君は誰だい?
 
 
私のところへ、彼等が訪れたのは、夏の暑い日だった。

  4.その後の記憶はなかった
 
 
 
  



「頭の中で声がした事はある?」
  「ありません」
「記憶が突然失くなったりした事は?」
  「ありません」
「君がベットで子供のように泣いていたと言ってるけど、それは覚えてる?」
  「覚えてます。酷く恐ろしい夢を見たので、だから少し混乱してたんだと思います。」
「・・・・君は亮にその事を聞かれたとき、全く知らないような素振りだったらしいけど?」
  「恥ずかしかったんです。みっともなくて。だからとぼけたふりを。
   後から三上君が心配してくれたんだと思って、それで声を掛けたんです」
「大丈夫だから、と?」
   「はい」
何か言いたげな三上を、渋沢の向かい側に座った男性、杉村稔がやんわりと止めた。
しかしあの医師の目には明らかな猜疑が宿っていたのを渋沢は感じていた。




病院から一歩外を出ると、途端に蒸し暑い空気が身体中に纏わりつく。
丁寧に巻かれた真新しい包帯も、寮に帰る頃には自分の汗で湿ってしまうだろう。それほど暑苦しい日だった。
また三上に巻き直してもらうしかない。・・・あいつには随分と迷惑を掛けている。
―――――― 三上の、あの顔。
俺が抑揚なくすらすらとあの医師に答えるその内容を聞くにつれ、険しくなっていく表情。
医師に止められなかったら、俺に詰め寄っていただろう。
すまないと、思う。
三上と藤代に、半ば強引にあの診察を受けさせられる事になった時は、俺はどこかに逃げたい一心だった。
ばれてしまうと思った。
自分が普通の人と違うと言うことが。
あの医師の質問。
“頭の中で声がした事?”
   あるよ。最近はとてもうるさい。頭が割れるように痛い時だってある。
“記憶が突然失くなったりした事?” 
それもある。ちょっと前までは週に2、3回記憶が飛ぶだけだったのに、今では目覚めたら日にちが違ってたって事だってある。
その事に、前からあった自分への恐怖がどんどん増していって気が狂いそうだ。
今、寮に帰っている途中でさえ、いつ記憶が途切れるのかと怯えてしまう。
―――――― 怖いんだ。自分という人間が。
そうして、その異常な自分を他人に知られる事は最も恐ろしい。
だからこそ、あの診察に応じるわけにはいかなかった。
自分の記憶が途切れ途切れで、思い出せない過去。
それが当然だと思っていたのに、実際は一日はちゃんと繋がっていて、起きた時から寝る瞬間まで、記憶はあるのだと、それが当然なんだと知った時の あの疎外感は、酷く大きかった。
自分は他の人と違う、病気なのだ、異常なのだと知ったのは11歳。小学5年の時。
誰にも言えずに深く思い悩んだ。何で僕だけが!と思ったし孤独感で胸が一杯で、泣き腫らした事もある。
自分がしていない事をしたと言われて、何がなんだか分からなくて、あの頃は何もかもに怯えていた。
それは今でも変わらないが、それでも中学に入る頃には表面上だけは取り繕えるまでになっていた。
『迷惑を掛けたな』『もう大丈夫』『心配するな』
心では、ばれやしないかとびくびく怯えているのを悟られないように笑顔を返す。
そうしないと、自分が人とは違う、“病気”なのだと知られてしまう。
それだけは嫌だった。
この診療も親には精神的に疲れているだけだから、少し診てもらうだけだと、それだけ伝えた。
幸い一般家庭より裕福な家庭だったし、対した詮索もせず一人息子の俺に惜しみなくお金を継ぎ込む親に感謝した。
そして親にもサッカー部にも、単なる自分の不注意での手首の怪我だと伝えている。
サッカー・・・。
―――― したいな。手首を怪我して以来だから、もう4日もサッカーボールに触れてない。
サッカーをしている時が唯一、心休まる時間だった。
誰になにをしたと聞かれる事もなく、ボールに集中して色んな不安な事をその時だけ忘れる事ができる。
それに不思議と試合中は記憶が途切れる事もなく、順調に時間が過ぎていく。
過去に何回か、試合直前に俺の意識が戻って、すぐに試合開始だったという事はまれにあった。
さすがにその時はいくらか動揺したが、それもすぐ消えて試合に集中できるのも嬉しかった。
早く、手首の傷を治したい。サッカーがしたい。
ふと腕の時計を見る。午後7時半。今の時刻だと練習はもう終っている。皆、夕食を終えて寮で思い思いに過ごしている時間帯だ。
暑さのせいで、たらりと頬に汗が流れる。
今の季節となると、この時間でも日が沈むの遅く、辺りは薄暗い程度だった。
渋沢は流れる汗を手で拭った。
手。右手。
“左で藤代を殴ったんだよ。渋沢、お前右利きなのにな?”
頭の中で、三上の声がした。あの診療室で皮肉げに口を歪めて俺に聞いてくる三上。
分からない。分からないんだ、三上。俺にそんな事を聞かないでくれ。
ああ、暑い。
“キャプテンって時々、キャプテンじゃナイっすよねー!俺、『アイツ』嫌いです!!すっごい見下した目で俺見るんですよっ!!!”
藤代がそう言う。分からない、何言ってるんだ藤代。見下してる?誰が?
蝉が、どこかで鳴いてる。
“今日はどうしたんだ?授業の最中に消えたんだって?先生達が騒いでたぞ。気分でも悪かったのか?”
俺が授業を抜け出した?覚えていない。分からない。何も聞かないでくれ、辰巳。
“三上先輩も悪気があったわけじゃないと思うんです。だから・・・えっ、ケンカしたんじゃなかったんですか?”
喧嘩?誰と誰が?大声?覚えてない。笠井、大丈夫だよ、心配するな。
『大丈夫だよ、心配するな』?
相手にじゃなくて、その言葉は本当は自分に必死に言い聞かせてる。
記憶が飛ぶのもこれが最後、これが最後だと自分で必死に励まして。そうしないと不安で仕方ない。
汗が、また頬を伝う。
“明日、また同じ時間で。今度は渋沢君一人で来てもらってもいいかな。次は君のその不安を聞かせてもらえると嬉しいね”
にこりと笑うあの医師の眼鏡の奥の瞳。
そこには俺が必死に隠しているものを見透かす力があるように思えた。
怖い。
嫌だ。行きたくない。
それにしても暑い。帰ったらシャワーを浴びよう。
あの医師は、明日どんな質問をしてくるのだろうか。嫌だ。
手首の傷には本当に、驚いた。三上や藤代以上に。医師には“酷く自分が浅ましく思えて、衝動的に手首を切った”と適当に述べた。
軽いノイローゼだと見せた。アレがばれるより数段もましだからだ。うまくあの医師に思い込ませただろうか?
寮に帰ったら三上に責められるだろうな、見え見えの嘘付いてどうゆうつもりだよっ!とかなんとか。
暑いな。蝉がとてもうるさい。まるで耳元で鳴ってるようだ。うるさくて頭が痛い。
藤代を殴ったのは本当に俺なのか。分からない。だが三上や藤代自身が言ってるのだから真実なのだろう。お詫びに何か買って帰ろうか。
ああ、サッカーがしたい。ボールに触りたい。
暑い。蝉がうるさい。頭が痛い。
医師が聞いていた。
そう、痛い。明日、医師に会う。
それは、嫌だ。嫌。嫌。嫌 ――――――。
嫌。嫌。嫌 ―――――― 。


―――――― その後の記憶はなかった。