夏風

 

 

「海に・・・行こうか」

多少、戸惑いがあった。何しろ、アンジェリークだ。彼女が泳げるとはとても思えない。

それに。

誰かに見られるのがイヤなんじゃないか―――

そういう疑惑がここ最近ずっとヴィクトールの脳裏をよぎっている。何しろ彼らは――――――教師と生徒という関係なのだ。

「それはちょっとまずいだろう!?」と他の教師連中に何度言われたことか。まだ上層部にはそのことは伝わっていないようなので助かったものの、外でばったり他の生徒何かに見つかってしまっては、一気に噂が流れるのを止められるハズはない。だから今だってヴィクトールの部屋で何をするでもなく一緒にいるわけである。

だが、今は夏だ。

夏に海に行かずにどこに行くというのか。

山何かに行ってもそれはそれで楽しいだろうが、あそこは蚊とお日様の宝庫だ。アンジェリークの体力が問われるのだ。そんなことをして果たして彼女が喜んでくれるだろうか、と疑問な所だ。

じゃあ、もう夏は海しか残っていない、と2托しかないのに消去法で決まった海という選択は、ヴィクトールの喉元にとどまったまま、しばらくその姿を見せてはくれなかった。

しかし、もう潮時である。これ以上アンジェリークを退屈な気分にしては、自分のプライドだって粉々だ。

そして―――これはかなり、優先順位としては高い位置にあるのだが―――アンジェリークの水着姿を見ておきたい、と思っているのである。アンジェリークの高校では女子高ということもあって、今だに体育で水泳がある。その時もちろん水着姿になっているはずのアンジェリークを、ヴィクトールはまだ見たことがなかった。ヴィクトールは社会科教師で・・・ついでに言うと剣道部の顧問であって、体育教師ではない。

だから、ピーーーーーーーー!!!というあの頭の痛くなりそうなホイッスルを鳴らしてアンジェリークに手取り足とり泳ぎを教えることができないのである。そして、問題は、体育の教師は何を隠そうあのランディなのである。彼自身に何ら問題はないのだが、如何せん彼はスキンシップが過ぎる。一度アンジェリークに泳ぎを教えるためだと言って(本当なのだろうが)、泳がせた所、彼女が溺れそうだったので腰を持った、という噂が広がったことがある。その時のヴィクトールの怒りのゲージは振り切れんばかりで、もちろんランディのいる体育教官室まで道場破りバリの勢いで乗り込んだ。ランディに水着のアンジェリークを抱きしめられて、自分は全然そういうことはナシとなると、これは「カレシ」としてマズい状態にあるのではないか、と思っているのだ。

とにかく。

ランディには負けられない。

そういうわけで、ついに「海」の二文字がアンジェリークの目の前に鎮座することになったのである。

返事は・・・・・

これを聞くのは実に情けないほど、恐ろしい。

もし厭だったりしたら、もうどうしていいのかわからないのである。

今まで女性というものに触れたことがないかのような、弱々しい態度だ。

緊張の一瞬。

「え・・・・・・・ホントですか!?うれしい!」

飛び上がらんばかりにアンジェリークが喜ぶ。ヴィクトールは驚きと、口から心臓が飛び出そうなほどの目眩でしばらく呆然としていた。

何しろアンジェリークというのは、それはもうヴィクトールのツボというツボをすべて刺激してくれるような顔や声や、性格をしているのである。おとなしいくせに、いざとなるとヴィクトールを守りたいと宣言してくれたこともある。そんな彼女が心底嬉しそうに、こんな近距離ではしゃいでいるのだ。男として、これは放っておけない状況なのだ。

ヴィクトールの腕が伸ばされる。

それに吸い込まれるように、アンジェリークの体がヴィクトールの胸にうずまっていく。小さな体はちょっと緊張しているようだった。ヴィクトールの硬い腕がアンジェリークの背に廻る。その瞬間、彼女の緊張が取れたように、体が柔らかくなる。ドクドクと限りなく心臓が鼓動を早めていく。アンジェリークの顔を見れば、頬を赤らめて、しずかに目を閉じているのだ。きゅっと目を細め、キスをしたい衝動を堪えてみせる。アンジェリークを守ると誓った。誓ったのに、壊してしまっては、あまりに情けないのだ。だから、時が来るまで、アンジェリークを大事にしようと思う。そのために自分がどれほど苦しかろうと、もうかまわない。

本当は、どうしようもなく心臓が破れそうだったし、顔が勝手にアンジェリークの方に近づいていきそうだったのだけれど。

 

ヴィクトールがその腕をといたのは、それからしばらくたってからのことだった。これ以上くっついていては、いくら強固なヴィクトールの理性もダイナマイトで崩れていきそうだったのだ。

アンジェリークは何となく涙っぽい目をしてヴィクトールを見つめていた。

そんな目で、見ないでくれ。

もう一度抱きしめたくなる衝動を抑え、ヴィクトールはアンジェリークの頭を優しく撫でてやる。彼女はそれににっこりと微笑む。

「お茶、煎れますね!」

と明るく言って、台所に消えていく。

残されたヴィクトールは彼女の余韻を懐かしむかのように、そのままの体制でいた。

ため息が漏れる。

抱きしめて、キスをして。本当は一晩中だってそばにいて。

右脳だけで繰り広げられる想像が、瞬く間にヴィクトールの頬を染め上げる。

マズいな。

頬を染めたまま、ヴィクトールは心のなかでつぶやいた。最近ずっとそうなのだ。つもりに積もった欲求不満というのが「不満のゴミため」から溢れてきそうなのである。ヴィクトールはそれを恐れていた。

ああ、でも。

海に行けば、一つ、その欲求が叶うのである。

ヴィクトールは、本人はしらないけれど、ニンマリと笑んでいたのである。

NEXT