トマトの苗 32から ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++    朝ご飯用に昨日用意していたトーストとカップスープはブランチとして食べてしまった。夕食のために用意はしていない。野菜もなかった。 でも。 八百屋は、お休みだ。 アンジェリークは小さなため息をついて近くのスーパーに出かけることにした。本当を言うと、市場の方がおいしいものが手にはいるから、市場に行きたいのだけれど、でもきっとそっちに行ってしまえば、ゼフェルのことが気になって気になって、仕方ないだろうから。 アンジェリークは、よし、と自分に喝を入れて、玄関を開けた。 アパートの2階のドアが、大きな音をたてて開いた。 そして、アンジェリークは硬直してしまうのである。見てはいけないものを見た時のような。そんな震えが、アンジェリークの中を駆け巡って行った。         アパートのそばを通りかかった時、ドアが突然開いた。だから、無意識にそっちに目をやっただけなのだ。それだけだったのに。 緑の目が、ばちっとこっちを見ていた。 ゼフェルはそこから目がはなせなくなってしまった。 緑の目のメドゥサ。ゼフェルはその目を見る度に、思い出す度に、石になってしまう。そして、心だけが溶かされていってしまう。心は溶けて、流れて、メドゥサのものとなってしまった。もう返ってこないのだ。それでも、ゼフェルは全然かまわないのだけれど。 でも、そのメドゥサを、自分のものにしたいと思うのだ。昨日から、ずっと、激しく。それは、かなわないことだったけれど。 緑の目のメドゥサは、相変わらず石化したゼフェルを見つめ続けている。 先に口を開いたのはゼフェルだった。 「何・・・・・やってんだ?」 何、と言われても、家から出て来ているのである。ゼフェルこそ、何をやっているのか。アンジェリークはそう尋ねてもよかったのだ。でも、出てきた言葉は、そんなことではなくて。 「野菜・・・売ってます?」 だった。 色気の「い」の字もない言葉だった。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++   結局、二人して八百屋に帰って来てしまった。野菜を売る、という名目で。 はっきり言って、いい野菜は残っていないのだ。今日は休みだから、全く仕入れをしていない。大型冷蔵庫の中に入っている分だけである。でも、ゼフェルはそれを好きなだけアンジェリークに取らせ、タダでくれてやった。 その間ずっと、ゼフェルはアンジェリークを見つめ続けていた。横顔、斜めの顔。 よく考えると、ゼフェルは彼女の正面の顔を見たことがないのに気付く。遠くからはあったけれど、今見ているような横顔と同じくらいの距離では、一度も。もしくは、正面の顔がどんなだかわからないほど、近づいたことがあったか。もしまた正面の顔が間近に接近してきたら、自分を止められるかどうかあやしかった。今度は熱という言い訳がきかない。それは、とても困ったことなのだ。彼女を手にいれたいとは思うけれど、嫌われたくないとも思う、その気持ちのせめぎあいが、ゼフェルの首をぐっと締め続けていた。   「ありがとうございました」  ぺこっと頭を下げるアンジェリークがいる。さっきのメドゥサではないアンジェリークだ。彼女はゼフェルを見つめていない。ゼフェルは、安心して彼女を見つめられる一瞬の空間。しかし、落ち着かないとも思っていた。アンジェリークの心がみえないのだ。いつも見えないけれど、あの緑を見ていないと、どうしても、不安になる。 何・・考えてんだ? そんな気分にいつもなるのである。キスをした時もそうだった。さっき目があった時も。アンジェリークがもし口を開かなかったら、「何してんだ?」のあと「何考えてんだ?」と聞いていたことだろう。それくらい、彼女のことを知りたくてたまらなかった。   今さら。今さらこんな気分になるとは思いもよらなかった。八百屋を継ぐために子供はいるとは薄々は感じていた。いつかは結婚をしなければ、という自覚もあった。でも実感がなかったのだ。「いるよなあ」くらいの感じでしか、その事実を受け止められなかったのだ。けれど今、実感が溢れるくらいに湧いてくる。アンジェリークを・・・・・・・。 また、はっとしてゼフェルは我に返った。アンジェリークは頭を下げおわって少し困ったような表情をしている。 クソ・・・・ 何も言えない自分が悔しい。こういう時、ルヴァのように優しく声をかけてあげられたら、と思うのだ。 そんな折。 やはり邪魔者は現われるものである。しかも、またあの男だったのだ。 今度こそ、完全にブチ切れてやろうかと思った。 だって。 今度のルヴァときたら、ゼフェルでさえ呼ぶのをためらうこのメドゥサを、呼び捨てにしたのだ。 「アンジェリーク」 と。 勝手に呼び捨てにすんじゃねぇ! 悔しくて、ゼフェルはまたルヴァに牙を剥くことになるのだった。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++   「夕食どうですか〜?」 ゼフェルが思いっきりルヴァを怒鳴りちらしてやろうと思っていた矢先に、いきなり膝かっクンを食らう。実際にされたわけではなく、心のなかで大仰にコケたというだけであるが。 ルヴァは要するにアンジェリークを夕食に誘ったのである。二人の会話―――会話という会話をしたわけではないが―――に割って入ってきて。 しかし、また夕食である。おかゆ、お味噌汁、そして夕食。 「ゼフェルが作りますからね〜」 そして、またしてもゼフェルは激しく膝かっくんされる。ぐっとこらえてはみるものの、どうもバランスが悪い。 「誰が作るっっっっっっっっっていった!!!?」 怒鳴り散らす。尋ねたというより、「オレぁ作らねぇからな!」を主張したつもりだったのだ。 しかし、ルヴァはそんなことはものともしない。何せ、ゼフェルの兄である。そんじょそこらのただの兄ではないのだ。 「アンジェリーク、ゼフェルの作った夕食食べたことありますかぁ?おいしいんですよ〜〜」 ゼフェルの大声を全く無視した見事な右フックであった。ゼフェルは肩をがっくしと落とすと、そのまま奥へ上がろうと思った。不貞寝でもしてこの場をやり過ごそうと思っていたのだ。 しかし。 ゼフェルには気にしなければならないトピックスが2つほどあった。 1つ目は、アンジェリークが夕食に来るのであれば、ずっとこのまま彼女の傍にいられるということ。 2つ目は、ゼフェルが夕食を作った場合に彼女が喜んでくれるかどうかだ。 ゼフェルの世界は、もうすでにアンジェリーク中心で動きだしていた。今まで中心にあることなどなかった女という地軸が、今まさに高速回転でゼフェルアースを回しまくっている。 ちっくしょー。 奥に上がる寸前に、ゼフェルがまた小さな声できいた。 「食うか?」 まっすぐ、彼女の顔を見られなかった。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++   あ。 アンジェリークは今の目の前の状況がよく把握できていなかった。ルヴァの「夕食どうですか」はゼフェルに対してのものだろうと思ったのだ。大学時代も、ルヴァは突飛な発言が多かった。だから「アンジェリーク」と彼が呼んだのも、何かの間違いでは、と思ったのだ。 だって。そんな。 困った。本当は一緒に夕食を食べたいのだ。何でもいいから、傍にいたかった。本当に何でも。髪がぐちゃぐちゃでも、顔がどろどろでも。それでも、傍にいること以外、今のアンジェリークがしたいことなどなかった。   迷ったり困ったりしていると、ゼフェルが奥に行こうとする。 あっ。 待って、と思った瞬間。 ピタリと彼の体が止まって、言うのだ。 「食うか?」   心臓が、破裂しそうだった。足の裏とか手の中とかが、ぎゅっとつぶされていくような、痛い感覚。 でも、不思議なことに、痛いというより、熱いのだ。 こんな恋は、今までしたことがなかった。 たまらなく好きな人の作った食事・・・・。 アンジェリークは、少しだけ男の気持ちというものがわかったのだ。好きな人が作った食事を食べる幸せ。   「食べます」 明るく、言った。   そして、思ったのだ。   いつか、この人を。 いつか、この人に。 この感情を、味あわせてやる、と・・・・・。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++   ジーンという音が、壊れるくらいにゼフェルの頭中をかけめぐって行った。緑色をしたそれは、ちかちか点滅しながらゼフェルの頭をかき回す。 抱きしめ・・・てぇ。 そういう思いのなかで、ゼフェルは何とか自分を抑え付ける。抑えて抑えて、そして言った。 「上がれよ」 それだけ言って、ゼフェルは奥の台所に立った。 これ以上、普通にアンジェリークと会話をしてはいられないと思うのだ。もし、これ以上話してしまったら、言ってしまいそうだった。 好きだ、と。 好きで好きで、頭がおかしくなりそうだ。 だからオレの傍にいろ、と。   悔しかった。大声で叫んで、抱きしめてしまいたい体がすぐ傍にあるというのに、ゼフェルは台所とツーショットだ。 バカじゃねぇのか。 ぐっと目をつぶって、また開いて。 そうして、ゼフェルは包丁を取り出した。 シャキンという刃物の音がした。 そして、もう一つ、音がした。 ぱたぱた。 「これ、どこにしまいましょうか?」 ゼフェルが自分の世界にいりびたっているうちに、アンジェリークが奥に上がってきていたのだ。その上、ゼフェルの洗濯物を・・・・・・。 「おい!」 叫んで、包丁を持ったままアンジェリークの方まで歩み寄る。アンジェリークから洗濯物を、奪・・おうとした。 でも。 逃げられた。 理由は簡単だった。ゼフェルが刃物を持ったままだったからだ。よく考えれば、そんなこと小学生でもわかるのに。 ゼフェルは、そんなことで頭が爆発してしまうのだ。 何で! 刃物くれぇで、とは言わない。けれど、逃げられたことが、すごく、痛くて、苦しくて、切なくて。   ヒュッ・・・・ガッシャンッ 包丁を、流しに投げたのだ。 包丁の銀光りが、「オレは刃物だぜ」と告げているような、そんなすごい音がした。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++   「おい!」 言った勢いで、包丁をぶち飛ばして。もしかしたら刃がかけたかもしれないけれど、そんなことはおかまいなしだ。 「あっあのっ。これ・・・・どこに?」 ・・・・にこっ。 眉間の皺の増量は、昨日の頭痛時よりボーナス30パーセントだ。すごく機嫌が悪そうだ。でも、アンジェリークはそれに気付いているのかいないのか、とにかくにこっと笑うのである。それだけで、ゼフェルの眉間の皺はドモ◯ルンリンクル状態だ。ツルツルの眉間になるのだ。そして、へにゃっと、緩んでしまいそうになる。 好きだ、という気持ちが、溢れてくるのだ。かわいい、だとか思う気持ちもあっただろう。 そういうわけで、「おい!」の後には 「あ・・・そこに」 という、何ともゼフェルらしくない言葉が出てきてしまったのだ。ぱたぱたと、アンジェリークが洗濯物を運んで行くのを確認して、そっと舌打ちをする。 あー・・・ぁ・・・ 何やってんだ、オレ。 女ごときにひるむ人間ではなかったはずなのに、どうしても緩んでしまうのだ。この女だけが、そんな気持ちにさせる。   「ゼフェル〜」 そんなゼフェルの思考をストップさせたのはルヴァだった。 「ゼフェルー。コレ、どこに置きましょう?」 ベッドの横にあったはずのゼフェルの大事なものは、憎き兄の手の内にある。 「何で!」 おめーが持ってんだ!! そう叫ぼうとした瞬間。 「きれいな鉢植えですね。」 にゅっと。 おそらくゼフェルが気付かなかっただけだろうが、にゅっとアンジェリークがゼフェルの横へやって来ていた。 「ぅわぁあっ」 心臓ばっくんばっくん状態のゼフェルはとりあえずアンジェリークの傍を離れた。近くにいる自信なんか、全然ないからだ。 「アレ、何ですか?」 聞かれても。 ゼフェルは答える気もなかったが、答えられないというのが、その一番の理由だった。 何故かというと、ゼフェルはこれを彼女にあげるつもりでいたから。そのうち、そう思っていた。そして昨日、いつか必ずわたそうと心に決めた。でも、そんなこと、天地がどうひっくり返ったって、言えないのだ。 「何かの・・・花ですか?」 本当は、ポインセチアという花だった。冬に咲く花だ。葉っぱは緑で、花は赤い。葉のような花が咲く。クリスマスの花だ。 そう。 ゼフェルは、ずっと前からクリスマスプレゼントを用意していたのだ。ゼフェルにとっても、この時期はいちおうアニバーサリー付いた季節だった。別に理由はなくても、素直に彼女に渡せるかもしれないと思ったのだ。 ああ、もしかして。 ゼフェルは少しずつ、アンジェリークの言葉をかみしめながら、どう答えるかも考えながら、ぼんやりと、思った。 もしかして、オレはあいつのこと、ずっと、ずっと、好きだったのか。 クリスマスに女にプレゼントをやろうと考えるなんて。それも、無意識に。 カッ頭が熱くなる。 横にいるアンジェリークをぎゅっと抱きしめたくなる。何でもいいから、アンジェリークにこの気持ちを伝えたい、と、そう、思うのだ。 ヤバい。 こんなに好きになることなど、これから先あるのだろうか。こんなにまで胸を熱くさせる相手に。もし。 もし、コイツにフられたら・・・・。 ぶるっと、寒気がする。首筋が、冷たい。 「別に。」 それだけ言うと、ゼフェルはまた、台所に帰って行ってしまうのだ。まるで何ごともなかったかのように。 「ゼフェル〜、これ、どうするんですか〜?」 ルヴァは、相変わらず尋ね続けていたが、アンジェリークもまた、不思議な顔をしながらも、洗濯物の片付けに帰って行ったのだった。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++     できたてのご飯は、そりゃあもう、おいしかった。 でも、ちょっと悔しい気もする。ゼフェルが、自分よりも料理が上手なのは、女としては少し悔しいのだ。でも。 やっぱり、おいしい。 ほくほくしながら、アンジェリークはどんどんたいらげていく。 横に座っているゼフェルのことを、少しだけ意識しながら。 「おいしいですね」 そんな言葉もかける。でも、彼はそういう度に顔を背けてしまうのだ。 照れやさん・・・。 ぽっと、あったかい太陽がアンジェリークの中で輝いた。ゼフェルという名の太陽は、どんどん南中していく。もう、熱いくらいに。   「おいしいですね〜」 「ええ」 ゼフェルが黙々と食べるものだから、結局会話をするのはルヴァとアンジェリークだけになる。 ゼフェルはそれを面白くない気持ちで見つめていた。 ルヴァと、仲良すぎじゃねぇか? 別に恋人でもないアンジェリークにたいして、その言い種はあんまりだ。だけど、心の中での発言は、こんなものなのだ、ゼフェルの場合。 「ごっそさん」 早食い競争では小学生時代誰にも負けなかったゼフェルだ。ちゃっちゃか食べ終わって、流しに茶碗を持って行く。あわてたアンジェリークが、急いでバクバク食べる。 「ゆっくり・・・食ってろ・・・」 つぶやくように言って。 ジー・・・ン。 何となく、イイことが言えた気がした。アンジェリークはそれからふっと微笑んで、ゆっくりご飯を食べているのだ。うれしかった。どうしようもなく、うれしかった。ゼフェルはぼすっとベッドの中に埋もれると、そのままそこで暴れだしたい気持ちになった。 アンジェリーク。 心の中でつぶやく度に、うれしい、と思う。幸せだ、と。   知らないうちに、ゼフェルは眠りに誘われるまま、どこか別の世界へと旅立って行った。ポインセチアをベッドの脇に置いたゼフェルの寝顔を、アンジェリークによってじっくり観察されているとも知らずに。そのときの夢は、たぶんすごく幸せな夢だった。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++     「ゼフェル〜起きて下さいよ〜」 ルヴァが遠くでごにょごにょ言っている。 るせー・・・。 つぶやいて、ゼフェルはまた安眠の世界へとダイブしようとしていた。しかし。 「ゼフェル?」 今度はもっと近くで、何か、すごくいいものの音がした。すごく好きなものだ。 はっ! 気が付いて、がばっと起き上がる。 アンジェリークがそれにビックリして、「きゃっ」と声を上げた。 「ゼフェル〜。あの〜、私はアンジェリークを送って行きますので〜」 そう行って、玄関の方へ行こうとする。ゼフェルの働き初めのバカな頭は、あんまり意味を汲み取ってくれない。 「お邪魔しました。ごちそう、さまでした。すごく、おいしかったです」 アンジェリークが。 そう言って、ゼフェルの寝室を後にしようとした。 その時。 「待て」 ずるっと這い出るようにして、ゼフェルがベッドから出てきた。頭をがしがしとこする。 「オレが行く。」 その声は、ルヴァには聞こえていないようだった。 ゼフェルはかまわず、アンジェリークの腕をひっぱる。 玄関の方へ、あの時と同じように、アンジェリークはゼフェルの後を着いてくる。 背中が、何だかあったかい気がした。 「ゼフェル?」 怪訝に思ったルヴァがゼフェルに質問を・・・ しようとした。 けれど、それはゼフェルの睨みによって一括されたのだ。 ルヴァの小さな目が少し開かれる。 そして。 「いってらっしゃい。アンジェリーク、また来てくださいねぇ。」 そう言って、ルヴァはゼフェルとアンジェリークを送りだしたのだ。 ルヴァだって、人間だ。 ゼフェルの、兄である。 ゼフェルの気持ちくらい、わかるものなのだ・・・・。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++     足音だけが、延々と続いていた。遠くの方で、車の音もしていた。 もうすぐ、アンジェリークの家だ。もうすぐ。 ・・・・。 結局、あのあと一言も口をきかないままだ。 けれど、前回のように街頭のしたでムリヤリ唇を奪ったりもしなかった。アンジェリークはただただゼフェルの後ろをついてくるだけだ。 アンジェリーク、オレ、おめーに渡したいもんが・・・。 ダメだ、違う。 アンジェリーク、おめー、オレのこと・・・。 これも違う。 もう、何度も何度もシュミレーションを繰り返したけれど、いい言葉が思いうかばないのだ。頭の中にはアンジェリーク、という単語を、発音したい欲求でいっぱいだ。 アンジェリーク、アンジェリーク、アンジェリーク・・・・。   「ア・・・・・・」 ンジェリークとは、呼べなかった。 息がつまってしまうのだ。 たかが名前くらいで、ゼフェルはこれほどまでに緊張してしまうのだ。 でも、アンジェリークが、今ゼフェルが何を言おうとしているのかを、悟ってくれる。 「何ですか?」 にぱっと笑った姿は、街頭に照らされて、すごくきれいだ。 抱きしめたい、と思う感覚が、耳をつんざく。腕をのばしてしまえよ、とささやく。 「オレ・・・・」 息を飲む。唾も。心ごと、飲み込んでしまいたかった。 けれど、それはかなわない。もう、ひっこめることなんてできないのだ。 「アンジェ・・・・・リー・・・」 「アンジェ」 「え?」 「アンジェ。そう・・・呼んでください」 赤くなった彼女の姿がまた、街頭に照らされる。雨が降りそうな空の下でも、アンジェリークは輝いていた。 ぐっと、こらようとして。 それでも、無駄だった。 アンジェリークは、もう何度目かになる不意の抱きしめをくらうことになったのだ。 きつく、きつく、ゼフェルはアンジェリークを抱きしめる。 「アンジェ・・・」 ゼフェルはそれだけをつぶやくと、またぎゅっとアンジェリークを抱きしめる。もっと力が欲しいと思う。もっときつくアンジェリークを抱きしめられる腕が欲しいと思うのだ。 「ね・・・」 アンジェリークは囁くように言った。その声が、ゼフェルの体をビクっと震わせる。 拒まれたく、ないのだ。 とたん、心臓が痛くなる。とたん、心臓が破れるのだ。 「私・・・・・・あっ」 そして、ゼフェルはアンジェリークには何も言わせたくなんかなくなるのだ。また唇を奪おうとする。でも、それはアンジェリークが顔を背けて、失敗に終わった。眉間がぎゅっと寄って、それからため息が出る。 「アンジェ・・・・・オレ・・・・よぉ」 中学生のような、告白だった。 こんな時、何と言えばいいかなんて、学校では教えてくれないのである。それから、友達も。今まで自分から告白したことなんてなかったことに、やっと今気が付いたのだ。それから、自分がそれほどアンジェリークにメロメロになっているのかも。 「おめーのこと・・・・」 もう一度、ぎゅ〜〜っと、抱きしめて。アンジェリークが逃げてしまわないように、抱きしめて。 「・・・好きだ」 言ってしまった後で、血がぐるんぐるんと心臓の中を回転する。胃も腸も、おそらく血染めだ。熱い。熱くて死にそうだ。頭の中が心臓の音でいっぱいになる。 「ゼフェル・・・・・」 びく・・・ 肩が震えて、少しアンジェリークを抱きしめる腕をゆるめる。そしてまた、きつく抱きしめる。 人通りの少ない、この路地で。 抱きしめられたアンジェリークは、涙を隠すことなく、流し続けていた。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++   うれしいんだか、何のか、よくわからなかった。よくわからずに、泣いていた。 「ゼ・・・」 言おうとして、ひっく、としゃくり上げる。肩が、ぐっと上がったり、下がったり。その度にゼフェルはアンジェリークを抱きしめ直すのだ。あったかい感覚が、じわっとアンジェリークのなかに広がって行った。 「ゼフェ・・・」 今度は少しだけ、言えた。また、肩が上がって。ゼフェルは、さっきよりももっと強く抱きしめた。壊れるくらい細い肩。小さい背中。何もかも、愛しかった。 「ぅ・・・・」 変な声ばかりが溢れて来る。本当はこんなこと言いたいわけじゃないのに、どうしても、声が出ない。 「イヤなのか・・・?」 ひどくおびえたような声だった。腕の力が、ふっとなくなる。崩れ落ちるように、アンジェリークの体は地面に落ちて行った。何もかも奪われて、地獄に落ちたような落下・・・そう思った。 「イヤなのか?」 もう一度、今度は強く、言う。アンジェリークを拾い上げることすらできずに。 ぐっと、ゼフェルはこめかみに力をいれる。拳にも。 強く目をつぶって。そのまま棒立ちになってしまう。もう、アンジェリークを見ることができない。 アンジェリークはぴたっと動かないままで。 そうして、ゼフェルは。 アンジェリークが激しく首を振るのを、見ることができなかったのだ。ゼフェルは、強く目をつぶってしまったから。耳の中の大きな音に耐え切れなかったから。幻聴という残酷なものが、ゼフェルの心臓をわしづかみにしていたのだ。その声は、そのアンジェリークのそれで。 「イヤよ」 そう冷たく言い切るのだ。 それは幻聴というものだった。それはゼフェルもわかっていたけれど、それでも、幻聴が本当になるのが、怖かったのだ。   気が付いたら、走り出していた。   アンジェリークはそこにへたりこんだままで。 そうして、胃をえぐられるような深い哀しみだとか、追いかけたい気持ちだとかが、交錯する、どんよりとした曇り空の中、一人たたずんでいた。涙で視界が悪かった。けれど、そんなことよりも、何よりも、目の前が真っ暗に、なってしまった。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++   そこは懐かしい場所だった。むかし、よく遊びに行っていた。でも、そこは3年くらい前に閉店になったはずだった。 時計やさん。 そう呼ばれていた。 そこには赤い髪の男がいて、いつも時計をいじっていたのだ。その様子が、ゼフェルにはとてもうらやましかった。今となっては、おそらくその彼よりも器用になっていたが。赤い髪の男は、ゼフェルの憧れだったのだ。武骨そうな大きな手で、大きな体で、あの小さな時計をいじっている彼が、ゼフェルの憧れだった。 でも実際のゼフェルときたら、女一人を自由にできない。いや、時計なら、自由に何でもできただろう。でも、人間相手には、不器用すぎたのだ。 しかし、閉店したはずのその店が、開いているのだ。何とも奇妙な光景だ。 時間が戻ってしまったような。   時間が。 戻ってしまえばいい。 あんなこと、言わなきゃよかった。 くそっっっっっっっっっっっっっっっっ!! 激しく、拳を地面に叩き付けたい衝動にかられる。彼女は泣いていて。またしても、泣かしてしまって。しかも、自分は「好きだ」と言ってしまったのだ。言ったとたん、彼女は泣き出した。あのキスの時と同じように。あの時、彼女は何と言ったか。 「いやっ」 そう叫ぶ彼女がフラッシュバックする。イヤ、だったのだ。 イヤ・・・・ そういう言葉だけで、暗いものがゼフェルのすべてを食らいつくそうとする。 ふらっと、倒れそうだった。足に力がはいらない。   カラン 時計屋の扉が開く音がした。 大きな影が、せまってくるのだ。 ゼフェルの目の前に。 そして。 「ゼフェルか?」 そう、言った。 低い声の、赤い髪の、男だった。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++   「久しぶりじゃないか!今ルヴァから電話がかかってきたぞ!おまえ〜、何だかイイ女がいるそうじゃないか。大人になったもんだ」 はっはっは。 そんな勢いでしゃべっていた。久しぶりの再開なのだ。彼はどこかの戦場にいっていたはずだ。何だか急に借り出されたとかかんとかで。それで、一生会うことがないかもしれないと思った3年前のあの日は、ゼフェルも少ししんみりして、夜中に涙を拭ったことだってあったのだ。 けれど、今は再開を喜んでいる暇ではないのだ。 アンジェ・・・・・・・ ぎゅっと肺をつかまれて、ひっぱられる。アンジェリークから逃げてきた方向へと、その肺は伸びていく。キリキリと痛んだ。 ヴィクトールというこの男の「イイ女」というのは、さっき自分が泣かしてしまった彼女のことだ。アンジェと呼ぶことを許されたのに。そこまで、いったのに・・・手放した。 「おい、ゼフェル・・・?」 怪訝な顔で、ヴィクトールはゼフェルを覗きこんだ。   「おい・・・・」 今度のおい、は、ゼフェルのものだ。 びっくりしていた。 3年前にはなにもなかったはずのヴィクトールの顔には、斜めの傷ができていたのだ。ふさがっているとはいえ、かなり深い。 「どうしたんだ」 ゼフェルは食い入るように、その傷を見つめた。 「ああ、切られたんだ」 あたりまえだ。自分で切ることなどないから、よっぽど間抜けにこけて運悪くガラスの破片にでも激突しないかぎり、こんな傷は早々できるわけがないのだ。 「痛くねぇ・・のか?」 ヴィクトールはその問いには答えず、指を見せる。 左手の、小指を。 正確には、もう、そこにはない、指を。 「これも、切られたんだ」 そう言って、ゼフェルの肩を叩く。 「話しはルヴァから聞いてる。何か、あったんだろう?そんなツラそうな顔するくらいなら、話したらどうだ?」 そして、ゼフェルはヴィクトールの背中についていくのだ。 カラン。 また、そういう音がした。 ヴィクトールのおおきな背中が憎らしかった。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++   小指を見て、ゼフェルはまた、同じことを聞いた。 「痛く、ねぇのか?」 見るのも、痛々しい、傷跡だったのだ。 すると、ヴィクトールはくしゃくしゃっとゼフェルの頭を撫でた。昔よくやられたように。まるで、時が逆戻りしたかのように。 そして言うのだ。 「痛くないさ。俺は戦争に行って、人生を無くす変わりに小指を無くした。痛いのは、心だ。死んで行った戦友たちを思う時、この痛みが一生消えないことがわかるんだ。・・・痛いのは、心だ。」 何かを失う哀しみ。小指を失った心でさえも、こんなに痛いのに。 ゼフェルは、アンジェリークを見失った。ゼフェルは、アンジェリークという心臓をなくしたのだ。 つらい、なんてものじゃない。 痛いなんて生易しいものでもない。 心臓のない体なんて、生きていないのだ。胸が、丸ままえぐられて、それでも生きているような。死んだ方が、まだマシなほど。アンジェリークの心がわからない。自分の心でさえも、どうにもならないのだ。それが、悔しくて、切なくて。 もう、眉間に皺を寄せる気力すら、残っていなかった。     ・・・・・・・・・・・・ ゼフェルは泣き出してしまいたい心を抱えていた。抑え続けていて、今にも弾けてしまいそうだった。 ヴィクトールは微笑むと、またゼフェルの頭をくしゃくしゃっとやった。そして、こう言うのだ。 「お前はもう大人だ。俺の言うことがわかるな?・・・よく聞けよ。俺の小指は戻らない。でもな。お前の心は、戻るんだろう?・・・・だったら。」 行って来い。   人はいつか大人にならなくてはならない。いつから大人になったのかは、誰にもわからない。境界線があるわけではない。瞬間で、感じる時があるわけではない。 けれど、心が痛いと思う時、それは、ゼフェルが大人になってしまったと、自覚した時だった。そして、心臓を取り戻さなくてはならない。これから先、生きていくために。 アンジェリークが、必要だったのだ。 好きだ。 オレのモンになれ。 必要だ。 おめーなしじゃ、生きていけねーんだよ! 言いたいことはたくさんあった。言わなければならないことも。どうしても、アンジェリークを手にいれなければならなかった。   外は雨が降り初めていた。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++   何・・・やってるんだろう? アンジェリークは自分に聞く。 でも、答えは帰ってこない。ゼフェルには、たぶん嫌われただろう。自分は、馬鹿なことをやってしまった。 でも。 ゼフェルも、十分にバカだ。必死で首を振る自分を見てくれないなんて。でも、自分はもっと馬鹿だ。ちゃんと言葉でいわないなんて。いくら泣いていたからと言っても、ちゃんと言葉に出していればよかった。そしたら、今ごろまた抱きしめてくれていたかもしれないのに。 きっと、嫌われた。 もう、野菜売ってくれないかも。 違う違う。そうじゃない。もう、顔あわせてくれないかも。向こうだって、気まずいだろう。誤解だって、言いたい。 言わなきゃ。 ゼッタイ。 そう思っているうちに、雨が降りだしていた。すごく強く降っていた。胸を割くような、雨だ。 いたい。 イタイよ。   遠くから、ばしゃばしゃと、音がする。 アンジェリークはそっちに目を向ける。そして、その目をそらした。 それは、ゼフェルではなかったから。 ちょっとだけ、期待した自分に腹がたつ。前と同じにはいかないのだ。 ゼフェルではない人間は、そうしてアンジェリークの前をすごいスピードで駆け抜けていく。 ゆっくりと、アンジェリークの足も動きだす。 うちに、帰らないと。 けれどその足は重く、動こうとしない。ゆっくりと、本当にゆっくりとしか、動いてはくれないのだ。 イタイよ。 いたい!!!!!!!!!!!!!! 叫んでも、泣いても、たとえ笑ったとしても、ゼフェルは来てくれないのだ。 来て、くれないのだ! 「ふっ・・・・・」 声が、漏れる。涙が、雨に混ざってこぼれる。今なら、ずっと泣き続けられそうな気がする。この雨が降っているかぎり、子供のように泣きじゃくることができるだろう。 そしてずっと、アンジェリークは泣き続けていたのだ。 雨がずっと、アンジェリークの涙を隠してくれていた。 +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++   バシャバシャとすごい音をたてて水が跳ね上がる。靴が重い。 ヴィクトールが貸してくれた傘はどこかに捨てて来てしまった。傘が、邪魔だったのだ。水に濡れようと、かまわないかった。それよりも、アンジェリークが必要だった。彼女という雨が。 けれど、ゼフェルが走って行ったのは、アンジェリークの家の方向ではなかった。 八百屋の方向だ。 そして、玄関をガンと蹴って開ける。 びしょびしょのまま、寝室に上がると、ポインセチアの鉢を握る。   ルヴァが、立っていた。 「いってらっしゃい」 また、そう言って、ゼフェルを追い出すのだ。早く行け、と。たぶん、ヴィクトールに聞いたのだろう。実はよく電話ではなしをする、と言っていたから。 そのルヴァの目は優しくて。 ゼフェルの決意を強くしてくれたのだ。 ゼッテー、手にいれる。 そう思った。 ゼフェルはルヴァを見つめて、また玄関へと走っていった。 さっきよりも速く、もっと速く。 ゼフェルは雨の中を駆け抜けていった。 そうして、あの街頭の下を通りすぎる。 靴の重さに耐えられなくなって。 乱暴に靴を脱ぐ。 そして、走りだす。   どこだ、どこだ!   そうして、みつけた。   雨の中の金の髪が、ぼうっとそこにあるのに気が付いた。 その頭が、下にむけられているのに、気が付いた。 ゾク・・・・・ 泣いているのだ。 ポインセチアを握り締める。 そして。 「アンジェ!」 名前を、呼んだ。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++   「アンジェ」と叫ぶと、黄色い頭はぱっとこっちを向いた。 顔がよく見えないくらい遠くだった。 だけど、ゼフェルが叫ぶにはちょうどいい距離だったのだ。 「アンジェ!!!」 叫んで、深呼吸をして。 痺れた指先を、ぐっと握り締める。 そして、空気を吸い込んで。 「好きだ!!!!」 叫ぶのだ。言えば言っただけ、それだけ思いはつのっていく。もっと言いたい衝動にかられる。 「好きだ!!アンジェ!!!好きだ!!!」 何度も何度も。 少しずつ、アンジェリークが近づいてくる。やめて、と叫ばれても、やめる気なんてなかった。叫びたいだけ、叫べばいい。好きだと言いたいのだ。もう、抑えられない。 それっくれぇ・・・おめーが好きだ。 そういう気持ちなのだ。そして、嫌いだと言われても、さらっていくつもりだった。 どうしても、欲しい。彼女が、どうしても。どうしても! 「好きだ!!」 壊れたように、何度も叫ぶ。アンジェリークはついに駆け出した。 「ゼフェル!」 アンジェリークは叫んで、そして。 「ゼフェル!」 ゼフェルの首に。 抱きついてきたのだ。 それは大きな震えで。びっくりしてしまって、次の言葉が出てこないのだ。ゼフェルは目に雨がはいるのも気付かずに、目を見開いた。その目には、たぶん涙もたまっていただろう。目頭が、熱かった。 「ゼフェル・・・」 びしょびしょの二人の体が、ぴったりと寄り添うと、すごくあったかい。 「アンジェ・・・」 つぶやいて、そして。 震える手で、少しずつ、アンジェリークの背中に、自分の手を近づける。   ぎゅっと。 本当にぎゅっと、抱きしめた。さっきと、同じように。 そしたら。   ガシャンッ   音がして、ポインセチアが、落ちてしまった。 大切な鉢植えが、落ちてしまったのだ。   雨にながされていく土が、みるみるうちに広がっていっていく。 それでも、ゼフェルはアンジェリークを抱きしめ続けた。 「アンジェ」 そして、アンジェリークの腕に、力がこもる。たどたどしく、でも、ぎゅっと。 そして。アンジェリークがこう言った。 「キス・・・しても・・・い・・・?」 尋ね終わる前に、ゼフェルがしていた。 熱い唇が、雨を溶かしてしまうような、そんなキスだった。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++   キスが、ずっと、ずぅっと続いて。 それが終わるころには、もう息切れしか聞こえなかった。遠くで雨の音がするくらいで。肌にあたるそれは、矢のようだったけれど。ゼフェルが唇で溶かしてくれるのだ。 「アンジェ・・・」 切なげに、ゼフェルが囁いて。 そうして、今度はアンジェリークから、唇を寄せる。 やり方は、知らなかった。でも、したい。そう思ったのだ。 「好き。」 唇がふれあう寸前で、そうつぶやいて。 そうして、キスをする。   ずっと、ずっと。このまま時が止まってしまえば。 そう、思った。 時を無にするかのように、雨が降り続いていた。         ポンセチアの鉢植えの修復は不可能ではなかった。ゼフェルは悪戦苦闘して、新しい鉢を買ってきて植え直す。それを、アンジェリークの部屋に飾って。 「ね、ゼフェル」 アンジェリークは、後ろ手に、なにかもっていた。恥ずかしそうに、ゼフェルに差し出すのだ。 ゼフェルは無言でうけとった。 そのジンとする感覚に身をゆだねることにしたのだ。 「あげる」 そう言うと、ぷい、とアンジェリークは向こうを向いてしまうのだ。その耳は真っ赤だった。 あ・・・ 刃物のように自分を貫いていく音が、ゼフェルを動かした。 ゼフェルは鉢植えをテーブルに置いて、アンジェリークを後ろから抱きしめる。 そして、 「好きだ」 好きなだけ言ってもいい。それが、たまらい気持ちにさせるのだ。アンジェリークは真っ赤になって、バカ、と小さな声で言う。 「好きだ」 ゼフェルはまた言って、ぎゅっと抱きしめ直す。 テーブルの端には、夏収穫のトマトの苗が、置いてある。 まだ緑だけのこの葉っぱには、ゼフェルの目のように真っ赤な実がつくはずだ。 でもそのころには、トマトもポインセチアも八百屋の台所に並んで置かれることになるのである。そして、アンジェリークは職場を移転することにも、なるのだ。 けれど今は、抱きしめてばかりの彼女たちは、暖かな日差しのなかで、幸せを満喫するだけだった。      +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++