第2章 鍵
(いま……ひとりだよね)
リビングに入る前に、そっと中の様子をうかがう。
掃除も一段落したらしく、のんびりとソファでくつろいでいる大きな人影が見える。
(よし!)
私は、いつのまにか手をぎゅっと握っていたことに気がついて、慌てて深呼吸をした。
呼吸を落ち着けて、心の中で”よしっ!”と気合を入れて、扉に手をかけたその時、
「どうしたのだ?」
「わっ、はわわわっ」
ゴン!
いきなり後から声をかけられて慌てた私は、ドアノブにかけていた手を滑らせ、思いっきり頭を打ち付けてしまった。
「……いった〜い」
「なにをしている」
少しあきれたような声をかけて、その人物は私が頭で押し開けた扉の向こうへと行ってしまった。
「こーすけ、おやつ」
「お、美緒。と、いまのすごい音は那美か……大丈夫か?」
「へ、平気です」
情けない声で、そう答えるのが精一杯だった。
「はぁ……今日も渡せなかったなぁ」
部屋の布団に転がりながら、私は天井に掲げた鍵を見つめた。”202”の刻印と、青紫の紐のかかったこの鍵は、この部屋に住むことになった時に渡されたこの部屋のマスターキーだ。
私は最近、この鍵を渡すために耕介さんの周りをうろうろしている。
他の娘がいると恥ずかしいし、いざ渡そうと思っても、なかなか勇気が出なかったりと、苦労している。結局渡すことができないまま、二週間が過ぎていた。
そもそもあの時に無理にでも渡しておけば、今になってこんなに悩むことは無かったのに。そう思うと、ため息が出た。
「あのね、この寮の”儀式”みたいなものなんだけど……」
そう言って、楽しそう微笑を浮かべる。悪戯を楽しむ子供のような顔だった。普段は落ち着いた雰囲気の女性なのに、時折見せるかわいらしい表情は、彼女の魅力を引き立てていた。
その女性、仁村知佳さんは、姉がここに来るよりも前から『さざなみ女子寮』に住んでいる人だ。
知佳さんがひとつの鍵を差し出した。
「この寮ではね、昔から新人さんにやってもらってることがあるんだけどね」
私は、とりあえず差し出された鍵を受け取った。
「それは那美ちゃんの部屋のマスターキーよ」
「は、はぁ」
私は、どうすればいいのか迷った。もう部屋の鍵は愛さんから受け取っているし、マスターキーといえば普通、寮の管理人さんが……
そこまで考えて、ひとつのことに思い当たった。
(そう言えば管理人さんって、男の人、だよね?)
まあでも薫ちゃんが信用してた人だし、大丈夫だろう。鍵を前に私は少し首をかしげた。
「あの、えっと……これ、どうすれば良いんですか?」
「えへへ。これはね……」
とっておきの秘密を打ち明けるように、楽しそうに聞かせてくれた。
「はぁ……」
思えばあのときが一番のチャンスだったのかもしれない。知佳さんとの話の後で偶然会った耕介さんに鍵を渡していれば、あの時慌てて鍵を背中に隠したりしなければ、こんな風に悩むことは無かっただろう。
やっぱり私ってドジなのかなぁ。昼間ぶつけた頭を、自分の手で触る。珍しい事ではないのに、ぶつけた感触が今も残っているような気がした。
横で寝ていた久遠が、眠たげな顔を起こし、興味無さげに私のほうを見る。
「ねえ、久遠。わたし、なにやってるんだろうね」
「くぁ〜」
大きなあくびをして、そのまま再び眠ってしまった。
友達甲斐の無い狐だ。私はそう思って、軽くにらみつけたけど、久遠は気づく様子も無く眠っている。
「あ〜あ」
私もそのまま寝ようかと思ったけど、目がさえてうまく眠れそうも無い。
鍵を渡せない本当の理由、それは私にもわかっていた。
きっかけが無い、という事も確かにある。
他の寮生と違い、前から耕介さんの話を聞いていた私は、特に反発することも無かったし、何かのきっかけで仲良くなる、と言うようなことも無かった。何も無いのに渡すのも勇気が要る。
それでも渡そうと思えば渡せたはずだ。鍵を持っている姿は、いままでに何度か見られている。それでも渡せなかった。
実を言えば今年入った他の寮生はみんなもう渡してしまっていた。私一人だけが、いまだに渡せないでいるのだった。
(わたしは……)
心の中でそっとつぶやく。
(怖いんだ、耕介さんのことが)