第一話・朝

〜朝まだき〜

 朝未だきの神殿には、誰の影も見えなかった。
 そんな時間に、ここに来ようなどとなぜ思ったのだろう。信心深い性質ではない。女神の存在すら、伝説と笑い流す、どちらかと言えば不敬な輩だ。ワーランドの危機を救ったという美しい白い女神の誕生した日を、愛をささやく格好の機会と思いこそすれ、それを真面目に祝ったことなど一度とてなかった。
 神は、信仰のための偶像だとしか思ってはいない。それを利用する人間たちのためにだけ、実際存在しているかどうかなどには関わらず、信じたいもののためだけに神はいた。少なくとも、それが彼の考えだった。魔道師であるシオンが、その魔道の興りであるはずの女神の存在を信じていないのは奇妙なことかもしれなかったが、信じてはいない彼にも魔法は使え、しかも彼は筆頭魔道師だ。国一番の魔道師である自分の腕前を彼は信じていたし、それが決して自惚れでないこともよく知っている。それが、女神の伝説とかかわり合いをもつなどということは彼にとっては笑止千万。鼻先で笑い飛ばすほどの話でしかなかった。
 そんなシオンが、なぜここに足を運んだのか。降誕祭の祝いにはまだ時間は早く、昇ったばかりの朝日が薄く神殿を照らしている。降り積もった雪がその光を反射して、白い雪の中に建つ白い神殿は、眩しく神々しいまでの姿を晒している。それに、足を吸い寄せられるように、彼は歩いた。
 窓にはめ込まれたガラスが、正面からはとても見られないほどの眩しさで輝いた。それが、彼を魅了したのだ。あまりにも美しい、その光景。それに触れるのすら、冒涜だとでも言われかねないような。
 神殿の扉は、重い。正面のそれを開けるには、一人ではとても無理だった。いつも、数人の神官が恭しくそれを押し開く。その奥には女神の彫像があって、薄い微笑みをたたえてそれをあがめるものを見下ろしているのだ。
 正門の傍らにある、木の扉を押すと、それは難なく開いた。外の雪よりも白い、無数のガラスをはめ込まれた窓が、輝く太陽を反射してまぶしく彼の目を射た。
 そこは、彼が立ち入ることのない場所だった。白で統一された装飾を見ることも、靴音の響く床を踏むことも、そして、その最も奥、設えられた祭壇の上、輝く女神の像を仰ぐことも、彼には縁遠い話だった。
 白い大理石で出来た祭壇は、五つの段を刻んだ台の上、球の天辺を切り落とした形に作られていた。白く編まれたレースがそこを飾り、やはり白の花が茎を切り取られ、花の部分だけを残して、絨毯のように敷き詰められている。中に開く黄色の花心がわずかな色彩を与えるのみ、全てを白に彩られた、あまりにも清廉な場所だった。
 そこに、彼がいた。
「……」
 その白の衣装のせいか、あまりに静かであるせいか、最初は彼がそこにいることに気づかなかった。まるで、目の前に置かれた女神の像のように、ただ静かにそこにいた。
 両手を胸の前で組み、目を伏せ、頭を垂れ、何かを一心に祈っているような、それ以外は何も考えていないような、真摯な姿だった。
 シオンは、息を飲んだ。立ち止まった。それ以上、前に進めなかった。その姿に声をかけること、近くに寄ること、それ以上に、自分が動いてわずかな音でも立てて、彼の邪魔をすること、全てが冒涜のように思えた。早朝の白い神殿、女神の像、それを取り囲む花、そして彼の姿。それは、全て一つのもののように思えた。壊してはならない、彼にだけ与えられた聖地のように。
 冷たい風が吹いて、開け放しの扉から室内に舞い込んだ。音を立てるのを恐れ、扉のことを忘れていたシオンは慌てて手を放し、木の扉を閉じた。その拍子に石に木が当たる乾いた音がし、彼が振り返った。
「シオン」
 床に膝を置いた姿のまま、彼は言った。
「来ていたのか」
「あ、まぁ、な」
 盗み見を言い繕うように、シオンは口早に言った。
「ちょっと、通りがかったから」
 セイリオスは、少し笑っただけだった。言葉の嘘を気づかれているのかと、シオンは顎を引いた。
「お前がこのようなところに」
 立ち上がって、衣装をなで付けた。膝の辺りに薄く皺が付いている。シオンは目を見張った。
「いつから、ここに…?」
 セイリオスは首をかしげた。彼の方が聞きたい、とでも言わんばかりの仕草だった。
「さぁ。入ったときは、まだ薄暗かったが」
「…もう、日は昇っているぞ」
「もう、そんな時間か」
 自分にあきれたように、セイリオスは首を振って髪を揺らした。いつからここにいるのか、そんな朝早くの外出にさえ、一筋の乱れもなくいつも通りの装いに身を包んでいるのが、いかにも彼らしかった。
「お前も、何か用があるのか?」
「…いいや」
 シオンは言って、セイリオスを笑わせた。
「それは、そうだな。お前が、女神の神殿に足を運ぶことさえ、どれくらい…何年振りだ?」
 シオンの不信心はあまりに有名だった。それを咎められることも、物珍しげに言われることもあったが、この、彼の主君たる皇太子は決してをそれについてとやかく言うことはなかった。
「魂の自由は、誰にもある」
 それが、彼の弁だった。
「神を信ずるも信じないも、そのもの次第だ。信ずることを強制する神など、神ではない」
 そして、こうも言った。
「信じると信じないとに関わらず、神は、全ての者のそばにいる」
 それならば、今日の日のこの導きは、シオンが信じていない女神からの贈り物とでも言うのだろうか。
 白い神殿の中、白く輝く彼の姿は、神々しくも美しかった。
「…どうした」
 セイリオスに視線を惹き付けられたまま、立ち尽くすシオンにそんな声がかかった。
「いや……」
 小さく何度かまばたきをして、幻想を振り払う。目の前にいるのは、確かによく見知った彼なのに。
 彼は、こんなに美しかっただろうか。
 なるほど、その整った美貌は誰もが認めるところだったし、シオンとて例外ではなかった。それは美しい、と言うよりも清廉、高潔、決して婀娜っぽい意味はなく、純潔の魅力を放っていた。それは、彼の外面のみでなく、彼のもつ性質そのものだったし、常々、セイリオスを色に例えるとすれば白しかないと思ってはいた。
 この、清められた白い神殿は、まるで彼そのもののように輝き、そこに立つセイリオスの姿は、今まで意識したことのないほどに佳麗だった。
「行くぞ」
 そんなシオンを、セイリオスは促した。
「いつまでもここにいれば凍えてしまう」
「…そう、だな」
 神殿には暖房設備はなかった。確かに、この白い大理石の館には暖かい空気は似合わない。漂う冷たい匂いが体を引き締め、否が応でも厳粛な心境にさせる。そんな者たちを、石を削って出来た女神はたおやかな微笑みで見下ろしている。
 セイリオスが衣装の裾を翻し、シオンに背を向けた。その後ろ姿を追いかける。
「…ああ」
 セイリオスがつぶやいた。
「美しいな」
 眼下に広がる雪原に、セイリオスの吐息が漏れた。
「来た時には、気づかなかったよ」
 やはり、そこに広がるのも白だった。白い神殿、白い大地、そして、何よりも白く穢れないもの。
 セイリオスはシオンを振り返り、そしてくすぐったそうに肩をすくめて笑った。
「一体、どうした」
「あ、いや……」
 セイリオスを見つめる視線が、いつもとは違っただろうか。それに、気づかれただろうか。シオンは内心の動揺を隠して、笑みを作った。
「なんでも、ない」
「………」
 セイリオスは沈黙を守ってシオンを見た。
「寒く、ないか?」
 照れ隠しのように、そうセイリオスに尋ねる。セイリオスは首を小さくかしげ、そして肩を震わせた。
「少し」
「あんな所に長い間いたんだ、当然だ」
 きっと、体は冷えているはずだ。暖められない空気の中、どのくらいああしていたのかは知らないが、ほんのわずかの間立ってたシオンでさえも寒さを感じるほどなのだから。
 それは、言い訳だったのかもしれない。その、彼の清廉にも似た冷たさをその身に感じてみたかったのかもしれない。
 セイリオスの背中から、腕を回して彼を抱きしめた。
「ほら、やっぱり」
 触れ合った頬は身震いするほど冷えていて。シオンは、それを押し付けた。そして、指を伸ばしてセイリオスの手を取る。手袋越しにも、その冷たさが分かった。
「こんなに、なるまで」
 腕の中の体を、自分のぬくもりを伝えようとでもするかのように包み込んだ。それに、わずかに驚いたようではあったが、セイリオスは逆らわなかった。
「どうして、あんなところにいたんだ」
「……願いが」
 セイリオスはつぶやいた。
「願いが、あったんだ」
 シオンは驚いてセイリオスの目を見た。
「誰かに打ち明けずにはいられない、な」
「俺じゃ駄目だったのか」
 仮にも、片腕とも親友とも呼ばれる自分に何も言わないことに、シオンはいささか憤慨した。
「…お前には、言えないことだよ」
 セイリオスは笑った。それに、抗議しようとするシオンの声は、その微笑みに吸い取られる。
「どうして」
 それは、胸を突かれるような切ない笑みだった。シオンは口をつぐみ、驚いたその目にセイリオスは別の笑いを漏らした。
「お前には、言えない」
「セイル……」
 わずかに吹きすさぶ風が、セイリオスを抱きしめるシオンを覚醒させる、もう少しで、何かが分かるような気がするのに。目の前に大きな壁があって、その向こうにシオンをもどかしくさせる何かがある。それを目覚めさせたのは、神殿と、雪と、そして、腕の中で大人しく与えられる温もりを甘受するセイリオスの存在。
 なぜ、それから目をつぶってきたのだろうか。なぜ、避けて通ってきたのだろうか。見て見ぬふりをしてきた、それが許されるものではないと知っていたから。見ないように、気づかないように、それから逃げて来た。そんなシオンが目にしたのは、体の奥に眠る邪欲さえ揺り動かす、彼の姿だった。
「…シオン」
 セイリオスが、腕の中でもがいた。
「そんなに、力を入れるな」
「あ、すまん」
 慌ててほどく腕から、セイリオスが逃れる。抱きしめていた存在の喪失に、空虚感が迫る。
 こんなに、近くにいたのに。こんなに、長い間一緒にいたのに。
「シオン」
 ほどいた腕をつかんだのはセイリオスだった。そして、シオンを引き寄せて、吐息が掛かるほどに顔を寄せた。
「知っているか、今日は、降誕祭だ」
「…ああ」
 セイリオスが首を傾けると、彼の淡い色をした髪が揺れた。それが、目映い艶めかしさを生む。
「…女神の、お導きかも知れんな」
 そんな言葉が彼の口から漏れるとは、シオンには驚きだった。たとえ女神への信仰を否定してはいないとしても、それをあからさまに口に出すようなセイリオスではなかった。信仰という心を政治のために使いはしても、このように自らがそれに凭れ掛かったような言葉を発するとは思ってもいなかったのだ。
 シオンを驚かせたのは、それだけではなかった。
「……」
 セイリオスは、シオンから身を離すと薄く微笑んで、肩をすくめた。
「降誕祭の日には、何が起きても不思議ではないんだ」
 シオンの返事を待たずに、セイリオスは背を向けて、そして彼を残して去った。わずかに触れ合った唇に指を這わせ、立ち尽くすシオンの姿がそこにあった。


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