一途召しませ




−3−




夕立だと思っていた雨は、なかなか止まなかった。
 いつまでも若葉を雨中に晒しておくわけにもいかず、やむを得ず駅前の幹線道路でタクシーを捕まえて、二人で僕のアパートまで帰った。自分の裁量でタクシーを使ったのは、これが生まれて初めてのことだった。
 全身びしょ濡れで、身体の芯まで水が沁みた風な若葉が寒そうにしていたので、僕はアパートへ戻るなり湯船に湯を張って、風呂の支度を整えた。本当は銭湯まで足を伸ばした方が、双方気兼ねなくて良かったかもしれないが、傷心の若葉に、夏風邪を患わせるわけにもいかない。
「さ、支度できたよ………若葉?」
「あ…はい」
 ベッドの置かれていない側の壁を背にして小さく座っていた若葉は、僕の声に弱々しい声で反応した。すっくと立ち上がるが、濡れた衣服が重そうだ。全身にピトッと貼り付いて、動きもなんだかぎこちない。
「それではお風呂、いただきます…」
 僕に向かってペコリとお辞儀をしてから、若葉はとてとてと僕の横を通り過ぎて、風呂場の方へと向かっていった。その時ふと、着の身着のままの彼女に気付いて、ひょいと呼び止める。
「あっとと、タオルと着替えくらいは用意しとかないとね」
「…はぁ。そうですね」
 その瞬間、ちょっとだけいつもの調子に戻った若葉が、こちらを振り向いてそう言った。
 僕はとりあえず衣類カゴの中からタオルを数枚取り出して、若葉に手渡した。
「はい、タオル。着替えの事はよくわかんないから、脱衣所の所に俺の寝間着がいくつか置いてあるから、それから適当に見繕って着てくれるかな?」
「はい、お気遣いありがとうございます」
 若葉は言ってペコリともう一度礼をすると、キッチンの奥にある風呂場の方へと歩いていった。
 …別に気遣いというほどのことではなく、単に濡れた服を乾かすためには別な服に着替えてもらう必要があったからというだけのことなのだが…。僕は和服に関しては洗濯のノウハウを持たないので、雨に濡れた後であっても、衣紋掛けで乾かすくらいの事しかしてあげられないのだ。こういう時、自分がもう少し博学だったらな、と思うことがある。知識が必要になってから嘆いてももう手遅れだし、その知識を手に入れた後にはもうその知識を必要とする事態は起こらないというのが、往々にしてあるものだろう。「知識」の部分を別な言葉に替えれば、僕の人生なんかはほとんどがこの公式に当てはまるような気がする。後手後手に回る、ってやつかもしれない。
 その時、脱衣所の扉一枚隔てた向こうから、スルスルと衣擦れが聞こえてきた。たいして意識を集中していなくても、自然と耳がその微かな音を聞き分けてしまう。先程触れた肩の感触が、ふと脳裏に蘇る。
 その感触は、有里菜や他の女性のそれとは全く違っていたように思えた。紛れもなく、少女の肩だった。柔らかくて、しなやかで、繊細だった。それはおそらく肩だけに止まらず、身体全体のどこの部位の感触にも言えるのだろうし、たぶん、心もそういった言葉で説明できるだろう。繊細ゆえに傷つきやすいかもしれないが、しなやかゆえに立ち直りも早い……若葉にはせめてそうあって貰いたいと、切に願う。
 そのうち、湯船のお湯がこぼれる音が聞こえてきた。あまり鮮明に音が響くと何となく気恥ずかしいので、テレビのリモコンを探して、スイッチを入れる。気がつけば、いつの間にやら日は暮れていて、ブラウン管には、明日の天気を予報する映像が映し出されていた。曇りのち、晴れ。まことにそうあって欲しいものだと思った。天気も、若葉の気持ちも、そして彼女と雅との関係も……。
 手持ちぶさたになったので、とりあえずキッチンに立ってヤカンを火にかけた。背後のドアの向こうからは、今まさに若葉が湯浴みしている音が聞こえてくるわけだが、そんな音だけで惑わされてしまう年頃は悲しいかな、既に卒業してしまったつもりだ。彼女はコーヒーよりかは日本茶の方が好みかと思い、棚の奥から茶筒を取り出してカサカサと振ってみる。マラカスではないが、それなりにいい音がした。
 その時ふと、リビング兼寝室として使っている部屋の方へと視線が向いた。先程、若葉が座っていた床よりちょっと窓側の所に……雨に濡れた、量感のある包み紙が置かれていた。それは、若葉が結局雅に渡すことができなかった、餡子隈堂の栗ようかんだった。取っておいても、後々彼女に今日を思い出させる事になるだろうし、かといって……。僕は逡巡した。

 しばらくして…若葉は、脱衣所のドアを開けて湯上がりの姿を現した。下は弛めのパジャマを選び、上はしっかりした生地の、やや厚手のパジャマを羽織っている。育ちが良いらしいだけのことはあって、流石に衣類を選ぶ目は冴えているようだ。僕のお気に入りの中でも最高のチョイスだった。
「いいお湯でした。お先に失礼しました」
 いくらか気分も晴れたのか、艶やかな笑みを浮かべて若葉が言った。
 ベッドに腰掛けてテレビを見ながら待っていた僕は、そんな彼女をまずは笑顔でもてなした。
「待ってる間に、俺の方は乾いちゃった」
 冗談っぽく言うと、若葉は、僕が思った以上に目をパチクリと見開いた。
「ああっ、すみません! 私が長風呂をしすぎたせいでしょうか?」
「ははは、いや、そんなこたないって」
 どうやら、浮上してくれたようだ。僕が笑うと、顔を紅く染めて少し苦笑いなどを浮かべたりした。今の彼女になら、大丈夫だろう。僕は会話にワンテンポ置いて、そっとお盆をテーブルの上に乗せた。
 若葉は、興味深げにその盆の上に乗った品をしげしげと見つめた。そして、ハッとなった。
「あっ、これは……」
「そう、今日の昼に買ってきた栗ようかんを、一口サイズに切り分けたんだ」
 彼女が風呂で暖まっている間に、僕は包みを開封して、ようかんに包丁を入れたのだ。いずれにせよ、彼女は今日の出来事を克服する必要があるのだ。手段は、二通りしかない。目を背けるか、消化して先へ進むか。僕は、この栗ようかんを食べるという行為を通じて、今日を乗り越えて明日以降へ望みを繋ぐ勇気を、彼女に示そうと思ったのだ。これに彼女が乗ってくるかどうかは、正直微妙だった。
 案の定、若葉はしばし栗ようかんを見つめたまま動きを止めてしまった。
「……笙さん」
「食べるかい?」
「もちろんですっ!」
「へ?」
 思わぬ即答に、こちらの方が動きが止まってしまった。
「こちらの世界で、一番美味しいといわれる和菓子なのでしょう? 私、楽しみです」
 それはそれ、これはこれ、ってことか。色気と食い気は別次元の問題だったようだ。杞憂、かぁ。
 ちょっと拍子抜けしつつも、何故だか自然と、笑顔が浮かんだ。
「世界一、かどうかは知らないけどね。美味しいことは、この辺一帯の人全てが、保証するよ」
「早くいただきましょう!」
 嬉しそうに、若葉は微笑んだ。
 餡子隈堂の栗ようかん……世界に発信しても通用すると言われるその至高の味わいは、勿論若葉を満足させるにも足るレベルに達していたようだ。最初に一口頬張った後、口腔にて深く味わっている時の彼女の表情は、恍惚の一歩手前、限界効用無限大とでも言えそうな程幸せなオーラを醸し出していた。行儀も抜群に良いため、和的な美としても一級品だ。この栗ようかんと若葉という組み合わせは、おそらく紅茶と英貴族にも匹敵するような良質な取り合わせだろう。
 しかし……先程受けた傷は果たして癒えているのだろうか。仮に彼女が立ち直りの早いタチであったとしても、湯で全てを洗い流して、心を一度洗濯できたところで、そんなにも早く失意から抜け出せるものなのだろうか……そんなことを考えながら、僕は若葉の顔をじっと見ていた。大好きな和菓子の最高級品に出会えた彼女の顔は、一見幸せそうだ。だが…。
 いつの間にか表情に出ていたのか、僕の視線に気付いた若葉が、こちらへクイッと視線を向けた。
 あどけない表情は、昨日初めて見かけた時といくらも違ってはいない。瞳は澄み、何だかむしろ、昨日会った頃よりもよけいに輝きが増しているようにも見えた。
 わずかに沈黙の時間が続いた。若葉はニコッと微笑んで、その沈黙を深刻になる前に終わらせた。
「…ご心配、おかけしました。その上ここまでの厚意を与り、感謝の言葉もありません。笙さんに出会えていなかったら…私、どうなっていたかも知れませんね」
 それは、僕も同感だった。今思えば、彼女が最初に会話したのが僕で、本当に良かったと思う。神の配剤かとも思えてしまう。彼女の徳の高さが、運命を少しだけ彼女に味方させたのかもしれない。
「先程、湯船につかりながら色々と考えたんです。特に、私がこうして、こちらの世界に来るに至った決意と想い、その意味について……」
 真っ直ぐな瞳で、若葉は語った。僕はそれを、黙って聞いた。
「私が生まれた世界…ヒューガハートで初めて雅さんと出会った時は、まさか彼の帰還の旅をお手伝いすることになるとは思いませんでしたし、まして彼を追って世界の境を超える日が来るなんて、夢にも思っていませんでした。でも、旅を続けているうちに……私は彼に心惹かれました。きっかけはほんの些細なことだったのですが、旅が終わりに近づくにつれて、その気持ちはだんだん強くなっていったんです」
 そこで一旦、若葉は呼吸を置いた。
「……だって、会えなくなるんですよ。私、おっとりしていて目先が利かなくって…その事に気がつかなかったんです。それからは、切ない日々が続いたように思います。私以外に彼を手伝っていた方々は、ある程度気持ちの整理がついているみたいでした。でも、私は最後まで悩みました」
 若葉の苦悩は、なんとなく僕にも理解が出来るような気がした。別れるために出会った…というのは古くから使い古された言葉かもしれないが、彼女たちの身にとっては、まさに洒落にならない。正真正銘、別れが前提となった出会いであり、旅だったわけだ。
 若葉はさらに続けた。 「そしてついに、雅さんはこちらの世界に戻れる目処が立ちまして…忘れもしません、空中庭園の夜を迎えたんです」
 僕は黙って彼女の顔を見つめた。当時の事を思い出しているのだろう、視線がわずかに虚空を向いている。
「最後の夜……私は、雅さんに自分の気持ちを伝えました。半年前の事ですね。イルム=ザーンの空中庭園の館に宿をとった時、彼の寝室を一人で訪ねたんです。雅さんは、おそらく翌日に自分がヒューガハートからいなくなってしまう事を考慮されたのでしょう…やんわりと、私は部屋へと返されました。でも、私が彼の事を忘れないと伝えた時、笑って応えてくれたんです」
 異世界に行っていた頃の雅の話を彼以外の口から聞くのは、勿論これが初めてだった。こちらの世界で行方不明になっている間、まさか異世界で冒険していたなどという話は、荒唐無稽だと一笑に伏していた僕だったが、彼女の口からこうやって改めて聞かされることで、半年前に帰ってきた雅が言っていた夢物語が、彼にとっての現実だったのだということを、僕は初めてリアルに思い知った。
「そして、明くる朝……暁の女神様が私たちの前に姿をお現しになって、雅さんの願いを叶えられたのです。すなわち、こちらの世界に戻ってくること……」
「それで、あいつは半年前にひょっこりと、姿を現したのか」
「はい。しかしその後、ロクサーヌさんという詩人の方から、雅さんがこちらの世界で苦しんでいるという話を聞いたんです。私は、居ても立ってもいられなくなってしまいまして……もう一度暁の女神様に会って、私も願いを叶えていただこうと…もう一度、旅に出たんです。仲間の方の厚意もありまして、前は一年以上の時を費やした魔宝集めも要領良く半年で終わりまして」
「それで昨日、街の片隅で立ち尽くしてたんだな」
「はい」
 若葉の話からいろいろと思考を巡らせ、逐一確認していくと、その都度彼女は返事をして頷いてくれた。
 にわかには信じられない話ではある。が、若葉の瞳には一点の曇りもなく、この話が嘘ではないと暗に語っているように思えた。事実、僕は全面的に彼女の言葉を受け入れて聞くことができた。僕も雅も、昔から状況に対する適応力は優れていた。きっと奴も、向こうの世界にあっという間に慣れ親しんで、それなりに有意義な時間を過ごしてきたのに違いない。
「それだけ……強い気持ちで、雅のことを想っているんだよな」
「はいっ」
 若葉は、まるで運動部の後輩が先輩と向き合った時のように力強く肯定して、頷いた。
 彼女の雅に対する想いが、いかに純粋で前向きなものか、僕は知った。世界の境界を超える、という禁忌を侵してまで、叶えようとした想い。その無垢な感情に秘められた確かなる情熱が、僕の心を打つ。この恋は叶えられるべきだと、僕を突き動かす。
「………長期戦に、なりそうだな」
「…はぁ」
 僕の言葉に、若葉はキョトンと小首を傾げた。
 どこまでも、マイペースでいてくれる子だ。僕はなんだか嬉しくなった。
「君と雅との事、だよ。今日は確かに会うことができなかったけど、雅本人の口から拒絶を受けたわけじゃないだろう? 有里菜は焦ってた。たぶん、雅の心は昨日君に会ったことで、揺れ始めてるんだよ!」
「えっ…そ そうでしょうか?」
 僕の言葉に、若葉は単純に乗せられてくれる。もちろんでまかせではないし、彼女が笑顔を浮かべてくれれば、僕にも自然に笑顔がこぼれてしまう。
「そうさ。まだ戦いは始まったばかりだろ。恋なんて、叶うのを待ってるだけじゃ実らないんだぜ。俺も君に今後もずっと協力するよ。頑張って、雅をおとす日まで!」
「笙さん! ありがとうございます、このご恩は忘れませんっ!」
「たはは…いくつ目の忘れないご恩なんだか」
 部屋の中に、二人の笑い声が混じって響いた。くよくよしている若葉なんて、もう一分一秒だって見たくはない。ずっと笑顔で、ちょこまかとやってくれればいい。彼女がいつでもそういられるように僕はこれから気を使っていくんだろうし、そんな彼女を僕は応援していくんだろう。
 ひとしきり笑ったあと、若葉は少しだけ声のトーンを落として、しんみりと呟いた。
「私、甘えていたのかもしれないですね。後先考えずにこちらの世界に押し掛けてしまって、それだけで、想いが叶うって勘違いして…。また、普通に雅さんとお話出来るようになるまで、一から頑張ってみます!」
 そう、その気持ちがきっと、大切なんだろう。
 雅の方も一途に彼女の事を想い続けていたのなら話はこうまで面倒にならなかったのだが、僕らが安易に彼の記憶をねじまげてしまったことや、有里菜が雅の側からべったりと離れないことが、事態をややこしくしてしまったわけだ。だが、仮にそれがなかったとしても、雅の気持ちが若葉から離れていってしまう可能性は0では無い筈なのだ。だから彼女は、最初からこういう事態も想定して、世界の境界を超えるべきだったと言える。それを純真な少女に求めるのは、可哀想かもしれない。だが、気持ちの整理を一度つけないことには、きっと次のステップを迎えることはできないだろう。
「………がんばれ」
 僕は笑顔で、若葉の肩をポンと叩いた。若葉は、照れたようにはにかんで、頷いた。


つづく



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