激ちの響み


夏でも豊富で澄んだ水を湛え郷を守護する位置の一つに存在する昇竜の滝。
水飛沫が飛んでこない場所で涼を取り、伊波飛鳥は静かに座っていた。
滝壷からは離れてしまうが、郷から登ってくる道からは見えにくいというその場所。
昼日中より幾らか和らいだが未だ強い陽射しを避ける為に、青々と茂った木陰の下にビニールシートを敷いて座している。
手元には文庫本と直ぐ傍にお茶の入ったペットボトルを置いていた。

ぺらり

規則正しくページを捲る音がして書かれた文字を追い俯いた頭が時折動く。
離れていても滝の音とそれに紛れて微かに響く蝉の声しか聞こえないこの場に、新たな音が参入した。
顔を上げ向いた先に軽い靴音を立て現れたのは執行部参事紫上結奈その人だった。
「……紫上さん。どうしたんです、散歩ですか?」
こんな時間に学校外で彼女を見かけるのは珍しい事だったので思わず声を掛けてしまった。
声を掛けられるとは思っていなかったのだろう、くるりと振り向いたその顔は少々驚いていた。

「伊波君…こんな所にいらっしゃったのですか。」
「あ、俺に何か用事でしたか?」

慌てて手の中の本にしおりを挟んで閉じ、傍らに置く。
立ち上がった伊波に紫上はいえ、と軽く否定してから続けた。

「そうでは無いのですけれど……綾人様御見かけしませんでしたか?」
「今日は未だお会いしてませんが。どうかされたんですか?」

時折単独行動を取る彼の人に、何か有ったのだろうか。紫上の様子からいって早急な用事では無いようだが。
立ち話も何だからと隣を進めてみるとお言葉に甘えてと紫上は腰を下ろした。
滝からそよぐ風が肌を冷やしていく。気持ち良くて、自然に大きく息をついた。
「私が執行部室に戻ってみたら綾人様が居なくなられていたのです……書類も途中で。」
行儀良く足をそろえて横座りして紫上は言う。頬に手を当て溜息を一つついた。
「それと決裁の済んでいない書類と目を通しておいて頂きたい物が有るのです。 日にちはまだ有りますが早いうちの方が有難いので……」
背筋をピンと伸ばして滝のほうを眺めたままで淡々と話していく。
さわさわと風が通り過ぎ、水の香りが流れてくる。遠くで鳥が鳴く声と枝の揺れる音。
「今日は会議が有りませんからよろしかったものの。いきなり消えられると対処の使用が有りません。」
そう言いながらもその点に関しては紫上は余り心配はしていない様子。
よっぽどの事が無い限り――それこそ討魔とか――そういった業務をすっぽかす事は先ず無いからだ。
少々不穏な事を言ったり、ギリギリまで後回しにする事は有るかもしれないのだが。
「まったく宗家は総代としての御自覚がおありにならない……」
言いたいことが溜まっていたのか紫上は何時もより饒舌だ。
紫上にも言える事だが、休息は頻繁に取ってもらったほうが良いのではないかと思う。
表裏の執行部以外にも仕事や色々なものを抱える方々なのだから。
最もこの場では少し言い辛い雰囲気なので伊波は黙っている。
迂闊な事も言えないので、相槌を打つ程度に大人しく聞いていた伊波は少し首を傾げて直ぐに戻す。

「紫上さん時間有りますか?」
「え?ええ少しなら。」

ちょっと待っていて下さいと伊波は言い置いて歩いて滝壷近くの水中からビニール袋を引き上げ戻って来た。
「どうぞ、選んでください。」
袋から滴る水が掛からない様少し離れた場所で袋の口を大きく開けて見せる。
中にはプラスチックのカップに入った水羊羹やアルミカップ入りのゼリーなどが何種類か入っていた。

「良いんですか、頂いても……。」
「どうぞ、お好きなだけ。」

何なら幾つか持っていきますかと言う申し出には辞退して、先程選んだ水羊羹のほかに桃のゼリーを一つ頂いた。
「ふふ、何か良いですね。こういうのも。」
興和園などで行うお茶会とはまた違った雰囲気がある。質の違う『静けさ』を湛えた即席のお茶会だ。
「問題が一つ……ゼリーが有るのに飲み物が日本茶と烏龍茶しかないんです。他にも持ってこれば良かった。」
伊波の言葉に軽く微笑し、わざわざ拭いてから渡されたお茶の缶を開け一口含んだ。冷えた液体が喉を潤す。

「そう言えば伊波君は何故ここに?」
「ここは涼しいですから。書庫でも良かったのですが、何となくここに。」

最も書庫へ行ったら飲食禁止なのでこういった物は持ちこめなかったろうが。
「それで、同じ事を考える人がいるかなと思いまして。」
誰に会うかは判らないがお茶ぐらいは、と。幸いかな、自然の冷蔵庫もある事だし。
夏の定番頂き物の水菓子の詰め合わせも早めに食べてしまいたかったのだ。
「そうだったんですか。私、良い時にお邪魔したんですね。」
頂きますと呟いて水羊羹のパッケージを開け一口。口の中に広がる仄かな甘味。
「美味しい。」
どうやらお気に召したようで上品な仕草でゆっくりと口に運ぶ。
時折食べる手を休めて会話したり――話題が何時の間にか総代の事になっていたりもしたが ――のほほんと滝を眺めたりしているうちに紫上は水羊羹を食べ終えた。
最後にお茶を飲み干し、伊波が用意していた袋に缶や容器を捨てる。
此れは業務が終わったら頂きますね、と桃のゼリーはハンカチで包んでポケットに入れた。

「此れから如何しますか?人手が入り用ならば手伝います。」
「有難う御座います、でも大丈夫です。猶予はまだ有りますので、切羽詰ってきたらお願い致しますね。」

紫上の言葉に切羽詰る前に呼んでくださいと伊波は苦笑を返した。
「今日はもう少ししたら帰ろうと思いますので……あぁ、あと明々後日の午後からお茶会があるんです。興和園でやりますので……伊波君も良ければ。」
それでもし宗家にお会いしたら伝えておいて頂けますか、と微笑を浮かべて紫上は言った。
「前回、前々回と急な御用が入ったようですので……予めその日は空けておいて頂ければと。」
伊波が了承の意を返すと紫上は笑顔でゆっくりと立ちあがった。
「それでは、お茶とお菓子ご馳走様でした。とても美味しかったです。」
失礼します、と一礼すると肩までの髪を翻し一足先に郷へと戻って行った。






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