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目が覚めると、すでに10時を過ぎていた。 まだ夏休みが続いているから学校はないし、今日はアルバイトも休みだ。今日一日はゆっくり休んで、明日からの英気を養うとでもするかな……そう、ぼんやりとベッドの中で思っていた時だ。 台所で、何かを刻んでいる音が聞こえた。その瞬間、僕はぐいっと現実の世界に引き戻された。 思わずタオルケットを蹴り上げて跳ね起きると、窓は大きく開かれていて、サァッと気持ちの良い風が部屋の中まで吹き込んできた。カーテンがそよそよとなびいているのを見ながら、僕は昨日の出来事をようやく思い出していた。まだ寝惚けていたかった意識が、パチッと目覚める。 昨日………あの後。 雅に無碍にも拒絶されてしまった少女・若葉を一人見知らぬ街に放置して帰るわけにもいかず、とりあえずのつもりで彼女を僕の住むアパートまで連れて帰ってきたのだった。別に下心があって誘ったわけではもちろんない。傷心している筈の彼女を見るのは本当に痛々しかったし、それに僕自身、彼女と大変なことを約束してしまったからという手前もある。第一、「家に来るかい?」と尋ねて二つ返事で「よろしいですか?」なんて答えてしまうような彼女を、やっぱり放ってはおけない。危険すぎるというものだ。 というわけで、彼女は僕の部屋でそのまま一夜を明かしたわけだ。 誓って言うが、やましいことなんて何もしてはいない。一瞬でも企まなかったと言えば嘘になるけれど、情けない話、それを現実に反映させられる程、僕に甲斐性はない。それが出来ていれば、昨日のような場面で、雅や有里菜に対してもう一言二言、浴びせてやることも出来た筈だ。 まあ、それはそれだ。今はそんなことはどうでもいい。 さっきから扉の向こうで心地よい包丁の音を響かせているのは、その若葉なのだろう。殊勝なことに、どうやら朝食の支度をしてくれているらしい。もう時計の針が10時過ぎを指していることから考えると、僕が起きるのを待っていてくれたのかもしれない。なかなか僕が目覚めないものだから、とりあえず作ってだけはおこう、と考えたのに違いない。まさか、随分前から取りかかっていて、まだ完成に至らないなどということはないだろう。 僕はゆっくりとベッドから身を起こし、まだ軽く身体に残っていた眠気を吹き飛ばすように大きな伸びをした。その気配を察したのか、ドアの向こうのリズミカルな音が、ピタリと止んだ。僕はとたとたと部屋を横切って、キッチンと部屋とを区切るドアをガチャリと開ける。案の定、腕によりをかけた若葉が、キョトンとしてこちらの方に首を向けていた。 「おはようございます、笙さんっ」 「おはよう、若葉。悪いね、何だか朝食用意してもらっちゃってるみたいで」 ドアのサッシに体重を預けたまま冷蔵庫の扉を開けつつ僕が言うと、彼女はなんだか嬉しそうにたくし上げた袖をさらにより上げながら、笑顔で言った。 「いいえ、一晩の宿をお借りしたのですから、これくらいは是非私におまかせください!」 その笑顔は、本当に純粋で、輝いて見えた。朝の起き掛けだからまだ目が光線に慣れていないとか、そんなつまらない言い訳はしない。ただ心から、素直にそう思えたのだ。こんな彼女が、はるかな地から追ってきてくれたというのに、あっさりと振ってしまう双子の兄・雅の心境が、僕にはなんだか理解できない。 それにしても、テーブルの上に綺麗に並べられた料理のラインナップを見ると、そのあまりのレベルの高さに、思わず声を失ってしまいそうだ。買ったはいいが一度も使ったことのない皿が棚の奥から引っぱり出され、久方ぶりの日光を受けて白く輝いている。その皿に盛りつけられた料理の一品一品から、彼女の育ちの良さというものを、伺い知ることができる。これを朝食として頂けてしまうのだから、いやはや何とも嬉しい事態が転がり込んできてくれた、という心境だ。 「悪いね、寝坊しちゃって。起こしてくれても良かったのに」 僕が言うと、まだこちらを見ていた若葉は何故か、ハッとなったように手を口許にあてがった。 「ああっ! 私、お料理を作るのに夢中になってしまって……笙さんを起こしてさしあげる事を、すっかり忘れてしまっていました…」 …………たはは。 まあ、料理に時間がかかったぶん味の方に期待を寄せるとして、僕は仕切りのドアを開けたまま部屋の方へと戻った。真正面に配置された窓の向こうには、どこまでも続く青い空が広がっている。遠くに見える高い山々に流れる雲がかかっては過ぎ、またかかっては過ぎていく。 そんな健康的な美しい風景を見ながら、僕はふと、彼女がいたという異世界の事を思った。半年前に雅がこの街に帰ってきた時、彼は「美しい自然が残ってる綺麗な世界」がどうとか言っていたような記憶を思い出す。 もし、そんな夢物語のような国からこの日本へやってきたのだとしたら……彼女の、若葉の目には、この街はいったいどういう風に映っているのだろうか。少しだけ気になった。しかし、そんな事を今尋ねるのは、ナンセンスっていうものだろう。 「朝御飯の支度が、出来ましたっ」 僕の背中が、若葉の弾む声を感じた。 「ん、さんきゅ」 よれよれになっていたTシャツを脱ぎ捨てて洗濯かごに放り込み、わざわざ新品の白いTシャツに袖を通す。そして壁に掛けてある安物の装飾鏡を覗き込みながら寝ぐせがないのを確認して、僕はようやく改めてキッチンの方へと向かった。身だしなみに気を配ったのは、正直久しぶりだ。 「うわ、こりゃ豪勢だな」 食卓の上に並べられた料理の数々に、僕は圧倒されてしまいそうになった。あの冷蔵庫の中身から、いったいどうやってこれ程までに多彩な料理を作り出せたというのだろう……調理法のマジックってやつだろうか、まさかそれとも…。無用な心配も脳裏を掠めながら、それでも僕は喜々として椅子へと腰掛けた。 その数分後、僕はとある結論に達した。 これだけ可愛いんだ、欠点の一つや二つ、どってことないよな、うん。 |
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「どこか、行きたい所とかある?」 せっかくバイトのない晴れた一日なので、これを無駄に過ごす手だては無いと考えた僕は、しゅんとして朝食の後片付けに取りかかっていた若葉に尋ねたのだった。彼女はしばらく「うーん」と考え込むような素振りを見せたが、パッと明るい表情を浮かべたかと思うと、そのまま首をぐるっと僕の方へと向けて、まるで今日の空模様のような晴れやかな笑顔で、尋ねるように答えてきた。 「餡子隈堂の栗ようかん、ってご存知ですか?」 そういう理由で僕と若葉の二人は今、電車に揺られて繁華街の方へと足を伸ばしているのだった。 昨日と同じみなと線に乗って、しかし昨日とルートは逆に辿っている。どうしてそうなったのかというと、彼女の言った餡子隈堂という店は、大和駅前の幾分さびれの見える繁華街に位置するからである。数十年の歴史を誇るとかいう、地元の者なら知らぬ者はいないと言える程に名の知れた名店舗なのだ。彼女がピンポイントで突いてきた栗ようかんなどは、まさに県外からも客が寄るという程に名の知れた絶品である。 それにしても、まさか異世界にまでその名が及んでいようとは。 勿論そんなわけはないだろうが、彼女が何故その店に行きたがっているのか僕は何となく気になった。 ふと隣の席に目をやると、彼女は昨日と同じ和服に身を包んで、キチンと行儀良く座りながら、流れゆく車窓の景色を眺めているようだ。その横顔には、まだあどけなささえ見受けられる。直接歳を尋いてはいないが、おそらく16歳くらいなのだろう。昔風に言えば「いろつき」、そろそろフェロモンを醸し出し始める年頃である。しかし、雰囲気的に清楚が勝つ若葉には、少女らしさの方がまだ目立っている。 やがて電車は目的の駅へと止まり、乗客たちが昇降口の方へぞろぞろと移動を始めた。もう時計は昼時の時刻を指しており、客数はラッシュ時に較べて極端に少ない。特に急ぐ必要もないので、おおむね車内がからっぽになった頃を見計らって、僕たち二人もようやく立ち上がった。 「昨日、ここで電車に乗ったんだよ。覚えてる?」 何気なく傍らの若葉に聞いてみると、彼女は「えっ」と言わんばかりの表情で、あたりをクルクルと見渡した。昨日と同じプラットホーム、昨日と同じ車両、昨日と同じ席。特に意識したわけではなく偶然そうなってしまったわけだが、若葉は何だか気恥ずかしそうにちょっとだけ首を竦めながら、はにかみ笑いを浮かべて僕の方へと向き直った。 「すみません、私、こういう車は不慣れなもので…」 「あ、いや、別に覚えてないからって責めたりなんかしないよ」 いきなり謝られてしまって面食らった。謝らせるつもりはまったくなかったので、僕は内心ちょっとだけ反省した。昨日出会った直後の事、僕が道を教えてあげた後、この子は全くあさって方向を目指して歩き出してしまったことを、僕はふと思い出した。ひょっとしたら若葉は、自覚があるなしに関わらず、かなりの方向音痴なのかもしれない。 「ところで、若葉はどうして餡子隈堂に行きたいなんて言ったわけ?」 先程思った疑問をなにげなく口に出してみる。若葉はとたとたと駅の階段を降りながら、キョトンとして僕の方を向いた。 「えっ、何か私、おかしな事でも言ったのでしょうか?」 「いや、全然おかしくなんかないけど」 耳に心地の良い声で、なんともピントのはずれた答えが返ってきてくれたため、僕は思わず吹き出してしまった。そんな僕の仕草を、若葉は得心がいかないような表情でじっと見上げていた。 階段を降りて地下トンネルのような通路を抜け、広い階段を昇ると、改札口が幾つも並んだ風景が目に飛び込んでくる。その向こう側に見える空は、少し雲が見える程度で、青く晴れ渡っていた。今日も暑くなりそうだ。改札を抜けて駅の外に出ると、案の定、外の気温は太陽光に比例して殺人的に上昇していた。八月ももう終わろうとしているのにこの暑さはないだろう、なんて思うようになって、一週間ほどが経っている。 駅の真正面には一軒、やたら高いビルがドンとそびえ立っている。確か中身はホテルだという話を聞いているが、僕には生涯、縁の無さそうなお話だ。しかしあの日、この辺りを歩いていた筈の雅が行方不明になっていたり、すぐこの近隣で若葉が立ち尽くして困っていたり……ひょっとしてこの街のどこかに異世界とつながってる空間があるんじゃないか、なんて考えがポッと浮かんだ。だとすれば、もしかしたらこの若葉と先に出会っていたのは、雅ではなく僕だったかもしれないわけだ。そう思うと、ちょっとだけ惜しいかな、とも思えてしまう。 でもそんなのは、今考えるような事じゃない。僕は、彼女に約束しているのだ。彼女と雅との仲を、取り持ってみせるということを。 「あの一角に、餡子隈堂があるんだ」 ビルとビルの谷間のあたりを指さしながら僕が言うと、若葉はそっちに目をやって眺めた。 街行く人々に和服姿の少女は珍しいのだろう、行き過ぎる人々の視線がちらちらと若葉に注がれている。しかし、僕の指した一角に意識を取られている彼女は、自分が今注目されていることには気付くような気配も見せない。 「えっと……見えません」 「あの店は、平屋だからね。ここからだと、俺でも見えないや」 「はぁ。それでは笙さん、ご案内よろしくお願いします」 言って、ペコリと若葉は僕に会釈をした。その途端、周囲の目が一斉に僕に注がれた。数の力とは偉大なもので、僕は瞬間身体が硬直してしまい、次の瞬間には、若葉の手を引いて、まるで逃げるようにその場を後にしていた。 「あっ、そんなに急がなくても」 「いいから、とにかく行こう」 言いながら、僕ら二人は、車道の下をくぐる地下歩道への階段を降りていった。 地下の歩道を抜けて向かい側の道路に出ると、目的の店である餡子隈堂はもうほとんど目と鼻の先だった。僕がちょろっと案内するだけで若葉は目当ての看板を見つけて、嬉しそうに笑った。 また彼女の新しい笑い方を見つけてしまった。こうして少しずつ笑顔になれる瞬間を提供していくことで、わずかでも雅に振られたことに対して前向きになっていけるようになるなら、いくらでも嬉しい思いをさせてやりたいという衝動に駆られる。 店内に入って、彼女が欲しがった栗ようかんを買う。たったそれだけのことで、彼女は心から喜んでくれたように見えた。その顔を見て、僕は素直に彼女を可愛いと思った。昨日出会ってから、これでいくつ、彼女のチャームポイントを見つけたのだろう。笑顔、仕草、心の動き、指先、瞳…。 「笙さん、ありがとうございます! これが、餡子隈堂の栗ようかん、なんですね」 噴水公園のベンチに並んで腰を下ろしながら、僕の隣で若葉は、ようかんの包みを手にとってしげしげと眺めている。その喜びようは、見ている僕の方さえ何だか心が弾んでくるような、天使のごとき笑顔によって鮮烈に表現されていた。 僕たちの眼前では、今も噴水が忙しそうに水を空中へ吹き上げている。その様は確かに美しいが、灼けるような太陽の下では、美よりも涼を求めて来ている人の方が多数であろう。僕たちも、そのうちの一人だ。 「なあ、若葉。ちょっと、聞いてもいいかな」 僕が切り出すと、若葉は笑顔のままこちらに顔を向けてきた。 「はい、なんでしょう?」 「どうして、餡子隈堂の栗ようかんが、欲しいと思ったのさ?」 「あ…え、と。それはですね」 突然、若葉は照れたように僕から少し目線をはずした。 その視線の先には、噴水がある。しかし彼女の目には、たぶん噴水など映ってはいないのだろう。 「……私、和菓子が好きなんです。前にその話を雅さんにした事があって、その時に雅さんが仰っていたのが、この餡子隈堂の栗ようかんだったんです。いつか、一緒に食べよう…って、雅さん言って下さって、私、嬉しくって…」 頬を朱に染めながら、はにかむように彼女は言った。 「…なるほど、ね」 特に、意外でも何でもなかった。 むしろ、理由としては正当すぎる程だ。僕は当然それを想定してなかった筈はないし、薄々確信めいた予感さえ感じていた。 しかし…なんとなく、心の奥底で、何かがチクリと痛んだような気がした。それが何に起因するのか、答えを知るのがそこはかとなく怖く思えて、敢えて考えることをしなかった。 「今朝、笙さんに行きたい所を訊かれた時に、ふと思い出したんです。この栗ようかんを持って会いに行けば、雅さんはきっと私の話を聞いてくれるのではないかな、って……」 語尾にいくにつれて少しずつ語調が弱まってはいったものの、若葉はどうやら、もう一度雅に会う決意を固めていたようだ。そのきっかけとして、この栗ようかんが必要だったのだ。すごく少女らしい発想だと思う。確かにこういう手でこられたら、雅としても何らかの反応は返すかもしれない。 「…それじゃ、これから雅の家に行ってみるかい?」 努めて優しく僕が尋ねると、若葉は頬を赤らめたままコクリと頷いた。 「はい……もう一度、案内していただけますか?」 「もちろんさ。約束だろ?」 僕も頷きながら、微笑んでみせた。だが胸中は、やや複雑だった。 確かに、会って話さないことには二人の関係の修復は無いだろう。しかし、一度躊躇なく若葉を袖にした雅が、一晩で心変わりしているとは考えにくい。だとすれば、これから彼女は、ただもう一度傷つくためだけに雅に会いに行くことになるのではないか。僕は、それをわざわざ勧めてしまったのではないか……。 しかし、それを口に出すことなど、今の僕には出来る筈もなかった。 |
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雅の住む家まで向かうために再び電車に乗り込んだ僕らは、来た時と同じように、窓を背にして並んでシートに座っていた。若葉は、先程ようやく手に入れた憧れの栗ようかんを、大事そうに膝の上に抱えている。その大切な宝物を見つめる瞳は、限りなく優しい光に満ちていた。横から見ていて、思わず見とれてしまいそうになるくらいドキッとした。その眼差しは、まさしく雅に対する想いが表に現れた結果だろう。彼女は、雅の事を、こんなにも魅力的な瞳で見つめていたのか。 「………笙さん?」 ふと気がつくと、若葉は不思議そうにこちらを眺め、小首を傾げていた。僕はハッと我に返った。 無意識の内に、彼女の事に気を奪われてしまっていたらしい。つくづく、修行が足りない。 「あ、いや、何でもないんだ」 見とれてしまっていたことを適当に誤魔化そうと、僕は手をパタパタと振って弁解に入った。 「綺麗な……あー、そう、綺麗な髪をしてるなって思ってさ」 僕はバカだ。これじゃ、どのみち見とれていたことを申告しているようなものだ。 しかし、これを聞いて若葉は、僕の予想とは少し違って、クスッと笑顔を浮かべて目を細めた。 「まあ、お褒めいただいてありがとうございます。髪のお手入れは、普段から欠かさないんです」 どうやら、誤魔化されてくれたようだ。内心ホッとしつつ、これからはうかつに気を奪われるような事がないように注意しなくてはならない。彼女のチャームポイントを見つけることは、雅を攻略する上でこちらに有利な情報になるのは勿論だが、それとは裏腹に、何だか僕の気持ちをも引き付けて止まない気がする。 早い話が、なんだかドキドキしてしまうわけだが、それは単に僕の修行が足りないせいにしてしまおう。 そうこうしている内に、車内アナウンスが、鰯浜の名を告げた。それは彼女の思い人であり、僕の双子の兄でもある、鷹山雅が住む街の名である。僕ら二人は心持ち神妙な顔つきになって、ゆっくりとシートから腰を浮かせた。 ホームに出てふと上を見上げると、先程まであんなに晴れ上がっていた西の空に、うっすらと黒い雲が降り始めていた。海が近いため、この一帯は西風が強い。この調子だと、日暮れを待たずに、空一面に広がるかもしれない。まだ夏とはいえ、降られるのはちょっとゴメンだ。 「急ごうか、夕立が来ると面倒だし」 「はい」 大切そうに包み紙を抱える若葉の服の袖を軽くつまむように引っ張りながら、僕は心持ち急ぐように促した。昨日今日のつきあいだが、彼女との接し方は随分理解できたように思う。どこかに向かう時は先導してあげた方が良いみたいだし、行動を促してから彼女が実際に動き始めるまでの微妙なタイムラグも、全然許せる。駅を出た所で、土地勘が解らずきょろきょろ辺りを見渡している彼女の仕草も、いい感じだ。 一陣の強い浜風が吹いて、僕と若葉の髪を梳かしていく。彼女の手入れが行き届いた長い髪が、風下の僕の方へなびき、肘のあたりをくすぐる。たったこれだけのことなのに、やけに彼女の事を意識してしまう。どうも、今日の僕はおかしいような気がする。 駅前を真っ直ぐ横切っている幹線道路の歩道を二人で並んで歩きながら、少しずつ足は雅の住むアパートへと向かっていた。このままこの道をまっすぐ歩いていけば、やがて海に出る。そこは海とはいっても港としての色が強く、泳げる砂浜に行くには更にもう少し歩くことを要するが、季節が晩夏ということもあってか、周囲に人の気配はもう少ない。この時期になると少しずつ波が荒くなってきて、浅瀬で遊ぶことにも命を張る必要が出てきてしまうのだ。実際、一年を通して泳ぐのに最適と呼べる期間は、一ヶ月と少しほどしか無い。後はひたすら、危険で冷たいだけの海が続くわけだ。しかしそれでもこの街に住む事を、雅は選んだ。僕たち周囲の人間から受けたプレッシャーのようなモノが、彼の記憶の一部を、無理矢理改竄してしまった結果になったわけだ。彼はただ海を眺めることで、夢との境界線が曖昧な異世界での記憶を、なんとか忘れてしまおうとしていたのかもしれない。 しばらく歩いて、雅の家が僕らの視界に入ってきた頃……僕はふと、再び空を見上げてみた。先程は西の空だけにかかっていた雲はいつしか頭上をもすっぽりと覆っていた。雲行きが怪しいというやつだ。 「着いたよ。ここが、雅が入ってるアパートだ」 言って、僕は双子の兄が入居している建物を視線と肩で指した。ここに来たのは初めてではないが、意識して来たのは、ひょっとしたら初めてかもしれない。 「ここが…ですか」 二階建ての建造物を上から下までまじまじと見つめながら、若葉は緊張した面持ちを浮かべた。 「部屋は、階段を登って奥から二番目だったかな」 アパートの全景を眺めながら、僕は言った。 「行ってきなよ。俺がついていったら面倒な事になりそうだし、ここで待ってることにするから」 「えっ……は はい」 若葉は瞬間驚いたような顔をして、その後、まるで勢いにまかせただけのようにコクンと頷いた。 そして、てくてくとアパートの方へと向かって歩いていった。その背中を見送りながら、僕は近くの電信柱にトサッと寄り掛かった。小さく溜息をつくと、何だかドッと疲れが湧いたような気がした。 ……何をやってるんだ、俺は。 勿論、解ってはいる。思い人・雅の所まで、若葉を連れて会わせてやりに来ているのだ。雅が彼女を拒絶するに至ったのには自分も一役買っているから、という引け目もある。奴に袖にされた若葉の姿を見て、可哀想だと思ったからでもある。この行動に至るまでの動機は、義理であり、人情だったわけだ。義理・人情。どこか不条理に思えてしまう行動でも、これらの理念が関わってくれば、それはむしろ義務的な色を帯びてくる。しかし…今回の僕のようなケースは、果たしてどんなものだろうか。 そんな事をぼんやりと思っていた、ちょうどその時。僕の鼻頭に、ピトンと一滴、水滴が跳ねた。 元々あやしかった雲行きだったが、一滴落ちてくると、途端にあたり一帯で水滴の跳ねる音が鳴り始めた。参ったことに、傘を持ってきていない。まだ本降りになる様子は見せていないが、徐々に粒が大粒になってきたような気がする。 その時だった。いくばくかの剣幕を伴った声が、鋭く僕の耳を射抜いた。 言葉の内容までは聞き取れなかった。が、その声は、若葉のものではなく、それよりもっと僕が知っている響きの声だった。それと気付いた瞬間に、足が勝手に、アパートの階段の方へと駆け出していた。 タンタンタン… 二段とばしで一気に駆け上がった先にまっすぐ目を向けると、そこには、 「有里菜…!」 「笙!?」 そして、自分の胸を押さえるようにして力無くこちらを振り返った、若葉の姿だけがあった。 開いたままのドアの所に立つ有里菜は僕の姿を見て一瞬動きを止めたが、僕に動きが無いことを知ってか、視線を若葉の方へと戻して、表情を険しくした。 「帰って!」 彼女特有の伸びのある声で、有里菜は叫んだ。 僕は唖然として有里菜の顔を見つめた。若葉の表情は、ここからでは伺い知ることができない。 「もう帰って!」 若葉に向かって、有里菜が繰り返した。 「今の雅は、あたしとつき合っているの! あたしがこの部屋にいることの意味くらい、解るでしょう? 彼はあんたの事なんか知らないって言っているし、会いたくないとも言ってるわ!」 若葉の背中が、ビクッと震えた。刹那、訪れた静寂…雨の音だけが聞こえる。 雅の姿は、そこには無い。 「……出直してきます」 一部上擦った声で、若葉がポツリと呟いた。僕がここに来るまでのわずかな間に、どれだけの罵倒を浴びたのだろうか………。そう思うと一瞬、胸の奥がキリッと痛んだ。 「もう来ないで!!」 そんな若葉を、有里菜はこれ以上無いと言う程、力一杯に拒絶した。 若葉は、苦渋に満ちた顔で唇を噛み、力無く俯いたまま有里菜に背を向けた。僕の顔を見ようともしない。一歩、二歩と見ていて数えられるような速度でこちらへと歩いてくるその姿は、僕の心の深い所をギュッと締め付ける。 そんな彼女の後ろで、有里菜がキッと僕の方へと視線を向けてきた。 「……笙。あたしたちのことは、放っておいて」 僕と視線を会わさないよう微妙に目を逸らしながら、有里菜は言った。 無理をして言っているのは、一目で理解できた。怖れる何かから自分を守ろうとしている気配が、手に取るように解る。僕の目を直視できないのが、その何よりの証拠だと思えた。 反論する気力は湧かなかった。僕が黙ったまま見ている前でドアはピシャンと閉められ、有里菜はその向こう側へと消えた。結局、雅は姿を見せなかった。僕が茫然とドアを見つめていると、気がつけば、若葉はもう僕の目の前まで来ていた。雨はいつしか本降りとなり、大粒の雫がいたる所に落ちては破れ、街全体を水の膜で覆おうと言わんばかりの激しさとなっていた。 若葉は僕の横をスッと通り抜けて、そんな大雨が降る道路の方へと一段一段、階段を降り始めた。彼女の髪に指に肩に水滴が落ち、みるみるその沁みが広がっていく。 「若葉」 何だかたまらなくなって僕が声をかけると、彼女はこちらを振り向いて見上げた。 その表情に、先程のような苦渋の色は無かった。だが、他のどんな感情もそこには無かった。雨粒のせいで、泣いているのかどうかさえ、判別がつかなかった。 「……………笙さん」 身体の一番深い所から絞り出したような涙声を聞いて初めて、僕は彼女の心の傷の深さを知った。雅に会えなかった事、有里菜にきつく当たられたこと、聞きたくもない言葉を次々と浴びせられたこと……おそらく、今日までの彼女の人生において一番つらい体験だったのではないだろうか。それを思うと僕はたまらなくなって、彼女の立つ所まで、一気に階段を駆け降りた。雨露に濡れることなど、一切厭わなかった。一人雨中に立ち尽くす彼女の姿が、この上なく痛々しかったせいもある。ひたすらに愛おしかったせいもある。 若葉は、階段の手摺りにつかまって、青い顔で立ち尽くしていた。僕の口からも何も言えず、ただ雨粒が辺りを打つ音だけが響く。悪い夢のような沈黙が続いた。 やがて、かすれるようなか細い声で、若葉がポツリと呟いた。 「私……どうしましょう、こんな……」 雨とははっきりと区別できるほどに大粒の涙を目尻に浮かべ、あとは声にならなくなって若葉は口許を手で押さえた。そんな彼女に触れる事は僕は非常に憚られた。が、勇気を出してそっと、小刻みに震えるかよわい肩に触れると、彼女はギュッと瞼を閉じ、こらえていた嗚咽を、僕の耳にもはっきり届くほどに漏らし始めた。 それはたぶん………失恋だった。 |