-One three-


口伝 【牙】


 「行ってくるよ、母さん」
 母を真っ直ぐ見据えたアスティルは、小さな笑顔見せる。
ペイラーとの死闘から三日。
 ボロボロであった衣服を替えて伸びきった髪も整えると、野生児アスティルはまともな少年へと変身をとげた。
 頭の良いアスティルはリベルターが喋り方を教えるとすぐにそれを直し、普通の会話ができるようにもなっていた。
 しかし、長く神狼と共に暮らしていたためか、瞳孔は縦に細長く変化してしまっている。
 けれど、それ以上に灰色の髪と黄金の瞳は人をひきつけるので、あまり関係ないといえば関係はなかった。
 そして、一三年間暮らしたこの山から、アスティルは今日旅立つ。
 母として、マリアは本当なら息子を手放したくはない。
 しかし、一三年前に精霊から許された時間はもう終わったのだ。
 『空のように大きく、海のように優しく、森のように賢く…狼のように誇り高く生きなさい』
 「はい」
 マリアにとって、快活に答えるアスティルはあまりに眩しく映った。
 目頭が熱くなるのを、マリアは必死にこらえる。
 そして、何を思ったのかマリアは古木に自分の牙をつきたて、そのまま犬歯を抜いた。
 『これを持ってお行き。きっと、あなたの力になるから』
 アスティルは母の見ている前で二本の犬歯を古木から引き抜く。
 「…母さんの牙、大切にする」
 『…さ、もうお行き。あなたには星と精霊の加護がありますからね』
 「母さん、元気で…」
 アスティルは母親に背を向けると、一気に駆け出した。
 涙を見せないため、こぼさないために。
 『行ってしまったね』
 声をかけてきたのは古木の精霊だった。
 『はい…全てはお約束のままに…』
 『辛い思いをさせてしまってすまないと思っている』
 『いいえ』
 マリアは首を振って否定し、それから古木の精霊を見る。
 『とても…幸せな一三年でした』
 『覚えているかい? あの子を拾ったときのことを』
 マリアはそっと目を閉じる。
 まぶたの裏には、いまも一三年前の今日のことがはっきりと浮かぶ。
 同じような星、同じような風。
 ただ、時間だけが過去のもの。
 『私はあの子を見てこう言ったね。この子は風でも火でも水でも土でもなく、まして人や獣でも植物でもない』
 『そして、私はあの子を星と名付けた』
 『星の子…』
 『ええ…』
 満天の星空が祝福を地上に送る。それは涼風となって狼の頬を撫でた。
 『いってらっしゃい…愛しい息子よ…』

 木の天辺にいたアスティルは、風の中に母の匂いを感じた。
 思わず鼻の奥がツンとして、再び涙が出そうになったが、それをどうにかこらえて地上を見下ろす。
 月明かりに照らされた木々が緑色の海原を形成し、そこを走る風が枝を揺らし波を立たせ、森に動きを与える。
 数限りない生命のるつぼ、森。
 アスティルはここ以外の世界を知らない。天を見上げれば、光り輝く黒き空。
 毎日のように母から、星のことを聞かされた。
 方角、距離、時間、吉凶…星は様々なことを教えてくれる。
 けど、確かな未来だけは教えてはくれない。
 そこにあるのは可能性のみ。
 (俺は…どこへ流れていくのか…どう変わっていくのか…)
 そろそろリベルターの元へ行こうとしたとき、アスティルの耳が足音を聞きつけた。
 この森には多くの動植物が生息する。
 ゆえに密猟者も後を絶たない。
 アスティルは最後の仕事と自分に言い聞かせて、音のするほうへと向かった。
 歩いていたのはブルーノ村の村長。
 松明を持ってどこかへ向かって歩いているようだ。
 手に武器はない。
 アスティルは木の陰に隠れて、大声を出した。
 「ここは貴様のような人間が入っていい場所ではない! 早々に立ち去れ!」
 すると、村長はが怯むことなく一歩前に出て、アスティルのいる方向を見る。
 「アスティル君だね?」
 ばれたのかと、アスティルは身を硬くする。
 しかし、すぐに見当違いの方向を向いたので、その心配はないと判断し、アスティルは再び警告する。
「帰れ! 貴様と語る言葉はない!」
 「頼む、聞いてくれ! 私は一三年前、君を生贄としてこの山に捨てた。
 そのことを謝らせてくれ! この期に及んで言い訳は言わない。
 すまなかった、このとおりだ!」
 村長は姿を見せないアスティルに向かって土下座をした。
 (いまさら…)
 「すまなかった。本当に、すまなかった…村はいつでも君を迎え入れる! どうか、許しておくれ…」
 アスティルは結局、彼の前に姿を見せることなくその場を立ち去り、リベルターの元へ向かう。
 待ち合わせの場所とした、山の中腹にある一〇〇年松の下でリベルターは本を読んでいた。
 「…待たせた」
 リベルターは、ニヤリと笑ってアスティルと肩を組む。
 「なっ、なんだ!」
 「アスティル、あれはないんじゃないか?」
 「…見ていたのか?」
 「村長さん、本気でお前に謝っていたんだぞ。それなのに何も言わずに来るなんて」
 「…いまさら…そんなこと言われたって…」
 リベルターはため息をついて、アスティルの髪をクシャクシャにする。
 アスティルは恨めしそうにリベルターを睨んだ。
 「ま、いまはそれでいい。けどな、人は一人でなんて生きられない。おまえは村長さんや、村の人にも生かされていたんだ」
 「…俺はあいつらとは関係ない」
 「フゥ……ま、いずれわかるさ。いまはおまえに帰る場所が出来たことさえ覚えていればいい」
 見下ろすリベルターの目にアスティルは母と同じような暖かさを見たような気がした。
 「さ、まずはおまえの武器を作らないとな。そのままじゃ、武器としては仕えない。ちゃんと磨いて握りをつけるんだ」
 「母さんの牙をいじるのか?」
 「嫌か?」
 「………いや、構わない」
 「よし」
 二人は次の目的地に向け、重くとも軽くともない足を動かす。
 見送るは空より生れ落ちたる新しき風と、太陽の盟友にして、永遠の敵対者である優しき月。
 ただ二人の足音だけが、森に残った。

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