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公園に有里菜を呼び出した日から、さらに数日が経過した。学校の後期開講の時期もそろそろ迫り、僕は少しずつ焦りを感じるようになっていた。あれ以来、若葉は雅の事に関してあまり積極的な態度を見せなくなった。『チェリールージュ』でのアイドル騒ぎも一段落つき、バイトが波に乗ったせいもあるかもしれない。こちらの世界の習慣にも慣れ、精神的にゆとりが生まれたからかもしれない。 しかし、それらに紛れて、別な変化が微妙に起きているような…そんな気がした。 「笙さんっ、郵便にこんなビラが混じっていたんですけど」 バイトに出かける準備を終えた後の、ちょっぴり退屈な時間。壁に寄りかかってテレビを見るでもなく眺めていた僕の所に、若葉がパタパタと駆け寄ってきた。彼女の手にした紙切れをひょいと受け取り、そこに書かれた内容を読んでみる。それは、毎年この時期に行われている、秋祭の開催を知らせるチラシだった。割合このアパートから近い神社で行われる祭で、僕も何度か顔を出したことがある。若葉のような純和風な少女には、けっこうお似合いのイベントかもしれない。 「近所の神社のお祭りのチラシだな。俺も小さい頃は、結構この祭を楽しみに待ってたもんだ。……行ってみたい?」 僕が尋ねると、若葉は心なし瞳を輝かせて頷いた。 「はいっ! お仕事が終わったら、行ってみたいです。連れていってくださいますか?」 そんな瞳、眩しすぎるよ…。僕は深く考えることもなく、コクリと頷いた。 「ありがとうございます!」 それはもう嬉しそうに、若葉は笑顔を浮かべた。バイト中に見せる営業用スマイルとは、明らかに違う微笑み。彼女見たさに店に通っている客には悪いが、今の所、彼女がこの笑顔を向けてくれるのは、僕だけなわけだ。それを考えると、なんだか宝くじにでも当たったような、幸せな感覚が浮かんでくる。 「よし、日が暮れたら、一緒に出かけようか」 僕と彼女はそう約束を交わして、晴れやかな気持ちでバイトへと向かったのだった。 「どうした若葉ちゃん、なんかいいコトでもあった?」 終始笑顔を絶やさず、いつもより心のこもった応対を続けていた若葉を見て、マスターがまるでからかうような口調で若葉に尋ねた。「えっ」と振り向く若葉に、マスターも客も、さりげに僕もじっと耳をすませて答えを待つ。 「……はいっ! 今夜、お祭りに連れていっていただくことになったんです」 若葉はなんだか照れたようにはにかんで答えた。それを聞いたマスターや客の視線が、若葉からスライドして、僕の方へと注がれる。その気配を察して、僕はなんとなく後ずさった。 「こ〜の、色男が!」 「ちょっ、誤解だって誤解! 何度も言うように、俺と若葉はそんなんじゃないって…」 「お前の弁解なんかより、UFOが存在してるって話の方がまだ信じられるな」 「なんだよそれっ!」 客もマスターも、どうやら僕をダシにして笑っているようだ。僕は何だか抗議する気力もどんどん失せて、勝手に言わせておいた方が幾分マシかとも思うようになってしまった。僕をダシにするためにさらにダシにされてしまった若葉は、恥ずかしそうに頬を真っ赤にして、困り果てているようだ。可哀想だが、耐える他はない。これも客商売のツライところだ。 こうして、バイトの時間は過ぎていった……。 バイトが上がって僕ら二人がアパートに帰り着いた頃には、時間的にちょうど良い塩梅になっていた。神的な行事はすべて日の高い内に済ませられ、あとは一般の人々が、常の忙しさを忘れて夜祭に集う時間だ。というわけで適当に準備を整え、早速神社の方へ出かけることになった。 「宵の口ですのに…たくさんの人がまだ歩いていますね」 歩行者天国の入り口を示すカラーコーンの間を抜けながら、若葉が周囲を見渡して言った。法律だか条例だかによって、夜店の営業時間は夜9時までと決められている。それに間に合わせようと、数多くの人が秋祭に集まるのだ。 やがて神社が見えてくると、周囲の人の比率も徐々に高まってくる。ちらほらと露店も立ち並びはじめ、子供たちが忙しなく辺りを駆け回っている。若葉は、何だか楽しそうにそんな光景を眺めながら歩いている。 「お祭りの風景は…パーリアもこの街も、そう変わりは無いんですね」 「そうなんだ? でも、お参りの仕方は結構違うんだろうな。神道流の参拝方法ってモンを、教えてあげよう」 「はい! なんだか、わくわくしますね!」 そんな会話をしながら、僕らは鳥居をくぐって神社の境内に入り、ひしめきあう露店の間を縫うように抜けていった。やがて眼前に、立派な社殿が見えてきた。さすがに祭が始まってから時間が経っていることもあり、賽銭箱の前に並ぶ人の数も少ない。僕は若葉の手を引いて石段の上へと登り、一通りの手順をレクチャーしてみせた。若葉は慣れない作法に戸惑いながらも、見様見真似で賽銭を投げ入れ、綱を握って大きな鈴を鳴らす。そして二回、パンパンと柏手を打って、そっと瞼を閉じた。着慣れた例の和服を着てきたこともあって、彼女のその仕草は、素人目に見てもかなりサマになって見える。 ……彼女は今、何を願っているのだろう? ちょっとだけ、気になった。 「何をお願いしてるの?」 それとなく(でもないか)尋ねてみると、彼女はこちらを振り向き、クスッと微笑んだ。 「それは内緒です! ……笙さんは、何をお願いしたのですか?」 「俺かい? 俺は……やっぱ内緒だ」 「それじゃ、おあいこですね!」 若葉は、楽しそうに笑った。どこか、吹っ切れたような笑顔に見えた。今だけは、彼女も雅のことを忘れて楽しむことができるのかもしれない。それなら、僕が付き合ってやるのも悪くないだろう。 「さてと、それじゃちょいと夜店の方も回ってみようか」 僕が提案すると、若葉は笑顔のまま、コクリと頷いた。 「はい、ご一緒します!」 清冽な空気が心地よい星空の下、提灯がくゆらせるほのかな灯りに照らし出された参道を、僕らは二人並んで歩いた。今来た道を引き返すだけなのだが、神社の外から見るのと内から見るのとでは、立ち並ぶ夜店の様相も、幾分変わって見える。 威勢の良い客寄せの声が右から左から飛び交う中、若葉の好きそうな甘栗を買ってみたり、色とりどりの小さいどんぐり飴を頬張ってみたり。僕の隣で若葉は、時には物珍しそうに、時には心から楽しそうに、コロコロと表情を変えながら、祭りの雰囲気を満喫しているようだ。僕も、小さい頃は彼女と同じだったことを思い出す。年にそう何度もない、一夜限りの楽しい一時。それを心待ちにして、僕も雅も日が落ちるのを楽しみに待ったものだった。 「笙さん、あれはいったい何でしょう?」 若葉がふいに指さした先に、僕は視線を合わせた。そこには一軒の露店があり、子供たちが輪を作るように群がっていた。白い光を強烈に放つ裸電球が照らすその輪の中心に、若葉は興味を引かれているようだ。 「あれはたぶん、輪投げだろ」 「輪投げ…ですか?」 僕が何気なく答えた言葉に、若葉はきょとんと呟いた。 何だか懐かしくなって、僕も子供たちの輪に近づいて露店の中を覗いてみた。そこには綺麗な小物類やちょっとした置物など、多種多様な安っぽい景品が並べられていた。何人かの子供たちがそれらを獲得しようと輪投げに挑んでいるようだ。若葉も僕の隣から、その光景をじっと観察している。輪投げは知っていても、こういう遊び方は知らなかったのかもしれない。 「やってみたい?」 その真剣なまなざしに導かれるように僕が尋ねてみると、 「えっ…ど どうしましょう」 と、とても乗り気なリアクションを返してくれた。僕は思わず吹き出して、無言のまま輪の中央まで割って入り、露店の主にお金を渡した。それと引き換えに受け取った五つの輪を、若葉にひょいと手渡す。 「ほら、投げてみてごらん?」 「は はいっ」 僕の手からおずおずと輪っかを受け取った若葉は、ぎこちなく腰を落として、子供たちの見様見真似の構えをとった。その仕草が滑稽というよりむしろ可愛くて、無意識のうちに表情がほころんできてしまう。 「では……まいります!」 おそらく初めて経験するのであろう、お遊戯としてではないゲーム感覚の輪投げに、若葉はまるで無邪気な子供のように夢中になっているようだ。気合も十分に、第一投を放る。 「えいっ」 ひゅん。 彼女の投じた一つ目の輪は、ふわふわと弱い回転をしながら空中にゆるい弧を描き、やがてポテンとシートの上に落ちた。残念ながら、景品のどれ一つにもかすることは無かった。しかしそれでも、若葉は気落ちはしていない。 「それっ」 ひょい。 しかし、二投目、三投目ともに輪っかは景品をとらえることはなく、シートの上にふわりと着地してしまった。 「む 難しいですね」 「そんなに力を入れなくてもいいんだよ。ちょいと一個、俺に放らしてみてごらん」 このテの遊戯は、小さい頃に散々練習した思い出があった。祭りが近くなれば、兄弟二人でその日へ向けてテンションを高めていったものだ。僕は若葉が手渡してくれた輪っかを一つ受け取ると、小さい頃の記憶のままに景品を狙いすまして、ピッと弾くように鋭く輪を放った。 「おお〜!」 周囲の子供たちが大きく感嘆の声をあげ、僕の投げた輪はまるで吸い寄せられるように美しい軌道を描きながら、まるで景品を包み込むようにフワッとシートの上へ舞い降りた。ふと隣に目をやると、若葉も子供たちと同じように、胸の前に手を合わせて目をパチクリとさせていた。僕は思わず「えっへん」と胸を張る。 「す すごいですね、笙さんっ!」 「こんな感じさ。コツは解ったかい?」 「いいえ、それがさっぱり……」 「…それもそうか。よし、教えてあげるから、最後の輪は自分で投げてごらんよ」 僕がそう言うと、若葉は笑顔を浮かべて頷いた。僕が今取った景品だけでも元は取れてるような気がするけれど、やはりここは若葉の手によって一つ景品をゲットさせてあげたい。その思いから、僕は彼女の後ろに回って、投げ方や力の入れ方などをあれこれレクチャーしてあげた。彼女の手を取って実際の感覚により近い振りを教え、肩に手を置いて姿勢のとり方を教えてあげもした。 「私も笙さんのように、上手に出来るでしょうか?」 「出来るさ。俺も後ろから見ててあげるから」 「……はい。なんだか、出来そうな気がしてきました!」 いきいきとした瞳で嬉しそうに頬を紅潮させ、若葉は最後の輪を投げる構えをとった。 周りを囲む子供たちも、シンと息を呑んだ。僕が見守るその前で、若葉の白い腕が、宵闇をバックにしなる。 「それっ!」 弾むかけ声と共に、五つ目の輪っかがフワリと中空に舞った……。 |
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「はははは、何も俺が取ったやつと同じのを取らなくても良かったのに」 露店が立ち並ぶ石畳の参道を二人で歩きながら、僕は手にした二つの同じ柄の箱を目線の高さに持ってきて笑いながら言った。並んで歩く若葉は照れたようにやや首を竦め、視線を横に逸らした。 「笙さんが仰ったように真似したら、こうなったんです。えっと…いけませんでしたか?」 「別にいいんだけどさ。むしろ全然いいのかな? 何ていうか…若葉らしくて」 「私らしい……ですか?」 意外そうに僕の顔を見上げてくる若葉に、僕は一瞬ドキッとした。 「若葉はさ……例えば、バイトでお客をもてなす時でも、俺に朝食を作ってくれた時でも…真面目で真っ直ぐで、一生懸命なんだよな。さっきの輪投げだって、俺の教えた通りにしようしようって強く思ってやった結果がこんなだったわけだし、 こっちの世界に来たのだって、『雅に会いたい』って思う気持ちが強かったから、後先を考えずに世界の壁を越えるっていう行動を起こした結果だろ。まるで目を瞑って全力疾走してるみたいで危なっかしいけど…ひたむきで一生懸命な所とか、結構いい個性だと思うよ。一途で、可愛いよ」 自分で言っていて、誉めてるんだかどうなのかよく解らなくなってきた。 しかし若葉は、僕の言葉を好意的に受け止めてくれたようだ。僕を見上げる顔には笑顔がこぼれ、そのはにかんだ頬がうっすらとさくらんぼ色に染まっている。 「笙さん、今日はありがとうございました」 言って、若葉はペコリと軽く頭を下げた。 「秋祭り、本当に楽しかったです! 小さいとき、姉に連れられて行ったお祭りの事を思い出して、懐かしい気持ちになりました…。このご恩は…」 「忘れません、は無しだぜ?」 「忘れま……あら」 恩を売りたくて付き合ってあげたわけではないし、「忘れない恩」の価値を下げたくない…そんな気が一瞬したのでついつい会話に先手を打ってしまったが、あまりにあっさりと引っ掛かってくれたので、僕は思わず吹き出してしまった。 「はははは、そればっかなんだから」 「ああっ、私読まれてしまいました…クス」 僕の笑いにつられて、若葉も笑みをもらし始めた。そうやって二人互いに笑顔を浮かべながら並んで歩いて参道を抜け、神社の表通りにつながる石階段に差し掛かった。 その時、僕はふいに石階段の先に知った顔を見つけた。思わず表情が強張り、足取りもピタリと止まった。 「……笙さん?」 若葉が笑顔のまま、やや訝しげに突然歩を止めた僕の方を振り返ってくる。そして僕の視線が石階段の下方へ向けられていることを悟ると、彼女もそちらへと視線を向けた。そして…… 「あっ……」 「わ 若葉…?」 そこには、雅と有里菜が連れ立っていた………。それを目の当たりにした若葉は刹那絶句し、そんな彼女を正面に見据えた雅の口から、彼女の名が漏れた。雅の隣に立つ有里菜の表情が、わずかに凍りついたように見えた。 僕ら四人の耳から、周囲の雑踏の音は消えていた。辺りの時間はまるで止まったかのように意味を失い、ただ石段を挟んで視線を交わすお互いだけに、神経は集中する。 これは、想定して然るべき事態だった…僕は歯がみした。この祭りに感傷を持つのは、僕だけではなかった。僕と同じ幼年期を歩んできた雅にとっても、この祭りはノスタルジックな安息の場だったのだ。 「雅さん……!」 若葉の小さな口から紡がれたその言葉に、雅も有里菜も、そして僕までもがビクッと反応した。 特に、過敏ともいえる迅速さで感情の堰を切ったのは、有里菜だった。 「どうして……貴方たちがここにいるのよ! ううん、それだけじゃない……どうして貴方たちいつも二人で一緒にいるのよっ!? 今だって、まるでその辺の恋人同士みたいに……」 有里菜の言葉に、僕は内心ひどく動揺した。『恋人同士みたい』予想だにしない言葉だった。即座に反論出来れば良かったのだろうが、なんとしたことか、動揺の根が深く瞬時の行動ができなかった。 「そ そうなのか笙……?」 なんだか戦慄めいた表情で雅が問い掛けてきたが、僕は答えようとはしなかった。 この反応……雅は、僕以上に動揺しているのかもしれない。有里菜の突然の剣幕に、訳もわからずおののいているだけかも判らない…がしかし、半年前には全く機能してくれなかった双子としてのカンが、動揺の原因がそれだけではないということをなんとなく予感させた。 「信じられない……雅を諦めたかと思ったら、今度は笙に取り入ってるの!?」 「そ そそっ、そんなことっ!」 有里菜の言葉はまるで鋭い刃物のように、若葉の心をチクチクと苛んでいるようだ。若葉はそれを即答で否認したが、いまいち押しが弱い。有里菜に口で勝てる者は、そうはいない。ペースを上手く掴めないことには、僕だってあっさりやり込められてしまうこともある。 しかし、有里菜の言葉には明らかな間違いがある。若葉はまだ、雅のことを諦めてなんかいない。 「わ 私は、まだっ………あっ…」 何かを言いかけた若葉だったが、ふと僕の方を振り向いたかと思うと、小さく語尾を詰まらせた。最も会いたがっていた雅を前にして、彼女は悲壮ささえ伺える表情を僕に向けて立ち尽くしている。突然のことに、僕の頭は混乱した…が、彼女の今の気持ちが、何となく解るような気もした。遠慮しているのか…この僕に対して。 そんな彼女の仕草を目の当たりにした雅の表情も、なにやら一瞬凍りついたように見えた。明らかに以前よりも、若葉に心がなびいている。彼の隣に立つ有里菜にも、それを視界に捉えていた僕にも、すぐにそれは理解できた。 「雅っ! ………帰ろう、早く」 目の当たりにした雅の変調に焦燥感を覚えたかのように、有里菜は雅の手を取ると、露店の並ぶ歩行者天国を今来たらしい方向へと早足で歩き出した。手を引かれる雅は刹那の抵抗を見せたが、眼を見開き葛藤を露わにした表情のまま、おとなしく有里菜に引かれるままに僕の視界から遠ざかっていった。その去り行く二人の姿を、若葉もじっと目で追っているようだ。 彼女はついに、雅の後を追おうとはしなかった。僕の斜め少し前で立ち尽くしたまま、雅の姿が完全に見えなくなるまで、じっと胸に手を当て眺めていた。チラリと見える横顔には、なにやら困惑めいた表情が伺える。 「若葉…どうして」 追わなかったんだ、と続ける前に、彼女は再びこちらを振り向いてきた。今にも泣き出しそうな顔に見えた。 「私……雅さんの顔をまっすぐに見られませんでした。どうして、こんな……」 紙縒のようにか細い声が、わずかに震えていた。 夜祭を行き交う人たちが、僕らの周りを何人も往来していった。若葉は僕の顔すらまっすぐに見ようとせずに、終始視線を所在なげに散らしていた。そのうち僕が「帰ろう」と促すまで、彼女は自分から動こうとはしなかった。戸惑いがあるのかもしれない。雅に対して踏み込めなかった一歩の意味を…彼女はきっと考えている。そんな彼女の胸中をなんとなく思いながら、僕は彼女の手を引いて神社を後にした。 しかし、積極的になれなかった若葉とはうらはらに、どうやら雅の方はこの数週の間に、『夢と現実との境界線』を引き直すことに成功したのかもしれない。半年前に、僕らの余計な説得によって無理矢理引いた境界線…『異世界での記憶は全て夢』だと思い込んでいたのが、先日若葉と出会うことによって大きく揺らいだのだろう。社会に復帰するために、夢の中の出来事だとして納得していた記憶の断片が、現実として目の前に現れたのだから。夢の中で愛したものだと錯覚していた少女が、突然現実のものとして彼を訪ねてきたのだ。最初こそは、戸惑いつつも夢だとして突っぱねることも出来ただろうが、一度揺らいでしまった夢と現実との境は、そう簡単にそれまでの形には止まってくれなかったのだろう。若葉が訪ねてきてくれた瞬間に、その記憶が現実のものであったことは既に確定していたのだ。それを「夢」だと言い張って頭から否定することが、いかに非合理なことか……若葉を傷つけてしまった事を、思い悩むことになっただろう事は想像に難くない。 有里菜も、日に日に現実を認識しつつあった雅の心を自分の元に留めておくのに必死だったのだろう。若葉と雅を引き会わせないことに躍起になり、僕に胸の内を明かしたあとも結局雅の元から離れようとはしなかった。しかし、彼女がいかに努力をしようとも、目覚め始めた雅の記憶はもはや誰の手にも止められなかったのだ。彼にとってみれば、有里菜はあくまで心の痛みを和らげてくれた存在であり、若葉の代わりという認識は、ついぞしていなかったのだろう。有里菜としては、不幸なことだったかもしれない。彼女はある意味、母性と恋愛を履き違えてしまっていたのだから。 とにかく……時間こそかかってしまったが、僕と若葉が初めて出会った日…雅と若葉が半年振りに顔を会わせたあの瞬間に、全ての答えは出ていたのかもしれなかった。誰一人としてそれに気づく者は今日までいなかったが、ひょっとしたら今この瞬間には、誰もがこの答えに達しているのかもしれない。 そして、その答えはその夜が更けきらないうちに、僕のアパートのドアをノックした。 |