トマトの苗 1   だりーぃ。 そんなことを思いながらゼフェルはウンチングスタイルをかましつつ、店番をしていた。時刻は夕方の5時だから、そろそろ主婦どもがこのスタイルにもめげずに買い物にやってくるだろう。 八百屋の次男というのはえてしてこういうものである。長男が継ぐもんだろうとタカをくくっていたところ、兄はその天才的な頭脳を持って大学教授なんかになりやがった。しかも、スモルニィだか何だかいう名門女子大だ。 うらやましい・・・ 実際はそうも思っていた。スモルニィといえば、「るんるん」「きゃぴきゃぴ」なお嬢さんたちの宝庫である。長男はそんなことおかまいなしでのんびりと教鞭をとっているようではあったが。 だが、長男が八百屋の継承からトンズラこいてうれしいこともあるのだ。 こうしてここで店番をしていれば。     「あの〜。」 明るいけどやっぱりどこかのんきな声が聞こえてくる。 あ、来た。 心拍数が上がる。それを抑えるように、ゼフェルは少しふるえる声でいった。 「っらっしゃい」 ウンチングスタイルが長かったせいで、アキレスがちょっとおかしい。でも、そんなことはおかまいなしだ。 「え〜と、玉葱と・・・」 にこにこにこにこ・・・ なぁにがそんなにうれしいんだか。 ゼフェルはそう毒づきながらもせっせと野菜をビニールに入れていく。 八百屋にやってきた彼女の金髪が夕方の優しい光りにキラキラして、目の緑にとってもよく似合う。 「それから、人参を。」 どうやら今日のご飯はカレーのようだった。 クソ・・・。 ゼフェルはすこし悔しかった。彼女の晩ご飯がわかっているのに、彼女の名前すら知らないのである。知りたいと思っていても、所詮は八百屋に買い物に来ただけのお客なのだ。向こうも八百屋のオヤジくらいにしか見ていないのだろう。それがすごくつらかった。彼女が向かいの郵便局に勤めるようになって、毎日野菜を買いにきてくれて。1種類しか買わない日もあった。そんなにいっぱい買って、どうするんだ、と思った日もあった。いろんな日々がフラッシュバックする。だけどその彼女は自分と話しているのではないのだ。野菜の名前を次々いっていくだけなのだ。だけど、それすらもなくなったら・・・彼女が店にこなくなったら、自分はとってもツラいんだろうと思うのだ。大切な仲間が仕事で遠くへ行ってしまうような。 だけどゼフェルは彼女の名前を聞けないでいる。理由がないのだ。名前を聞く理由なんて、この野菜たちの中には見つからないのである。   「420円だ」 ぶっきらぼうに言って、ビニールの口をテープで止める。ガサ、と音がして、彼女に袋を渡す・・・・・・・・瞬間。   手が。   触れるのだ、いつも。 小銭を受け取るとき、袋を渡すとき。そしていつも、彼女が大きなお金を出すことを望んでいる。そうすれば、おつりが渡せるから。 また手がふれあうことが、あるかもしれないから。   だけど、そんな期待を彼女は見事に打ち砕いてしまった。 420円、だった・・・。   「まいど・・・」 ぺこっと頭をさげて、彼女はゼフェルの右斜めへと去って行く。 金の髪が夕日に揺れる。 ゼフェルはその様子をぼうっと眺めていた。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++   あたっちゃったあたっちゃったっ。 手が手が。 あの、大きな手に。浅黒くて、厚くて、指の長い手。   アンジェリークはうきうきしながら帰って行く。 もう、八百屋からは100メートルくらい離れていたけれど、心はぜんぶ、100メートル向こうに置いて来てしまっていた。 八百屋の向かいの郵便局に勤め初めて、やっと半年たった。みんな優しくしてくれる。郵便局の仕事は充実しているし、楽しい。だけど、もっと楽しいのは、あの八百屋なのだ。ほんの少しだけ、彼と接する時間。 別に野菜大好きというわけではないけれど。 野菜なら、毎日買っても全然不思議じゃない。 もし、彼が金物屋だったら、毎日は買い物に行けないのである。本当に、八百屋でよかったと思った。 名前も知らないけれど、癖とか、ウンチングスタイルでよく店番していることとか、いろんなことをアンジェリークは観察してきた。チラっと見る度に、あの格好でいるのだ。たまにタバコを吸うために店の外にでる。吸い終わったらまた店のちょっと入った所でしゃがんでいる。 椅子ないのかしらー。 そう思ったのが初めだった。 観察しているうちに、気が付いた。 椅子があっては、動きにくいのだ。彼がしゃがんでいる位置にもし椅子があったら、それよりも奥にあるきゅうりとか長葱がとれないのである。 そう気付いた瞬間、うれしくなった。彼の商売に対する気配りとか、お客さんを店先で立たせる時間を短くするための心がけとか、そういうものが感じられたのだ。 だから、彼女もそれに便乗するのだ。 なるべく長居はしない。おつりも無駄に作らない。彼が無駄にしたくないと思っているお客の時間を、自分は彼のために大切にしないとと考えたのだ。結局彼にしてみれば残念なことであるのだけれど。 それに、彼はきっとめんどくさがりやで、人と話すのがあんまり好きじゃない。 店にくるおばさんたちの話しをめんどそうに聞いている。顔に出てくる気持ちがおかしくてつい笑いそうになったこともあった。 同じ郵便局で働いている先輩は昔からの常連さんで、あの八百屋は1年くらい前に先代が亡くなって彼が継いだのだと言う。先代は随分かっこいい人だったのよぉ、と話してくれた。彼にはお兄さんがいたんだけれど、そっちは大学教授をしているそうだ。そんな細かな情報を聞くこともあった。だけど、何故か先輩に名前を聞く気にはならなかった。 自分で本人に聞きたかったのだ。 そんなことを思っている自分に気付いた時、恋をしてるんだなと実感した。あの真っ赤な目が好きだと思ったのだ。淡くて薄っぺらな恋だけど、大切にしたいと思った。 だから、胸にしまって、毎日彼のもとへ行く。中学生みたいだと自分でも思うけれど、それでも。 やめられない恋だったのだ。   ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 今日は7時から同窓会だ。 今日のために新しい服も買った。大学生だった自分と今の自分とがハッキリわかれてみえて嬉しくなる。 久しぶりに会う仲間たち。とは言っても、まだ半年ちょっとしか経っていないのだけれど。 話したいことはたくさんあった。 まず、仕事のこと。一人ぐらしのこと。 でも、本当に話したいのは八百屋さんのこと。 今日の晩ご飯は同窓会で食べる。明日の朝ご飯はパンにカップスープだ。別に野菜に用はないけれど、やっぱり帰りはあの八百屋さんへと向かってしまう。 「あの〜」 いつものように声をかける。 そしたら彼が立ち上がるはずなのだ。 「・・・」 あれ? ”らっしゃい”は? いちおう立ち上がったけど、ちょっと様子がヘン、だった。 「どうかしました?」 彼は随分と気分が悪いのか・・・はたまた機嫌が悪いのか、眉の皺20パーセント増量のご様子だった。 「別に」 そうは言うけれど、何となく顔色が悪いようなのだ。 「具合、悪いんですか?」 アンジェリークは下から覗き込むような形になって、彼を見た。 一瞬、彼が驚く。だけどまた、目を伏せる。 「・・・・」 「あの、これっ」 ごそごそっと取り出したのは、「フェリア」。 本当は生理痛用。だけど、そんなことは言ってられない。 「これ、とってもよく効くんです。よかったら、どうぞ。」 ぐいっと前に押しだした薬を、彼が受け取る瞬間。 また、手が当った。 ・・・・ 熱い。 熱い。 熱い熱い! 一瞬だけど、熱い!! 「熱あるんですね?」 相変わらず黙ったままだったけれど、彼はうなずいたようにも見えた。 「あの、え〜と・・・」 少しためらってから・・・・腕を、つかむ。 そのまま自分の肩に、彼の腕を回す。 ひきずるみたいに、店の奥に入っていく。 靴を脱いで。 彼をねっ転がらせて、靴を脱がせて。 「大丈夫ですか?」 随分、息が荒くなっている。 もう、きっとずっと前から調子が悪かったんだろう。 なのにどうして休まないの? 母親みたいな気持ちで彼を見る。 ほっ 汗をかきはじめているようだった。 これから熱は下がるだろう・・・・・・・・・・ けど。 服はどうするの? 「あの〜」 彼は顔だけこちらに向けて。 「服・・・・着替えられますか?」 そこらへんに脱ぎ散らかされた服。たぶん、どれもこれも洗濯していないだろう。その中にタオルを見つけて取ってくる。とりあえず、彼の汗を拭く。 「・・・・・・」 汗を拭こうと顔に手を持っていくと、彼は厭がったように向こうに顔を向けてしまう。 着替えられないだろう。こんな状態では、きっと彼は着替えなんかしないだろう。 「家の人は・・・」 言いかけて、やめた。 こんなところに服が脱ぎ捨ててあるような家だ。誰もいないのだろう。 どうしよう・・・。 とりあえず奥の台所に行ってタオルを濡らす。しぼる。そこら辺のボールに水を張って。   よし。   アンジェリークは同窓会を休むことにした。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++   ピッピと音がする。何かの電子音が耳に触った。 ケイタイだ。 あの女がケイタイを使っているのだ。 「あ、もしもし、アンジェリークです。すみませんけど、今日の同窓会お休みします。すみません。ハイ・・・・ハイ、すみません、それじゃ。」 ピッ   アンジェリーク・・・?   ・・・・・? 何で黄色い頭がそこにあるのかわからなかった。 ? ゼフェルは全然働かない頭でぼうっと考えていた。 ズキズキ痛むこの唐変木な頭を切り取ってしまいたい。     ・・・・・・・・・!!!!! 気付いた時には遅かった、というのが常である。ゼフェルはまんまとそれをやらかしてしまった。彼女に何をさせたか思い出してしまったのだ。自分がどんなに情けない姿だったかも。 クソ・・・・ そう思っても、頭は痛いしだるいしキツいし。 目だけがうつろにアンジェリークとやらを眺めていた。 「大丈夫ですか?」 大丈夫だ。 そういいたかったけど、口が動かない。随分と喉がかわいていた。 唇がピリピリと熱い。 「喉乾いてませんか」 返事のないゼフェルに向かって、透明なグラスに入った水が差し出される。受け取れないけれど。 「飲みましょう・・・ね?」 ちょっと・・・・クラっとする。熱のせいか、それともこの女のせいか。 そう思ったら、背中を支えられていた。 クソ・・ これではとことん情けない男ではないか。彼女に会いたくて頭痛いのを我慢して店番をしていたのに。 いや、でも。 悪くないかも。 そうも思ったりした。情けないけれど、何にしろ、彼女の名前がわかった。 アンジェリーク・・・・・ エンジェルで・・・クイーン・・・・・ おおげさな名前だった。 だけど、彼女にはぴったりだ。 そんなことを考えているうちに、口もとに水が運ばれる。背中にあんまり体重がかからないように気を付けるけれど、その運動のせいで頭がガンガンする。 「・・大丈夫ですか?」 少しずつ、こぼさないように注意深く水が喉を伝う。 うつろだった真っ赤な目が、何となく輝いたように見えてきた。 その目はそのまま・・・・・ アンジェリークを見た。 まだ口元にやっていた視線がゆっくりと上げられる。 「アンジェ・・ィーク?」 掠れた声がする。本当に自分の声なのかも疑わしいほど。 「あ・・・はい?」 にこっと笑って、彼女はそれに答えた。ズキン、と頭が痛んだ。ズキンと胸も痛んだ。 「・・・・・」 そのままゼフェルは凍ってしまうのだ。こんなに近くにいて、背中なんか支えられて。自分の両手はカラで。向こうは無防備で。   ・・・・・・・・・・ 何となくだけど、あったかい気がした。 うごめいているような気もした。 イヤなのか? そんなことも考えるけど、利己主義一代男のゼフェルはおかまいなしだ。 だけど、よくわからなかったから、もっと強く。 抱きしめていた・・・・・・・。   ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++   随分抵抗したのだけれど、やっぱりかなわなかった。第一、どうしてこんな風に抱きしめられているのかゼンゼンわからなかった。 いたい。 胸が。 腕も。 足も、首も背中も!! ビリビリビする!! 助けて・・・! 「なんで・・・・」 すごく熱い体が密着していて、自分もすごく熱くて。たぶん顔なんか真っ赤だろう。 はぁ、と息をつく。 「はな・・し・・・・」 キツい。息できない。 強く抱きしめられすぎている。 硬い衝動が耳をつんざくような気がする。     ふいに、力が弱まった。 ふっと、消えたみたいに腕が解かれる。 ? よく、わからなかった。どうして抱きしめられたのかも、どうして急にやめたのかも。 とりあえず、助かった。 あのままでは、胸がつぶれてしまう。心が持っていかれるような気がした。八百屋さんの白いTシャツが、まぶしいくらいに目に映る。こんなにも近くに彼がいることを、知らされる。 怖い、気もする。 ちょっと、男の人として、怖いような・・・・。 でも、たぶん熱のせいだと思う。ちょっと具合が悪くて、何かを伝えたくて、きっと・・・・・。   でも、もし。 そうだったとしたら、何を伝えようとしていたのか。それは全くアンジェリークにはわからなかったけれど、とにかく服を着替えさせないといけない。今考えるべきことはそれだけだ。 「あの、服どこですか。」 声が少し掠れてしまう。 「・・・」 また無言で、彼は台所の右の方を指差した。どうやら寝室があるらしい。 「あ、取ってきて、いいですか・・・」 立ち上がろうと、する。   スッ   てーん、である。   見事だった。でもこれはわざとだ。彼がわざと彼女の足首をつかんだのだ。しかもものすごい力で。 体が妙に前のめりになって倒れている彼の左手は、しっかりと彼女の右足に絡み付いている。 「どうしたんですか?」 いたた、とは思っていても、やっぱり心配だった。顔からは想像もできないような不可解な行動のオンパレードだったからだ。 「行く・・・・な・・・・・」 弱々しい声が聞こえる。足元から、ふっとかすめるように聞こえてくる。 え・・・・・? もしかして、一人になりたくないの? 「でも・・・・」 「いいから」 もそ、と動いて、彼は彼女に近づいてくる。 近づいて、そして・・・・・ 通り過ぎてしまった。 ええ?? ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++   マズいまずい、マズすぎる!! ゼフェルは痛くてしょうがない頭をもっと痛めつけるような運動をした。ホフクゼンシンというやつで、ゼフェルはアンジェリークの前を通過し、寝室へ向かう。指を差したことに大した理由はない。ただ、方向感覚がぐちゃぐちゃで、気が付いたら服ではなく、マズいものが置いてある部屋を指差していたというだけなのだ。 けれど、そんなことはアンジェリークに言えるはずもなく、必死で寝室まではいずっているだけである。 マズい原因は、ベッドの脇にあった。 エロ本じゃない。 エロ本は持っていない。ネットで取ってきた方が安全で処理も簡単だから、全部それだ。問題なのは、そうじゃなくって・・・・・・ ゼフェルは急いでその危険物をしまいこむ。体積のあるモノだから、たんすのなかに入れて。本当は暗い所はよくないのだが、この際仕方がない。 とりあえず任務を完了し、ゼフェルはそのままベッドに倒れこんだ。もう、動けそうになかった。 するとアンジェリークが来る。小走りで、ボールみたいなのと、白いタオルを持って。 「服を・・・」 アンジェリークはゼフェルが服を取りに行ったものだと勘違いしたらしい。混乱して、きょろきょろしている。 「・・・・」 無言で指をさす。先には、扉を開いたままの部屋があった。 アンジェリークはまた小走りでそっちへ行った。 ゼフェルはとりあえず、服を脱ぐ。女に脱がされるなんてまっぴらごめんなのだ。こんな時は。 ゆっくりと服を脱ぎおわったころ、向こうでバタンと音がした。アンジェリークが扉を閉めたのだろう。 足音がする。 「あの、勝手に取ってきちゃいました・・・」 でも、どうやら彼女は間違えたらしい。あの部屋には二つのクローゼットがあったのだ。一つは兄の、もう一つはゼフェルのものだ。ゼフェルのクローゼットは左だけれど、あんまり何もはいっていない。ほとんどが八百屋の店番の時に着る白いTシャツとか、ジーンズとか、紺とか緑とかのパーカーだけだ。アンジェリークが持ってきたのは、薄い水色のTシャツだ。サイズもかなり大きい。兄のものだと一発でわかる。 間違えてやがる・・・・ そう毒づいても、どっちのクローゼットを開けろと言わなかったゼフェルが悪い。あきらめて、それを着ようと起き上がる。 ・・・・・・ 眉間に皺が深くよる。 アンジェリークはTシャツの裾をまるめて準備していたのだ。まるで子供に洋服を着せる時みたいに。 クソッ ばっと洋服をひっつかんで取り上げ、さっさと着てしまう。頭はがんがんしていた。サイズもあわない。でもそんなことは言ってられない。 「・・・・大丈夫ですか?」 何がだ!? ギャースと叫んでしまいたかった。オレァ子供じゃねぇんだ、と言ってやりたかった。だけどそれはかなわない。 痛みを取り越してぼうっとなった頭がそれを許してくれないのだ。 「え〜と・・・・寝てて下さい・・・私何か・・・・・」 最後の方は聞こえない。ゼフェルは今までのいろんな運動のせいで、急に眠くなっていたのだ。意識にかまわず睡魔が彼を侵略する。 すーすー。 残されたのは、台所に向かったアンジェリークと、寝息だけだった。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++   寝てて下さい、と言ったのはよかった。 もっともな処置だったと思う。 勝手にごそごそ冷蔵庫の中とかジャーの中とかを見て、おかゆを作ったのも、とってもオッケーだった。おかゆの味見をした時、ちょっとやけどしそうになったけれど、それもよしとしよう。 でも問題が・・・・・・   どうやって、起こそう・・・・・   悩みまくって早15分。おかゆが冷めてしまう。 早くしなくちゃ。 そう思ってアンジェリークは覚悟を決める。 「あの〜・・・・・」 起きてください〜ぃ ちょっと弱気だったけれど、何とか通じたようだった。 ゆっくりと目が開く。 真っ赤な目がこっちを見ている。 焦点があっていない。 「・・・おはようございます。どうですか?具合」   ガバッッッ   わっ!   アンジェリークの方がビックリしてしまうような勢いで、彼は飛び起きた。たぶん、アンジェリークがここにいたことを忘れていたのだろう。そりゃあそうだ。勝手にあがりこんで、まだいるとは、居直り強盗もいいところ、である。 とりあえず落ち着きを取り戻した彼はぽりぽりと頭をかいて、ベットから立ち上がろうとする。 ちょっとよろけて。 でもアンジェリークが助けようとすると、大きな手で制して。 ズカズカと歩いていく。さっき服を取りに行った部屋の左側に洗面所があるようだ。さっきチラっと覗いてみた。 バサっとか何とかいう音が聞こえる。ずっとジーンズをはきっぱなしだったから、脱いだのだろう。 「あの、おかゆ作っておきました」   シーン・・・・・・・   ? アンジェリークは気になって洗面所の方へ行ってみる。 「キャッ!」 そこにはズボンをはいていない・・・ようするにガラパンにTシャツという妙な出で立ちの男がいた。 何してるの・・・・・・? 「あっ」 そこでアンジェリークは気が付いた。ズボンがないのに脱いでしまったのだろう。 着替えはクローゼットの中だ。 小走りで部屋からズボンを取り出す。今度は扉に近い左側のクローゼットから、大急ぎで。 見ないように扉からズボンだけを覗かせて 「はい、どうぞ」 と言う。ズボンが取られた感覚がある。   しばらくして、返事があった。 「わりぃ・・・」 と。 おかゆの味見をした時より、もっと熱くて。 やけどするかと思った。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++   違うだろ! そう思いながら、ゼフェルは黙々とズボンをはいていた。 本当はズボンなんてここらに脱ぎちらかしているのを履けばいいのだ。本当はアンジェリークにわざわざズボンを取って来てもらわなくてもよかった。 違う。 アンジェリークが勘違いしたのだ。ズボンがなくて困っていると勘違いしたのである。 ゼフェルが困った理由というのは、 アレだ。 『あの、おかゆ作っておきました』   そう、コレ。 ゼフェルは思い出して、また硬直してしまう。ちょうどジッパーに手をかけた所だった。 アンジェリークがおかゆ・・・おかゆ・・・・・・・・おか・・・   ハッ   と気が付いて慌ててジッパーをあげる。 扉を乱暴に開け、閉めててちゃぶ台の前にどかっと座る。 今にも「めしだ、めし!」と言いそうな勢いの親方ゼフェルだ。でもそんなこと言わなくても、アンジェリークはちゃんとおかゆの用意をしていた。 何か、こう・・・・・・ ゼフェルはいたたまれなさを感じていた。 好きな女が目の前にいて。 しかも、今回は野菜を口にしてるんじゃなくって、『おかゆ』について語っていて、何だか新婚さんみたいにアンジェリークは恥じらい散らかしているのである。 かなりおいしい(笑)。 しかし。 記憶がうつろだ。どう考えても、彼女の目の前でフラフラして、運ばれて、それだけだったような気がする。でも、そうじゃなかったような気もするのだ。 変な気分のまま、食事が始まろうとしていた、その時。 「はい・・・・・・・あ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ん・・・・・」   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 押し黙るしか、なかった・・・・・。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ やっぱり、マズかったかな? わかっているならやめればいいものを、アンジェリークはつい調子付いてやってしまったのだ。 シチュエーションナンバーワン=「あ〜〜〜ん、して」 である。 本当は一度やってみたかった。でもやってみる相手がいなかったのである。今までずっと女子中・高・大と来て、郵便局に就職して。いちおう局内に若い男の人はいる。けれどアンジェリークが好きになったのは、局の中ではなく向かいの八百屋の次男坊だったのだ。その彼が目の前にいて、弱っていて・・・彼女にしてみても、おいしいシチュエーションだったわけで。 でも、失敗だった。どうやら彼はプライドの高い人種らしい。あのビックリ発言のあと、ずっと黙ったままだった。 そうなると、こっちも黙ってしまう。 スプーンも器もちゃぶ台の上に置いてしまったのだ。 「・・・・・」 にゅっと伸びる手があった。 かなり大きな手だ。アンジェリークが野菜を買っている最中、ずっと目に留まり続けてきた、大きな手。 その手が、アンジェリークのおへその前で止まる。 器とスプーンをとったのだ。 そのままがつがつと食べる。 「あっあんまり急ぐと消化に・・・・・」 あぁっ またやってしまった。 また彼はこっちをにらんでいる。赤い目が痛い。 しゅーんとなって、じっと正座をしている。 「・・・おめーの・・・分は・・・」 掠れた声が聞こえてきた。いつもの彼の声じゃないみたいに、すごく弱い声だった。 「あっ私あの、今日ホントは同窓会で・・・晩ご飯はそこで・・・・でも・・・・」 要するに、何にもないのだ。おかゆはあるけれど。 「ねぇのか?」 コクッとうなずく。 すると彼は器とスプーンを持ったまま立ち上がった。 ?   そして。 おかゆの中味を、鍋の中に戻したのだ。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++   背中が熱い気がする。 後ろにアンジェリークがいるのだ。 バカみたいだ。うしろに女がいるというだけなのに、全神経がそっちに行ってしまう。 ゼフェルは鍋におかゆを戻してコンロに火を付けた。 「あのっ」 振り返れない。緊張した顔だけ、ちょこっと、ほんのちょこっと動かすのだ。 「おいしく・・・・・なかったですか・・・・・?」 ナニッッッ!? マズかった、だと? そんなこと、なかったのだ。カツオのだしがよくでていて、立派なおかゆだったのだ。おいしかった。でも、これは病人用だから、アンジェリークも食べるなら、野菜なんかをいれて、もっと夕飯に足るものにしようと思っただけなのだ。 でも、出てきた言葉は、 「別に」 なのだ。 この唐変木な口はそんなことしか口にしない。なんて怠慢で役立たずなのだろう。でもそうは言っても「うまかったぜ、だけどおめーも食うんならオレが野菜でもいれておめーも食える・・・云々」そんなことを言っている自分を想像するだけで鳥肌がたつ。 「そう・・・・・ですか・・・・」 しゅーーーーーん、しょぼーーーーーーーん。 背中に冷たい空気が流れだす。彼女と自分を分け隔てるように。 「マズくなかった・・・・・」 まだ言葉が足りなかった。 「うま・・・かった・・・・」 背中の空気が明るくなる。それはわかったけれど、じゃあ、なんで鍋に戻したの?そういう質問が来そうだった。 「おめー、野菜好きか?」 それが、ゼフェルの精一杯だったのだ。 それに彼女は答える。 「好きですけど・・・?」 「好き」「好き」「好き」 オーバーヒート直前のゼフェルエンジンを何とかくいとめる。今はそういう時期じゃないのだ。たとえ「好き」が百万回ゼフェルのエンジンをふかそうとも。 そしてたぶんまだわかっていないのだろう。ゼフェルが何のためにコンロに火をつけているのか。 しょうがないから作業にとりかかる。 春菊とか、そういったものを、恐ろしいほどの早さで切った。 鍋にいれる。一煮立ちする。 完成。 二つの器に入れて。 ちゃぶ台に運ぶのだ。 そのころにはもう、アンジェリークの足は崩されていて。 真っ白な足が、郵便局の制服から覗いていた・・・・・。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++   しばらく、彼がなにをしているのかわからなかった。 でも、しばらくして、おかゆに野菜をいれて一緒に食べようとしているのだと気が付く。ヤンキーあがりだか何だかよくわからない彼は、とても言葉が下手なのだ。野菜を切るのはアンジェリークより上手だけれど。 事情がわかったら、安心した。 安心したら、足がずいぶんしびれていた。 それでアンジェリークはしを崩して、彼が来るのを待っていたのだ。   あれ?そういえば 名前、知らない・・・ 今さらそんなことを考える。結局先輩から彼の名前は聞かなかったのだ。 チャンスだった。名前が堂々と聞ける。 そうこうしているうちに、彼がやってきた。 見上げると、何だか動かないのだ。 どうしたんだろう? そう思ってよく顔を見ると、そっぽを向いている。 ますます、どうしたんだろう? であった。 「どうかしました?」 暢気一発、アンジェリークは安心の限りを尽くして彼に尋ねた。名前を聞くという任務しか頭になかったせいかもしれない。 「別に」 やっぱり彼は、言葉が下手なようである。 ちゃぶ台に器とスプーンをそれぞれ置いて、食事が始まった。 左効きの彼の肘に、アンジェリークの肘があたりそうになって、ちょっと赤くなって、避けて。 一連の食事だけでも、どくどくどくどく、心臓がうるさかった。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++   心臓がおかしくなるんじゃないかと思うほどドキドキしていた。アンジェリークの足が、ゼフェルの左足にあたる。さっき腿に近いような彼女の足を見てしまったために心拍数が多いに跳ね上がる。でもそれも、束の間の出来事で。 食事が終わると、今度は片付けが待っていた。アンジェリークは何の気なしに食事の後片付けをする。ゼフェルはそれには何にも言えずにただ八百屋を閉めはじめた。外はもう真っ暗もいいところで、玄関を出ると寒かった。 とりあえず、シャッターを閉めて、野菜を片付けていく。普段は近所にあげたり、大幅に値下げしたりするのだが、今回はそれがかなわなかった。しんなりしてしまった野菜たちが横たわっている。ずっと外気にさらされていたせいだ。 でも神経は本当に全部奥へ向いていた。 かちゃかちゃと皿洗いの音がする。変な気分だ。昨日までは名前も知らなかった女が今こうして奥で家族のように皿洗いを・・・ はっ   またしても良からぬ希望的推測に思いをはせてしまっていた。家族という単語がやけに頭にこびりついてはがれない。 ダメだ。明日からはまた同じ日々がやってくる。名前を知ったし、どんな性格かも何となくつかめた。だけど、今日だけなのだ。明日からは、普通の八百屋とお客にもどる。ただそれだけのこと・・・。   でも、本当は寂しいと思っていた。意識に登らせることこそしなかったものの、そうなってしまうのが寂しいと感じていた。 ゼフェルは彼女のことが好きだ。今回のことで、ますます好きな自分を見せつけられた。これから、という所だったのだ。だから、このままお客と八百屋に戻ってしまうのは切ないのだ。 だけど、どうやって、くいとめればいいのか。もとに戻ってしまう状況をどうやって止めればいいのか。 方法は思いつかなかった。唐変木な口に引き続き、彼の頭も回転が悪くなっていた。「好き」だなんて、言えなかった。ただのお客でしかない彼女が、ただの八百屋でしかない自分に応えてくれるはずなどないと思っていたのだ。   「あの〜」 アンジェリークが声をかけてくる。 「帰るのか?」 言ってしまって、しまった、と思うことが多くあった。今の一言がなければ、アンジェリークを1秒でも長くそばに置いておくことができただろうに。 「ハイ・・・・もう・・・」 こんな時間ですから、とアンジェリークは店の掛け時計を見た。 何と。 10時だったのである。たぶん、ゼフェルが意識を失って随分してから食事が始まったからだろう。そうでなければ、食事中意識を失いかけてアンジェリークがそれに気付かずゆっくり食事をしていたか。そのどちらかだった。 「送ってやるから・・・」 支度してこい、とゼフェルは目で告げた。 アンジェリークは急いで奥へ引っ込んでいく。ぱたぱたと音がして、すぐに出てきた。ショルダーバッグを取ってきたのだ。 「行くぜ・・・」 シャッターを降ろしてしまったから、横の本当の玄関から出る。 カギなんておかまいなしだった。八百屋に泥棒にはいったって、そんな大したものはないのだ。 ぱたぱたっとアンジェリークが追いかけてくる。   バイクで送ってやってもよかったのだ。 でも。 バイクの上では、アンジェリークの道案内なんて聞こえないだろう。 だから、歩いて行くことにしたのだ。 バイクでは、不便だから、そういう理由で。 本当はもっと別のところに理由はあったのだけれど。 今は密着するバイクで彼女を送っていく自信がなかった。 それが本当の理由なのである。ゼフェルはそれを蹴りたおして、都合のいい理由をつけたのだった。   ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++     夜道はそんなに暗くはない。 ゼフェルはいつもの1/4くらいのスピードで歩いた。アンジェリークがとろいのだ。 「あの!」 どうしたことか、アンジェリークが沈黙を破って声をかけてきた。 ゼフェルはビクっとして振り返る。ポケットに手をつっこんだままという悪態をついて。 「あの、お名前、きかせてもらえませんか?」 ちょっと、しょぼしょぼっとした声が聞こえる。 あ? 頭がうまく働いていない。何で?というerrorが表示されて、そして。 「ゼフェルだ。」 「ゼフェル・・・さん・・・・・・・・」 そう言ったアンジェリークに、またしてもエンジンをふかされる。あともう1回ふかせば、バルルっとかかって爆発する、爆弾付きエンジンである。 「ゼフェルだ・・・・」 何となく、首のあたりがむずむずした。 「ゼフェル・・・・?」 首筋が、ぞわっと、総毛立つ。 エンジンが、かかってしまった。 走りだしたゼフェル号は、そのまま街頭の下までアンジェリークをひっぱって行く。 「え?ゼフェル?」 わからないのか、この女は。 そういう呼ばれ方をするたびに、ゼフェルのエンジンは加速されていくというのに。 ゼフェルは・・・・ とてつもなくアンジェリークが好きだった・・・・・・・。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++    どん、と鈍い音がした。 痛くはないけれど、衝撃に目をつぶる。 怖い。 よくわからないけれど、すごく怖い。 「ゼフェ・・・・・ん・・・・」 気が付いたらキスをされていた。 目を硬くつぶっていたから、どういう風だかはわからない。でもゼフェルの熱い舌が自分の口の中に入ってくるのを感じた。 かみつくようなキス。 強く捕まれた手首がコンクリートの壁に当たって、すごく痛い。息もできない。 怖い怖い怖い!! 「はぁっ」 息つぎの瞬間、アンジェリークはゼフェルの唇から逃げる。 それを捕まえて、またゼフェルはキスをしようとする。 また逃げるアンジェリークの唇。 追いかけて、左手で顎を掴む。 そのせいで、アンジェリークの右腕は自由になった。   バン!! ショルダーバッグがゼフェルの背中に激突する。もう一度思いっきり振り回したそれは、手から離れて向こう側の壁にぶつかって落ちた。 「やめて!」 叫んだけれど、熱にうかされたように、ゼフェルはアンジェリークの唇を追い求めるのだ。真っ赤な目は薄く開かれて、アンジェリークの唇だけを見つめている。 何で、何で? 声にならなくて、唇を塞がれてしまって。 涙だけがこぼれてきた。 それはゼフェルの頬にも伝わる。かみつくような舌が動かなくなって、口から出て行った。 「はぁ・・っっ」 荒い息。アンジェリークはひたすら下をむいていた。逃げる力も残っていなかった。   「アンジェ・・・・」 先に口を開いたのは、ゼフェルの方だった。 アンジェリークは力なく、その場にへたりこむ。ずるずると、制服の背中がコンクリートでこすれてしまうことなど、もう関係なくて。 今、わかってしまったのだ。 怖かったけれど。 ゼフェルが好きだ、と。もう、逃げられないほど好きなのだと。 でも、あまりに惨い気付き方を、してしまった。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++     キスは、すごく甘かった。さっき同じものを食べたのに、とても甘い気がした。 ゼフェルは甘いものは嫌いだ。大嫌いだ。 けれど、アンジェリークの唇は好きだ。チキンカレーよりも。彼女自身に至っては、チキンカレーなんかと比べられないほど好きなのだ。 でも。   クソッッッッッ   あんなに唇を奪って自分の欲求を満たしたけれど、泣かせてしまった。 どうすんだよ、どうすりゃいいんだヨッッッッ!! 拳を硬く握る。座りこんで泣いてしまっているアンジェリークをひっつかまえて、そして。   泣かせたくなかった。 泣いているところをみるくらいなら、キスなんかどうでもよかった。 「アンジェリーク・・・」 もう一度名前を呼んで。すると彼女がびくっとふるえた。 怖いのかよ? もう一度拳を握りしめる。 腕を、そっと伸ばして、アンジェリークの右腕をつかむ。 「ゃ・・・」 小さく言って、地面に重く体重をかけ、テコでも動かないというのだ。 「おい」 怒鳴ったりはしなかった。アンジェリークの涙がぽたっと彼女のスカートに落ちる。 ゼフェルは自分の頬を拭った。さっきアンジェリークの涙が付いた頬をだ。手に涙が当たった。冷たい感覚だ。 毛が逆立つ。 血が逆流する。 何が何だかわからなくなって、思いきり彼女を立たせる。 「やっ」 アンジェリークはそう言って、顔を隠そうとするのだ。 「・・・・・」 無言で、今度は右手を差し出す。 利き手ではないそっちの手は、そのまま嫌がる彼女の方へと伸び、頬に触れた。 暖かくてやわらかい頬だ。 涙が冷たく感じられる。 アンジェリークは怒ったようにゼフェルを見ている。ゼフェルはアンジェリークの頬を見つめたままだった。 「ゼフェル」 ドクン・・・・ 静かになってくれない心臓が脈打つ。でももう、エンジンがかかることはなかった。泣かせたくなかったからだ。 厭だよな・・・・・・ がっくり。 いろんな意味で、ゼフェルははあ、とため息を付く。 そりゃあ、厭だろう。名前を知ったばかりの、ただの八百屋の主人である自分に、こんなカタチでキスをされては、どんな女だって厭に決まっている。 いまいましかった。 こめかみが熱くなる。 もし、自分が八百屋の主人とかじゃなくて、アンジェリークと同じ職場で働いているとしたら、あるいはゼフェルは告白とやらをできたかもしれない。 けれどいくら言っても現実はかわらない。 彼女の唇をムリヤリ奪ったという事実も、消えてはくれない。 もう一度初めからやり直すことなどできないのだ。 伸ばしていた右腕をだらりと下げて、左腕も彼女からひきはがす。 ずっと掴んでいて、熱くなっていた手のひらが、急に冷たくなった。 「・・・・・ゼ・・・」 フェル、とうまく言えない唇が、ため息をもらした。 ゼフェルはそれに何の反応もできないでいる。 こんなとき、どう言ったらいいのかなんて、わからないのだ。厭な汗が、背中をつたったような気がして、そして・・・・・   場にそぐわない、とはまさにこういうことなのだろう。 豪快なくしゃみが、ゼフェルの背中を丸めこむようにして、溢れたのである。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ ブラウザの戻るで一旦お戻り下さい。