MIND EXPRESS1   ゼフェル。 彼は大変不器用な男だった。 手先は器用だったのだが、如何せん、性格が。 そのくせ彼は高校教師なんかやっていたのだ。 生徒からの評判はかんばしくなく(顔だけ見ればオッケーだった生徒も後々彼の授業を受ければ速攻で落選だった)、先生同士でも仲のいいのはごく少数。ほとんどの先生は口をきかない。 そういう珍しい英語教師、だったのだ。   はっきり言って、戸惑った。 右も左もわからない、とはまさにこのこと。 アンジェリークが教師という生活を始めて、やっと今日で一日目。 面接でやって来た時は工事前だった受け付けが、きれいさっぱり なくなっているのだ。   困った。 受け付けの場所は工事のために移動されたらしい。 アンジェリークはひたすら途方に暮れる。   ひーん。 まるでそんな顔をして、元受け付けの前にぼーっと突っ立っていた。     「おい。」 ビクゥ。 アンジェリークは背筋をそば立たせてシャキンっと立つ。 「おい。」 もう一度声がする。 男の人の声だ。 女の人なら、「おい」なんては声をかけてこないだろうけど。 「はっ」 「い」と言えなかった。口がこわばって、横に開こうとしないのだ。 「何してんだ?」 男がどんどん近づいてくる。 ひぃっ。 アンジェリークはまたしても背筋をキチンと延ばした。 こんな身も知らない場所で、女子高のはずの、この学校で、きっと先生のはずの男の人が、「おい」なんて呼び方をして近づいてくるのだ。 「はっはっ・・・」 はい、が言えなくて、何だか妙な言葉を繰り返す。 後ろから近づいてきた男がアンジェリークの前に回る。 身長は・・・朝子より15cmくらい高いだろうか。すなわち、175cmくらい。体系は普通。 しかし。 体育のセンセ・・・じゃ、ないよね? あるはずはなかった。 体育教師と言えば、ジャージと相場は決まっている。 彼の姿は、ジーパン、ポロシャツ。 絶対、違う。   「どうしたんだ?」 「みっっ道っっにっ・・・ま」 「迷ったか。」 ふふん。 彼はそういう風に笑った。 薄い唇の右端だけ、少し上げて。 ふふん、と。 かなり嫌味な笑い方だったかもしれない。 しかし、彼女にそんなことを考える余裕はないのだ。 時刻はもう、朝礼の始まる時間。 初日から遅刻して行くわけにはいかないのだ。 急がねば。 「職員室」 一言だけ言って、彼は右の方へと進み出した。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ MIND EXPRESS2   とぼとぼと着いて来る足があんまり遅いので、ゼフェルはイライラした。 おせぇ。 毒付いて舌うちをする。 工事中の廊下に嫌に響く舌打ちだった。 後ろでビクっとした気配がある。 チッ ゼフェルはまた舌打ちをした。 今度は心の中だけでだったけれども。ともあれ、ゼフェルは彼女のトロくさい歩調に合わさざるを得なかったのだ。   一方アンジェリークの方はビビっていた。 「職員室」とだけつぶやかれて、舌打ちをされて、わざとらしくゆっくり歩く彼が、悪魔か何かのように思われた。 ひーぃん。 帰りたいよぅ。 意気揚々、とまで行かないものの、ある程度は教師生活の夢を抱いていたにも関わらず、いきなりコレでは、意気深長になるってものだ。 だけど。 聞いてみなくちゃ。 アンジェリークはビビりまくる心臓を両手で押し止めて、口を開く。 「あのっ」 「・・・」 何だ?・・・くらい。 聞いてくれたって・・・ 「何だ?」 あっと思う。 まるで心を読まれたような気がしたのだ。 怖くなって、とたんに口を継ぐんでしまう。 「何だ?ハッキリ・・・」 そう言いながら、彼は右に曲がった。 つられてアンジェリークも右に曲がる。 「あっ」 悲鳴のような高い声が上がったかと思ったら、彼女はその場に崩れ落ちそうになる。 「おっっ」 ゼフェルはゼフェルで、一瞬のスキをついてまでこけようとする彼女を片手で受け止める。 「ったく・・・」 小声で言ったはずなのに、声は大きく響いてしまう。 「すみません」 まぁ・・・。 ゼフェルは微かに残った感触を思い出す。 まぁ・・悪くは・・ねぇけど・・・。 しかし、さらに次の瞬間、そんなことを思ってしまった自分を恥じる。   「あの・・・」 さっきの問いの続きが、今やっとやってきた。ゼフェルは無言のままである。 「あの、私、新任の・・・」 「知ってるぜ。」 今朝の職員会議で聞いたから。その言葉は自分のなかで消化してしまって。 「そうですか。」 本当は。聞こうと思っていたのだ。 私はアンジェリークです。あなたは何というのですか。と。 せっかく、だったのに・・・。   「オレは・・・ゼフェル、だ。」 「あっあのっ」 彼の真っ赤でちょっと吊り目がちな瞳がまっすぐにアンジェリークを見つめた。 「何だよ。」 文句あっか。 それくらいの勢いを持って、ゼフェルはアンジェリークに食ってかかる。文句なんてあるはずもなく。それどころか、自分の心の中を見透かしたように、彼は答えだけをポンポンと言ってくるのだ。 「あの・・・担当は・・・。」 「どっちの。」 ここでなら、普通は、「あなたの担当ですか、私の担当ですか」と聞くものだ。だけど彼は極力、必要最小限に発言を止める人だ。必要最小限どころか、必要なことさえも言わないことを、彼女は後に知ることとなるのだが。 「あ、先生のです。」 「あぁ・・・英語。」 そんなカンジじゃないけど・・・・う〜ん、でも、言われてば・・・・いや、でも、顔はゼッタイ、理系・・・なのに・・・。 アンジェリークはゼフェルの観察を続ける。 この学校では結構モテるんじゃないだろうか? そんなことを思った瞬間だった。 ゼフェルがアンジェリークの視線を見つける。その歩みはピタリと止まっていて、ただアンジェリークを見るという行動に専念してしまっていたのだ。 アンジェリークは見つめられはじめてからずっと下を向いていたけれど、気配がこっちに意識があるのだと告げている。 マズい・・話すことが・・・ない。     そう思ったら、職員室に入ってすぐの所だったようだ。何かの敷居をまたいだのがわかった。ゼフェルが歩くと、自分の足も勝手に歩きだしていたようだ。   「ついたぜ。」 そう言われてアンジェリークは初めて顔を上げた。 肩口までのフワフワの天然パーマが、ふっと揺れる。 ゼフェルはそれだけ告げるとフイと奥にいってしまう。 「あっ」 私は、どこに・・・・?   「おい。」 アンジェリークの目が輝いた。 ヤマアラシのような髪をした彼が、また戻ってきてくれたのだ。 「あ・・・」 優しい。 「チッ」 そしてまた、薄情にも、ゼフェルの口はそんな音を紡ぎ出したのだ。この「チッ」は何だろう?照れかしら?アンジェリークは彼の声を自分なりに分析してみる。本当の答えは出されるわけではなかったけれど。 だけれど。 ゼフェルは態度と言うことの全く逆の人間なのだ。 アンジェリークは何となくわかってしまった。 元受け付けで声をかけてくれた優しさに触れて。気付かなかったけれど、ホントはきっと、もっとずっと、優しい。 まだわからないことだらけだけれど、彼に聞けばすべて問題は解決するような、そんな気がしてきたのだ。 「おめーの席は・・・」 ゼフェルはピッとプリントを手渡す。さっきこれを取りに行ってきてくれたに違いない。決して目を合わせようとせずに、アンジェリークに手渡すのだ。 「ありがとうございます。」 そして、彼はまたフイと向こうを向いてしまう。 だけど。 席はわかった。 奥から二番目の・・・・。   彼の 隣。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ MIND EXPRESS3 とりあえず校内を回ってみようと思った。さっきみたいに右も左もわからない状態で、また、彼か、彼のように優しい人が助けてくれるとは限らないから。自分の力でやっていきたい。これから長い教師生活が始まる。だから。自分はめげないでそれをやり遂げたいから、一刻でも早く自立したい、と思ったのだ。 だけど。 本当に右も左もわからないと・・・・...。 気持ちが下がって下がって、仕方がない。 「あの・・・」 隣の席に、とりあえず声をかけてみる。 彼は無心に名簿を見つめていた。 時々、「チッ」とか何とかいいながら。 「あの?」 二度目のあの、はもうちょっと大きく言ってみる。舌打ちの王様に、こっちを見てもらうために。 「何だよ。」  チッ お得意の舌打ちが出ても、あんまり気にはならなかった。別に、本気で怒って言っているわけではにと、わかってしまったから。 「すいません、校内の地図とか、ありませんか?」 ニコッ 小首をかしげて、肩から少し髪が落ちる。ゼフェルはその様子もかかさず見ていた。 「あのよぉ。」 「何でしょう?」 ニコニコッ 「・・・髪・・・。」 かみ? 「校則・・・違反してるぜ。」 かみ? 校則? 「え?」 チッ またしても、彼は舌打ちをする。 そして、席を立った。立ったというか、半立ちして、山積みの教科書のなかに埋もれたプリントを取ったのだ。 ・・・ 無言で手渡し。 彼の大好きな攻撃だ。 アンジェリークはそれをまた無言で受け取るだけだ。そして、無言でそれに目を通す。 「・・・・あ・・」 困った。ある箇所に目が行った瞬間、一気に、困ったと思う。 校則は講師用のものまで用意されていたのだ。その中にも、髪形についての指定も、キッチリあるのだ。 『肩より下の髪は三つ編みにするか、結ぶこと』 「フザけた学校だよな」 別に同意は求めていないのだろうけど。「そうですね」とは答えられない。だけど反論ももちろんできない。アンジェリークはただただしょぼーん、となるだけだ。 ゴムがないのだ。髪を止めるのには、バレッダか、ゴムが一番だ。しかし、彼女の髪はバレッダで止まるようなおとなしさは持ち合わせていない。大体、バレッダを持っていなかったが。 ああ、困った・・・ 顔に、どんどんどんどんそれがにじみ出てくる。 たまらず、ゼフェルは笑った。 また、口の端だけで、ふふん、と。 アンジェリークは真っ赤になって顔を上げる。また、あっと思ったのだ。意外と、おもしろい人なのかも。そんな気持ちが、言葉では言えないけれど、そういう感情が沸き上がってきたのだ。 あれ? 見つめていたプリントに、妙なことがかいてある。『講師はジャージもしくはスーツ、セーターにスラックスなどの服そうであること』。 何これ? 「な、フザけた学校だろう?」 アンジェリークは彼の爪先から順に見ていった。 ジーパン。 ポロシャツ。 スーツ? ジャージ?? スラックスにセーター??? 「それって・・・」 「な?」 彼はそうしていつまでも肯定の返事を待つのだ。ふふん、と笑った口のままで。 アンジェリークはとたんに無言になってしまう。 なんて言うか・・この人って・・・・   ふふふっ アンジェリークの口からそういう形が生みだされる。 ゼフェルはそれに目を見張った。 あ・・・。 ジンとした、何だか不思議な感情は、少しずつ彼を飲み込もうとしている。 どうしたものか。 「あ・・・」 ゼフェルは変な声を出しながら立ち上がった。この感情から、逃げるために。別にイヤな感覚ではなかったけれど、どこかで、ダメだと喚く自分がいたのだ。こんな、と騒ぐ自分が。 ゼフェルはとりあえず校長室に一番近い棚からファイルを取り出す。 非常口の解説のプリントを抜き取って、コピーする。プリントを元に戻す。席にかえる。 全行程、1分くらいだったのだ。 すばらしく早い。足も早いが、やることがテキパキとしていた。 アンジェリークはまた何となく違和感を感じる。 英語っていうよりは・・・数学?化学? ・・・ 考えているアンジェリークの目の前に非常口のプリントが突き出される。 「ありがとうございます。」 また小首をかしげて。髪がバラけたことで、また彼女は少しションボリしてしまう。 ・・・ そしてまた。 彼は何かをアンジェリークの前に突き出したのだ。 それはゴムだった。ピンクの、あまりにドきつい蛍光の。彼にはあまりにも不釣り合いな。 でも。 「・・・やるよ。」 たぶん生徒から没収したものなのだろう。この学校では紺・黒・こげ茶以外のゴムは禁止だ。自分は校則違反をしているくせに、生徒からはちゃっかりゴムをハンティングしてきたらしい。 アンジェリークはそれをていねいに受け取った。 「ありがとう・・・ございます。」 優しいと感じるのは、こんな時。この人は、きっとイイ人。きっと、とっても優しいのに、めんどくさがりだから、それを表に出さないだけ。心が不器用なだけ。 そして、彼は、今度はフンと鼻をならした。 別に・・・ そんな声が聞こえそうなその瞬間で、 チッ またしても舌打ちを繰り返すのだ。 照れている彼が、すごく、素敵に見えた。 「ありがとう、ございます。」 アンジェリークはさっそく席を立つ。 1限目はH.Rだ。その次は体育館で始業式だ。急がなくては。1時間で、校内を見てまわろう。できるだけ、たくさん。 「では」 そう言って椅子を机の中にいれようとした瞬間。 「オレは・・・2Aだから・・・」 何かあったら、いつでも来い。 ゼフェルの言葉に還元して。 「はい!」 アンジェリークは元気よく答えるのだ。 そうして、てってってっと職員室の入り口まで小走りで。 くるっと振り向いて、ぺこっとおじぎをして。 「失礼しました」 と。 生徒のような挨拶をして、職員室を後にしたのだ。 あとには、照れまくりのゼフェルが取り残されていて。 どうしようもなく、赤い顔をしていたのだった。   ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ MIND EXPRESS4 何はともあれ。 音楽室までは来た。 広くて、何かの講堂みたいな音楽室。ピアノは大きくて、きれい。 あ・・・ 弾いてみようかな? そういう感情がわきあがったのだ。 彼女は音楽教師だ。大学ではピアノ専攻だった。弾くことなんて、お手のもの。 早速ピアノの椅子をひく。 ぎっ 大きな音がこだまして、広い室内に響きわたる。 まるで、ピアノの発表会の時のような。 そんなに緊張しない彼女は、その不思議な静けさが大好きだった。 誰もが、わたしを見ているけれど、本当に欲しているのはわたしではなく、ピアノ。わたしを見てくれているのは、両親くらいのものなのだ。だから、緊張はしなかった。 またぎっと音をさせてピアノの蓋をあける。赤いビロードのような布を取る。たたんで、ピアノの端へ置く。アンジェリークの白くて細い指が、つやつやの鍵盤の触れた瞬間。 アンジェリークにひやっとした感覚が広がった。 ポ――・・・・ン。 澄みきった音が染み込んでくる。 続けて弾く。 簡単で、大好きな曲。 『カノン』 心が洗われる音楽。 いつまでも、いつまでもアンジェリークは引き続けた。 もっとたくさん見てまわるところがあるなんて、全然気にならなくて。そんなこと、忘れてしまっていた。   だからだった。     だから、彼にも気付かなかったのだ。 そして彼も、自分が彼女をじっと見つめていることに、気付かなかったのだ。 ずーっと続く「カノン」の響きに聞きいっていて。「カノン」を弾く彼女の幸せな横顔に見入っていて。   最後の拍子が終わる。 しばらく、彼女は動かなかった。 最後の、最後の、本当に最後の・・ン。という響きを聞き終わるまで、彼女は決して動かなかった。 それなのに、彼は自分に気付いたのだ。自分が今、とっても恥ずかしいことをしたのだと、気付いたのだ。そしてそこから逃げようとした。また、ジンとする感触がゼフェルの胸を撫でたから。 ガタ こういう時に限って、いらない音が入ってくるのだ。 アンジェリークの目が、ゼフェルのそれと、重なる。 見る見るうちに、アンジェリークの顔が微笑みでいっぱいになっていく。 「来てらっしゃったんですか?声、かけて下さればよかったのに。」 ・・・ ゼフェルは無言を通した。恥ずかしい現場を目撃された上、声をかければよかったのになどと提案されては、たまったものではなかった。 「・・・どう・・・でした?」 ちょっと気弱で。でも、ちょっとは自信ありげで。 そんな声が、ゼフェルに投げかけられる。 「・・オレには・・・わからねえよ。」 それしか、ゼフェルは声にできない。 きれいだった、なんて、口が裂けてもいえないのだ、この男は。 心のなかでは、すごく、きれいだった、と、そう思っていても。背筋をゾクリとさせるものが、体の中で渦をまいていたとしても。 「そうですか」 ちょっと、しょぼーん。   ゼフェルは、いたたまれない気分だった。自分の一言で、彼女を傷つけた。そんなこと、日常ではよくあることだったのだ。人を傷つけるなんて、一日一回は。そんなことがない日の方がおかしかった。だけど。 だけど、彼女は傷つけてはいけない。 そんな思いが、ゼフェルの心の中をうめつくしていく。 いまさらだけど。 ゼフェルは自分がアンジェリークの惚れていることに、この時気付いたのだ。受け付けの前で途方にくれている姿を見た時から、ずっと。 好きというには、まだ程遠いけど。だけど、芽はすぐに伸びることだろう。成長の早い芽はすぐに蕾になることだろう。 だけど。 今の彼には、蕾を花にする自身なんて、全然なかった。 今日、この瞬間でさえ、傷つけているというのに、そんな自信、持てるはずなかったのだ。 だけど。 気付くということは、とても重要で。 ゼフェルはこれでも大人だったから、そのことはすごくよくわかっていたのだ。 だから、不器用だろうと、何だろうと・・・・。 彼女に、フンと笑ってあげられたのだ。 その不器用さがわからなければ、ただの皮肉にしか思われないだろうけど。だけど彼女はわかってくれていた。 これは、皮肉なんかじゃないのだ、と。これは、ただ、他の人が笑うのと、同じなのだ、と。自分に、微笑んでくれているのだと。 そうして彼女もこの蕾をみにつけることとなったのだ。彼のフンに、幸せを感じた自分 気が付いたのだ。 お互いの蕾は、まだまだ内に隠したままで。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ MIND EXPRESS5   結局始業式は二人で一緒に行くことになってしまった。 落ちつかない。 何を話せばいいのか。どうしようどうしよう。   でも、今さらといえば今さらである。さっきまで一緒にいたのだ。ほとんど会話をかわさずに、同じ空気を吸っていた。 だけど。 それとこれとはまた違うのだ。 自分の気持ちに気が付いてしまった後では、どうしても心臓が言うことを聞かないのだ。まるで中学生みたいだ。 チッ 表に出ない舌打ちが、もう4回繰り返された。 全く役立たずの口から、いくらやっても無意味な舌打ちばかりが飛び出ようとするのだ。ゼフェルはいまいましくなって、また舌打ちをする。 「あの。」 びくっとゼフェルの肩がふるえた。歩くスピードは衰えなかったが、アンジェリークの方へと向けなければならない首の運動がずいぶんと鈍くなっていた。 「H.R、だったんじゃないんですか?」 あっ ゼフェルの口からぽろっと言葉が飛び出そうになった。必死で堪えて、表沙汰にはならなかったけれど。 「・・・オレは・・・副担任だから・・・」 別に用はねぇし。 ゼフェルの言葉に還元すればそんな声がその唇から聞こえてきたはずであったのだが。 「出なくてよかったんですか。」 役立たずの彼の口の変わりに、アンジェリークの口は自分の仕事以上の働きをしてくれている。 だけど。別に、暇だったわけではないのだ。 ただ、どうしてもアンジェリークのことが気になった。 何にもない所でただぬぼーっとつっ立ってたって、彼女なら全然おかしくないのだ。道に迷って途方にくれて、でも邪魔したくないからどこかのクラスに入っていったりはできない、そういう性格のような気がしたのだ。 だから、何度か廊下を覗いてみた。アンジェリークが廊下でつっ立って、道がわからなくなって途方にくれていないだろか。 だけどその姿は見えなかった。 ついに限界がやってきて、ゼフェルはクラスを出たのだ。別に気にする生徒はいない。この気ままな男がどこかへ消えてしまうことなんて日常茶飯時だったから。そういう噂は彼に初めて教えられる生徒たちにだって拡がっていたのだから。そうして、ゼフェルは駆け出していた。職員室の前を通って、階段を登って。 まるで、なにかにひっぱられるようにして音楽室まで来ていたのだ。彼は彼女が音楽教師であることを知っていたし、たぶん音楽室だって見てみたがるだろうとは予測できた。でも、そのときの彼には、そんな思考能力なんてなかったのだ。ただやみくもに一番上の階まで登ろうとしていただけなのだ。 うー。 自分の行動を思い出してゼフェルは一人で赤面する。アンジェリークはもう大人だし、地図もあるのだから、迷ったりなんかしないことくらいわかってもよかったはずなのに。何で自分はこんな所で二人で歩いているのか。 あー、クソッ 舌打ちの変わりにやってくるのは舌打ちに勝るとも劣らない汚い言葉。 しゃべりたいことはたくさんあるのに、どうしてこう、うまく言えないのだろう。もどかしい思いでゼフェルの心はかき回される。 わかって・・・ねえよな? 確認するように、ちらっとアンジェリークの横顔を見る。 白い肌だった。朝の光りに照らされて、その長い睫と、とめきれなかった横髪の先端が光っている。優しい風が吹いて、アンジェリークの横顔を直撃する。その風にうっとりと目を細めて、後れ毛を耳にかけるのだ。 やわらかい匂いがした。 あー、くそ。 またしてもそんな言葉が口をついて出そうになるのだ。 ゼフェルは拳を硬く握ってどうにかこの熱くなった気持ちに水をぶっかけなくてはならなかったのだ。 「ああ、ここですか?」 真剣に考え事をしていたゼフェルの耳にのほほ〜んとした声がかけられた。 「ああ」 もうちょっと。 一緒にいたかっのに。 そう思っても、このチャチな口はそんなことは言ってくれない。 だから仕方なく、アンジェリークを体育館に先導するのだ。 ここで靴を脱げ、靴は手に持て、教師はここに立って話しを聞くんだ。 そんな説明はしなかった。できなかった。 口を開けば、「チッ」とか「クソ」とか言ってしまうのだ。 だからゼフェルは終始無言だった。アンジェリークはそれに無言でついて来ていた。 後ろの方で教師陣がゼフェルがアンジェリークを連れて来たことに尋常ではない関心を抱いていることなど、微塵も知ることなく。 | ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ MIND EXPRESS 6 朝礼が終わり、授業もようやく始まるというので、ゼフェルは少しほっとしていた。 しばらく彼女のことを考えなくてすむ、と思ったからだ。 だけどそれが大間違いだと気付くのにそう時間はかからない。 だって、授業も授業じゃないからだ。どのクラスもあーだこーだ言って全然「授業」ではないのだ。これは女子高特有なのか、 「先生、年はいくつですか?」 「どこに住んでるんですか?」 「彼女いるんですか?」 こんなんばっかりだ。折角テンポよく授業を――――これは単にアンジェリークのことを考えられなくするためにさっきの空時間に、怠慢な彼には珍しく、一生懸命予習をしてきたのが原因だったが――――と思っていたゼフェルにはかなりヘビーな授業と生徒たちだったのだ。しかも教師というのは何クラスも回るわけで。必然的に同じ質問を何度も何度も。つらいったらなかった。 「先生、年・・・」 「25だ。」 知ってるだろ。 ぎっとにらむようにして、尋ねてきた生徒に牙をむく。 何せここの担当は初めてではないのだ。ただ、やっと2年目で、彼にうけもたれるのが初めてという生徒が数多くいたのだが。 まあ、年齢についての質問は、いいのだ。別に戸惑うこともないし、嘘をつくわけでもない。二番目の質問もまたしかり。彼は校内の教師専用の寮に住んでいるのだ。 しかし問題はその次だ。 意味もなく、身構える。 「先生、彼女いるんですか?」 来たっ チッ 「いねー。」 キャーとか何とか。 女ならでは黄色い歓声。 何が、キャー、だ。 クソ そう。それどころではなかったのだ。ゼフェルは、目論んでいた授業のテンポより、もっともっとスムーズにアンジェリークに恋をしていた。子供じゃないから、自覚症状がある。だから、こういう質問は、一番、全くもってヘビーなのだ。昔やっていた黒猫ヤマトの宅急便のバイトのように、ゼフェルの胸に重い荷物を抱えさせるのだ。しかも、重量オーバーの。 だからゼフェルにはつらくってしかたがなかった。 授業で憂さ晴らし、どころか授業で妄想、となってしまっていたのだ。 これじゃだめだ。 チッ またしても汚い言葉ばかりが口を割る。 どうしてこう、女ってのは・・・。 しかし、アンジェリークも女だ。   あ? そこでゼフェルはふと不安になる。 アンジェリークにオトコが?? ない、とは思うけど。そう思いたいけど、全然不確かなもので、ゼフェルはどんどん不安をつのらせる。 「・・・先生、怖い。」 ボソっと女子生徒が言った。ゼフェルはあからさまに不機嫌面をしていたのだ。 名前を何といったか。 うーん   忘れた。   「るせぇ。」 キャー、せんせ、こわーーい。 まわりの女子どもがキャーキャーキャーキャ。 うるさい。 「授業、すんぞ。」 教卓を分厚い英語のテキストでぶったたいて、ゼフェルは授業を開始する。 シンと静まりかえった教室に、ゼフェルはほっとせざるを得なかった。 「じゃ、8ページ、読んでみな。出席番号9番・・・」 「ハイ」 ガタっと音がして、出席番号6番の・・・何とかというのが立ち上がった。さっき「先生怖い」発言をした女だった。 あー。 ゼフェルはめんどうなことに気が付いた。もしかして、と思ったのだ。 もしかして、また生徒の名前を覚え直さないといけないのか、と。 もしかしてどころの話しではなかったが、そのことをスッコーンと忘れていたのだ。さっき職員室で名簿を眺めていたが、全然頭に入ってこなかったのだ。だから、意味もなく「チッ」とか「クソ」とかつぶやいていたのだ。 原因はいつも、アンジェリークにあった。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ MIND EXPRESS 7   アンジェリークの授業は順調とまではいかないが、なかなか評判がいいようだった。 まず、アンジェリークが大人ぶったと風貌ではないこと。 しゃべりかたが、優しいこと。 これが女子高で女教師が生きていける最大のポイントなのだ。 「え〜、私が音楽担当のアンジェリーク・リモージュです。ええと・・・似合わないてすよね、ハイ。天使で、女王だなんて・・・う〜ん、でも名前つけたの、私じゃないんですよ。」 どっと笑いが出る。そして、しずかになった。 「よろしく、お願いします・・・」 ペコっと頭を下げたその様子がずいぶんと生徒たちには好評だったようだ。 「質問とか、ありますか?」 ハイッ、と元気な手がビュンビュン挙がる。 アンジェリークはどれを指名したらいいのかわからなかったが、とりあえず一番前の席の少女を指名する。 「ハイ、どうぞ」 「は〜い。えっと、先生っていくつなんですか?」 「22です。」 「誕生日は?」 続けざまに尋ねてくる。 「2月の14日です。バレンタインデーなんですよ。」 えーっと歓声がきこえる。広い音楽室に40人ほどの生徒しかいないため、その声は大きく木霊した。 「他には?」 ニコニコしながら聴くこの教師に、生徒の反応は驚くほどよかった。 また挙げられる手に、はい、それじゃ、うしろの人。 「あの・・・」 モジ、と、照れたような口で少女は立ち上がった。その質問の内容が、何となくアンジェリークに読めてくる。 「なあに?」 それでも、聴いてみないと、とアンジェリークは問いを待つ。 「先生って・・・カレシ・・・います?」 ニコっと微笑むアンジェリーク。 その微笑みの意図を探ろうと興味津々な生徒たち。 「いません。」 嘘ではなかった。 またしても、えーっという声が響く。 「先生の中で、好みのタイプの人っていなかったんですか?」 一端そういう話しが出てくると、もう女というのはとめどなくて。 「う〜ん、まだあんまりみなさんと話したことなんですから。」 「ねえ、ゼーなんてどうなんだろ?」 女子というのは、えてして名前を省略した上に、呼び捨てにするものなのだ。 こそっと聞こえた声のはずだったのに、アンジェリークの反応は異常なほど大きかった。 だけど、それを悟られてはいけない。アンジェリークは硬く拳を握り絞める。 「ダメだよ、あのセンセ、怖いんだよ。」 またこそっと聞こえた声に、アンジェリークはつい微笑んでしまう。 本当に誤解されやすい人なんだ、と。誤解されていない彼を、自分は見ていきたい、と、そう思ったのだ。 優しい気持ちでいっぱいになる。   「もう、質問ないですか?」 粗方聴き終わったようなので、アンジェリークは授業に入ろうと教科書を教卓の上に立てる。 「じゃ、授業に入りますね〜。」 またしてものんきな声が音楽室に木霊した。 「私はピアノ専攻だったので、歌はあんまりうまくないんですが」 教科書の、12ページの・・・ あった。 「みんなの知ってる曲をできるだけたくさん歌いたいと思います。音楽鑑賞だけなんて、つまらないでしょ?歌の苦手な人も、知ってる曲はできるだけ歌って下さいね。今日はまず、カーペンターズです。」 さいごの、ニコっ、は、生徒の優しい性質を引き出してくれたようだった。これが鬼悪魔のようなスパルタだったなら、この時期の女子は反抗しまくって話しにならなかっただろうけれど。 アンジェリークはうまく生徒の心を掴んだようだった。 自分の心はゼフェルに掴まれてしまったけれど。   「じゃあ、一回私が弾きますから、メロディを覚えて下さいね。」 じゃ、弾きます。 ちょっと緊張した手つきでピアノの前に座ると、少し気持ちが落ちついた。 ゼフェルが、この近くにいたのだ、と思うと。 何となく、落ち着けるような、緊張するような。 鍵盤の上は、そんなアンジェリークを戒めるように、硬くて冷たかった。     ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ MIND EXPRESS 8 何だかんだいっても、始業式のある一日はすぐに終わった。教師の中にはもう早々と帰宅しようとする者もいた。 「先生」 アンジェリークが振り替えると、見知らぬ男教師が立っていた。 誰? ハッキリ言って、怖かった。 まだ知らないことだらけで、もし失敗していたら、という感覚でいっぱいだったのだ。 「寮なんでしょう?一緒に帰りませんか?」 男は当然教師だったが、何というか・・・ヤサ男系だったのだ。系という配列をしてもいいのかとは思ったが、とにかくそんな感じで、自称フェミニストの連中だ。だけどそんな分析の仕方をしていたのは隣でこっそりとゼフェルの様子を伺っていたゼフェルだけだったのだが。 「え・・・いいんですか?」 がーーーーーっっっ!!!!! ついてくんじゃねぇ!!ひん剥かれるぞ! かなり物騒な言葉がゼフェルの中で掲げられる。 「ええ、もちろん。心細いだろうと思いましてね。」 それとなく、ゼフェルの中で言えば、気色の悪い言い方でアンジェリークを陥れようとしているのだ。 名前・・・こいつ。 う〜ん。 忘れた。 またしても、ゼフェルはヘマをしでかしたのだ。自分よりも年上の先輩教師の名前が思いだせないのである。 あ そう思ったとたん、アンジェリークが立ち上がった。 あのヤサオトコがあの後何と言って彼女をそそのかしたのかは覚えていないが、アンジェリークはどうやら帰宅するらしい。しかも、今すぐ。しかも、あのヤロウと。 クソ 先に言えばよかった。 「先生、僕も寮なので、一緒に帰宅しませんか。さらに夕食でもご一緒に。」 心の中のヤサオトコはただ棒読みでそんなセリフを吐き出した。 言えねぇ。 怠慢きわまりない口は、何も言わずにアンジェリークを送ろうとしている。 だけど、その目は苦しげで。 「先生、どうかしたんですか?」 ふと気がついたアンジェリークがゼフェルに声をかける。 ぎくっ 肩がびくっとふるえて、何でもねえよ、とアンジェリークをふいにするのだ。 「そうですか。それじゃあ、私は帰りますね。また明日。」 彼女はそう言うと、ゼフェルの言葉を待っているようにも思えるしぐさでそこにいた。きっと、「はい、それではまた明日、おやすみなさい」とかそういう言葉を待っていたのだろうけれど。だけどゼフェルの口から出た言葉は。 「あいつと、帰んのか?」 だった・・・。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ MIND EXPRESS 9   「え・・・はい。そうですけど?」 アンジェリークは何度もうなずいた。その度にさっきほどいた髪がばさっと揺れる。 「・・・」 またしても沈黙がやってきて、アンジェリークは困ってしまうのだった。 この沈黙は・・・ 「ご一緒されます?」 がつぅぅん ゼフェルの心臓がぐらっと傾いてそこらの臓器にぶつかり、妙な鈍音を出す。 うー。 本当は二人で帰りたかった。ゼフェルも寮暮らしだ。アンジェリークも。 だけど彼女には先約があって。 かといってあのヤサオトコと二人きりで帰らせたくないと思ってもいた。 でもそれは三人で帰るということで。 ん? それって、もしかして。 「帰る。」 「はい!」 ヤッタァ。 そういう声がする。心から喜ぶ声だ。 いちいちいろんな事がうれしいんだな、とゼフェルは思った。 だが、アンジェリークにとってはゼフェルと一緒に帰れることがうれしいわけで。 ちっとも噛み合わない二人の歯車は、ぎこぎこ、とぎこちない音をたてて少し動く程度だったのだ。   「え?」 驚いたのはあのヤサオトコだった。結局名前が思い出せず終いで、もうヤサオトコとしか呼びようがないのだ。 「先生も?」 ゼフェルは わりぃかよ、と睨みつける。 その間でアンジェリークはオロオロして。 全くもって教師とは名ばかりの三人組だ。これではチャチな恋愛ドラマではないか。 だがヤサオトコはそれにはあんまり関わらなかった。ゼフェルがそれ自体に関わりたくないのかもしれない。見るからにタイプが違った。明らかにヤサオトコはゼフェルを見下していた。 「じゃ、先生、いきましょうか。」 女の扱いってのは、こんなモンだ。 そういう視線がゼフェルのそれにぶつかる。だがゼフェルはそれに打ち勝つすべを知らない。ぶすっとして後をついていくだけだ。 「先生の担当、音楽でしたよね。」 「ええ。オスカー先生は?」 「ボクは化学担当です。1年と2年担当で。2Cの担任をしているんですよ」 「そうなんですかぁ。私も早く担任、してみたいな」 うふふっと微笑む彼女の横顔が、まだ明るいここでは、よく見える。それだけで、ゼフェルはうっとりしてしまうのだ。イカれてしまうとも言うのかもしれない。 あんなヤロウに、 笑うんじゃ・・・・ ねぇ。 最後はやっぱり小声になってしまうのだ。口に出したわけではないけれど、気が弱くなっていく。 アンジェリークがああいう男が好きなのかも、と。 ああいう男と付き合ってるのかも、と。 ・・・・チッ 表に出てしまった舌打ちは、前にいる二人の前で空しく風にかき消される。 痛くってつらい思いが体のあっちこっちを痛めつける。一番痛いのは、やっぱり、心臓だか肺だかのあたりだった。   「あ、ここですね。」 学校の寮だから、さすがに近くにあるものだった。今朝荷物の確認に来たから、どこかはわかっている。 「先生、どうもありがとうございました。」 ぺこっと頭をさげて、にこっと微笑んで。 それに向かってヤサオトコはにこっとして。 自分一人が置いていかれているのだ。 「では。」 アンジェリークは階段を上がろうとする。 ゼフェルはその後を追う。 「・・・?」 振り向いたアンジェリークが不思議な顔で眺めてくる。 「オレんちも、ここだ。」 そうつぶやいて、アンジェリークを追い抜いて階段をかけ上がった。当然のようにヤサオトコには挨拶ひとつ、会釈ひとつくれてやらないで。 いまいましい顔をしたヤサオトコはアンジェリークがいなくなるまで見つめていた。これが男の礼儀だ、とゼフェルに示してやりたいのか。はたまたディナーのお誘いを待っているのか。 その目論見は全くの無駄になったが。 「おやすみなさい」 そう言ってアンジェリークはヤサオトコを置いてさっさと階段をかけ上がっていくだけだったのだ。 夕方の楽しいディナータイムは木っ端微塵に崩れ去った。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++