェが事故におうてから、ずっと寝てないんや。会社も休んどったしな。あ〜、そや、そしたら明日からまた仕事や〜。」 チャールズはそのまま伸びをする。腕が天井についてしまうほど、長い腕。 この腕で、アンジェリークを。 ジリッ 今度はゼフェルの銀の髪の先が焼き切れた。毛先に神経があるかのように、じりじりと熱い。 でも、ゼフェルは何も言えないのである。こんなにアンジェリークのことを愛しているチャールズという男がいるのだ。さっき自分の胸のなかで泣いてほしいと、少しでも思ってしまった自分が馬鹿らしい。自分とアンジェリークとの間にある大きな溝。アンジェリークとチャールズとの隙間。溝と隙間の違いに気が付くと、ゼフェルはぶるっと寒気を感じた。 かなわない。 そんな思いがゼフェルを飲み込む。 ゼフェルは、右で眠りこけるチャールズを少しだけ睨んで、また窓の外のアンジェリークを見つめた。もう、彼にどこに連れていかれているか、なんて、どうでもよくなってしまった。 JAZZ16   泣き疲れて眠っていたようだった。 気が付いた時にはもう、夕方だった。夕日が随分傾いている。 目が重い。目だけでなく、体すべて、心すべて。全身全霊をかけて泣いていたのだろう。   どうしてるかな。 ゼフェルも、チャーリーも。 二人とも、けんかしてないのかな。 あのあとどうなったんだろう? ずっと自分のことしか考えていなかったアンジェリークは、このとき始めて、彼等のことを考えることができるようになっていた。 その時ふと、病室のドアが開いた。看護婦が夕食をもって来たのだ。 アンジェリークの目の前にある白いテーブル。その上に殺風景でおいしくなどない病院の食事が出る。アンジェリークはまた泣き出したい気分になった。何が彼女をそういう気持ちにさせるのか、よくわからなかったけれど。 『食べないの?』 看護婦はさらさらとホワイトボードに文字を書いて行く。 「あ、いただきます」 アンジェリークは微妙に微笑んで、箸をもった。その、ぎこちない手つき。 『泣いてたの』 看護婦はそんなことを言う。今、一番触れてほしくない事実だった。泣きたいのに、「泣いていた」のかと聞かれるのだ。誰も彼女に「泣いていいのよ」とは言ってくれないのである。 アンジェリークの箸が止まる。それからまた、ゆっくりと動き出す。 「ええ、ちょっと、ツラくって」 『そうね、でも、もうちょっとで退院するから、がんばってね」 看護婦は果たしてアンジェリークの本当の「つらさ」をわかっているのだろうか。アンジェリークが辛いと思っているのは、あのリハビリでも、聴覚がなくなってしまったことでもないのだ。本当に辛いのは、ゼフェルを好きでいること。どうしようもないこの感情なのだ。 「はい・・・」 そうして、アンジェリークは箸で摘んだ茄子を口に入れた。 もうこれ以上、何も話したくなどなかった。 JAZZ17   車は何度か止まったり走り出したりしていたが、今度のは目的に着いた、ということなのだろう。 目をつぶっていたチャールズの目が開かれた。 その目が、腕時計に向けられる。 彼はまた伸びをしてゼフェルを見た。 「ついたで」 ゼフェルが目で「わからない」と言うと、チャールズはウインクをする。 「お仕事やろ。クラブに着いたんや。・・・今日はあんたの演奏聞かせてもらうで」 チャールズは運転主が開けたらしいドアから出ていく。ゼフェルはそれにしたがった。 でも、ゼフェルはリハーサルに参加していない。サックスは常にもっているからいいとしても、これでは・・・・・ その思考を遮るように、チャールズがゼフェルの肩を掴んだ。 「ほら、シゴトや仕事。しっかりしぃや」 チャールズはその肩にやった手をぽんっともう一度ゼフェルの肩に置くと、それから入場口に歩いて行った。ゼフェルが入るべき入り口とは違う方向だ。 「おめぇ・・・」 背中を向けたまま、チャールズは立ち止まる。 「おめぇやないで。チャールズ・ウォン。チャーリーや。そう呼んでえな」 ゼフェルはその言葉に大きく驚いた。 だって、その名前は・・・・・・。     この業界と言わず、現在の音楽会を牛耳るスポンサーの名前だったから。今まで何度もその名前を耳にした。そしてその力の強さに圧倒されてきたのだ。 「チャーリー・・・・」 「そや。で、何や?」 「いや、いい」 知りたいことは、粗方知った。本当に知りたいのはアンジェリークと彼の関係だったけれど、今ここで聞いてはいけないような気がした。 「アンジェとオレのカンケーやろ?聞きたいんは」 ゼフェルの赤い目が見開かれる。心のなかを見透かされたような言葉。チャーリーは驚いているゼフェルを見てにやっと笑う。 「アンジェは、オレのモンにするからな」 チャーリーはそう言うと背を向けたまま右手を上げ、ひらひらと振ってそのまま入場口に消えていった。 残されたゼフェルは呆然としたままだった。 今の言葉を反芻する。 『オレのモンにする』 いきなりの結婚宣言だ。チャーリーの想いが本物であるのはわかっていたはずだった。アンジェリークがチャーリーと「普通」の関係ではないのも。 けれど。 やはり、ショックなのだ。 さっきビリビリしていた毛先が、急に枯れていく。 無事にライブを終わらせる自信がなくなってきていた。   もうそろそろリハが終わっているころかもしれない。げっそり痩せたようになってしまったゼフェルはその重い足のままずるずると「関係者以外立ち入り禁止」を潜っていった。 JAZZ 18   客用の通用口に入ったはいいが、間違いだったのに気が付く。 チャーリーはスポンサーなのだ。当然のように演奏者と顔を会わせて、「がんばれ」の一言でもかけてくるものなのだ。 今までそんなことをしたのはほとんどなかったけれど。 その例外は、「アンジェリーク」だった。彼女が歌う夜はリハーサルの時から客席に付着き、本番前には励ましに楽屋に行ったものだった。それ以外の演奏者の所に行ったことなどない。だから彼がスポンサーだということを知らない演奏者だっているくらいなのだ。ただの「アンジェリークのファン」と思われているのが常だ。 でも、彼は自分ではただのファンだとは思っていなかった。その旨も彼女に伝えている。彼がスポンサーであることも、彼が歌手としてだけじゃなく、アンジェリークのことが好きだ、ということも。しかし彼女はその本当の意味を理解できなかったようだった。ただのお友達としての好きだと勘違いしたのだ。けれどその時はチャーリーもそれで満足していた。彼女がチャーリーをスポンサーだと知っても、以前と変わることなく接してくれたし、個人的につきあいをするようにもなった。それが今までは最高の幸せだった。そのためになら、スポンサーとかウォン財閥だとか言う肩書きとか・・・なにもかも捨ててしまってかまわないと思うほど。彼女のリハに遅れるから、と会議をすっぽかしたことだってある。 異常なほど、彼女が好きだった。 好きで好きでたまらなかった。 これから、ゆっくりと。 そう思っていた、矢先の出来事だったのだ。 あの事故。彼女の耳がダメになってしまったというのを聞いたのは、チャーリーが一番初めだった。スポンサーということと、彼女に親族がいないということ。その二つが重なって、チャーリーは彼女の哀しみを誰よりも早く知った。 慰めようと思った。すべての財力を用いてでも、彼女の耳を回復させてやろうと、いくつもの研究所に直々に電話をし、賞金めいたものを賭け、世界有数の研究者を一手に集めた。けれど、耳というデリケートなものを完全に壊してしまった上での回復は時間がかかるとのことだったのだ。 それならば。 いっそ、自分のものに・・・・・   そうして、しまいたかった。それを相談しに、病院に向かった所だったのだ。 あの日、彼女を手にいれようと思っていた。 それなのに。 彼女は、恋する女の目で見ていたのだ。 自分以外の男を。 自分以外なだけじゃなく、アンジェリーク自身の敵である、彼を。 名前をゼフェルと言った。 そして・・・・彼は音楽関係者、ということだった。しかも、自分がらみの、音楽関係者。 アンジェリークは、今年か来年あたりにデビューする予定だった。それだけの実力もあったし、チャーリーが売り込めば、絶対に当たるハズだったのだ。それを恨んでの犯行のように思われた。 けれど・・・・・・・・違ったのだ。 ゼフェルは恋する男の目で、アンジェリークを見ていた。鈍感なアンジェリークはチャーリーのその目にも、ゼフェルのその目にも気付かなかったし、ゼフェルが彼女のその目に気付くことすらもなかったけれど。 まだ、望みがあるのだ。 アンジェリークを手にいれる。デビューしたいのなら、自分と結婚して、耳が治ってからにすればいい。そういう脅迫のような切り札を掲げて、チャーリーはアンジェリークに詰め寄ろうと思っていた。そうでもしなければ、どうしようもない自分の心臓が粉々になりそうだった。こんなに恋こがれて、絶対に手にいれると思っていた女を他の男が持っていこうとするのに、それを黙って見ているなんて、できない。 だから、宣戦布告だ。 そして、入る道を間違えた。今日は打ち合わせがあったから、関係者側の入り口から入らなくてはならなかったはずだったのに、間違えたのだ。 どれだけ彼がその宣戦布告に命をかけたか。 どれほど、アンジェリークを渇望しているか。 どうしても。   「アンジェは・・・オレのモンや・・・・・」 つぶやくと、「関係者立ち入り禁止」を潜っていった。   JAZZ19  side チャーリー   奥に行くにつれて暗くなっていく廊下の向こう側に、ゼフェルが見える。 自分よりも1歩リードしているその体。 アンジェリークとは出会って間もないはずなのに、アンジェリークが恋をした相手。 心底、憎らしいと思う。 アンジェリークの耳を奪った。 アンジェリークすらも、奪おうとしている。 チャーリーは泣きたい気分にかられた。 自分の馬鹿さかげんに頭に来る。 情けない自分。 今まで、彼女を守って、愛していけると信じていた自分があまりにも切ない。 そんなことを叫んだ所で、誰にも通じはしない。 財閥の総帥たるものが、そんなことで弱音を吐いてはいけないのだ。 そう教育されてきたことすべてが、チャーリーの胸を傷つける。 それこそ、えぐるように。 アンジェリークが笑う顔。 アンジェリークが泣いた顔。 アンジェリークが少しすねたような・・・。 そのすべてが走馬灯のようにチャーリーのもとへと帰ってくるのに、 アンジェリークの心はチャーリーのもとへは来てくれないのだ。 一歩も、チャーリーの心の家の敷居をまたいではくれない。   残酷な現実。   知らず、チャーリーの目に涙が溢れていた。 彼はそれをぐっと堪えて歩き続ける。 ゼフェルの背中を追いかけるようにして。 JAZZ 19  sideゼフェル   重苦しい空気が廊下の下のほうで這いずり回っている。 ゼフェルはそれを蹴飛ばしながら歩いていた。 最高に切ないバラードを、最高に切なく演奏できる。 今のゼフェルにできないことなど何一つない。 音楽を好きだという気持ちすらももてあましてしまいそうだった。 この下腹部から芹上がってくるどんよりした風は何だ? どうしてここまでゼフェルを苦しめるのか。 見慣れた廊下。 グレイで、汚らしい廊下。 でも、ゼフェルはここが好きだったはずだ。 美しく飾られたステージよりも好きだったはずだ。 今は、この廊下が憎い。 今の自分を見ているようで、悔しくてたまらない。 チャーリーという男に対する劣等感とか、そういうものが。 どうしようもなくゼフェルの首を締め付ける。 チャーリーが、アンジェリークを好きなのは知っている。 彼女には幸せになってもらいたい。 でも。 自分はどうなる? 彼女がいなくなった自分は、どうなる? 誰かに獲られたら、息もできない。 命掛けで恋をした。   楽屋までもう少しだ。 この気持ちにも、ケリを着けなければならないときがやがてくるだろう。 キリキリと痛む恋を抱えたまま、楽屋のドアは開かれた。   JAZZ 20   チャーリーが入った楽屋はゼフェルのそれとは違っていた。ゼフェルは主演者で、チャーリーはスポンサーなのだ。その格の違いのせいだった。チャーリーは懐かしいようなその室内を見渡す。ここにいつもアンジェリークがいたことを思い出す。アンジェリークは目に見えて特別扱いだったけれど、チャーリーはいつも、デビュー間近だから、と言ってこの部屋に彼女を通していたのだ。 「チャーリー」 懐かしい記憶に思いを馳せていたチャーリーを現実に返らせたのは、シアンの髪の青年だった。名をセイランという。彼はすでにデビューしていて、世界でも有数のピアニストとして活動を続けている。彼の才能を見つけ、デビューに至らせたのは、他でもないチャーリー自身だった。そのために彼等は普通のスポンサーと演奏者以上の仲なのだ。アンジェリークのことも、それぞれの事情も、わかり合った関係なのだ。 当然のように返ってくるはずのチャーリーの笑顔が、今日は見られない。セイランがそのことに気付かないはずなどなかった。 「どうしたのさ?・・・アンジェリークに・・・振られでもしたのかい?」 冗談めいた発言のつもりだった。たぶん、疲れていたせいで、元気がない、くらいのものだろう、と思っていた。セイランも、本気でアンジェリークは彼と結婚するだろうと踏んでいたのだ。彼女が聴覚障害に陥ったことは知らされた。そのことでチャーリーが悩んでいたのも知っていたし、チャーリーはそのためにアンジェリークに結婚を申し込むだろうと推測していたのだ。 セイランは猫だ。 いつも冷静で、平然としていて、驚くなどという言葉からはほど遠い所にいるように見える存在だ。それが彼のカリスマの理由だったはずだった。 けれど、今日は違った。例外が起こったのである。すなわち、セイランでさえも、その冷静な顔を曇らせるほど、チャーリーの様子はおかしかったのである。 「一体・・・・・」 「その通りや」 チャーリーはセイランの目を見ようとしない。いつもならまっすぐに見つめてくるはずのその瞳が曇っている。 「何・・・だって?」 セイランの紺碧の瞳が大きく見開かれた。 「振られたんや、オレ」 セイランの目は一瞬すっと細められ、またいつもの猫セイランに戻っていく。 「違うよ・・・君は何も彼女に告げていないだろう?」 セイランはゆっくりと腕を組む。白い壁にもたれるようにしてチャーリーの返事を待った。 「・・・そやけど・・・」 チャーリーは赤くなった顔を少しだけセイランの方に向ける。セイランはその様子をみてクスリと笑った。すべてを見透かしたような深い青の目が、チャーリーを捕えて離さなかった。 「それなら、振られたとは言えないんだけどね、常識的に。それに、アンジェリークが君を断わるとは思えないけど?君もそう思っていたんじゃないの?」 チャーリーが、今度はその顔をセイランにまっすぐに向ける。恐ろしいほどの隈のできた目が、セイランを射抜く。少しほっとした。彼がアンジェリークを愛しているというのが、どうやら本当のようで、熱のあげかたは尋常ではないというのが事実だと感じたからだ。そんなに愛してくれる相手を、彼女が断わるなどとは到底思えない。チャーリーは幸せになれる。そう信じているのだ。 いじわるな猫は、チャーリーの鋭い目に気付かずに言葉を続ける。 「アンジェリークが他に好きな人ができた、とでも言ったの?」 今の言い方では、まるでチャーリーと恋仲で、アンジェリークが裏切ったような言い種だが、セイランの中ではこれはほとんど事実に近かった。 だから、こんなことを口ばしってしまったのだ。 その言葉が一番チャーリーの胸を刺すとも知らずに。 チャーリーの目から涙が溢れる。 さっき見た、ゼフェルの背中。自分よりも随分小さいようなその背中に負けている自分。その自分を実感した瞬間、情けなくて、つらくて。 「まさか・・・・」 恋に関してかなり鈍感なセイランは、この時はじめてチャーリーが本当にいつもと違うのだ、ということに気付いた。あまりに遅く、そして残酷なことをしてしまった。セイランは壁にもたれたまま、頭を抑えた。どうすればいいのかわからない。どう慰めればいいのか、全くわからなかった。 「アンジェに・・・好きな・・・・っ」 これ以上の言葉は出なかった。もう、ゼフェルの姿を思い出すのはつらいのだ。そして恋をするアンジェリークのあの目を思い出すのも。欲しいものは何でも手にいれてきたチャーリーが、他には何もいらないから、と本気で欲しがったものは、今まさに奪われようとしている。 後に残ったのは嗚咽だけだった。 セイランはその小さく見える体を見つめていた。セイランの目には、哀しみや、同情や、そして少し軽蔑するような色さえ浮かんでいた。 『どうして奪い返さない?君ならできるだろう?』 言ってしまってもいい言葉だった。チャーリーの励みになるかもしれない言葉だったけれど、セイランはそれを飲み込んだ。 言葉には、ワインと同じように時期というものがある。セイランはそれをよくわきまえているつもりだった。だから、彼は今この言葉を言うのは控えたのである。チャーリーが自らそのことに気付くだろうと踏んだための結果だった。 「じゃあ、僕は演奏があるからね・・・」 セイランは「よっ」と壁から体勢を戻す。チャーリーはまだ泣いたままだった。けれどそれにつきあっている暇はないのだ。セイランにはセイランの仕事があるし、それを蹴飛ばしてまで慰めるのを、チャーリーは望まないだろう。それに、今からここには第二スポンサーもやってくる。チャーリーはそのことに気付くだろう。そうすれば、涙も止まる。そういう男なのだ、チャーリーは。果てしなく強い。 セイランは入り口に向かう。 「共演者や・・・」 「え?」 ドアを開けた状態で、セイランはチャーリーを振り返った。チャーリーの目に涙はなかった。少し腫れたような目は、隈のせいで泣いたかどうかなどわからない。チャーリーは鋭い視線でセイランを見つめていた。 「今日、アンタが共演するヤツ・・・それがアンジェが好きな男や」 セイランはふっと微笑んだ。いつものチャーリーが戻ってきたのだ。さっきまでの愚鈍な男に対する軽蔑もすっかり消えていく。残ったのは、彼に対する誇りにも似た感情。セイランは手をひらひらと動かし、そのまま無言で外へ出て行った。