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「ふぅ……ひとまず、お疲れだった。しばらく奥で休んでいいぞ」 客足がようやく途絶えたのは、結局お昼を過ぎてからかなり経ってからのことだった。僕と若葉は素直にマスターの言葉通り、店の奥の休憩室へと入り、ペタンとソファに腰を下ろした。 並んで座っている若葉の方をチラリと見ると、なるほどウェイトレスは何度か経験があると言っていた通り、僕に較べれば幾分疲れは無いように見える。そんな彼女の事をチラチラと見ていると、向こうも不意にこちらに視線を上げてきたため、目と目が合った。疲れがあるのか、表情は動かさないまま、瞳をパチッと見開いて僕の目を覗き込むように見上げている。 「……どうした、若葉?」 「あ、いいえ。黙っていらしたので、何か考えているのかな、って思いまして」 「何か、か…」 不意にそんな事を言われて、逆に何かを考えなくては、と思ってしまう。思えばこの一週間は、これからの事について何ら考える余裕が無かったような気がした。せっかく雅の心を揺さぶることが出来た(想像だが)というのに、時間を空けてしまえば、水泡に帰してしまわないとも限らない。 「そういえば、そろそろ考えていかないとな……後期が明けちまうと、動きづらくなるからなぁ」 「……はぁ」 若葉が直接、雅にアプローチできる状況を整えてあげること…それを、とりあえずの目標に設定してみることにする。そのためには、僕は何をするべきなのか。少し考えを巡らせてみると、思ったよりも早く、僕はその答えに辿り着いた。少しだけ、気が重くなるような答えだった。 ふと隣りを見ると、あどけない顔で若葉がこちらを見上げている。彼女には、まだ恋を掴み取るチャンスは残されているのだ。そしてその大切なチャンスを、こんな密度の無い日常の中に溶かしていかせるわけにはいかない。それを思えば、僕の心は幾分軽くなった。恋の手助け。動機としては、充分だ。 「若葉……今日の帰り、ちょっと寄り道してみるか」 「えっ? はいっ!」 若葉はうれしそうにうなずいた。 その笑顔に、僕は戸惑った。一週間前の晩、異世界での雅の事を語っていた時の彼女の表情が一瞬、重なって見えたのだ。表情に出さない所で、うろたえてしまう。この妙にせつない気持ちは、どこから来るのだろう? |
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その日の日差しは、夏の名残を残しながらも、多分に秋を思わせるに充分な柔らかさを感じさせた。日暮れが近いせいもあるかもしれない。遠くに潮騒が聞こえるその運動公園には人影もまばらで、時折沿道を通過していく車の排気音さえ聞き取ることができる。 広場を挟んだ向こうでテニスに興じる中学生たちの姿を遠目に見ながらベンチに腰掛けていた僕の右側から、ザッと一人の足音が近づいてきた。重そうな足取りで歩く姿が、耳から確かに右脳に再現される。 「………何なの、笙…?」 バツが悪そうな声に振り向くと、そこには僕の思った通りの姿があった。表情を変化させないまま、僕はゆっくりとベンチから腰を上げた。 「一度、ゆっくり話すべきだと思ってたんだ、有里菜……お前とは」 「………」 僕の言葉に、有里菜は弱々しく視線を逸らした。夕陽を背負っているため、微妙な表情は見ることが出来ない。気の強さが表れた眉は、果たして上がっているのか下がっているのか。 「……まだ一言も、言い訳を聞いてないぜ」 僕が言うと、有里菜はピクッと首を竦ませた。 「俺は、自分に非があったとは思えない。お前に何か、不満を感じさせるような事をした覚えは少なくとも、俺にはないんだ。なのに、何故有里菜、お前は……」 あまり思い出したくない、春の日の一幕を思い出しながら、僕は言葉を綴った。 「何故、雅の許に行っちまったんだ?」 「………笙…」 喉の奥からやっと絞り出したような声で、有里菜が呟いた。 彼女からすれば、避けに避けてきた質問の筈だった。その心情は、男の僕でも理解できなくはない。 「笙………ごめん…ごめんなさい……!」 「そんな言葉を聞くために、こんな所に呼び出したわけじゃない」 思わず、有里菜の事を冷たく突き放してしまった。これには、自分でも正直、びっくりした。 この時を避けてきたのは何も彼女だけでは無かったのだと……当たり前の事ながら、僕はようやく自覚するに至った。お互いを嫌いになったわけではないというのに、何故こうも簡単に男女の仲というものは壊れてしまうのか……僕と有里菜は今年の春までは、恋人同士の関係だった。 「貴方には、悪いことしたと思ってる…」 有里菜は上目づかいに僕を見つめていた。次第に感情の波が押し寄せてきていた。 「でも私、病院の無機質なベッドの上で独り、夢と現実の狭間で苦しんでいる雅に……手を差し伸べずにはいられなかった! 貴方と同じ瞳で、貴方と同じ声で貴方以上に私を必要としてくれた雅を、放ってなんておけなかったのよ!」 突然激情に駆られたように、有里菜はまくしたてた。 「彼は、人の温もりに飢えてた! 心にポッカリと大きな穴が開いてた! 私が側にいて、そっと触れてあげるだけで、彼はそれらの苦しみから解き放たれることが出来たのよ……彼には、私が必要だったのよ!!」 「だがその心の穴とは、雅が異世界に置いてきてしまった若葉のためのものなんだぜ…」 僕が冷静に有里菜の言葉を遮ると、彼女は激情にまかせて僕の方へと詰め寄ってきた。 「その心の穴を埋めたのは私よ! 今更姿を現したからって何だっていうのよ! 彼には私がいれば、それで幸せだったのに…………何で今ごろ、現れるのよっ!!」 「……そうだな。雅にはお前がいて、それはそれで幸せだったかもしれない」 努めて冷静に、僕は激昂する有里菜に真っ向から向き合った。 「そうよ、何も問題なんてなかったのよ!」 「だが、俺には誰もいなくなった。それで俺が幸せだったって、お前は思うのか?」 「…あっ…」 有里菜の攻勢が、ピタリと止んだ。僕もそれ以上、言葉を続けることが出来なかった。 自分の口からこんな言葉がこぼれるなんて、有里菜を呼び出した段階では全く考えてもいなかった。いや、今この瞬間まで自分自身、気付いていなかったのかもしれない。 「…だって貴方は…一人で何でもできる人だから………」 「一人で何でもできるから……一人でいなくちゃいけないのか?」 「…っ…それは……」 「一人で何でもできる…そんなわけはないさ。誰も俺の隣にいてくれなかったから、何もかもを一人でやるしかなかっただけだ。それにだってきっとそのうち、限界は来る」 それきり、二人の間に会話は途絶えてしまった。立ち尽くす彼女の背後で、太陽が夕陽へと変わり、その身を半分ほど地平に沈めてしまう。有里菜はその間、ぎゅっと唇を噛んで僕を上目づかいに睨んでいた。時折眉がピクリと動いて、微妙な心境の変化が度々訪れたことを示唆していた。 「……どうして」 紙縒のようにか細い声で、有里菜がようやく声を発した。 「どうしてこんな事になっちゃったのかな、私たち…」 何も答えず視線を逸らした僕の胸に、ふいに重いものがぶつかってきた。思わずよろける僕を、背中まで回された細い腕がギュッと支える。 「笙のことが好き……でも、駄目なの………!」 かすれた声が、耳に痛かった。ここで彼女を思いきり抱きしめる甲斐性があったなら、僕はどれだけ楽な人生を歩んでいたか知れない。心に傷を負っていた雅に、その傷を癒すために僕の元を離れた有里菜。そんな事情を知らずに雅に一途な想いを寄せる若葉。僕は困惑する。僕は、どうするべきなんだ、と……。 |
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その日、僕の思惑外に事が運んだのは、何も有里菜に泣かれたことだけにとどまらなかったようだ。 憔悴した有里菜を宥めて帰した僕は、ひとしきりベンチで暮れ行く空を見ながら頭を冷やした後、ようやく立ち上がって帰路に着こうとした。その時僕の目の前に、ポツンと若葉が立っていたのだ。僕は焦った。まるで彼女は、僕が公園を去ろうとするのを待っていたかのように思えたからだ。だとしたら、いつからそこに立っていたのか。有里菜を帰した僕が一人ベンチに座している時、それとも有里菜を宥めている時、それとも……。 そんな焦りを極力表に出さないようにしながら、僕は彼女に声をかけた。 「や やあ。雅には、会えたのかい?」 彼女は少々うつむいたまま、小さく首を横に振った。 「途中、道に迷ってしまいました…。気がついたら駅のそばに戻ってしまったので、気を取り直してもう一度歩きはじめたら…この大きな公園に着いたんです」 「………いつ頃?」 尋ねると、若葉は僕の方を見上げてきた。少しだけ微笑んで、答える。 「日が暮れる、少し前くらいだったでしょうか?」 うーん、微妙な時間帯だ。微笑みの意味も気になる。………見られてしまっただろうか。 とりあえず日が暮れきってしまったので、僕は彼女の手を引くようにして公園を後にした。既に辺りは薄闇に包まれており、街灯が所々で地面を照らしている。月はその身を半分だけ覗かせ、中秋の名月へのカウントダウンを始めていた。 並んで歩く僕と若葉は帰途の間、言葉を交わすことは無かった。どことなく、向こうから遠慮しているような雰囲気を感じる。それと同時に、なんだかこちらからも同様の空気を発してしまっているような気もする。たった一駅の距離を歩く時間がこれほど長いと感じたのは、おそらく初めてではなかったろうか。 「笙さん」 アパートをほぼ目と鼻の先とした時、若葉がポツリと僕の名を口にした。 「私……やっぱり、ひどくご迷惑をおかけしているんじゃないでしょうか」 「えっ」 突然の言葉に、僕は思わず立ち止まって彼女の方を振り向いた。その表情は……つらそうだった。 「私があの夜、雅さんに想いを打ち明けてしまった事で、笙さんや有里菜さん、そして雅さんまでが今こうして苦しんでしまう結果になるだなんて…私は、間違っていたのでしょうか?」 先程の僕と有里菜の一部始終を、若葉は目撃していたのか! 僕の頭の奥の方が、ガンと痛んだ。 「そんなことはないよ」 僕は即答した。ひょっとしたら、場を取り繕おうとしているだけかもしれない。 「雅が有里菜を必要と思うまでに苦しんだのは、あいつの異世界での記憶を『夢』だと決め付けて相手にしようとしなかった俺たちの……いや、兄弟でありながら親身になってやれなかった俺の責任だよ。若葉のした事は間違いじゃない。世界の壁を越えてきた君を、雅が笑顔で受け入れられる未来もあった筈なんだ。それを作ってやれなかったのは、やっぱり俺があいつを信用し切れなかったからさ」 これは、僕の正直な気持ちだった。最初から親身になって雅の言葉に耳を傾けてやっていれば、奴は夢と現実の境を見失うことにはならなかった筈だ。少なくとも、異世界での経験を頭から夢だと思い込む結果にはならなかったに違いない。そうなっていれば、いざ若葉がこちらの世界に飛び込んできた時…真っ先に彼女を受け止めるのは、雅の腕だった筈なのだ。 「そんな…。笙さんは、何も悪くはありませんっ! 勝手が分からず困っていた私に手を差し伸べて下さったのは、笙さんだったじゃないですか。あの時のご恩は、絶対に忘れません」 「…ありがとう。そう言ってもらえると、嬉しいよ」 僕は素直に感じたままを言葉に換えて伝えた。 「えっ…い いいえ」 若葉はその言葉にしばしキョトンとした後、ややはにかんで少し首を竦めた。 事態が少しずつおかしな方向へ進んでいることに、僕はこの時気づくべきだったかもしれない。 |