JAZZ 21   肩が随分重たく感じられる。サックスはゼフェルにとって体の一部みたいなものだ。日頃重みを感じるということなどほとんどない。よほど疲れているときか、体調の悪い時だけだ。 ゼフェルはため息を一つつく。 体の中でもやもやとくすぶっているものを出してしまいたかった。 それは全くかなわなかったけれど。 その中で、ずっとくすぶり続けるのだ。 アンジェリークの残像。泣いている彼女と、少し困ったように微笑んでいるような姿。 日差しを浴びてキラキラと輝いていたその金の髪。その緑の瞳。 思い出す度に、心拍数が上がる。脊髄を嘗める冷たい感覚が襲ってくる。 「アンジェ・・・」 ゼフェルは決して呼ぶことができない愛称。チャーリーしか・・・・・・ はっ ゼフェルはふっと現実世界に引き戻された。今日のスポンサーである彼は、今どうしているだろうか、と。考えた所で答えが出るわけではないけれど、とにかくアンジェリーク以外のことを考えていたかった。チャーリーも結局はアンジェリークに繋がっているのだけれど。 そうこうしているうちに、控室のドアがノックされた。 今日はリハーサルなしである。しかも、共演者がかなり売れているせいで、暇がないというので当日以外に顔を合わせたこともない。今日が全くの初対面ということなのだ。 でも、ゼフェルにはそんなことどうでもよかった。 「入るよ」 声をかけてきたのは、その共演者だったけれど、ゼフェルには、本当にどうでもいいことだったのだ。その共演者が誰であろうと。たとえ、アンジェリークとチャーリーの共通の知り合いだったとしても、だ。   ゼフェルの返事も待たずに入ってきたのは、シアンの髪の美青年だった。   JAZZ 22   「入るよ」 言う前から、実はドアを開けていた。ただ、目の前にいる男があまりにも自分に興味を示してくれないから言っただけのこと。 しかし、その一言すらも効果がなかったようだ。今日のパートナーとなるはずの男は、目上のはずの自分に対して全く敬意を示さない。敬意どころか、関心も。そのことが逆にセイランのツボにはまった。 気に入った。 セイランはその真っ赤な唇を少しゆがめて笑う。男がこちらを見ている。その目はどうしようもないほど虚ろだ。 これはいい絵になるな。 「きみが・・・・ゼフェル?」 セイランは後ろ手でドアをバタンとしめると、そのままドアによりかかる。いつものポーズを取って、楽にしているのだ。 「ああ」 それだけ言うと、ゼフェルとやらはサックスの手入れを始めた。セイランはその毒もなければ密もないゼフェルの態度がますます気に入る。セイランの回りにいる人間ときたら、妙にすりよってくるか、意味不明な嫉妬で最悪な態度をあからさまに示してくるヤツラばかりだったのである。その中にあって、ゼフェルは貴重な存在だ。 「アンジェリーク」 ゼフェルの背中がビクっと丸くなる。手に持っていたタオルとサックスを取り落としそうになる。セイランは可笑しくてくすくすと笑い出した。 「おかしいね、君は」 ゼフェルはタオルを下に置くと、サックスの口の部分を取り外した。 「何の用だ?」 ここはチャーリーがスポンサーをしているクラブだ。彼の知り合いが居ても全然おかしくないし、アンジェリークの知り合いが居てもおかしくはない。あのよくしゃべりそうなチャーリーの口から自分の名前が出てきても、全然変ではないのだ。ゼフェルはできるだけ平静を装う。 「君さ・・・・・・」 平静を装うと決めたはずだったのに、それは脆く崩れ去って行った。 次の一言で。 「組まないかい?」   事情が、余計にややこしくなってしまった。 JAZZ 23   要するに。 セイランはゼフェルを利用しようとしているのだ。 初対面の彼と―――第一印象が好いとはいえ――チャーリーを天秤にかけた時、セイランが取るのはやはりチャーリーということになる。しかし、セイランが本当に求めているのは、チャーリーの幸せではない。彼には幸せになってもらいたいが、その前に自分も楽しみたいのだ。 ゼフェルは使える。 芸術家の勘なのか、セイランは心の中で真っ赤な舌を覗かせて思う。 ゼフェルは、アンジェリークを好きかもしれない。 さっき廊下を歩いていた時に何となく思っていたことだったけれど、この部屋に入ってきた時からそれは実感に変わった。 ゼフェルは、チャーリーと同じ空気をまとっていたのだ。恋に狂い、悩むその空気。押し迫ってくるように、感じる。 「どうするの?」 セイランはその腕を解いてゼフェルがサックスのケースを置いている机の前に来る。 椅子に座る。それから、品定めをするように、ゼフェルを見つめる。頬杖をついた状態で。 ゼフェルはうつろな目をしたままだ。 「何言ってやがるんだ?」 心底、怒ったような色が、その真っ赤な目から発進された。その色はセイランのシアンの瞳と混じりあう。 「僕と、組まないかって言ってるんだよ。ああ、演奏のことじゃなくてさ」 ゼフェルもそんなことはわかっている。アンジェリークという単語を出されて「組まないか」と言われたのに、演奏のこと、というのはまず有りえないだろう。ゼフェルは小馬鹿にしたように鼻で笑った。黒い口をサックスに付け直す。 「チャーリーはね、本当にアンジェリークのことが好きだけど、彼等が一緒になることはできないんだ。・・・チャーリーはウォン財閥の跡取りだからね、相応の人と結婚してもらわないと困るんだ。彼は断固として反対してるけど、ま、君が彼女とくっつけば、諦めてくれるだろう。」 ほとんど、嘘だった。ウォン財閥の跡取りであることは確かだったけれど、チャーリーは今まで候補に上がっていた「相応の」お嬢様方をことごとく切っている。今は誰もチャーリーの傍にいないのだ。そのために彼が散々叱られているというのも聞いた。けれど、アンジェリークを愛するのを許してもらえないのなら、財閥などどうでもいい、と宣言したそうだ。有能な跡取りを失うわけにはいかない財閥側も、この一言には折れた。  そんなチャーリーが、ゼフェルがアンジェリークをモノにしたからと言って、ちょっとやそっとで引き下がるとも思えない。  だから、この説明で真実なのは、「チャーリーはアンジェリークが好き」「ウォン財閥の跡取り」ということだけだ。 「何言ってやがんだ?」 「まだ、わからないのかい?」 「話しはわかった。けど、おめー、自分にメリットのないことじゃ、動かねえタイプだろ?何でそんなこと言って来るんだ?」 セイランはさらに心のなかで笑みを増す。思ったよりも利口で、人を見る目のある彼に感心したのだ。 「僕のメリット、ね・・・アンジェリークの声だよ。今は耳が聞こえないかもしれないけど、そのうちアンジェリークは復帰すると思うんだ。その時チャーリーの奥さんになってたんじゃ、歌手業なんてやれないからね。総帥婦人と歌手を両立できるほど器用じゃないだろうし。あの声・・・潰してしまうにはもったいないからね。」 セイランはふっと微笑む。あの繊細な声を思い出したのだ。涼しげでよく通る声をしている。セイランはあの声が大好きだった。何よりも、セイランのピアノと相性がいい。 「そんだけか?」 ゼフェルが尋ねてくる。セイランは当り前だと言わんばかりに大きくうなずいた。 「聞いたこと、ないの?・・・彼女の歌声。・・・今度聞いてみるといいよ・・・・・・・・・・・・・・・・・・??」 セイランはふいにしゃべるのをやめる。 彼女の歌声。 耳が聞こえないこと。 チャーリーが言っていたこと。 ゼフェルという名前。 バイク事故のこと。   ・・・・・・・・・・・   長い沈黙が流れた。 「ゼフェル・・・・・君か・・・」 セイランは負けた。この商談はうまくいかないだろう。ゼフェルはおそらく、あのゼフェルだろう。アンジェリークの聴覚を奪った男。セイランにとって何のメリットもないことをしでかしてくれた男。セイランは可笑しくなって笑い出した。今まで気付かなかった自分がおかしかったのだ。それから、お互いの気持ちに気付かないゼフェルとアンジェリークにも。まあ、あんな事故があったのだから、無理はないとは思うけれど。 「何がだよ・・」 「いや・・・今日は、よろしく」 セイランは素早く席を立つと、ドアを開けて出ていった。 嵐のような素早さだった。 独り残されたゼフェルは呆然とドアの方を見ている。 その向こうでは、どうしようもなくて満面の笑みを称えたセイランが立っていることも知らずに。 JAZZ 24   頭上で音が流れて行く。チャーリーはそれに目もくれずに、ひたすらゼフェルを見つめ続けた。涙を含んだような瞳が睨むようにゼフェルに注がれていた。 たまに大きく息を吸い込む。そして、吐き出す。 一連の、いつものため息なのに、演奏よりもその音の方が耳に痛い。 セイランが弾いている。相変わらずのすばらしい演奏なのだろう。一分の狂いもなく、おしみなく音楽への情熱をその指先から炎のように燃え上がらせている。今のチャーリーには切ない音だったけれど。 ゼフェルのそれに比べれば、今日のセイランは食われている。ゼフェルの痛いほど掠れた音が、そのままダイレクトに胸に来る。耳で聞いてはいけない演奏は、そのまま胸へ、腹へとその鼓動を伝えていくのだ。それはすべてアンジェリークのため。アンジェリークを想うどうしようもなく強い気持ちがそれほどまでにゼフェルに力を与えているのだ。 チャーリーに、そんなことができるだろうか。いや、できるかもしれない。アンジェリークのためなら何でもすると心に誓った。今までそれを実行してきたはずだ。でも、こんなに、なみだが出そうなほど切ない音を聞かされて、自分がまさっているとは正直、答えられないのだ。 ゼフェルよりも、アンジェリークを愛している自身はある。けれど、ゼフェルよりもアンジェリークに愛されている自信なんてさらさらないのだ。 チャーリーは組んでいた足を逆に組み直す。肘をついて、眉間に皺をよせて考えこむような姿勢で、二人の演奏を聞いていた。 さっき交渉してきた男は今日の演奏を聞いているだろうか。だとしたら、おそらくゼフェルもメジャーデビューすることになるだろう。この演奏を聞いてプロとして認めない者などいないだろう。そしてそのことを、アンジェリークがどう思う?ゼフェル自身が、どう思う?おそらく彼は辞退するだろう。けれどアンジェリークは勧める。自分の変わりに、と言って。二人の関係はその時どうなるのだろう。 チャーリーはシミュレーションをそこでストップさせなければならなかった。ゼフェルとアンジェリークが仲良く笑いあっている様子が目に浮かぶから。どうしようもなく黒くて残酷な気持ちがチャーリーのなかでとぐろを巻いているのだ。もし許されるのなら、おそらくチャーリーはアンジェリークをさらって閉じ込めるだろう。世間に知られても隠蔽することなど簡単なのだ。彼にはできる。けれどチャーリーはそれをするにはアンジェリークを深く愛しすぎていた。 そんなに愛しているのに、アンジェリークはそれに応えてくれないのである。 チャーリーは眉間に当てていた手を外して顔を天井に向けた。アンジェリークの笑顔が浮かんだ気がする。 たぶんそろそろ演奏が終わるだろう。それからゼフェルがあのディレクターに捕まって、セイランにファンの女たちが集っていって。チャーリーにはいろんなことを想像する力があった。そしてそれは90パーセント当たっていた。けれど、今はその予想はことごとくはずれてほしい心境なのだ。心に浮かんでは消えていく、辛い想像が、どうか消えてくれるように、と願う。   演奏は、泣くようなゼフェルのファの音で、終わりを告げた。 誰独りとして、立ち上がらない拍手をしない。みんなゼフェルに食われていたのだ。獰猛な獣に食われている。誰もそんなことを予想していなかったような、動物園の柵のなかにいたはずのライオンに食べられたのだ。 チャーリーはふっと息を吐くと、拍手を送った。   その音が、チャーリーの絶叫の替わりだった。   JAZZ 25     セイランのピアノを思い出す。 瞬間の涙。 セイランのピアノはどんな感動する映画よりも涙を誘う。 止めどなく流れる涙ではなく、気が付いたら泣いている。 誰にも涙を気付かれないように、注意しながら。 あともうすこし。 ああ、早く歌いたい。 お願いだから歌わせて。   アンジェリークは目をつぶっていた。何も見えない世界で、ただ独り歌を歌う。この世の中に歌以外が存在するわけがない、と断言するかのように。細くてよく通る声が、会場中に響きわたる。そしてアンジェリークの声も、人の涙を誘った。本人はそれに気付かずにただひたすらに歌い続けるだけなのだけれど。 それを見ていたのはチャーリーだった。 彼はとても優しい。アンジェリークの涙に気付いたのは彼は初めてかもしれない。チャーリーははじめ、演奏が終わった直後にファンたちに紛れてやってきた。スポンサーだとは思いもしなかったけれど、彼にそのことを聞いても驚いただけで、疎遠になるようなことはなかった。チャーリーはいつも優しい。どんなに仕事が忙しくても必ず演奏を聞きにきてくれていた。 それから・・・・・・・・・結婚を、申し込まれた。 うれしいと思ったけれど、そういう目で見ていない彼と、今すぐ結婚はできないと断わった。それでもチャーリーは相変わらず親しく接してくれるのだ。いつも支えていてくれる。   アンジェリークも、やっとチャーリーを男として見はじめていた時。 ゼフェルに会った。   プツっと、まるで音がしたかのようにアンジェリークの緑の目が開かれた。 黒い天井。真っ黒な、平らな世界。 ああ―――ここは病院なんだ、と今さらながらに自覚する。 外を見たら真っ暗だった。おそらく看護婦さんだろう、窓が終っている。 もう夜? ここにいると、時間というものが凝縮して感じられる。どんなに考え事をしても、このながい時間には追い付かない。どんなに眠っても、この冷たい夜は越せないのだ。 ずしん、と音がした。 重たい水の袋を持たされた感じ。   今ごろゼフェルはどうしているだろうか。 アンジェリークは寝返りをうつ。そして、あの真っ赤な目を思いだす。 声を、想像してみる。 少し掠れた声で「アンジェリーク」と・・・・。 もう一度寝返りをうつ。 今度はチャーリーを思いだす。いつも笑っていた彼。本当に申し訳ないことをしてしまった。心配させてしまった。 ゴメンナサイ。 そんなことばが勝手に口から溢れ出た。     もう一度、寝返りをする。 スキ。 勝手に、口から溢れた。 誰に対する言葉かなんて、確認するまでもなかった――― JAZZ 26   「アンジェリーク!!」 叫んで病室に入ってきたのは他でもないゼフェルだった。 アンジェリークは本を読んでいた手を止めてゼフェルを見つめた。その赤い瞳がなにを言うのかを待っていたのだ。 『共演することになった』 「誰が?」 ゼフェルの息はまだ荒い。 ゼフェルは呼吸を整えながらホワイトボードに言葉を重ねていく。 『オレと、お前』 アンジェリークはつい持っていた本を取り落としてしまう。落とすと言っても、自分の腿の上にだったけれど。 「ホント・・・・に?」 ゼフェルは大きくうなずいた。 『退院は、木曜だろ?演奏は来月だ。』 アンジェリークには、嬉しいんだか哀しいんだか、もうよくわからなくなっていた。歌えるかどうか不安で仕方がない。けれど、共演というと、自分が歌えるということを確認してもらったという気がして嬉しいのだ。 「ホントに?」 ゼフェルはもう一度頷いた。自分自身に言い聞かせるように。 『練習は、来週の月曜日からだから。』 そう書くと、ゼフェルはすこし赤くなったように見えた。きっと太陽の明りのせいだろうけれど。 『迎えに行く』 「ホントに?」 それしか、言葉を知らないかのように、それだけをずっとアンジェリークは尋ねつづけるのだ。だって、自信がなかった。アンジェリークの家にゼフェルが迎えに来てくれる。自分をゼフェルが支えてくれる。 ――――あ――――― 目の前を、ちらっと緑のものがよぎった。 チャーリー。 「でも、チャーリーが迎えに来てくれるだろうから―――」 ゼフェルは、義務とか責任とかで迎えに来てくれるのだろう。自分の時間を割いて、この交通事故娘を運んでくれるというのだ。その優しさはうれしいけれど、それにはすがれない。すがってはいけない。いつかは消えてしまう腕なのだ。 それならいっそ、その腕になれなければいい。哀しみも少なくてすむ。 『そうか』 ゼフェルはそうして病室を出ようとした。 あ! アンジェリークの眉が動く。待って、と全身がこわばる。 「ゼフェル!」 ゼフェルが振り返った。何かあったのか、と心底心配そうな目をして。 「アリガトウ」 溢れ出しそうだった言葉を飲み込んで、とりあえず、言う。 スキ―――煙が出そうなこの気持ちを、何とか、飲み込むことに成功したのだった。   けれど、ゼフェル自身はそれに満足がいかなかったようだった。 アンジェリークに近づいてくる。 そして。 JAZZ 27   初めてオンナを抱いたのは、17の時だった。本当にどうでもいいような女を抱いた。あのころ、ゼフェルは恋なんてどんなものかも知らなかったし、知りたいとも思っていなかった。 けれど、今は。 泣き叫んでしまいそうなほど、アンジェリークに恋をしている。どうやったって実らない片思いなのに。 バカらしい。 そう言い切ってしまえたなら、どんなに良かっただろう。どんなに楽に彼女のめんどうを見ることができただろう。けれど現実は甘くはないのだ。どんなに後悔しても時間は戻りはしない。ないても、叫んでも、誰に頼んでも。 やっぱり、神なんていないんだ。 ゼフェルはそう確信した。そして何かを恨んだそれは神というものではなかったはずだ。けれど、誰かを恨みたくて仕方なかったのだ。 胸が痛い。 この胸に当たっている柔らかいものを、ひき千切って、ぐちゃぐちゃにして。それから、それからゼフェルができる残酷なことをすべてしてしまいたい。自分のものにならないのなら。 いっそ。 もう、いっそ。 ゼフェルは――――泣いていた。アンジェリークを抱きしめたまま、涙を止めることができなかった―――       我に帰ったのはいつごろだっただろうか。この腕に抱いている体から力が抜けたころだったと思うけれど、それすらもよくわからなくなっていた。 それでも、ひたすら抱きしめていた。 ゼフェルの涙は止まっている。うつろな視線がアンジェリークの金の髪の上をすべる。 「アンジェ」 アンジェリークがビクっと動いた。 ―――何もしねえよ。 そう思って、もっと強く抱きしめる。言葉では伝わらないのだ。こうするしか、ゼフェルは方法を知らない。 「アンジェ・・・ぉめー、さ・・・・・俺の気持ち知らねえみたいだから、言ってやるよ。・・・・・好きだ。好きだ。好きだ・・・からな。」 意外とスラスラと言葉が出てくる。絶対にちゃんと言えないと思っていた。告白なんてできないと信じていたけれど、相手に聞こえないと思うとどんなことでも言えるのだ。残酷な幸福だった。 ゼフェルはアンジェリークの髪に唇を寄せた。自分が「アンジェ」と言ったことを思いだす。今まで口にしたことのない呼び方。チャーリーにしか許されていなかった呼び名だ。それを――― もっと、ぐっと近づける。何もかも溶けてしまえばいいと―――思った。   JAZZ 28   何が起こっているのか―――本当はわかっていた。抱きしめられている、と。 だけど、気付きたくなかった。 これが男というものなのか、と自分の本能が彼を拒んでしまうかもしれなかったからだ。 そして、彼の胸が動いた。 呼吸をしたみたいだった。 彼がしゃべっているのだと気が付くのに、ずいぶんと時間がかかる。 気付いたころには、もう胸の動きは弱くなっていた。それから、もっと強く抱きしめられる。 ゼフェルの唇が、アンジェリークの髪にうずまった。 キスを。 髪にキスを。   頭が爆発しそうだった。 頭のなかになる文字がすべて他の外国語に変換されたみたいに、もうゼンゼン訳がわからなくなったのだ。 まるで――――ゼフェルがアンジェリークに好きだと、言っているみたいに。     アンジェリークがごそごそと動く。 ゼフェルが急に力を抜いた。その動きにビックリして、アンジェリークは少し力を抜く。お互いわからないことだらけで、なにをしてもびっくりしてしまうのだ。 「ゼ・フェル」 呪文のように。 アンジェリークはその名前を自分の胸に刻み込む。刺青のように、痛みをともなって。 「ゼ・フェル・・・・・・・・・ゼフェルゼフェルぜふぇる」 頭がガンガンする。血が登りすぎているのかもしれない。とにかく、めまいがするのだ。 彼のキスを ほしいと思う。 キスをして。 キスを。 何でもいいから、今はキスをしてほしいの。   その言葉が、声に出ていたことを知っていたのは、ゼフェルだけ、だった。 ゼフェルは唇を寄せる。一瞬迷った。でも。 止められるわけ、なかった。 JAZZ 29   唇は、やっぱり生あたたかかった。 湿っていたし、舌の感触だってあった。 けれどゼフェルは今まで味わったことがないかのように、その唇を貪る。今までキスをしてきたどんな女とも違うキス。ゼフェルからけしかけばければ絶対に反応してくれない舌。息つぎですら、めんどうだった。 このまま死んでしまいたい。 このあと、どうなってしまうんだろう。アンジェリークがどうしてゼフェルのキスを求めたのかわからない。寂しかっただけかもしれない。ただ、何となく。 何となくでキスなんかする女じゃないことぐらいわかっているけれど、それでも不安は募るばかりなのだ。 もし、本当に寂しいだけでキスをせがまれていたなら。 そしたら、自分は二度と味わえないキスを今、この瞬間に味わっているということになるのだ。 絶対、二度と唇を離してやらない、と思った。 窒息死したって、やめたくなかった。   でもアンジェリークの方は違ったのだ。一生懸命息つぎをしようとする。ゼフェルの唇から離れてしまっても、息つぎを繰り返す。ゼフェルは彼女の唇と離れてしまうのなら、息つぎなんて必要ないと思っているのに。 ゼフェルの背中にどしんと重たい石が乗る。 もしかして、やっぱり、という思いだ。 やはり寂しかっただけなのだろうか。それでゼフェルの心臓をわしづかみにしておいて、そのままポイ捨てする気なのだろうか。 石はどんどん重たくなる。 ゼフェルは目を開けられなくて、またアンジェリークにキスをした。強く目をつむる。それからアンジェリークの後ろ頭に腕をまわして抱きしめて。 何も見ない、何も聞こえない。 感じるのはアンジェリークだけ。その体温だとか髪の感触だとか、唇の、それからその奥の―――。   アンジェリークはついに行動にうつした。 彼女はゼフェルの胸をつっぱってキスをやめさせたのだ。 あまりにも苦しいキスだった。身体的にも、精神的にも。 あの、ゼフェルとキスをするということが、これまで苦しいものだとは思ってもみなかった。いや、キスをすることなどないと思っていたのに。 「ゼ・フェル」 また呪文が発動したようだった。 でも何のための呪文かなんて、本人にもわからない。ただ、名前を言っていたいだけ。その傍にいるということを実感したいだけなのだ。 「アンジェ」 囁いても、アンジェリークには伝わらない。彼が、チャーリー以外には許されていない呼び名を使っていたとしても、アンジェリークはそれを知らないのだ。 ゼフェルは自分がアンジェリークのことが好きだ、と、大好きだと伝えたいだけだった。もう、振られてもかまわないと思う。振られるのはわかっているのだ。振られて、自分がズタボロになってしまうことぐらいわかっていた。もう立ち直れないかもしれない、と思う。でも、それでも。 アンジェ   アンジェ!!   ゼフェルはぎゅっとアンジェリークを抱きしめる。ぎゅっと、いきがつまるくらいに、肺が心臓が痛くなるまで。 アンジェリークがもがいても、痛いといっても離すことなんかできなかった。ゼフェルは我がままな男だ。いつも自分のためだけに生きてきた。だから、どうやってアンジェリークに接したらいいのかなんて全くわからない。未知の領域なのだ。そして、ゼフェルがアンジェリークの感触に酔っているころ、アンジェリークが声を出した。 ゼフェルは、一度目はそのことに気付かなかった。 本当に小さな声だった。 聞こえなくてもべつにかまわないといいたげな引っ込みじあんな声。 でも、ゼフェルの本能は聴覚というものを今だ持っていたのだ。 聞き漏らすことなく、二度目のそれは、聞いてしまっていた。 JAZZ 30   「・・・・・・・」   世界一、好き。 どうしても、彼がどんな人間でも、好き。 どうしてここまで好きになれるのだろう、どうして。 どうしてこんな出会い方をしてしまったんだろう。 もっと普通に出会っていたら、もっと幸せだったかもしれないのに。 こんなに苦しまなくてもよかったかもしれないのに! 「ゼフェル!」 叫んだ。 心のそこから叫んだ。 息つぎの一瞬の間に、空気を切り裂いた。 その、白い 音。   白の中の、白の音。 何にも聞こえない世界に、風がやってきた。   「好き」 言ったのは、これだけだった。これしか言えなかった。   これ以上必要ないのだ。それを言うたけだけに、今のアンジェリークは存在していた。 断わられても、もうこれ以上キスをしてもらえなくても、それでも、何でもいいから、好きだと言いたかった。 こんなにも誰かを好きになったことなんてない。今まで好きな人はたくさんいた。お父さんもお母さんも、もう死んでしまったけれど、今でも好きだ。 チャーリーだって。 すごく好き。 でも、ゼフェルの好きはすごく好きなんかでは表現できないものなのだ。 恋に色がある。アンジェリークにだけ聞こえる音がある。それは心臓の音だったり、哀しい涙の感覚だったりした。なにもかも、アンジェリークが今まで持っていなかったような野性的な感覚がすべて集中してゼフェルに向かっていく。 どうしても。   「好きなの」 叫んでいた。 ゼフェルの心臓の動きが止まったかと思った。その体が一気に熱くなったような気がする。でもそれはゼフェルの体が熱くなったわけではなくて、アンジェリークの血の気が一気にひいただけだったけれど。とにかく、すごく熱いのだ。   ゼフェルの腕が、アンジェリークの頭から離れていく。 あ   終わってしまったの?   ゼフェルは体を離した。 そのまま、アンジェリークの体温を奪ったまま、体のすべての部分が離されていく。 ひんやりした空気が二人の間に流れた。   アンジェリークはぽろぽろと涙をながした。 告白する時には全然考えてもいなかった、哀しいとかいう感覚がアンジェリークのなかによみがえる。     事故にあって、彼に出会って、すぐに恋をした。本当に恋をして間もない。 彼に出会って間もない女が急にこんなことを言い出して、彼がうけとめてくれるなんて、そんなことあるわけがないのに、自己満足のために告白を。 それだけ好きだったのに。 アンジェリークの恋が一気に色褪せていく。 切ないセピアの写真は、そのまま薄汚れたただの古写真へと変わってしまう。 待って。 そのまま、動かないで お願いだから、時間が     戻ってくれればいいのに。 どんなに後悔したって、時間が戻らないことぐらい知ってる。 アンジェリークの祈りで時間が戻るのなら、彼女の両親だって今ごろ元気に生活しているはずだったのだ。 時間は戻らないのだ。 それから、この離れてしまった体も。 どうしてでも、そばにあってほしいと思った体が引き剥がされて。   時間が!!!!!!   目からこぼれた涙だって、時間を戻しては、くれなかった。