魂の在り処・2

 魔道師たちは、目の前にいない相手と対話することが出来る。
 相手の脳裏に直接働き掛けて、言葉を投げ掛けるのだ。それは、言葉を口に出す必要すらなく、傍目には会話をしていると悟られることもない。
 それは、あの夜から幾日か経ったある朝方のことだった。朝未だき、眠りと目覚めの境界にいたシオンは、それを破るある声に目を覚ました。それは、彼の睡眠を邪魔しないように、と細心の注意を払ったものではあったが、しかし彼がその声に目を覚まさないわけはなかった。
「シオン」
 その声は、遠慮がちにそう言った。
「一日二日、留守にする。その間のことを、頼む」
「セイル?」
 勢いよく跳ね起きたとて、彼が目の前にいるわけはない。遠話の声は薄く途切れていく。
「どこに行くつもりだ?」
 答えはない。それは、あえて作られた沈黙のように思えた。シオンがその質問を再度投げ掛けても、新たに頭の中に浮かんでくる声はない。そして、幾度目かの問いのあと、セイリオスの気配は消えた。自ら、連絡を絶ったのだ。あえて遠話の声も届かないように彼自身に結界を張り、如何なる術も届かないようにする。それでも、わずかにつながったシオンとセイリオスの間の糸は、シオンに彼がどこか遠くに移動しているのだということを悟らせた。
 一人ごちても、その声はもうセイリオスには届かない。セイリオスも、シオンの声を聞くつもりはないのだ。それは、彼が誰の説得を受けるつもりもなく、目的の場所に赴こうとしていることを示している。こんなふうに、彼がその目的すらも秘密に隠したまま遠出するなど今までになかったことだ。少なくとも、ほんの半日ほどの散策においてでも、セイリオスはシオンとの遠話を途切らせることはなかったのに。シオンの胸を、ざわりとした嫌な感覚が走る。
 それはただ、皇太子ともあろうものが一人、誰も知らない場所に出かけていく、その身の危険を案じた故の悪寒だったのか。彼がどこに行くのか、知らされないまま捨て置かれる故の不快だったのか。シオンはそれを振り切るように、起き上がった。
 セイリオスがどれほどの間、王宮を開けるつもりなのかは知る由もない。もっとも、彼のことだ、所用が終わりさえすればすぐにでも帰ってくるだろう。そんな彼が一日二日、と言うのだ。その間、彼の不在を誤魔化すのはシオンの役目。ありがたいことに、今はそう、切羽詰まった仕事があるわけでもない。彼が帰ってくるまで、彼の不在を取り繕うことはそう難しいことではないだろう。
 起き上がり、まだ執務を始めるには早いその時間に夜着を脱ぎ捨て、常の執務用の衣装に着替える。それを手伝う侍女の姿のないまま、一人まだ薄暗い部屋に立つうちに、その嫌な予感はゆるやかに消えていった。
 セイリオスのことだ、もしもの事態などにはなるまい。それに、遠話を切ったのはセイリオスからだ。何かあれば向こうから連絡してくるのだろうし、それを心配しなければならないほど、セイリオスとて子供であるわけでもなかった。そう、自分に言い聞かせ、シオンは部屋を出る。警衛が、彼の姿に驚いて慌てて会釈をした。今日は、セイリオスから特にと頼まれた、彼の妹姫への魔道の授業がある日だったはずだ。


 弱冠十五歳のかの妹姫は、花開く寸前の瑞々しい蕾だった。茜色の長い髪を緩やかに結って、それを揺らしながらの優雅な会釈は、彼女の身分に相応しく、しとやかさに溢れていた。この姫は、シオンの気に入りだった。その無邪気なかわいらしさも、それでいて姫君らしい誇り高さと芯の強さを合わせ持った彼女は、なるほど、あの男の妹であると納得させるだに相応しいものであったからだ。
 もっとも、それは血のつながりゆえであるわけでないことはシオンはよく知っている。セイリオスは、王家の血を持ってはいない。彼はその体に秘密を隠していて、それは国王と、セイリオス自身、そしてシオンしか知らないことだった。目の前にいる妹姫たるディアーナも、兄は本当の兄であると信じて疑ってはいないのに違いない。
「よろしくお願いいたしますわ」
 ドレスの裾をつまみあげての会釈。ふわりと薄紅の髪がなびく。シオンは微笑んだ。
「こないだ教えたこと、出来るようになったか?」
 言うと、ディアーナは小さく肩をすくめた。
「あの、練習はしましたのですけれど……」
 ディアーナは、指先をくるくると宙で回す。
「上手く、出来なくて」
 彼女に教えているのは、魔術の初歩だ。とにかく、理論よりも実践を重んじ、それが出来るようになってから理屈を教える、と言うのがシオンのやり方だったが、先週出しておいた宿題が、ディアーナにはいささか難しいものであったらしい。
「だって、無理ですわ。蕾のままのお花を開かせるなんて」
「これが、一番簡単なんだぞ」
 手の中に納めた花の蕾を指し示す。小さく呪文を唱えると、それがぱっと開いて鮮やかな深紅の薔薇がそこに現れた。
「姫さん、魔法は手品じゃないんだ」
 シオンはディアーナの目の前に腰を下ろし、開いたばかりの花を花瓶に挿した。
「そこのところ、間違っているから出来ないんじゃないか?花は、自分の力で開くんだ。姫さんは、それを手助けしてやるだけ」
 先ほど開いた花の傍らに挿されたほかの蕾を取り上げる。それをディアーナに差し出すと、ディアーナは肩をすくめてそれを受け取った。
「無理に開かせるんじゃない。その花の、咲きたいと思っている力を後押ししてやるだけだ。花が咲いたところを想像して、そうなって欲しいと願う力が魔法となって働くんだぞ」
「……やってみますわ」
 ディアーナは、この上なく真剣に蕾を見やる。シオンはそれを見て笑いだした。
「そんな難しい顔をされちゃ、咲くもんも咲かんよ。もっと、ゆったりした気持ちでやるんだ。そう、姫さんが、その花の母親で、綺麗に咲くという夢をかなえてやりたい、そんな気持ちでな」
「うう……」
 呻きをあげて、花を見つめるディアーナの表情はやはり先程とは変わっておらず、シオンは小さく笑いながらディアーナを見守る。
「気を抜いて、楽にしろ。目を閉じて、考えてみろよ。その花が咲くところ」
 シオンは、ディアーナの持つ花を指さした。
「見てみな。この蕾は、ピンクだろ。きっと、綺麗なピンクの花が咲く。ちょっと白が混じっているからな、かなり薄いピンクだろう。どんな花になるか、想像できるか?」
 ディアーナは、首をかしげてその蕾を見つめる。瞼を伏せて、わずかに眉間に皺を作って何かを一心に考える様子を見せ、そして、唇をゆっくりと開く。
「……出来ますわ」
「じゃ、その感じを蕾の上に重ねてみるんだ。きっと、こうなるだろうな、と言う印象をな」
「……むっ……」
 ディアーナは、かわいらしい気合いの声を漏らした。そんなにしゃちほこ張っては咲くものも咲かないだろう、とシオンを呆れさせたその時、彼女の手の中に包まれた蕾が、緩やかに開花を始めたのだ。
「ま、ぁ……!」
 ディアーナの歓喜の声が上がる。それを、シオンも驚いて見た。
「まぁ、すごいですわ」
 果たして、開いた花のことなのか、自分の上達のことなのか、ディアーナは感極まった高い声を上げた。
「ねぇ、見て下さいませ、出来ましたわ、わたくし」
 それは、シオンの予想通り、かなり淡い桃色の花びらをいくつも付けた、小さな薔薇だった。その、小さな姿が可憐にディアーナの手の中に開かれている。シオンは、ため息をついた。
「やったじゃないか、姫さん」
「ええ」
 持った花を嬉しげに指し示して、ディアーナは微笑む。
「わたくしだって、やれば出来るんですわ」
 嬉しげに、目を輝かせ腰に手を当てて、ディアーナは言った。手のひらに抱いた薔薇が、愛おしくてならぬ、と言ったように頬擦りした。
「わたくしが、あなたのお母様ですのよ」
 そんなことを囁いて、シオンを笑わせた。
「この程度で満足されても、困るがな」
 苦笑いを浮かべて、シオンは言った。
「これから、先は長いんだからな。姫さんには、自分の身を守れる程度には覚えてもらわないと」
「はぁい、ですわ」
 ディアーナは肩をすくめた。手の中の薔薇をこねくり回し、しばらくそうやって初めての魔法の成果を愛おしんでから、ふとシオンを見上げた。
「魔法を使ってだと、どのくらい遠いところまで行けますの?」
「……?」
 いきなりの質問に、シオンは戸惑いを見せる。
「どのくらい、って…」
 シオンは首を傾げた。
「一日に、ってことか?」
「そう、一日に、ですわ」
 おのれの言葉足らずを恥じて、ディアーナは肩をすくめた。
「そうは言っても、その使い手の腕によるが」
 シオンは、ちらりとディアーナを見た。
「今の姫さんじゃ、一日かかってもこの部屋から出ることも出来ないだろうがね」
「まぁ、わたくしのことじゃありませんわっ」
 からかわれたことに気づいて憤慨して見せる。そのようなときにも、決して可憐さを失わないこの少女に、シオンは漏れる笑みを隠せなかった。
「……お兄様、でしたら?」
 出された名に、一つ胸が高鳴る。
「セイルが?」
 思わずおうむ返しに問い返すと、ディアーナはうなずいた。
「……どうして、そんなことを聞く?」
「え?」
 聞き返すのは、今度はディアーナの方だった。
「だって、お兄様は、今朝からお出かけになっていて……」
 シオンの驚いた表情に、ディアーナはさらに驚いた様子を見せる。
「一日二日のうちに戻ってくるから、っておっしゃって。それならば、一体おいでになったのはどの辺りなんだろうって思いましたの」
「……姫さんに、そう言っていったのか?」
 動揺を悟られないように、胸を押さえながらシオンは言った。
「……どこに、行くって……?」
「……シェレナ、て、ご存知です?」
 シオンの動揺は、隠そうとしても隠しきれぬものであったらしい。ディアーナは、言っていいものか躊躇いながら、と言う様子を隠さないまま、小さく言った。
「……いいや」
 地名だろうか。聞き覚えはないが、調べればすぐに分かる。ディアーナは、首を傾げ、シオンを覗き込みながら、続けた。
「そこにおいでだと、おっしゃっていましたわ。すぐに戻るから、心配しなくていいと。……シオンには、何もおっしゃっていませんでしたの?」
「……ああ」
 シオンは、唇を噛んで、目の前の姫君に表情を読まれないように努めた。しかし、見かけよりもずっと聡いディアーナが、その誤魔化しに騙されてくれたのかどうかは分からなかった。
「何をしに行くと言っていた?」
 声が尖っていないかと、その言葉はいささか掠れがちになった。
「……それは、存じませんわ」
 ディアーナは、申し訳なさそうに小さく言った。
「そこまでは、おっしゃっていませんでしたから」
「そうか」
 シオンは短く言って、席を立った。
「今日は、これでおしまいだ。ご苦労さん」
「ありがとうございました、ですわ」
 ディアーナはぴょこんと頭を下げた。彼女の咲かせた薔薇も、同じく首を傾げる。しかし、シオンはもうそれを見て微笑む余裕などはなくしていた。
「お兄様は、シオンにも行く先を告げなかったのですわね」
 ディアーナが、不思議そうに首を傾げる。
「どうしてなのかしら。お兄様とシオンは、仲良しでいらっしゃいますのにね」
 怪訝そうにそう言ったディアーナの声が、シオンの胸に突き刺さった。



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