繭の紡ぐ夢


 繭玉の中で安穏と眠っている少年。
 なにも、辛いことも苦しいことも知らずに、ただ与えられた幸せの中でしか、生きられない少年。
 その繭玉を握っているのは、シオン・カイナス。
 彼が死ぬまで、少年は永久に少年のままでいるのだ。


 元はといえば、些細なことが切っ掛けだった。
「シオン、私も市街に降りてみたいのだが…」
 立太子を来月に控え、セイリオス・アル・サークリッドは束の間の自由を味わいたいと、いつも自由勝手 に生きているような年上の親友に声をかけた。
 彼が、いつも好きなときに市街をうろついているのを、前々から羨ましく思っていたから…。
 でも、それを言い出す暇もないまま、立太子の儀式である日数が目の前に迫ってきてしまった。
 今までも、けっして自由がある生活とはいえなかったが、皇太子になったら、少しはあった自由な時間も まったくなくなってしまうだろう。
 そうなる前に、せめてほんの少しだけの冒険を味わってみたいと、セイリオスは考えたのだ。
 しかし、いつもなら、一も二もなく賛同してくれるはずの友人は渋い顔をした。
「市街に行くのは、止めておいたほうがいいぜ、セイル」
 顎に手を置き、まるで幼子に諭すかのような口調でシオンは言う。
「なぜだ?!昨日もおまえは市街に行ったのだろう?!」
 らしくない友人の躊躇に、セイリオスは傷つけれたような気持ちになった。 
 今まで、どんな時もシオンはセイリオスの意志を最優先にしてくれたはずなのに…。
 しかも、これからのセイリオスが置かれる重い立場もシオンはよく理解してくれているはずなのだ。
「連れていけねーよ、セイル」
 訳も言わず、駄々を捏ねるな…と言わんばかりの口調に、セイリオスはかーっと赤くなった。
 シオンからこんな扱いを受けるのは初めてのことで…。
「どういうことだ?!」
 昨日も一昨日も、シオンが市街に出たことをセイリオスは知っていた。
 知っての上での頼みだったのである。
「どうもこうも…」
 シオンは渋い顔を見せた。
 こんなことも珍しい。
 だいたいは、なんでも飄々と躱すシオンなのに…。
「立太子式を間近に控えた王子さまの言葉とは思えないぜ」
 シオンは、いつもならばセイリオスが引くであろう言葉を使ってセイリオスの要求を退けようとする。
 でも、シオンがいつものシオンでなければ、セイリオスも常の彼とは違う反応を示した。
 立太子を目前に控え、かなりナーバスになっていたことが大きな要因ではあろう。
 大きな秘密を抱えたまま、その資格もないのに皇太子にさせられる…これ以上に、大きな精神的負担はセ イリオスには考えられない。
 本当なら、こんなところでこんな風にしているはずではないのに―と、いつも心のどこかで疑問を投げか け続けている。
 これからは、その重さは更に大きくなることが今から容易に予想できるのに…。
「シオン、私が行きたいと言っているんだ!!」
 尊大な態度をとるのは、不安な気持ちを誤魔化したいからだ。
 シオンはそのことをよく知っていた。
 でも、今、セイリオスの願いを聞きいれるわけにはいかない。
 国王の具合があまり芳しくはない昨今、街の治安も少し乱れてきている。
 やはり、象徴ともなるべき国王の体調が不安定だと、国民感情もなんとなく安定しないものらしい。
 それを肌で感じ取ったシオンは、警備の手薄なところを探しては、近衛隊に見回りを強化するように進言 してはいるが、まだまだな感は否めない。
 シオンとて、重臣の子息ではあるが、今のところ、無位無冠の魔道士にしか過ぎないからだ。
 まだ進言が取り上げてもらえるだけ、よしとしなければならないだろう。
 セイリオスを守りきるだけの力を持っていない今の状態で、セイリオスを危ないと思われる所に行かせる ほど、シオンに余裕があるわけではない。
 それをセイリオスはまだわかっていないのだ。
 ただ、自分の意志をシオンがきいてくれないというだけで感情的になっている世間知らずのお子さまなら ば、尚更である。
「セイリオス、なにも連れて行かないと言ってるわけじゃねーよ。今はまずいと言ってるんだ!」
 諭すような口調になってしまったのは、今の自分の中途半端な立場に対する苛立ちもあったかもしれない。
 魔力に対する評価は非常に高いシオンだが、まだまだ若輩者というイメージが先に立ち、己の才能を充分 に発揮できているとは、お世辞にもいえない状態。
 セイリオスのせいではないことは百も承知だったし、彼に不満をぶつけるつもりはまったくなかったが、 それでも、八つ当たりはしたくなってしまう。
 シオンも、まだまだ19歳の血気盛んな青年なのだ。
 自分の能力を正しく知っているが故のジレンマを抱えている。
 そして、いつもならば頭ごなしに命令をせず、自分の意見を入れてくれるセイリオスがいつになく頑固に 言い張るのにも怒りを覚えていた。
「…わかった。もう、おまえには頼まない!」
 シオンの言葉をどう理解したのか、セイリオスは重々しい表情で頷いた。
「わかってくれたのか?!」
 シオンは表情を崩す。
 いつもの、軽めの調子だ。
「ああ、おまえの考えはよくわかった」
 セイリオスはそれだけを言うと、踵を返した。
「セイル…?」
 その、いつになく固い後ろ姿に不信感を覚えたシオンは、再度声をかける。
 けれど、セイリオスは答えずにそのまま立ち去ってしまった。
「…まさかな…」
 聡明なセイリオスが、よもや愚かなことはすまいと、シオンはそれ以上追求するのを止めた。
 どれだけ、セイリオスが精神的に追い詰められているかを考えることを忘れて…。



 セイリオスは最近、日常生活の多くを私室で送っている。
 体調不良気味な父王の名代を務めることが増えてはきたが、まだ正式に皇太子の称号を得たわけではない ので、執務室を与えられてはいない。
 以前はもっと色々な予定を組み込まれていたが、今は束の間、暇を与えられているのだ。
 皇太子になれば、恐らく想像を絶する重責が待ち構えているから。
 国王が病に伏すことが多くなった昨今、重要な公務の多くも滞りがちになっている。
 聡明なセイリオスが皇太子になれば、きっとその多くが解決させるであろうことは、文官でなくても期待 するところで、せめてほんの束の間までも、自由を…という心遣いらしい。
 セイリオスは着替えをしながら、大きな姿見に自分の姿を映して見た。
 どこから見ても、『王子さま』そのものな端麗な容姿。
 しかし、その王子さまは真っ赤な偽者なのである。
(私が皇太子だと?!)
 自嘲せずにはいられない。
 セイリオス・アル・サークリッドには王家の血はまったく流れていないというのに…。
 父母の氏素性さえ知らない、孤独な青年。
 煌びやかな光彩を放ち、偉大なカリスマとなるべく丹念に磨き上げられてきたセイリオスは、体内に流れ る自分の血を恐れている。
 もしかしたら、犯罪者の血を継いでいるかもしれないのだ。
 そんな者が、よりにもよって国王という、いわば至高の存在にならなければいけないとは、なんという皮 肉だろうか。
 若い時の王に面差しが似通っていると言われる度に、セイリオスはすべてを白日の下に晒したいという誘 惑を抑えるのにひどく苦労させられてきたのである。
『私は、この人の息子なんかではない!』と。
 もちろん、それによって失うものを考えたら、自分にそんな勇気は出ないであろうことは容易に想像でき たが。
 それにしても、最近、煩いほどついていた警備の者が少なくなった気がする。
 まるで、逃げ出すのを恐れるかのように常にセイリオスの側には騎士や魔道士が配置されていたが、こと ここにいたっては、さすがのセイリオスも覚悟を決めたと見たらしく、かなり監視の目が緩やかになったの だろう。
「悪くないじゃないか…」
 鏡に映る自分にセイリオスは声をかけた。
 平民が着る平服を着た姿は、容姿が端麗すぎることを除けば、どこから見ても一般市民にしか思えない。
「逃げるなら、今だけだ…」
 セイリオスは自分に言い聞かせるように囁く。
 シオンは共に行かず、監視の者の目を誤魔化すことも容易くなっているのは、恐らく今、この時期だけ。
「本来の私に戻れる、唯一の機会」
 はじめから、その意志があったわけではない。
 それだけは断言できる。
 だが、シオンに自分の意志を取り合ってもらえなかった時に、セイリオスの中で何かが変わってしまっ たのだ。
 これから先、長いことセイリオスは自分の意志とは無関係な立場で生きなければならなくなる。
 それは、自分に定められた運命ではない。
 本来なら、別の誰かが負わなくてはいけなかったこと。
 自由を渇望する心が囁いた。
 今なら、失踪しても、逃げ切れるのではないか―こんなチャンスは、二度とない。
「シオン、悪く思わないでくれ…」
 自分の唯一人の親友にセイリオスは口の中で詫びを言う。
「私は、これ以上の重荷を負いきる自信がないんだ…」
 セイリオスは鏡の中の自分に縋るように凭れた。
「おまえが私の側からいなくなったら、どうしていいのかすらわからない弱い男なのだから…」
 シオンに拒絶されたことによって、それまでセイリオスを支えていた糸が切れてしまったのかもしれない。
 シオンだけが、セイリオスの精神的支柱になっていたのに、その彼に拒否されたら…そう考えるだけで、 セイリオスは逃げ出すことしか考えられなくなってしまったのである。
 弱い―という自覚は痛いほどあった。
 でも…。
「私は、今から、ただのセイリオスに戻ろう…」
 セイリオスの目には、決意の強い意志が漲っていた。


 
「セイリオスがいなくなっただあ?!」
 シオンは信じられないことを聞いたと、我が耳を疑った。
 無位無冠とはいえ、一応は王立研究院に所属するシオンはそれなりの仕事を抱えていたりする。
 だから、王宮に半ば無理矢理もらった私室を離れることもしばしばあった。
 今も、王立研究院の長老達に呼び出されて、面倒くさい仕事を一つ片づけてきたばかりなのだ。
 歳若いとはいえ、国内随一の魔力を誇るシオンなればこそ、いやな仕事も多々依頼される。
 もちろん、断ることもできないではなかったが、少しでも実力を見せつけることで自分の地位を向上させ たいシオンにしてみれば、余程のことがないかぎり、断らないことにしていた。
 おかげで、異例の速さで評価が高まり、セイリオスの立太子と共に、魔道士としては破格の地位につける ことも内定している。
 遊んでいるように見せて、セイリオスのための努力ならいくらでもできるのがシオン・カイナスという男 なのだ。
 それにしても…。
「冗談じゃねえぞ!!」
 ドン!!と机を叩く。
 目の前には、困惑しきった態の騎士やら魔道士達がいた。
「あれほど、セイリオス殿下から目を離すなと言っておいただろう!!」
 騎士と魔道士は言うまでもなく、シオンの息がかかった者達である。
 先刻のやりとりがどうしても気になったシオンは、それとなくセイリオスの動向を見守るように言いつけ ておいたのだ。
 国王の手の者達ほどは拘束力を持たせてはいないが、それでもセイリオスになにか異変があったら、すぐ にシオンに知らせるようにとは命じておいたのに…。
「も、申し訳ありません!!」
 年嵩の魔道士が土下座をせんばかりの勢いで謝ってきた。
「そういう台詞は、セイリオス殿下を無事に見つけてからにしてもらおうか!」
 シオンはらしくもなく、キリキリと表情を引き締めている。
「今、市街がどういう状態か知らないとは言わせない!」
 握り締めている拳は、怒りを堪えるために、白く震えていた。
 彼らに当たっても仕方ないことは、よくわかっている。
 一番、責められるべきは、シオン自身。
 セイリオスの様子がおかしいとわかりつつ、目先のことに気を取られて、もっとも大切なことを忘れてしま ったのだから。
「とにかく、早急にセイリオス殿下を見つけだせ!それがなによりも最優先事項だ!」
 一声かけると、シオンは自分もセイリオスを見つけるべく、部屋を飛び出した。
 そして、セイリオスの私室に立ち寄り、セイリオスの私物を一点持ち出そうと考えた。
 探査の魔法を使うにしても、セイリオスの気配を発するものがあった方がかんたんにかけられる。
 そして、私室があまりにも整然と整えられていることの違和感を覚えた。
「なんだ、これは…」
 いつも整然としてはいるが、人が生活している雰囲気というものを醸し出していたのに、今のセイリオスの 私室のは人が生活していた感じがしない。
「まさか、セイリオスのやつ…」
 あまりに不遜な口調ではあったが、シオンは適格にセイリオスの意思を感じ取った。
「…逃げ出すつもりか…?」
 プレッシャーには弱いことは知っている。
 それでも、なんとか耐えてこれたのは、自分がいたからだと自惚れではなくシオンは自認にしていた。
「逃げるなんて、許さない!!」
 シオンはギリギリと唇を噛み締めると、セイリオスの私室を後にする。
 一刻を争って見つけ出さなくては―二重の意味でシオンはそう確信していた。
  
 

 セイリオスは久々の自由を満喫していた。
 1人で市街に出るのは初めてのことで、思わぬ開放感を味わえる。
 いつも誰かの御着き付きというのは、やっぱり気苦労するものなのだ。
(私は、これで完全に自由になれる…)
 来月の立太子式を一目見ようと、地方からも人が集まっているので、王都は通常の人口の3倍に膨れ上がっ ている。
 この人波に紛れてしまえば、いくらなんでも、そうかんたんに見つけることはできないだろう。
 上手く王都さえ出てしまえば、そのまま国外に逃げ出せる自信はあった。
 路銀もそれなりに持ってきた。
 アシのつきやすい宝石類は避けて、どこでも通用する金と銀を所持している。
 短時間で準備した割には、かなり考えて行動していた。
 それも全部教えてくれたのはシオン…。
 その名を思い出しかけて、セイリオスは首を振る。
 もう、忘れなくてはいけない名前。
 自由を得る代わりに、犠牲にしなければならない物の大きさを思うと、セイリオスは今すぐにでも王宮に帰 りたくなるのだ。
 今更…。
 まだ間に合うという心の弱さを無理に聞かない振りをする。
 これから先、捨てられるのでは―ということに怯えつづけることは、なによりもの恐怖。
 それに、友情にだけ縋り続ける自分の姿を想像することは、セイリオスにとっても屈辱だった。
 考えまい考えまいとしても、自然にセイリオスの思いはシオンの方へと流れてしまう。
 今でも、充分に依存しているのだ。
(これ以上側になたら、私はシオンなしでは立っていられなくなってしまう…)
 雑踏に紛れ込んで開放感を覚えながらも、心許ない思いを味わうのは何故なのか。
 自分でも答えの出ない迷宮のような疑問を抱きながら、セイリオスは市街を抜け、郊外へと向かう道を辿 り始めた。 
 そんなセイリオスを不可思議な視線で見つめる男が1人…。
「あれは、相当の上玉だ…。しかも、世間知らずときてる…」
 目深に被った帽子の下からは、暗く淀み濁りきった瞳が覗いている。
 頼りなく歩みを続けるセイリオスの後をそっと着けはじめた。



 セイリオスは王都の外れまで来て途方に暮れた。
 勢いで飛び出して来た割には、準備万端整えてきたのはいいが、肝心の脱出路を考えてなかったのだ。
 最短路を通って隣国のダリスに抜けることも考えたが、それではあまりに短絡的過ぎて、すぐに掴まって
しまうだろう。
(どうしたものか…)
 抜け出したり…という悪戯をする時は、いつもシオンがすべて手配してくれていたので、セイリオスはそ の段取りに乗っかっていればよかったから、いざ自分でことを起こそうという発想がなかった。
 もちろん、今はシオンの助けなど期待すべくもない。
(私という人間は…)
 籠の鳥だと思い込んでいたが、自ら好んでその環境にいたとしか考えられないではないか…。
「兄さん、どこへ行くんだね?」
 物思いに耽っているセイリオスに背後から声をかけてくるものがあった。
「え?」
 セイリオスが後ろを振り返ると、人が良さそうな中年の男が立っている。
(私か…?)
 夕暮れの時間帯のせいか、他に男が『兄さん』などと声をかけそうな人間はいない。
「そう、兄さんだよ!」
 男は馴れ馴れしく肩に手を置いてきた。
 セイリオスはそれを不快に思いながらも、庶民の挨拶はそんなものなのかもと思って拒否はしなかった。
「…とくに、行く宛てはないんだが…」
 言わないでいいことを馬鹿正直に言ってしまうのは、警戒心がなかったから。
 堅い口調に、育ちの良さが全部出てしまう。
「だったら、俺といっしょに来ないか?」
「あなたと…?」
 どこからどう見ても、小汚い中年男は『あなた』などと呼ばれる柄ではなかったが、満足そうに頷いて言 う。
「そうさ。1人で泊まるよりは、一部屋を2人で折半した方が安上がりに決まってる。さっきから誰かに声 をかけようと思ってたんだが、もうこんな時分じゃあ連れになってくれそうなじいさんもいなくってな」
「…それは構わないが…。どこへ?」
「こっから小半時も行った先に、俺が懇意にしてる宿屋があるんだよ。行こうぜ!」
 男はやや強引にセイリオスの肩を抱いて行こうと促す。
 少し逡巡してから、セイリオスは頷いた。
 どうせ、もう今日はこれ以上先に行ける筈もない。
 日は落ちかけているし、行く先を考えて迷っていたのだから、一晩くらいは旅の連れがいるのも悪くはな いだろう。
「では、ご一緒させて頂こうか…」
 通常だったら、出さない答えを出した。
 王位継承権第一位所持者として、政敵に付け狙われることも多かったから、王子としてのセイリオスはい つも緊張状態に己を置いてきたのである。
 警戒心を解くことはけっしてなく、ましてや初対面の者と同室に起居するなど、考えたこともなかった。
 しかし、この先、セイリオスにとっては途方もなく遠いであろう行く末を思えば、少しでもお金が節約で きるのは魅力的に思える。
 なによりも、国でも指折りの剣士について幼少からみっちり剣術や護身術を習得してきたという自信が男 の言葉に乗る気にさせたのだ。
 なにかがあっても、自分の身くらいは自分で守れる。
 世間知らずであることも省みず、セイリオスは自ら、危険なことに誘われてしまったのであった。



 男が連れてきてくれた宿屋は思っていたよりも更に小汚いものだった。
 でも、他を知らないセイリオスは宿屋というものはこんなものなのだろう―と諦めてしまった。
 よく知る者―シオンあたり―が見たら、連れ込み宿だとすぐに察知しただろうが、セイリオスにその知識 はない。
 ただ促されるままに夕食を摂り、同じ部屋に案内されてしまう。
 外見同様、室内もセイリオスの感覚からすれば相当にひどいものだったが、我慢しなければいけないと自 分に言い聞かせた。
 これから先、こういう部屋で暮らすことも充分に考えられるのだから…。
(でも、掃除だけはきちんと自分でしよう…)
 夕食に薦められた安酒のせいで少しクラクラする頭を抱えながら、セイリオスはたった一つしかないベッ ドに腰掛けて、そんなことをボンヤリと考える。
 それにしても、ベッドが一つしかなくて、どうやって大の男が2人で寝るのだろう…と埒もないことまで 思う。
 同室の男はもう少し飲むとかで、まだ食堂にいる。
 これから先のことを考えると、暗澹たる思いが込み上げてきたが、どうすることもできない。
 自分は、逃げてきてしまったのだ。
 すべてを捨てて…。
「シオン…」
 ポツリと親友の名が思わず口から零れたが、今のセイリオスにはそんな意識はない。
 ただなにかを求めるように宙に右手を伸ばした。
 そのままセイリオスは上体をベッドに倒す。
 男が戻ってきたら、どうやってこの狭いベットで2人で寝るかを相談しようと思いながら、いつのまにか、
今まで感じたこともないほどの強烈な眠気に襲われ、ほんの少しのつもりで眠りについた。

 はじめに感じたのは、酒臭い匂い。
 それから、鼻につく汗の臭い。
 セイリオスの敏感な鼻には、それらは強烈な攻撃で、意識の覚醒を促した。
「ん…?」
 目を擦ろうとして、手が動かないことをぼんやりと不思議に思う。
 そして、体に感じる妙な重み。
「な…に…?」
 急速に意識がはっきりしてきた。
 もともと、寝起きはいい方である。
 うすぼんやりとした視界に映ったのは、醜く歪んだ中年男に顔。
「なにを…しているのだ?」
 まだ自分の身に起っていることを理解できなくて、セイリオスは男に問う。
「くくく。い〜いことさ。俺もあんたも、すごく気持ちよくなれるぜ」
 いやらしい笑いを浮かべて男は答えた。
「気持ちのいい…?」
 セイリオスはなんとか男の言葉を理解しようと努力する。
「そうさ。あんた、手を見たら剣タコがある。どうやら武術の心得があるみたいだから、手足は縛らせても らったがな」
 いつのまに脱がせられたのか、セイリオスの裸の胸を、男の芋虫のように太い指が這った。
「おまえは?!」
 ことここに至って、ようやくセイリオスは全てを理解する。
「はじめからそのつもりで私に声をかけたのか?!」
 激昂しても、手足が動かせない今の状態では反撃もできない。
 セイリオスはあまりの悔しさに唇を噛み締めた。
「あたりまえだろ?あんたのような上玉は、めったにいるもんじゃない!それに、ふつう、あんな誘いをま ともに受ける男なんていねーよ!」
 男はセイリオスの世間知らずを嘲笑う。
「私に触るな!!」
 セイリオスは渾身の力を篭めて抗おうとするが、なぜか全身に力が入らない。
 痺れるようなこの感覚からすると、手足を縛られているからだけではないだろう。
 夕食の時になにか薬を盛ったのだ。
「へへ、長い夜にしてやるよ」
 男はそういうと、ヌメヌメとした唇をセイリオスのそれに合わせ、舌を差し入れてきた。
 それは、長い蹂躪劇の始まりの合図でもあった。



 シオンはようやくセイリオスらしき人物を見掛けたという証言を得て、王都の外れにある連れ込み宿まで 辿り着いた。
 潔癖なセイリオスが自ら訪れるところではなかったが、あまりにも少ない情報に、縋るような思いで駆け つけたのだ。
 なによりも、中年男性と一緒だったという情報が気にかかった。
 王都の治安の良さは折り紙つきで、ふだんなら考えられないことだが、今は立太子式を目当てに多くの地 方出身者も流入しているので、信じられないような犯罪行為が多発しているのだ。
 特に、性犯罪はちょっと目鼻立ちが整った者は男女を問わずに被害者になっている。
 考えるのもおぞましいことだが、もしセイリオスもその犠牲になっていたら…。
 仕事柄、言うのを渋る宿の主人を文字通りに締め上げて、セイリオスとその連れが泊まっている部屋を吐 かせた。
 もちろん、セイリオスが王族であることなんてまったく匂わせない。
 
 歩くだけでギシギシいう廊下を駆けて、シオンはその部屋のドアを蹴破った。
「セイル!!」
 叫んで中に入った瞬間、シオンは絶望した。
 すべては遅かったのだ。
 手足を投げ出すようにしてベッドに寝るセイリオス。
 その白い肢体の上で、名残惜しげにまだ蹂躪を続けようとする醜い中年の男。
「貴様あ!!!」
 シオンは、生まれて初めて殺意というものを明確に抱いた。
 今まで、セイリオスの政敵になりそうな者を殺したこともないとはいえないが、それでもここまでの憎し みを覚えたことはかつてなかった。
 突然の乱入者に驚いて、振り返った顔は驚愕に歪んでいる。
 それに、シオンは思いっきり武術魔法を放った。
 もちろん、手加減はしている。
 こんなところで、こんなにかんたんに死なせてなどやるものか!とその一念だけで、魔力をコントロールしたのだ。
「セイル…」
 どこか遠い目をしてセイリオスはそこにいた。
 室内に充満する精液の饐えた匂いと、血の尖った匂いの中に包まれて…。
「セイル…」
 シオンは繰り返しセイリオスの名を呼んだ。
 秀麗な顔には、抵抗を封じるためにか、殴られたような痕跡があり、唇も切れている。
 白い胸元には赤い花びらが散っていた。
 男がつけた、蹂躪の名残。
 シオンの眉を顰めさせたのは、下肢だった。
 白く濁った液体と、鮮血でセイリオスの足の間は染め抜かれている。
 男による蹂躪がいかに手荒くひどいものであったのかを明確にシオンに伝えてきた。
 けれど…。
 そんな中にいても、セイリオスは美しかった。
 あくまでも気高く、少しも汚れていないような錯覚にシオンは陥る。
「セイル、迎えに来た」
 そっと声をかけると、今まで焦点があっていなかったセイリオスの目に生気が戻ってきた。
 そして、一声叫ぶ。
「見るな!!!」
 声も嗄れよとばかりにセイリオスは絶叫した。
「シオン、汚された私を見るなっ!!!」
 それは、セイリオスの魂の叫びだった。
 誰に見られたとしても、シオンだけにはこんな風に汚れた自分を晒したくなどなかった。
 絶望のあまり、セイリオスは舌を噛んで死のうとする。
 シオンはそれに気づいて、咄嗟に自分の右手をセイリオスの口の中に突き入れて、それを阻止した。 
 力が強く、シオンの手を噛み切ったが、シオンは怯まずにセイリオスの耳に言い聞かせるように囁いた。
「セイル、今夜は汚らわしいことなんてなかったんだ。おまえは、汚れてなどいない。綺麗なままだ」
 セイリオスの力が少しだけ弱まる。
「俺は、おまえを愛している、セイル。だから、おまえは想いを告げた俺に答えてくれたんだよ…」
 自由になる方の手である魔法の印を切りながらシオンは力強く囁き続けた。
「愛する者同士が愛を躱すことはけっして、汚らわしいことじゃない。知っているだろう?」
 セイリオスは弱々しく頷く。
「だから、セイリオスは汚れるはずがないだろう?セイルは全部俺にくれたんだよ、おまえを…」
 魔法をかけられたような表情になったセイリオスは口から力を抜いた。
 シオンはそっと血を流している手を抜く。
「疲れただろう?もう寝ちまえよ。明日は、俺が起こしてやるから…」
「シオン…側にいてくれるか?」
「ああ」
「ずっと…?」
「ああ」
「なにがあっても…?」
「あたりまえだろう?俺が、セイリオス以外の誰の所に行くんだ?」
 子供のやり取りのような会話を続けた後、セイリオスははにかんだ、花が開くような笑顔を浮かべた。
「ずっとシオンが側にいてくれるなら、寝られる…」
 ゆっくりと薄い瞼を閉じると、頑是無い子供のように無垢な表情で深い眠りについた。
「なにがあっても、俺はセイルの傍にいるさ…」
 軽くセイリオスの額に口付け、セイリオスは想像していたよりもかなり軽いセイリオスを抱き上げて王宮 に戻った。




 セイリオスは満ち足りた気分で目を覚ました。
 体中、ひどい痛みを感じるが、それはシオンと友人ではなくなった証…。
 そして、長い髪を解いて自分の横で眠るシオンの鼻を摘まんだ。
「シオン、約束と違うだろう?先に起きて私を起こしてくれるのではなかったか?」
 そう耳元に囁いていった。
 鼻を摘ままれているので、シオンは『ヴ〜ム…』と奇妙な声をあげる。
 そして…。
 ぎゅうっとセイリオスの華奢な体を抱きしめた。
「もう少しゆっくり寝かせてくれよ、セイルゥ〜」
 なんとも情けない声でセイリオスに訴える。
「だめだ。私は、お腹が空いたんだよ。でも、動けないんだ、誰かさんのせいでな」
 セイリオスはちょっと怒った声で言った。
 体の痛みを思えば、これくらいの嫌味は許されてしかるべきだろう。
「わ、わかったよ…」
 やれやれとばかりに、シオンは起き上がった。
「俺の責任だもんな。朝食を持って来るくらいはしないと…」
 音をたててセイリオスの唇にキスをする。
「シ、シオン!!」
 セイリオスは真っ赤になって怒った。
「はは、これくらいの役得はもらわなくっちゃーな」
 シオンは勢いをつけて起き上がると、手早く身支度を済ませる。
「すぐ持ってくるから、待ってろよ」
 軽く言い置いて、セイリオスの寝室を出て行った。
「シオンのやつ…」
 口では怒りながら、セイリオスは体の中から沸き上がってくる幸福感を抑えることができず、ついついに こやかな表情になってしまう。
「シオンが、私のことを愛していてくれたなんて…」
 あまりに突然の告白にセイリオスも戸惑ったが、自分もシオンを好きであることに気づいて、そのまま彼 の情熱に押し流されてしまったのだ。
「ふふ…。恋人になったからって、あいつは変わらないんだ…。よかった…」
 夢見るような表情でセイリオスは呟いた。
 
 そんなセイリオスの様子を扉の影からシオンが見守っていた。
 そう、これはシオンが紡いだ幸せな夢。
 いくら記憶を操作しても、勘のいいセイリオスのこと、体に残る痕跡で、自分の身に起きたことを察知し てしまうだろう。
 だったら、セイリオスの心が一番壊れない記憶に擦りかえるしかない。
 起ってしまった事実が消せないならば、セイリオスにとって優しい夢を…。
 シオンにとって嬉しい誤算だったのは、あまりにもセイリオスが容易くその夢を受け入れ、あまつさえ、酔 ってくれたことだ。
 もしかしたら、自分達は両想いだったのではないか…。
 そう思うと、シオンの胸をやりきれない想いが去来する。
 時間をかけて育んでいけたかもしれないものを、あの男のせいで、落とされ汚された。
 しかし、もしかしたら、このまま行ったとしても、皇太子になったセイリオスに自分が想いを告げること ができたかはわからない。
 二律背反な想い…。
 でも、セイリオスは幸せな夢の繭の中でまどろんでいる。
 そこには一点の曇りも存在しない。
 シオンがかけた魔法は強力で、シオンが死なないかぎり解けることはない。
 複雑な思いでシオンはセイリオスを見る。
 幸せそうな表情に、シオンへのかつての密かなる想いが透けていた。
 その純情を踏み躙った男はけっして許さない。
 今も、シオンが命じた拷問が行われているはずで…。
 シオンは己の様々な想いを振り払うかのように一度、大きく壁を叩く。
 セイリオスには聞こえないように、魔法で音を消しながら、だ。
 そして、歩き始める。
 セイリオスと自分の未来の為に…。



 一月後、セイリオス・アル・サークリッドは正式に皇太子の地位に就いた。
 その傍らには、史上最年少で宮廷筆頭魔道士の任を拝命したシオン・カイナスが当然のようにいる。

 
 夢の繭玉の中にいる、汚れなき少年、セイリオス。
 それを握るシオン。
 2人は、どこへ向かうのだろうか…。



                        ― THE END ―
 
 

プレゼントのリクエストは「シオン以外の男に犯されるセイリオス」……誕生日にねだる題材じゃないわね、確かに(だからって、誕生日以外だったらいいのか、とか、そう言うもんでもないけど(爆))けど、その相手を「小汚い中年のおっさん」に指定した覚えはなくてよ〜〜(T_T)ひぇ〜〜、私の殿下が〜〜、おっちゃんに〜〜〜〜〜、ひょ〜〜〜〜〜〜〜っ……(笑)あ、あれですか、醜いものに汚されるほど、よりその美しさが際立つって、逆説法?確かに、その効果は上がっていますわ(笑)いやいや、でも、シオンがかっこいいよね。まさかこう来ると思わなくて、フェイントと同時にシオンに惚れ直しましたです。やっぱり、どこまでもセイルを甘やかして守り続けるのがシオンの役どころ?彼の意図には、セイルは一生気づかなくていいと思いますわ、私は。でも、シオンの抱えた傷を思うと、私はちょっとばかり切ない。何はともあれ、どうもありがとう!!御満足か、ですって?ふふ、それどころじゃないわよ〜〜ん。


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