流浪島に着いたころには、もうすっかり夕の刻で、颯華の全身を包む光も、左の瞳も、夕陽によって更なる赤みと深さを与えられていた。薄紫の髪さえ、すっかり赤く染まってしまっている。
 島にすうっと着地すると、その髪がさらりとなびき、また背に落ち着いた。
 少しも変わらない島の全景を見渡して、颯華は息をつく。
 流浪島の中心には、岩が高く盛り上がっている。山のように見えるが、そうではなく、この中は洞窟のようにがらんどうだった。そこに頑丈な扉が一つだけ据え付けられている。
 彼女のもう一人の夫は、この中で暮らしているのだった。
 颯華は扉に近付き、ノックもなしにいきなり開けた。
「忍! 来たわよ」
 明るい声の似合わない、殺風景な部屋の隅で、夫は壁に向かって座っていた。一人で何かぶつぶつ言っている。颯華には何も見えないが、どうやらこの夫にもお客が来ているようだった。今日はみんなに客が来る日だ。
「おーい、忍っ!」
 急いでドアを閉めて、遠慮なくずかずか上がり込む。近くまで来て見下ろすと、忍はようやくこちらを振り仰いだ。
 左の眼で妻の姿をとらえると、彼は微かに笑みを浮かべたが、すぐに壁の方へ戻ってしまう。
「彼女は、拙者の奥さん・・颯華さんって言うんだ・・・」
 見えない人に紹介されている。
 忍はまたもや、ぶつぶつと会話を交わしてから、顔だけで颯華に向いた。
「颯華さんのこと、美人だって・・・」
「アラ、なかなか見る目があるんじゃない」
 ふふん、と壁に向かってポーズを取って見せる。実体のない相手に対して、サービス過剰気味の颯華だった。
 忍が友達に別れを告げ、ようやく体をこちらに向けたので、颯華も床に座り込んだ。すっかり向かい合う形ではなく、忍に対して90度の位置で壁にもたれる。
 乱世とは違い、この二番目の夫は、決して自分から妻に触れようとはしない。ただ黙って微笑むことで、颯華に会えた喜びを表していた。
「久しぶりね、忍。相変わらず元気そうじゃない」
 青白い顔をして閉じこもり、亡霊たちとぼそぼそと会話しているのが、“相変わらず元気”な忍の姿なのだった。
「颯華さんも」
「ええ」
 ロングブーツに包まれた両脚を伸ばして、にっこりうなずく。
「リッキーや乱も元気よ」
 ふっと、忍の左眼が兄弟たちを懐かしむような色を帯びた。右の眼は、いつものように長い前髪で隠されたままだったが。
「・・・冥界との戦争が始まるね」
 颯華には目を合わせず、自分の足元を見るような目つきをして、忍は低くつぶやいた。
 膝を抱えた手の左薬指には、銀色の指輪が鈍く輝きを放っている。
「ようやく、魔人どもと戦える。・・・そのために、オレはここまで生き長らえた・・・」
 千年前の後悔。それが彼の命の源と言っても良い。
「忍」
 ひざを立てて手を伸ばし、颯華は夫の黒髪をかき上げた。忍の右眼・・“不死眼”があらわになる。それは、千年前に、忍が魔人との死闘の末に手に入れ食べた眼だった。
「苦しいの・・・?」
 優しく、髪をなでてやる。忍は颯華の手をうるさがりもせず、黙ってされるがままにしていた。
「颯華さん・・・、苦しくて、辛いんだよ、生きているのが」
 目を伏せて言う忍の声は、抑揚がなく、それがかえって言葉のリアリティを強めた。
「何度も死のうと思ったよ」
 返事ができず、ただ頬に触れる。右の頬にかかっている大きな古傷。男にしては白く、きめの細かい肌。
「でも、冥界の奴らを全滅させるまでは、死ねないからね・・・」
「・・・」
 頬から肩に、手を下ろす。忍は体つきも乱世とは正反対で、胸は薄くて腕や腰も細く、肩などはほとんど華奢といってもよかった。
 颯華はその肩に手を置いて、忍の顔を下から覗き込むようにする。と、忍も左眼を上げた。
「颯華さん」
 どこか焦点が合っていないような、ぼんやりした目をして、颯華を見つめる。
「・・オレを、殺してくれるかい」
 愛の言葉を囁くのと同じ調子で、それはそれは甘く・・・、優しい声。

「ばかっ」
 夫の黒髪に、左指を潜り込ませた。
「あたしは守り人なのよ。どうして忍を殺せると思うの」
「そう・・?」
 口元に薄く笑みを浮かべて、忍はまだ颯華を見ていた。
「貴女は、ずっと変わらずオレを想ってくれた」
「今だってそうよ。愛しているもの」
 きっぱりと言い切る。
 忍はますます穏やかに、言い放った。
「それなら、オレを殺してくれ」
「忍!」
 いらだちを抑えきれず立ち上がりかけた颯華を、感情のこもらない忍の声がとどめた。
「冥界との戦争なら、魔人の力を解放しなきゃならない」
 自らの内に封印している、魔の力を・・・。
「その後、オレはその力に乗っ取られてしまうだろう。だから完全に魔人化しないうちに、殺して欲しい」
「・・・」
「颯華さんに、殺して欲しいんだよ・・・」
 夢を見ているときの、けだるい熱っぽさを帯びて、忍はその瞬間を心から待ち望んでいるようだった。
「忍・・・」
 胸の奥が苦しくなる。のどもとにせり上がってくるような痛みを感じて、颯華は奥歯を噛みしめた。
「あんたったら・・・」
 忍の肩から手を離し、そのこぶしをぐっと握る。
「自分勝手なことばっかり! いつもそうね。千年前もそうだったわ!」
 突然の激しさに、忍は言葉を失ってしまう。そこに颯華はたたみかけた。
「忘れたとは言わせないわよ。あのとき、あたしに対して、あんたいきなり離婚を迫ったじゃないの!」

 それは遠い昔。千年前。
 忍が呑み込んだ呪い神の眼は、体の右半分を侵し、魔人化させてしまった。
 体の中で、超人と魔人の力がせめぎ合う。その苦しさは、筆舌に尽くしがたいものがあった。
「ルーンメイスを手に入れるしか、ないわ」
 守り人として、颯華は進言する。乱世が呪い刀の破修羅に選ばれた直後のことだ。
「ルーンメイス・・・?」
「そう。超神器のひとつ、闇の魔力を封印する幻杖よ」
 その杖の力で、忍の魔力をも封印すればよい。颯華はそう考えたのだった。
「だけどねーちゃん、忍にーちゃんも、今ので相当参っちまったろ・・」
 そう言うリキッドも、顔中、体中がキズだらけ。破修羅に触れただけで、ここまでのダメージを受けたのだ。さすがに今まで誰も抜くことすらできなかった呪い刀、その威力ははかり知れないものがある。
 そして忍も、地面にひざをついたまま、動けなかった。それでなくても右半分に宿る魔の力と闘っているのだ。白い布で顔を覆っているため、表情は見て取れないが、全身のキズと流れ出る血、そして苦しげに上下する肩が、忍の苦痛を物語っていた。
「早いうちに超神器を手にしないと、本当に忍は・・・」
「颯華さん、連れて行ってくれ」
 震えてもいなければ、弱くもない。しっかりとした声を出して、忍が立ち上がった。
「忍にーちゃん」
「オレは、ルーンメイスを手にする」
 ここで魔人に負けるわけにはいかなかった。何としても。
「颯華」
 破修羅を抜いた乱世が、血まみれの顔で妻と弟を順に見る。
「行け。ここに長居は無用だ」
 促されて、颯華は忍に近寄り、手を伸ばした。腕を取り、体を支えてあげる。
「行くわよ。ルーンメイスがある、流浪島へ」
 二人の体が、赤い光に包まれる。
 流れる赤い空気が体中にまとわりついて、気が付いたときには、二人だけで別の島へ降り立っていた。
 風の冷たく、岩だらけの場所。浮遊島のひとつ、流浪島だ。
「ルーンメイスは?」
「あの洞窟の中よ」
 指さす先には、岩の洞窟がぽっかりと口を開けている。
「ルーンメイスに認められれば、あの幻杖はあなたのものよ」
 認められなければどうなるか、は、颯華も忍も口にはしなかった。
 後戻りはできない。ルーンメイスを手に入れることを諦めたとしても、自身の中での聖魔のせめぎ合いにいつまで肉体と精神が耐えられるものか。
 忍は前に進むしかなかった。そして颯華は、忍のことを信じて待っているしか。
「覚悟はいい?」
「とっくにできてるさ。・・その前に、颯華さんにお願いがある」
 一歩、足を踏み出し、颯華の前に出ると、忍は真正面から颯華を見据えた。
 その左眼からただならぬ決意を感じ、颯華は覚えず息をこらす。
「何?」
 風が吹く。忍の顔に巻いた布の端がはためく。
 風はまた忍の黒い前髪をかき分け、右の眼をのぞかせた。構わず、魔人の眼で颯華を見つめ、忍ははっきりと言った。
「離婚してくれ」

「そういえば、そんなこともあったね」
「そうよ」
 千年前、今座っているこの場所に、ルーンメイスはあった。
 そして、この洞窟の外で、忍は颯華に離婚を申し出たのだった。
「でも、颯華さんは耳を貸してくれなかった」
「当然」
 にっと笑う。
「あたしは、忍に負けないくらい自分勝手なんだもの」

「・・・なんですって?」
 颯華は唇をゆがめ、不審の目で夫を見上げた。聞き間違いではないのだろうか?
 しかし、忍は動ぜず、もう一度ゆっくりと繰り返した。自分と離婚してくれ、と。
「・・・」
 ますます不審げな表情になって、颯華は腕組みをする。何故、今、そんなとっぴょうしもないことを・・・。
「できるわけないじゃないのよ、そんなこと」
「オレは半分、魔人化してしまっている」
「だから?」
 忍のどこまでも冷静な態度に、颯華は反発を覚えた。強い瞳で見返す。
「だからどうだっていうの」
「もうこの先一緒にいられないし、夫としてしてあげられることも、また颯華さんに妻としてしてもらえることも、何一つとしてないんだ」
「それで、離婚?」
 バカバカしい、といった口調に、生真面目に忍はうなずく。
「離婚しよう」
「やーよ!」
 組んでいた腕をほどいて下ろし、颯華は胸を反らせた。
「結婚式で誓ったのよ。あたしは、ずっとあなたを愛し続けるって。そしてあなたも、ずっとあたしを愛し続けるって誓ったわよね。何があっても、永遠にって!」
「・・・誓ったよ」
「それなら!」
「だからこそ・・・」
 右手で、忍は自分の覆面に触れた。白い布のところどころに血がにじんでいる。
「愛しているからこそ・・・」
 布をほどく。風にはためく。忍はすっかり覆面を外し、手を下ろした。
「颯華さん、見てくれ。目をそらさないで」
 黒髪が、強い風に吹かれて巻き上がる。
「あ・・・」
 颯華は目を見開いた。夫の素顔を目の前にして、半歩後ずさる。
「忍・・」
 左半分は、颯華の見慣れた忍の顔だった。
 だが。
「これがオレの姿だよ」
 邪悪に大きく開いた口からは、鋭い牙がのぞいている。つり上がった目は蛇のそれを思わせる冷酷な光を放っていた。
 身の毛もよだつような醜悪な顔。夫の右半分は、魔人そのものとなっていた。
「こんな化け物は、貴女の夫にふさわしくない」
 それ以上耐えられないのか、忍は背を向けた。細い肩がかすかに震えている。
「行ってくれ・・・」
「忍っ!」
 我に返り、颯華は大声を上げた。
「忍は忍よ。あたしは貴方の妻だわ。・・・ずっと!」
 その姿を見た驚きは、決して小さなものではなかった。おぞましい魔人の顔。
「心は忍よ・・・」
 自分にも言い聞かせるように、つぶやく。
「颯華さん」
 左側からゆっくり振り返り、忍は再び颯華と向かい合った。左半分が、驚いたような呆然としたような複雑な表情を浮かべている。
「こんなオレでも・・・?」
 颯華は頷く。今やしっかりと意志をかため、微笑みすら浮かべていた。
「男は外見じゃないわよ」
「そうは言っても・・・」
 半分だけが魔人の顔なのに。
 まじまじとその顔を見つめて、颯華は納得するように何度も頷いた。
「うんうん。見慣れれば何てことないわ。最初はちょっとびっくりしたけど」
 最後には吹き出してしまう。忍もつられて、口元をほころばせた。
「颯華さん・・・」
「行ってきて、忍。あたし、待っているから」
「・・ありがとう」
 忍は歩き出した。妻に見送られ、ルーンメイスの待つ洞窟へと入っていった。 
 ガガッ・・・!!
 ほどなく洞窟からすさまじい衝撃波が発せられ、そこに忍の声がかぶさる。超神器に、試されているのだ。
「忍・・・」
『うおおおーッツ!!』
 ひときわ大きな叫び声を最後に、静寂が島全体を支配する。颯華は洞窟へ駆け寄った。
「忍ーっ!!」
 夢中で走り込む。夫は背を向けて立っていたが、その手に、一本の杖をしっかりと握っていた。杖の先には、翼をかたどった装飾が施されている。まぎれもなく、魔を封じる幻杖ルーンメイス。
「忍・・・」
 杖に、選ばれたのか。
「・・・颯華さん」
 夫は振り返る。ルーンメイスにより魔が封じられ、右側も不死眼を除いては忍の顔に戻っていた。ただ、その代わりのように、目から頬に向かって大きな傷が走っている。血が、その傷の他にも体のあちこちから流れ出ていた。それでも、忍は笑った。勝利の笑みだった。
「手に入れたよ。ルーンメイス・・オレの超神器だ」
「・・・ええ! すごいわ忍」
 颯華は迷わず、夫の胸に飛び込む。忍は少しためらいながら、背に腕を回した。
「颯華さん、オレは、ここで暮らすよ。この杖で魔力は封じても、やっぱり聖層圏の空気に触れるのは辛いから」
 洞窟の中で、できるだけ外の空気に触れないで暮らそうという考えだった。
「分かったわ。でも、もう二度と離婚なんて口にしないでよね」
「ああ・・・」
 大切に大切に、腕に力を加える。颯華も忍の肩に腕を置いて、頬を寄せた。血がついてもお構いなしだ。
「誓い通り、死ぬまでオレは貴女の夫だよ・・・」
「うん」
 狭い洞窟の中にも、風が吹き込んでくる。
「ドアをつけた方がいいわね」
 くすっ、と笑い合う。
 千年前の、未だ失われぬ時。

 入口のドアを見つめて、颯華は懐かしく思い出していた。
「あなたは、昔っからろくなこと言わないんだから」
「・・・殺してくれ、って言ったことを怒っているんだね」
「そうよ。夫を殺せる妻がどこにいるというの」
「せめて最期くらいは颯華さんの手で、と思ったんだけど・・・仕方ない。大丈夫、忍、自殺の練習もしているから」
 いつの間にか、右手のカミソリが光を放っていた。
「そんな練習しないでよッ!」
 何が大丈夫なのか・・。
 忘れていたが、忍は自殺マニアでもあったのだった。

 とっぷり陽も暮れて、辺りは真っ暗。
 颯華は泊まっていくことにして、夫と並んで横になっていた。
「この千年間、颯華さんには寂しい思いをさせたね。兄者もオレも・・」
 洞窟の闇の中に、忍の声がひそやかに響きわたる。
「そんなこと。それは、乱にしても忍にしても、同じことよ。それどころか、あたしよりもよっぽど大変な思いをしているんだから」
 気持ちは分かるが、いくら何を言っても埒がない。
「失われた時を求めてもダメよね、って言ったら、乱がね、失われてはいないって。あの時は、心の中に在るからって教えてくれたの」
「そうか・・・」
 忍も気持ちを察して、そのことについてはもう何も言わなかった。
「ねえ、忍。もっと近くに行ってもいい?」
「・・いいよ・・・」
 体温を分かち合えるくらいにそばに寄る。
「あたし、幸せよ。愛する夫が二人もいるんだから・・。これ以上の幸せはないわ」
「颯華さん・・・」
 吐息の下に、甘く沈んで。
 夜がゆっくり、ふけてゆく。
 

 
 

 

−END−
 
 あとがき
 

H11.1.16