〜1〜 木立の間に懸る細い月が、池の水面に映っている。 薄い帯状の雲は、流れるようにその姿を現しては、瞬く間に消えて行った。時折吹く風に連れて微かに揺れる月影は、寂しく儚い。耳を撫ぜるのは、ただ遠くから聞こえてくる河音ばかりだった。町は寝静まり、余計な音は何一つしない。吐息さえも呑み込んでしまうような蒼い空が、一抹の不安を伴いつつ、私の目の前に広がっていた。 すべてを照らしてしまうような月の灯りが怖くて、私は我知らず瞳を閉じた。不安な心を洗い流そうと、ただひたすら耳を澄ませて水音を聴いていた。 ・・・何を今更躊躇しているのか・・・。 夕刻、人目を避けるようにして此処へやってきた。知る人のいない土地で二人きり。決して叶うとは思いもしなかった我侭が、今こうして成就しようとしている。期待と不安と、少しばかりの自責の念が、私の中を渦巻いていた。それらを吹っ切るように、男に軽く微笑みかける。相手を誘うような、婉然とした笑みだった。男の方もまた、何か意味を込めた眼差しで笑みを返すと、攫うように女の腰を抱いて、自分の元に引き寄せた。しなやかでいて大胆な動き・・・。胸に顔を埋め、仄かな煙草の馨りに包まれた時、私はこのまま頽(くず) れても構わないと思ったのだ。もう既にあの時から私は、自分を見つめる琥珀の瞳に捕らわれ、自ら逃げ出すことなど出来なくなっていた。そのことが憎らしくもあり、愛おしくもあったのだが・・・。 宿自慢の露天風呂を楽しんだ私は、多少の気恥ずかしさを感じながら、男のいる部屋に戻った。部屋には灯りが点いておらず、ただ月明かりによってのみ男の広い背中が照らし出されていた。 「この方が、酒が旨く呑めそうだろ?」 縁側の戸がすべて開け放されており、男の背中の向こう、群青の空を背景に、白銀色の若い月がその美しさを控えめに主張していた。 無言で近づき、男の少し後方に腰を下ろす。と、まだ湿りのある洗い髪を緩く掻き揚げ、その背中に頭を預けた。そして、勧められた盃をクイと空けては、眼前の景色を夢見心地で眺めていた。 *** 暫く目を瞑っていた私だったが、不意に月下香の馨りが鼻孔を擽り、軽く身じろぎをして瞳を開けた。甘い馨りに誘われたか、些か大胆に自ら男の胸に身を寄せる。着流しを着ているだけに、体の温もりがいつにも増して感じられる。次の瞬間にはもう、大きな手が肩に掛けられており、更に深く抱き寄せられる。熱のこもった仄かな煙草の馨りが、私を酔わせた。 たまらなくなり、思わず、男のはだけて露になった胸に、柔らかく吐息を漏らす。彼は、抱き寄せた手はそのままに、もう片方の手で盃を持ち、酒を呷っていたが、音のない艶声を感じるとフッと笑った。体を僅かに離し、立ち上がるのかと思うとその男は、私をゆっくりと後ろに倒し、仰向けに横たわらせた。私に降り注ぐ月明かりを遮るかのように、自らの体を私のそれに重ねる。 男の、斎藤一の瞳が、何かを伝えるように、揺らめいた。私は軽く微笑むと、彼の創り出す甘美な漆黒に身を委ねた。 緩やかな河の音が、絶えることなく二人の間を流れていた。 斎藤は、顔を近づけ、その形の良い唇で、私の髪を弄(まさぐ)る。暖かい息が、切なさと共に染み込んでくる。斎藤はそのまま唇を移動させ、私の耳に触れると、浅く笑った。吐息が頬を擽(くすぐ)る。 「おい、何緊張していやがる。まだ体が硬いぜ。反応が・・・いま少しだな・・・。」 手を伸ばし、縁側に置き放していた盃を取る。酒を口に含み、またゆっくりとその顔を伏せる。私は唇に、しっとりとした温もりを感じた。斎藤は顎に手を掛け、その線を愛し気になぞってから、口を僅かに開かせる。と、体の芯を疼かせる、ひんやりとした液体が、喉を潤していくのを感じた。私は、息が苦しくなり、堪えきれずに大きく喘ぐ。 斎藤は、私の腕を抑え、頬に手を当てると、更に深く口付けた。その滑らかな舌は、水を得た魚のように、私のなかを自由に動き回る。そして、何処となく恐れを感じ、おとなしく隠れていた私の舌を探り当てると、常には感じられることの無い情熱でもって、それを愛撫した。訳もなく、涙が流れる。私は込み上げる気持ちを抑え切れずに、斎藤の愛撫に応えて彼の脣を貪り吸った。 気が遠くなるほどの時間であった。斎藤に抑えられていた腕は、知らぬうちに放されており、遠慮がちに、だがしっかりと、彼の背中を抱きしめていた。 斎藤の脣は、私のそれに一旦は満足すると、次の快楽を求めて、首筋へ、肩へと、次第に移っていく。斎藤の熱を与えられるたび、私は、彼が望むままに鳴いた。自分の艶を含んだ声が、まるで別人のもののように聞こえる。 いつもの勝ち気な私は、もうそこにはいなかった。 喉に押し当てた脣を、徐々に下へとおろしつつ、斎藤は、骨張った長い指を、浴衣の上で縦横に動かしていた。暫く彼は、私の胸の膨らみを楽しんでいたが、浴衣の下でもそれを確かめるためか、その指を広く開いた胸元から、ひっそりと滑り込ませようとした。その時だった。私は、つと口を開き、息も絶え絶えにこう呟いた。 「っ・・・唇が・・・。」 「唇が、乾く前に・・・っ・・・次の、口付けを、・・・して欲しい、の・・・。」 私は、艶に濡れた彼の瞳が近づいてくるのを、夢の中のことのように、ぼんやりと眺めていた。例えようのない至福の中で、私もきっと、今はこんな瞳をしているのだろうと、そう、考えながら・・・。
ただしお若い方には刺激かもっ、お覚悟を!(笑)。 |