第二話・昼

〜光の中〜

  日が昇るに連れて、城下町は賑やかさを増してくる。
 家々の扉には白く染めた小枝で作られた、木を模した飾りがかけられる。それに緑の糸を絡ませるのは、それが女神の大樹であり、そしてそれが常緑樹であることを示しているのだという。そこに鮮やかなリボンを飾り付けるのはあくまでも装飾であり、大切なのは、それが白であるということだ。
 白は、女神の色。祝福された、聖なる色。
 街は、落ち着かなくその聖なる日を祝う準備を進める。至る所では祝宴が開かれ、それは家族がひっそりと、その家の中で行なうものから町中に置かれた公園で開かれるものまで様々だ。そして、それらの本番は、夕刻から。日が暮れなずむ茜の中で、全ての楽しみごとは始まる。
 その賑やかさは、王宮とて例外ではなかった。全てを取り仕切るべき国王が、すでにそう言うことに興味をあまり抱かない年齢であることもあって、底抜けの騒ぎ、とまでは行かないが、それでも広間は飾り付けられ、厨房ではその夜のための晩餐の準備に余念がなく、侍女や従者たちが忙しそうに走り回る。壁に張り巡らされるのは、城下町と同じくやはり白い枝で作った装飾で、それは王宮を飾るものであるからして、街のどこに飾られているものよりも大きく、精巧だった。
「準備は、整っているか」
 微笑みを浮かべてそう尋ねたのは、かの皇太子だった。彼は、そのような騒ぎはどこ吹く風、やはりそのような祝賀の日においても彼を待ってはくれない執務に追われながら、それでも皆の楽しみごとを損ないはしない、そのような気づかいを見せた。
「まぁ、ぼちぼち」
 曖昧な返事をしたのは、皇太子の片腕と黙される魔道師。目の前に座り、ペンを走らせる彼を面白くもなさそうに見つめていた。
「一年に、一度のことだから」
 顔をあげずに、セイリオスは言った。
「皆が、楽しめるように滞りなく準備を進めておいてくれ」
「自分は、関係ないとでも言いたげだな」
 シオンが食ってかかるような口調でそう言うと、セイリオスは苦笑いのようなものを薄く浮かべ、肩をすくめた。
「…あまり、騒ぎは好きじゃない」
 それは、シオンにとって、驚くべき告白ではなかった。彼は、とかく皇太子などという地位にいながらも華美や派手さを嫌い、何を楽しみに生きているのか、と言うほどに質素堅実を心がける男だった。
「まぁ、そうなんでしょうけど」
 からかうようにそう言うと、セイリオスはちらりとシオンを見上げた。
「ああいうのは好きだろう?」
 ペンの走る音が、扉一つで表の騒ぎから遮断された執務室に響いた。
「加わってくればいいのに」
「…お前は?」
 尋ねると、笑い声がした。
「私のことなど、構わなくていい」
 そう、したいからするのだと。無理はしていないと笑うセイリオスに、シオンはわずかな胸の痛みを覚えた。
「…一人では、寂しいだろう」
「子供ではあるまいし」
 笑い声は、高く響いた。
「別に、一人でいたからと言ってどうということはない。それに、どのみち夜の式典には顔を出すように言われているしな」
「どうせ、挨拶だけを済ませたらすぐに退室するんだろうが」
「お見通しか」
 セイリオスは、あくまでも朗らかだった。表の賑やかさがそうさせるのか、寡黙を好む者の常である、一種の寂寥などは微塵も見せずにそう言った。
「行ってくればいい」
 顔を上げずにセイリオスは言った。
「私は、ここにいる」
「……」
 昨年までの彼は、どうしていただろうか。セイリオスがこの日をどう過ごすかなどと、このように執拗に尋ねたりはしなかったように思う。そうでなくても、恋人たちが愛をささやく格好の機会となっているこの日、シオンがその好機を見逃すはずはなかったのだ。信仰はなくとも、役得はしっかりと離さないのがシオンだった。
 しかし、今年ばかりはそうではなかったらしい。
「…俺も、いるよ」
 セイリオスが驚いて顔をあげた。
「気を使うことなどないのだぞ」
「そんなもん、使ってない」
 首をかしげて、不思議そうにセイリオスはシオンを見た。その唇がおもむろに開いて、もっともな質問を綴り出した。
「…なぜだ?」
「………」
 それには、答えかねた。
「…別に、何でも」
 シオンは、照れ隠しのようにそっぽを向いた。
 あれは、幻だったのだろうか。
 朝の神殿で見た、あの真摯な姿。白に彩られた貴公子の、意外な姿。己をとらえて、微笑んだ顔。そして。
「…セイル」
 シオンは、思わずそう囁いていた。セイルは握ったままだったペンを置き、机に肘を突いた。まるで、シオンの言わんとすることが何か分かっていて、それに対する答えを持って待っているようだった。
「…あの……」
 シオンは、口ごもった。セイリオスは静かに自分を見つめる。祭りの準備の喧騒が、扉の向こうで賑やかに響いている。
「…どういうつもり、だ」
 まるで怒っているようだと、シオンは臍をかんだ。こういう言い方をしたいのではない。ただ、尋ねたかっただけなのだ。
「なにが?」
 セイリオスはしごくあっさりとそう言った。とぼけているのかと、シオンがいささかむっとしたほどだった。
「…その」
 シオンは、セイリオスに歩み寄った。椅子に座ったセイリオスに視線を近づけ、じっとその双眸を見た。セイリオスは、シオンがたじろぐほどに視線を外さない。まっすぐに己を見つめ、その揺るぎない態度は、彼らしいとシオンを頷かせるものでもあった。
 吐息が触れ合うほどの距離。唇が、後、ほんの少し動けば重なってしまうほどの位置に先に顔を置いたのは、シオンの方だったのか、セイリオスの方だったのか。
 神殿の扉を出た向こうで、まるで悪戯のように重ねられた唇。それが何を意味するのか。聞きたかった。セイリオスがどういうつもりなのか、尋ねたかった。
 セイリオスの手が伸ばされた。あ、と思う間もなく、シオンの両の頬が包まれて、そして、残されたわずかな距離は躊躇いもなく崩された。
 二つの唇が重なる。それは、記憶にあるどのくちづけより甘く、胸を高鳴らせた。立っていられないほどに、心臓が騒ぐ。体が熱く反応する。その先を求めて、神経が疼く。
「…っ……」
 それでも、シオンは必死にその衝動に逆らった。唇を引きはがし、セイリオスの肩に手を置いて、彼から逃れた。セイリオスの深紫の瞳が、シオンを追った。
「そ、れが……」
 シオンは小さく首を振って、一瞬自分を襲った衝動から逃れようとした。激しい鼓動を止めない心臓、熱く染まる体。そんなシオンを、セイリオスは静かに見ていた。その穏やかさが、信じられなかった。
「どういうつもりだ、と聞きたいのだろう?」
 セイリオスは、尋ねられる前にそう言った。
「驚くなというほうが、どうかしているか」
 シオンは、口をつぐんだ。
「…私を、愚かだと笑うか」
 セイリオスは自虐を込めた声でそう言った。わずかに首を振って、何かを振り払うような仕草をした。
「……いや」
 シオンは、驚いていた。今も、朝の一時も、シオンを襲ったのは驚愕だった。セイリオスの行動に対してではない。唇を押し付けられる、その、いささか幼い技巧にではなかった。シオンを驚かせたのは、自分に沸き起こった感情だった。
 セイリオスの唇が、シオンを揺り動かした。なぜ、今まで気づかなかったのか、そのことの方がシオンを驚かせる。彼の唇が呼び起こした、シオンの奥底に眠る感情。それは、恐らく彼が無意識のうちに押し込めたそれに違いなかったのだ。それが、許されるはずもないから。それが、受け入れられるはずはないから。
「…こう言うのを、自暴自棄というのかも知れんな」
 シオンの愕然の表情をどう取ったのか、セイリオスはつぶやいた。
「伝えるつもりなど、なかったのだが」
「……」
 それが、どういう意味を持っているのか、この男は知っているのだろうか。
「…すまない」
 そして、さぞ申し訳なさそうにそう言った。眉尻を下げ、瞳を伏せて、先ほどまでの熱い瞳はどこへ行ったのか、と危ぶむほどに、気弱な声を出した。
「忘れてくれ、と言うのは、虫が良すぎるだろうな」
 そして、己を嘲笑うように、小さく声を上げた。
「…今までの、関係を壊してでも、なお、こうしてみたかった」
 シオンは言葉を綴らない。綴ることが出来ない。ただ、心臓だけが大きく跳ねて、それがセイリオスに見えないのがもどかしいほどだった。
「これ以上は、凌げなかったのだよ」
「…セイル」
 腕を伸ばした。まるで、セイルが逃げないうちにとでも言うように、粗っぽくその腕に抱いた。強く抱きしめて、冷たい匂いのする髪を鼻先に感じた。そのくすぐったさが、心地よかった。
「どういうことか、分かってるんだろうな」
「…シオン?」
 戸惑うのは、今度はセイリオスの方だった。いきなり抱きすくめられたその驚きが、腕の中に包み込んでさえ、明らかだった。
「お前の……」
 あの時、彼を美しいと感じた瞬間。その時生まれた未知の思い。いや、それは今まで知らぬものではなかったのだ。ただ、気づかないふりをしていただけ。見て見ぬふりをしていただけ。そして、セイリオスがそれに気づかせた。シオンは、気づいてしまった。もう逃げられない、どこまでも深いこの思いに。
「お前の、せいだ」
「シオン」
 セイリオスの声が揺れる。抱きしめる腕に力を込めると、セイリオスがそっとそれに手を添えてきた。その中で駆け回る、炎のような激流。熱くて、立っていられない。こらえることも、抑えることも、もう出来ない。
「お前が、揺り起こした。これ以上、どうなっても…」
 不安げに自分を見上げるセイリオスの表情が、愛おしかった。この男にもこんな表情が出来るのだと、そんな顔で己を見上げるのだと。
 シオンは、歓喜した。
「どうなっても、知らない」
 シオンはセイリオスの顎に指をかけ、そして彼を上向かせる。そこにわななく薄紅の唇をもう一つの手の指先で撫で、それが震えているのを知った。顔を寄せ、瞳を開いて彼の表情を確認すると、そっとそれを伏せ、そして、唇から伝わってくる柔らかい感触に酔った。
「シ、オン……」
 明らかに、セイリオスは戸惑っていた。こんな反応が返ってくることを、微塵も予期していなかったに違いなかった。その動揺が、シオンを残虐にした。
「知っていたのか、俺が、こうすることを望んでいたこと」
「知るはずが、ない」
 セイリオスの声はかすれていた。
「ただ、私はお前を…」
 ほとんど重なり合ったままの唇で、セイリオスはつぶやいた。
「それだけだったのに」
 くちづけの先をねだるような、それでいてそうすることを避けるような、セイリオスは小さくうごめいた。
「まさか、シオン……」
「セイル」
 何度目かに、囁かれた名前。そこに自然に滲んでくる甘い音から、シオンはもう逃げなかった。それは、先に思いを漏らすことに躊躇しなかったセイリオスを戸惑わせるほどだった。妙な高揚に包まれる。それは、今まで無理にせき止められていた潮流が一気に噴き出すような爽快感。
「まさか…」
「その、まさかだ」
 シオンはぶっきらぼうに言った。
「知っていて、言ったんじゃなかったのか。俺がどう思っているか…分かっているから、こうしたんじゃなかったのか」
 セイリオスの瞳は見開かれ、そして、それは喜びとも、戸惑いとも、悔悟ともとれない色を宿した。
「自惚れて、いいというのか」
 セイリオスの声は呟きにも届かず、これほどに顔を寄せていなければ聞こえない声だった。
「……ああ」
 手が伸ばされ、シオンの体をセイリオスの腕が包んだ。その、温かさがシオンを突き動かす。目覚めたばかりの思いが、激流となって溢れ出す。
「セイル、俺は…」
「…シオン」
 セイリオスが、指を伸ばしてシオンの唇に触れた。それ以上、漏れる言葉を抑えるかのように。そして、ゆっくりと言った。
「…後で、私の部屋へ」
「……」
 シオンは、何も言わなかった。ただ、薄く抱いたセイリオスの体を再び抱きしめ直しただけだった。



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