はじまりはいつも雨 (2)
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「バッキャロー! 気を付けろ!!」
「てめーこそ気を付けろォ!」
と叫んだところで、既に走り去ってしまった黒い車には届かない。
「ヒトミ!」
アキラは彼女のもとへ駆け寄った。車にぶつかってはいないはずだ。だがヒトミは道路にうずくまって、苦しげに肩を上下させている。放されたが逃げもしない白猫と茶猫がミャーミャー鳴きながらすり寄っていた。
「どうしたヒトミ」
傘を投げ捨てひざをつく。ヒトミは荒い息をし、両手で胸を押さえている。−心臓!?
「・・おい」
頭の中が真っ白だ。どうしよう。どうしたらいいんだ!?
「おや、アキラくんじゃありませんか」
「・・・・」
取り乱したまま顔を上げると、雨の向こうに、長い黒髪を肩に垂らした男が傘をさして立っていた。
「八神・・・」
八神はアキラの大学の先生だ。いいタイミングで現れてくれたが、実は住んでいるマンションがすぐ近くだという。まさに救いの神。
とりあえず部屋に運び込んで、医学部講師である八神先生に診てもらい、今ヒトミは八神のベッドに安静に寝かされている。
「ヒトミは・・・」
「大丈夫ですよ」
立ち上がり、八神はキッチンに向かった。アキラもついていく。良いマンションだ、それにしても。
ヤカンに水を入れ火にかけながら、先生は淡々と言った。
「全く心配いりません。一応、週明けにでも病院に行った方がいいかも知れませんが」
ホーッと大きなため息をついたアキラに顔を向ける。
「これくらいの診断もできずオロオロしているようじゃ、やはり単位はあげられませんね。講義を真剣に聞いていないからですよ」
冗談っぽかったが、お小言までついでにいただいて、ちょっとムッとした。
「こんなとこで文句言うなよ。そんな冷静になんてなれっかよ」
本当にわけが分からないくらい動揺していた。それも当然のことだろう。心臓の悪い自分の彼女が、胸を押さえてうずくまっていたんだから。
医学生である前に、ヒトミの彼氏なんだな、と改めて自覚し、逆にそのことを誇らしくさえ思った。
「コーヒーでいいですか、アキラくん」
大切な人を心配する気持ちは、誰よりもよく分かる。それ以上はからかいもせず、コーヒーカップを二つ取り出した。
「ミケにゃんたちにも何かやってくれよ」
「ミケにゃん・・・」
「ミャーミャー」
三匹は口々に鳴いておねだりしている。八神は軽く眉をひそめるふりをした。
「ここはペット禁止なんですがね」
「いーだろちょっとぐらい。おーよちよち、お腹ちゅきまちたかー」
「・・・」
変態がかっている教え子に、もはやかける言葉も見つからなかったので、黙って冷蔵庫からミルクを出してやった。
「それにしても、アキラくんに彼女ができていたとはね」
「ンだよ悪ィのかよオレに彼女いちゃ」
「別に悪いとは言ってないでしょう」
確かにその通りだが、八神に何か言われると即口をとがらすような条件反射が出来上がってしまっている。
アキラはコーヒーをすすった。うまい。コユキがいれてくれるコーヒーにも匹敵する味だ。
「道理で最近、表情が明るくなったと思ってましたよ」
「・・・フン」
八神の奴、やけに楽しそうだ。おもちゃにされている。
「人のことよりテメーはどうなんだよ。ホモ疑惑を晴らすためには、彼女のひとりも作らないとマズイんじゃないのか」
「何ですかそのホモ疑惑って」
ホモ疑惑ならアキラだって負けないはずだが。コユキなんて本気で信じていたくらいだし。
『・・・アキラ? アキラー』
「お」
「気が付いたみたいですね、彼女」
コーヒーをこぼさん勢いで立ち上がり、寝室へ走るアキラを微笑で見送った。
「ミャー」
「ミャー」
テーブルの上では、三匹の子猫がミルクをなめなめ、可愛い声で鳴いている。
「大丈夫か、何か飲むか」
「うん・・・ありがと」
声をかけてくれたり、あれこれ気を遣ってもらえるのが嬉しくて、ヒトミはベッドに横になったままにこにこしていた。
子供のころ、カゼひいたときも思い切り母親に甘えていたっけ。
「気を付けないとな。心臓、びっくりさせすぎないように」
「うん」
ベッドのそばに来て、心配そうに覗き込んでくれるアキラ。それと窓越しに雨の音。
なんだかヒトミは幸せだった。
「あたし、死ぬかと思ったよ・・・」
そんな言葉すら、優しい幸せに浸っている。不思議さにアキラは口を閉ざした。彼女の目もとろんと恍惚の中にあるようで。
「・・・でも、生きてて、よかった」
「・・・・」
ベッドサイドに座り込み、手を差し出す。ヒトミもそっと手を出し、重ねた。
ぬくもりがいとおしい。
「・・・死んでも悔いはないかも、って思ってた。あんまり幸せだから」
何言ってんだ。非難を込めて目を見るが、ヒトミは笑っていた。
「でもやっぱり、胸が苦しくなったら、どうしても死にたくないって・・・叫んでたよ。死にたくないんだよ、あたし・・・」
笑みが歪む。唇を噛む。触れた指にも力がこもり、アキラを強く掴んでいた。好きな人を、決して放さないように。
「・・・バカだな、死ぬわけねえだろ・・・」
命に関わるような大病ではない。死ぬことなんてない。
・・・いや、そんな理屈はどうでもよくて。
死なせない。絶対に、死なせるものか!
アキラは今初めてはっきりと分かった。ヒトミは、普通の人よりも『死』を身近に感じながら生きているということを。誰しもが背中合わせにしている死・・・彼女はその恐怖を、ときどき真正面に見据えていかなければならないということを。
例え実際は何の心配もない発作だとしても、その恐怖はどれほどのものか。
「・・・オレが・・・」
こんな小さな体で、受け止めなければいけない重さは、いかほどのものか!
「オレがいるから・・・」
救ってやりたい。
早く医者になりたかった。
血を見たいという理由以外で医者になりたいと思ったのは、初めてだった。
「ありがと」
小さくて愛しい存在。この笑顔を守るためだけに。
猟奇ビデオの中でなら、何人死んだっていい。残酷であればあるほど面白い。
だけどこの娘だけは、死なせるどころか泣かせることだってできやしなかった。
「そばにいてくれるんだね」
「ああ」
幸せすぎる。
もうこのまま死んでしまってもいいかも、と、またヒトミは不謹慎なことを思っていた。それでもイザとなれば、「生」に爪を立ててしがみつこうとするんだろうけど。
今は哀れみと優しさに溢れた好きな人の眼差しと、雨の音とに守られて、甘くまどろんでいたかった。
「・・・ミャー」
「コラコラ、邪魔してはいけませんよ」
三毛猫の襟元をつかんで、テーブルの方に引き戻す。白い猫はお腹も一杯になってふわふわ丸くなっていたし、茶色の奴は食いしん坊で、まだひたすらミルクをなめている。
八神は三毛の首の辺りを指先でなでてやった。
「ミャー、ミャア」
子猫は目を細めて喜んでいる。
落ち着いたころに飲み物を持って行ってあげて、八神はアキラの彼女に自己紹介をした。
雪谷ヒトミ、と名乗った可愛い彼女は、身を起こしてベッドに座っていたが、にっこり笑うと頬を赤くして言った。
「お話、アキラくんから聞いてました。あのっ、八神先生だったら、許します。アキラと男色関係でも・・・」
ビジュアル的にも美しいから、ヒトミとしてはOKだった。
「な、何言ってんだよッツ!?」
彼女公認になってしまった・・・。
アキラはムキになって怒り、八神先生は苦笑していた。
H12.9.24