蝉
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蝉が四方から声を上げる。 声の出元の、自分なんかよりもずっとずっと背の高い杉の木が、真夏の太陽から守ってくれる。 その蝉を捕まえようと思って、2M程の柄の虫取り網を、冥はふらふらと宙に彷徨わせた。 色黒の幼い腕が、緑の塗装の施してある柄を一生懸命支える。 もう少しで、杉にへばりつく蝉の体を網が捉える。 140cmにも満たない背を、冥は精一杯つま先立ちで伸ばした。 網の重みに耐えかねた冥の体が、尻もちをつく。 『・・・』 砂埃が立つ。 冥は無言で、ズボンや脚についた砂を叩き落とした。 冥の転ぶ音にびっくりしたのか、狙っていた蝉は、冥が見上げ直した時にはもう居なかった。 あーあ、と心の中で呟き、冥はまた、上を見上げ次のターゲットを探す。 ふと、何かを思い出す。 〔・・・これ、何だっけ・・・〕 前もこんな事があった気がする。それも、何度も、何度も。 〔気のせい、気のせいだよな・・・〕 親の実家で 蝉を見つけて それが何故か凄く欲しくなって 祖母に頼んで、古ぼけた捕虫網を借りて 裏手の山の浅い所で ・・・今さっき、尻もちをついて、 まだ虫かごは空っぽ。 〔それで、そう、またこの後転ぶんだっけ〕 何となく、冥は心の中でそんな事を想った。 未来の予想なんか当たる訳もないのに。 頭では分かっていても、何となく。 〔それでも確か虫かごは空っぽで・・・〕 それで癇癪を起こして、諦めて帰るんだ。 帰って、庭先の水場で泥を落として、それから ・・・それから?(記憶にモヤがかかって、その先は分からない) 杉の木の、今度は大人の頭くらいの位置に止まった蝉を見つけた。 これなら獲れる。 冥は、そっとその蝉の射程圏内に入る。 しかし、そればかり気にしていて足下の注意を怠っていたのが悪かったのだろう。 少し後ろに退いた瞬間、冥は、土に出っ張っていた石にかかとをつまづかせてしまった。 『あっ』 短く声が上がる。 (倒れる) 瞬間、そんなことを想った。 冥は反射的に目を瞑った。 倒れる衝撃が無かった。 代わりに、大きな手が自分の肩を支えていた。 『大丈夫ですか?』 低い声が上から降りる。 『・・・?』 誰かが支えてくれたらしい。 いつの間にか、此処にいて。(さっきまで一人きりだったのに?) 自分よりずっと高い背。 自分よりずっと年上の。 『・・・誰?』 冥の口をついて、そんな言葉が出た。 だって、その青年を冥は知らない。 黒くて短い髪と、メガネの奥に黒い瞳。それから、白い肌。 真夏なのに長袖の白いYシャツに袖を通していて、そのせいか華奢な印象を受ける。 何より不思議なのは、初対面なのに、そのはずなのに、ひどく懐かしい感じがする。 『誰、と言われましても・・・』 青年が、困ったように苦笑いする。 『蝉、捕まえるんですか?』 改めて冥の出で立ちを見た青年が、訊いてくる。 『・・・うん』 干渉されるのは好きではなかったが、何故かこの青年だけは厭な気がしない。 『なら、さっきは惜しかったですね』 『うん』 端的ではあるが、冥は律儀に答える。 普通の人間ならば「可愛くない」と言って表向きにしろそうでないにしろ冥を遠巻きに邪険にするものなのだが、何故かこの紳士然とした青年はその答えを嬉しそうに受け止める。 青年が後ろで見ては居るが、冥はまた蝉を捕らえようとして木々を見上げる。 瞬間、さっき見たデジャヴの様な記憶が再燃しだす。 2度目の尻餅で 厭になって家へ戻って ・・・それから先は無くて。 『・・・おれ、帰んなきゃ』 ひどい強迫観念に足がすくんだ。 今、この青年に助けられたとは言え、虫かごは空っぽのまま、転んでしまった。 そうしたら、家へ戻らなくちゃ。 冥の足が、体が、何かに命令されたように帰り道へと向かう。 『犬飼君!』 大きな白い手が、浅黒い腕を掴んだ。 冥の瞳が見開かれる。 ・・・名も知らぬ青年が、自分の名前を知っていた事よりも。 その青年が、何故今自分を引き留めたかと言う事よりも。 強烈に脳裏に蘇る、「そこから先」の記憶。 「家の玄関を開けて」 「部屋ふたつと、廊下を回って」 「家族がいるであろう居間に出」 ・・・ 『・・・あ・・・』 一気に汗が噴き出す。 足の力が抜けて、その場に膝をつく。 『犬飼君・・・』 体を震わせて呼吸を荒げる冥の小さな体を、青年が支えるように引き寄せた。 「居間に出て」。それから。 (脳裏に貼り付く) ・・・だから、だからたった独りで生きてきたんだ。 誰も好きになんてならないように。 誰にも好かれないように。 吐き気がする、誰かと触れあうなんて。 『犬飼君、大丈・・・』 青年の手を、無意識のうちに払っていた。 『・・・触んな』 青い顔と苦しそうに顰めた眉で、冥は青年を睨め付けた。 『犬飼君・・・』 『・・・前が、 お前が悪いん・・・』 消え入りそうな高細い声で、冥が絞り出すように呟く。 『お前が・・・』 冥はその青年を誰だか知らない。 『好きだなんて言うから・・・』 けれど前から、そう、ずっと「前」からよく知ってる。 『お前が、キスなんか教えたから・・・』 (冥が、辛そうに唇を噛み締める。 顰められた眉はいよいよ心痛に歪み、今にも泣き出しそうで。 「青年」はそれを、一瞬も目を逸らさずに悲しそうに見つめていた。) 『・・・辰・・・』 愛してるなんて、言うから。 (冥の目の前が白くなる。) 『・・・犬飼君、』 右手に外気とは全く違う暖かさを感じて、冥は目を開けた。 『目、覚めました?』 その顔を、冥の手を握っている信二が覗き込んだ。 何かに安心したような表情。 『・・・?』 冥はその顔に疑問符を浮かべつつ、開きかけの目をこする。 『大分、うなされていたので。』 信二がその疑問符を感じ取ったのかどうか、タイミング良く冥の疑問に答えた。 『・・・そうか』 大分間を置いて、冥が信二の言葉に応える。 確かに体中汗まみれで、前髪は額にはりついている。 それを、額の汗を拭うついでに冥は払った。 『喉乾いたでしょう、何か飲みますか?』 確かに眠っていたせいか汗をかいたせいか、喉は引きつるほど乾いている。 『ん。』 信二の心地よい低音に、冥は短く答えた。 『じゃあ、少し待ってて下さいね』 ちゅ、と軽い音を立てて、冥の左の目元・・・泣きぼくろに信二が口づけする。 冥の顔が、文字通り真っ赤になる。 しかし信二はそのまま何事でも無かったかの様にパタパタと台所へ向かっていってしまった。 『くすぐってぇよ・・・』 冥の口から、無意識に言葉が漏れた。 夏の夢を見た。 「あの時」の夢を、もう何十と見ている。 でも、今日は いささかも悪い気分がしない。 夢の話の全てなどは思いだせはしないけど。 目元に残る感触を、指先でなぞる。 空っぽの虫かごを抱えて転んでしまった自分を 優しく支えてくれた腕のそれに、少し似ていた。 |
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3ヶ月放置プレイしてました! (駄目人間) この話自分的には気に入ってません・・・ 夏コミ前に公開したかっただけです。夏の話を。 幼少期のトラウマちゅーのは結構濃いもんですよ。 人間の人格なんて殆どトラウマの集合体みたいなもんですし。 (極論で) 2002.07.02. |
| モドル |