ドアを開けるのももどかしく、部屋の中へ飛び込む。ためらいがなかったわけではない。それでも、いても立ってもいられなかった。
真っ先に目に入ったのは、白いシャツを羽織って壁にもたれている女性の姿だった。放心状態で天井を見上げているナナ。その様子はまるで幼女のようで、かえってむごいくらいに痛々しい。
「ナナ・・・!」
事情を悟り、ぎりっと奥歯を噛む。青い瞳には一瞬にして憎悪の炎が点った。
「・・・・どこ行きやがった!!」
「待ってハーレム!!」
するどい声で制され、翻しかけた体を止める。ハーレムは肩越しに振り向いた。
この状態のナナが、こんなにはっきりと声を出すことが驚きだった。
「行かないで」
実際、彼女は今初めて目を覚ましたかのようだった。
飛び出しかけたハーレムを、何としてでも止めなければならなかった。その無意識の想いが、ナナをゆさぶり起こしたのだ。
「ナナ・・・」
ハーレムは完全にナナに向き直った。
「あの野郎、許せねえよ」
「だめよ、ハーレム」
切実に訴える目に圧倒され、両腕を下ろす。強い衝動までは止めることができず、そのこぶしは小刻みに震えた。ハーレムには、ナナの言動が不思議でならなかった。彼女こそ最大限の怒りを抱いて当然なのに。なぜ、こんなに激しさのない、ほとんど頼み込むような態度で。
「こっちに来て」
ため息の混じったようなかすれた声だった。ハーレムは逆らえず、そっとナナの近くに行く。ドアは勝手に閉まった。
乱れたベッドと散乱した衣類、そしてむき出しの白い脚に目のやり場をなくしてしまい、ただ突っ立っていた。
「殺してやる、あの野郎」
視線をそらし、うめくように言い捨てる。
「俺が殺してやる!!」
硬い質の金髪と怒りのため紅潮した顔が、ナナに色彩を蘇らせた。今までモノクロの世界にいたのだが、急に現実は身近に踏み込んで来たのだった。強烈に近付き、また少し遠ざかる感覚に、少しめまいを覚える。
「そんなことを、言わないで。あなたの、お兄さんなんだから」
「あんなやつ、兄とも思うもんか!」
「兄弟で争ってはだめよ」
「・・・・」
どうして、こんなとき、そんな心配ができるのだろう。どうして。
「行かないでハーレム」
兄のルーザーが、憎い。たぎるような憎しみが体中を巡っていた。しかし、それ以上に、ハーレムはこの人の言うことを聞かないわけにはいかなかった。
荒く息をすることでどうにか押さえ込みながら、乱暴に腰を下ろす。ナナとは二人分くらいの距離を開けて、同じように壁にもたれて座った。
「ハーレム、どうしてここに?」
完全に己を取り戻すと、逆にナナは冷静になれた。つられるようにハーレムの熱も引いてゆく。
ひどい目に遭わされたナナのことを思うと、とりあえずでも怒りを引っ込めるしかなかった。
「ミルフィーユが倒れているのを見つけたんだ」
立てた片膝の上に腕を置いて、ぼそぼそと話し始める。
「ミルは、大丈夫だったの!?」
ぱっとハーレムの方を向く。彼は黙って頷いた。
「よかったわ・・・」
胸をなで下ろした。開放された秘石眼の力をまともに受けたのだから、そのまま死んでしまったのかと哀しく思っていた。
「ズタボロになってたけど、どうにか意識はあったんだ。あいつ、相当頑丈だよ。・・・だけど、遅かった、んだな・・・」
うなだれて、ハーレムはきつく目をつぶった。自分で自分を責めている様子がナナにも伝わり、まだ年若いこの弟をかわいそうに思った。
「ハーレム・・・。私は大丈夫よ。そんなに苦しまないで」
もう覚悟は決めている。だんだんナナはさばさばとしてきた。
「私は平気だから」
「マジック兄貴に・・・」
「だめっ!」
瞬時に拒否して、首を振った。
「言ってはだめよ。絶対に」
「ナナ」
ナナはひざを正した。
「ねえハーレム、私のことを少しでも思ってくれるなら、このことは決して誰にも言わないで。あなたも辛いとは思うけれど、どうか、お願いよ」
それが一番円満な道に違いなかった。ハーレムが口を閉ざし、ナナはルーザーの妻になれば良い。それでうまくいくのだ。
「ちょっと順番が違っただけだと思えば大丈夫・・・。ルーザーは私を大事にしてくれるわ、きっと。幸せになるから」
「結婚する気かよ、好きでもない奴と」
とうとうハーレムは床を手のひらで叩きつけた。
「俺は知ってるんだ。ナナはずっと、マジック兄貴のことを・・・!」
「ハーレム!」
「好きなんだろ、今だって! 俺はナナがマジック兄貴と結婚すればいいって思ってた。なのに、こんなことになるなんて・・・!」
耐えきれなくなり、立ち上がる。ナナの顔は見ずに大股で歩き出した。
「ハーレム」
ふと立ち止まり、それでも振り返ることすらせずに声のトーンを落とす。
「ナナがそこまで言うなら、黙ってるよ。だけど、俺はルーザー兄貴は許さねえ。一生、許さねえ!」
それだけ言い捨てると、不意にハーレムは駆け出した。ドアをぶち破るような勢いで出て行く。
ばたばたと遠ざかる足音を聞きながら、ナナはゆらりと立ち上がった。
いつの間にか空は晴れている。さっきまでの土砂降りが嘘のような良い天気だ。太陽は徐々に西へと傾きかけていた。
運命のままに。流されるしかない。
心は自分でも驚くほど穏やかだった。
結婚の意志を告げると、マジックとサービスは心から喜び、祝福をしてくれた。ハーレムだけはずっとそっぽを向いていたが、長兄は違う解釈をしたらしい。
「ハーレム、ナナをルーザーに取られて悔しいのか?」
冗談混じりにそんなことを言ってくる。違う、と憮然として答えるが、からかわれるばかりで真意はちっとも伝わらなかった。
「ナナはぼくたちのお姉さんになるんだよ。ハーレム嬉しくないの?」
単純にはしゃぐ双子の弟。その脳天気さが少し憎らしいが、やはりかわいいとも思う。そしてこのかわいいサービスは、ルーザーのことを敬愛しているのだ。
ナナの言うとおり、多少辛くても黙っていることが一番なのかも知れなかった。
夏の太陽とひまわりに囲まれて、一点の曇りもない。きらきら光る笑顔と、転がるようなおしゃべりの声。見た目にはこれ以上ないくらいの幸せな風景を作り上げているのだから。
そうと決まったなら早い方がよい、ということで、ルーザーとナナの結婚式はその一ヶ月後に決めた。同時に二人の新居も急ピッチで建てさせる。
そして、結婚式の当日。小さなチャペルの控え室で、花嫁はひとりヴェールに顔を隠して座っていた。
うつむき加減の横顔に、光の筋が降り注ぐ。誓いのときを目前に、ナナの心中は少しの波風も立ちはしない。
コツ、と窓が鳴ったのに気付き、顔を上げると、ハーレムが外に立っていた。とたんに満面の笑みになって、急いで窓を開けてあげる。
「ハーレム、来てくれないかと思っていたわ」
「式には出ねえよ。嘘の誓いになんか、立ち会えるか」
髪を無造作に縛って、ジーンズにタンクトップといういつものラフな格好をしている。
ハーレムは、でも・・・と言葉を続けた。
「ナナの花嫁姿は、見たかった」
照れるように一度顔をそらして、もう一度まっすぐに見つめる。純白のウエディングドレスとティアラ、そしてヴェールに眩しそうに目を細めた。
「すげえ、きれいだ」
「ありがとう」
義弟となるハーレムに、最高の笑顔を見せてあげた。
「花嫁様、お時間です」
ドアがノックされる。ハーレムは短く別れを告げると、背を向け去っていった。
祭壇に立ち、神父が誓いの言葉を促す。最初にルーザーに。そしてナナにも。
「誓います」
はっきりとした声で、ナナは答えた。これはハーレムの言うように、嘘の誓いになるのだろう。嘘をつくのは罪深いこと。いつか神様に罰せられるのだろうか・・・。そんなことを、考えながら。
祝福の声、ライスシャワー、花嫁の手を離れるブーケ。どの顔も、歓喜に満ちあふれている。・・・ただ一人を除いては。
好奇心旺盛なクラスメートたちと一緒に、やや遠くから見下ろしていたジャンは、この場に似つかわしくないほど深刻な表情をしていた。
まだごく小さな、青の光を感じ取ったためだ。
始末しなければならないのかもしれない。青の一族の力がさらに強大なものとなるのを防ぐために。
H11.6.19