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「……ここにいるんだろ?」 「……ああ」 ドアを開けた瞬間、目の前に立っていた雅の口から出た言葉に、僕は頷きながら答えた。雅の後ろには、消沈した有里菜の姿が見えた。先刻から今までの間、二人の間に何が起こったのか…想像しようと思えば楽に思い至りそうな気もしたが、僕はそうする気にはならなかった。 「話がしたいんだ…呼んでくれないか?」 僕と同じ声で、雅が言った。誰を呼べと明言されたわけではないが、若葉のことを指しているんだろうことに気づかないほど僕は鈍くない。ふと、ここでこいつに若葉を会わせたら、もう二度と彼女は僕と共に過ごすことは無くなるような気がした。それがものすごく僕の胸を締め付けるだろうこともなんとなく解った。しかし、応じないわけにもいかない。これは、雅と若葉の問題なのだ。 僕はもう一度だけ頷くと、ドアを一度閉めてそっと身を翻し、未だ眠ることが出来ずに奥の部屋で膝を抱いていた若葉の所へと歩み寄っていった。近付く足音が聞こえたのか、彼女は軽く僕を見上げると、少し気を楽にして笑顔を浮かべた。 「どうしたんでしょう、笙さん?」 この天使の微笑が、僕のそばから消える…。いつかはそうなると解っていたつもりだったが、いつからか覚悟が緩んでいたのかもしれない。しかし、僕は有里菜が犯した過ちの二の轍を踏むわけにはいかない。良心と恋を、履き違えるわけには。 「雅が、君のことを呼んでる。話したいことがあるみたいだ」 「えっ、雅さんが…ですかっ?」 雅の名を聞いて、若葉はすっくと立ち上がった。そして僕が玄関の方へと歩き出すのを見て、とてとてと後ろについてきた。このドア一枚を隔てた向こうには、たぶん彼女が求めた答えがある筈だ。若葉が僕の隣に来たのを見て、僕はノブに手をかけた。小さくキィと軋む音をたてながらドアが開き、部屋の空気と夜の空気が混じり合う。 「…若葉…」 「雅さん!」 開いたドアの向こうから現れた雅は若葉の名を呼び、若葉は驚きと笑顔を半々に表情に浮かべながら雅の名を呼んだ。これはもう決定的だった。この瞬間をもって、僕が若葉に約束した『雅との仲を取り持ってみせる』発言は実を結んだわけだ。もっとも、最初に道案内をしてあげた以外は、あまり役にはたたなかったかもしれないが。 「笙、なんだか色々と苦労させちまったみたいだな…すまない。しばらく若葉と二人で話したいんだが、いいかな?」 「……いいぜ」 何やら言いにくそうに話す雅の姿を見て、僕は彼の言わんとしていることを察した。有里菜を預かってくれ、ということか。頷いてから改めて雅の後ろで立ち尽くす有里菜の顔を見ると、頬に乾いた涙の跡が見えた。……彼ら二人間の問題は、既に解決しているようだ。完全に以前の記憶を現実だと認識した雅は、元のサヤを求め、有里菜に別れを告げたのだろう。 僕は若葉を雅の元へ送り出して、換わりに有里菜を部屋の中へと招き入れた。若葉は刹那僕の方を振り返って何か言いたげな表情を見せたが、僕が黙ったままドアを閉めにかかったので、結局言葉を交わすことはなかった。 若葉の視線が僕からはずれたことを確認して、静かにドアを閉めた。流れ込んでいた涼しげな夜の空気がシャットアウトされ、玄関には行き場を失った部屋からの緩い空気の流れが溜まり、やや空気が重くなったような気がした。ドアの方から部屋の方へと振り返ると、そこには有里菜が立っている。唇をキュッと結び、潤った瞳で僕の目を見つめている。僕の元を離れ、雅の隣に居ることを望んだ有里菜…しかしそれは、砂上の楼閣にも等しい不安定な関係だった。居場所を失い、こうして僕を見つめる彼女の胸の内は…いかばかりか。かける言葉など見つからなかったが、それでも僕は、彼女に何か言葉をかけずにはいられなかった。 「……有里」 どんっ。 しかし、名前も呼び切らぬ内に、いつかのように有里菜は僕の胸にしがみつくように飛び込んできた。今日まで必死に張り詰めさせてきた糸が、一気に切れてしまったのだ。世界の壁を越えた深遠な愛の前に、結果的に彼女は全くの無力だった。若葉が世界の壁を越える決断をした瞬間に、有里菜の敗北は決まっていたのかもしれない。 「…とにかく、上がれよ。コーヒーでもいれるから」 彼女の気持ちを思うと、胸がいっぱいになる。たまらずに僕がかけた言葉に、有里菜は僕の胸に額をつけたまま、こっくりと頷いた。 彼女がようやく口を開いたのは、僕がいれたコーヒーがすっかり冷めてしまってからのことだった。テーブルを挟んで向いに座る彼女は結局カップには口をつけず、じっと自分の膝を見つめていた。 「私……バカみたい」 「えっ?」 唐突に発せられた言葉に、僕はどきっとした。 「勝手に雅の彼女を気取って、貴方の元を離れて、あのコ…若葉を邪険にしたりして。私、彼の気を引くためにかなり努力したつもりだった。貴方の時よりも、ずっと…なのに、彼の目には私なんて最初から映っていなかったのよ」 ……おそらく、それは真実だと思えた。 「彼が私を必要としてくれたように見えたのは、今思えば、子供が母親に甘えていたようなものだったのよね。私も、それが嬉しくて彼の世話をしていた筈だったのに、いつしか…それを愛だと誤解して……」 「有里菜……」 彼女は自嘲気味に微笑を浮かべ、部屋に来て初めて視線を僕の方へと向けた。悲痛な笑顔だった。今日の夜、彼女は泣き明かすことになるかもしれない……そう予感させる程、彼女の表情は今にも泣きたがっているように見えた。 「あははは……貴方にこんな愚痴を言っちゃうなんて、なんか私、愚の骨頂って感じよね」 「………」 「ねえ、笙………」 かける言葉が見つからずに口を閉ざしていた僕を、有里菜はそっと囁くような細い声で呼んだ。 「雅があのコを選んだら……何もかもが、昔の通りに戻るのかしら…?」 呟くように静かに、憂いを帯びた声で有里菜は言った。その問いに、僕は答えられない。答えはきっと、「NO」なんだろう。失った時間を取り戻すことなど、人間には許されていないのだから。有里菜もそれは解っているんだと思う。それを実現するために、努力をすることは出来る。しかし僕は何故か、それを割り切ることが出来ないようになってしまっていた。 「笙?」 いつまでも答えを口に出せない僕に、有里菜は不安そうに答えを促した。 「……戻るさ」 自分でも意外な程きっぱりとした口調で、僕は言い切った。つい、口をついて出てしまった。 それとほぼ時を同じに、玄関のドアがキィと音を立てて開かれた。雅の姿は見えず、若葉だけが一人、ス…と夜の向こうからこちらの世界へと踏み込んできた。その表情は……複雑そうだった。 有里菜はもはや言葉を棘にすることはせず、力のない表情で、入ってきた若葉の方を見据えている。僕はゆっくりと立ち上がって、玄関に立つ若葉の方へと歩いていった。心なしか、足取りは重い。 「話は…もうすんだのかい?」 「はい…」 ドアの隙間から、若葉の斜め後方に立つ雅の姿が確認できた。暗がりで見るぶんには、僕といくらも違いのない姿…。しかし歩んだ人生は、ある時点から全く異なる。思えばそれが、今回の事件の引き金にもなっているのだ。 「笙…」 気が付けば、僕のすぐ後ろまで有里菜が立ってきていた。いくぶん光の戻った瞳で、僕と若葉の間をすり抜けるようにドアの方へと歩き、有里菜は半分閉じかけていたドアを開けた。思いっきり、その正面に雅が佇んでいた。二人の視線は薄闇の中で交錯し…ほぼ同時に、二人ともが視線を逸らす。気まずい空気が、場に降りてきた。 「……私、今日はもう帰るね。笙、雅……サヨナラ、おやすみ」 「…っ」 去ろうとする有里菜の肩に、何も言葉をかけてやることが出来ず、僕も雅も、ただ彼女を黙って見送ることしかできなかった。しかしやがて、雅はフッと力ない笑みを浮かべたかと思うと、一度二度を小さく首を横に振ったあと、僕や若葉に向かって右手をひょいと上げて、有里菜が去った方向へと歩いていった。彼なりの有里菜に対する最後の、せめてもの親切なのだろうと思えた。 ふと、若葉が僕に向かって真っ直ぐに視線を向けていることに気がついた。 「笙さん」 彼女の声が、僕の名を呼ぶ。 「笙さんには…色々と、ご迷惑をおかけしました」 「若葉…?」 「明日、私は雅さんの元へ行きます。……私は今初めて、あのイルム=ザーンでの雅さんの気持ちが、解ったような気がします……」 ついに、若葉はこの世界に来た当初の目的を達成することが出来たのだ。しかし不思議な程に、僕ら二人の間に盛り上がりは無かった。そのわけを、彼女に遅れて僕はようやく理解するに至った。 別れを前提とした旅。別れを前提とした共同生活。これらは本質的に何も違いなどありはしないのだ。若葉は期せずして、僕と雅との二人との間で、全く同じ気持ちを味わうことになってしまったわけだ。正確に言えば、異なるかもしれない。前回去られたのは若葉で、今回去られる役なのは、僕だ。彼女はわずか半年ほどの間に、名残を惜しむ立場と名残を残して去る立場の両方を経験してしまったのだ。 「……なんだって、明日なんだ? 今夜からだって、全然問題は…」 「解りません。解りませんが……ただ」 言って、若葉は一度臆したように言葉を切った。何か躊躇しているのか、或いは続けるべき言葉が見つからないのかもしれない。僕に至っては、何かを話そうとすることすらもできずに、ただじっと彼女を見据えることしかできていない。 「今夜は……待っていただきました」 「…どうして…」 「いけなかったでしょうか」 いけない、なんて事は全然ない。まるで心臓が飛び出さないばかりに跳ねている。それと反比例して、体のてっぺんから順番に血の気が引いていくような感じがした。彼女は…今夜だけは、僕と共にいることを望んだのだ。 |
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澄み渡った夜の空気は冴え、半分ほどだけ開かれた窓の隙間から吹き込んでくる夜風が、心地よく頬を撫でる。先程の有里菜のように僕と向かい合わせて座る若葉は、どことなく寂しげな表情を浮かべていた。 「…そんな顔するなよ、若葉…」 雰囲気に耐えられなくなって僕が言うと、彼女はハッとなって僕の目を見た。 「えっ…」 「寂しい顔されると、俺もなんだか…つらいからさ」 「笙さん…」 彼女の顔を見つめていると、出会ってから今日までの日々の記憶が、次から次へと思い出された。初めて会った街角でのこと、道端で雅や有里奈とバッタリ出くわした時のこと、栗ようかんを買いに一緒に街まで出掛けていった日のこと、雨の中打ちひしがれた彼女の肩に触れた時に感じたあの柔らかさ、喫茶店の看板娘の微笑み、夜祭りで一緒に輪投げに興じたこと、そして今、彼女との別れの時を目前にしていること…。 「短い間だったけど…楽しかったよ」 僕は言った。見つめあうだけの時間には、到底耐えられなかった。 「君の願いが叶って良かった。それは俺の願いでもあったし…何も悲しむことじゃないさ」 僕の言葉に、若葉はコクリと頷いたように見えた。と思えば、頷いたまま目線を下げてしまい、なかなか僕の方へ視線を戻そうとしない。頷いたというより、俯いたといった方が正確だったろうか。 「そりゃ……お別れになるのは、寂しいけどさ」 彼女の肩が、ピクリと震えた。恐る恐るとこちらを見上げる瞳は、普段より数割増し潤って見えた。胸を突かれた。 「本当に……お世話になりました。このご恩は…忘れたくても、きっと忘れられません」 「え、忘れたいの?」 「えっ……ああっ! こ 言葉のあやですっ!」 僕がちょっとだけ意地悪く返すと、彼女は一瞬目をパチクリさせてから、わたわたと慌てて取り繕った。それを見て僕は思わず吹き出してしまった。 「もう、私は真剣に…!」 「ははは、悪い悪い。今回の『忘れません』がいつもより気持ちこもってたこと、ちゃんと気づいてるよ」 そんなに心のアンテナの感度を高めているつもりもないのに、彼女の心がなんだか、いつもよりも遥かに強く鮮やかに伝わってくるような気がした。気が付かないうちに二人とも、限られた残り時間の密度を高めようと、無意識レベルで集中力を高めているのかもしれない。 「俺も……忘れない。君がここの部屋に居て、俺と同じ時を過ごした時間があったこと」 「笙さん…」 色素の弱い瞳が、僕のことをじっと見つめていた。その奥に、色んな感情が混じり合っていることが直感で解った。 瞬間、僕は彼女のことが最高に愛しく思えた。しばらく暮らしを共にするうちに、いつしか情が移ってしまったのかもしれない。最初から、この気持ちがあったのかもしれない。どのみち、今突発的に湧いた感情で無いことは確かだ。 雅の事が無かったら、僕は彼女といったいどう接していたろう? 僕が雅の兄弟でなかったら、知り合いでさえなかったら、それでも僕は彼女の恋を成就させることを第一にしただろうか? 急に胸が切なくなった。 これが……『別れを前提とした旅』のつらさなのかと、僕は痛感した。異世界ヒューガハートにて、若葉が感じただろうつらさ、そしてそれ以上に、雅が感じただろう葛藤…このつらさを夢だと割り切ることができたら、どれだけ心が救われるだろう? しかしそれは、自分の愛しい人の存在まで否定することにつながる。僕はいずれ来る別れの事を深く考えることもなく、彼女をこの部屋に迎えていたのだ。この胸の痛みを知らずに……。 ふと、彼女の唇が動いた。 「私は…笙さんに感謝の言葉と、お別れの挨拶を申し上げるために、雅さんに一日待っていただいた…つもりでした。でも…」 でも…。その先が、聞きたい。 彼女は一度俯き、小さく息を吸うと、再び僕の方を見上げた。視線は、戸惑っていた。 「笙さんの前で…ここにこうして腰を下ろしてしまったら、何だか心が真っ白になってしまって……。泣いた日の夜の事や今夜のお祭りの時の事が思い浮かんで、胸の中がいっぱいになって……!」 胸が震えた。彼女の一言一句が、僕の髪の毛からつま先までをしびれさせる。やばい。 「若葉…」 「笙さん……これでお別れだなんて…寂しすぎます」 僕だって、寂しすぎる。しかし、それを感情に出すと、彼女に余計つらい思いをさせてしまうことになる……。雅もこんな気分を、異世界の空中庭園で味わったのだろうか。たとえ想いを告げられたとしても、それに応えることが罪深いことだなんて…。しかし、出会いを悔やむことはない。せめてそう思うことしか出来ない…。 彼女の気持ちが不思議な程揺れているのが、僕には解った。ここで僕が一気に彼女を抱き寄せることができたら、ひょっとしたらこの胸の苦しみは、解消されるかもしれない。しかしそれは、けしてやってはならないことと思えた。別れを前に、未練を増幅させること…それは絶対にやってはならないことなのだ。だから、雅は異世界の最後の夜、彼女の全てを受け入れようとはしなかった。雅の気持ちを強く知り、そうまでして彼が傷つけまいと守った若葉のことを思えばこそ……心の痛みが、フッと和らいだ気がした。 ふと彼女の顔を見つめると、神妙な目で僕を見据えているのが解った。 「笙さん……私」 「あのさ、若葉」 僕が突然切り出すと、彼女は一瞬目を丸くした。そして、ちょんと小首を傾げた。 「なんでしょう?」 「さっき君は、『別れが寂しすぎる』って言ったよね」 「は はい……」 「それは、ちょっと違うと思うな」 「えっ?」 僕の言葉に、彼女はキョトンとしてちょっと間の抜けた声をあげた。その反応が気に入ったので少々調子に乗って人差し指をチッチッと振ってみると、彼女はなんだかよく解らないといった風に目をパチクリさせた。 「違うって……どういうことでしょうか?」 「確かに今日でお別れっていえばお別れだけどさ……だけど、今回は別に違う世界に離れ離れになるってわけじゃないんだぜ? 君は以前に雅と同じような別れ方をしたから、大げさに捉えてしまってもしょうがないかもしれないけど…住む環境が変わっても、俺も君も、この世界からいなくなるわけじゃ、けしてないんだ」 僕は子供に優しく諭すような口調で語り、続けた。 「まして、会えなくなるってことはそれこそ無いよ。もっとも、君が明日から突然『チェリールージュ』を辞めてしまうって言うなら話は別だけど」 「あっ……」 あまり表情に変化は見られなかったが、それでも彼女の声には多分に、明るいニュアンスが含まれていた。ポカンと半開きになっていた唇の両端が緩んで、神妙さが薄れて、微笑へと変わっていった。 「……な? 全然お別れって感じじゃないだろう?」 僕は努めて気さくに笑った。彼女の表情に、見る見る光が戻ってきた。勿論、別れは別れに違いは無いのだ。だけど、現実を前向きに考えてみれば、意外に悲嘆する材料は転がっていないように思える。僕が、一途に雅を想ってきた彼女の気持ちを尊重し続ける限り、これ以上誰も苦しむことなど無くなるのだ。そして、それを壊そうと思う程、僕は愚かなわけじゃない。 「今夜が最後、なんて考えるのはよそう。いつも通り、明日のバイトに備えて眠ればいいのさ」 「……はいっ!」 気持ちよい彼女の返事を聞きながら、僕は心の中で胸を撫で下ろした。 これでいいんだ。彼女との思い出と、少しの思い出の品に囲まれながらしばらく暮らしていけばいいんだ。そしてたまに、彼女と共に過ごした時間を思い出して感傷的になったりすればいいんだ。気持ちにある程度に区切りがついてしまえば、たちまち気分が少し楽になった。先程、僕は有里菜に『以前のように戻れる』と言っていたことを思い出す。なんだかそれが、現実のことになりそうな手応えが、わずかながらも確かに生まれていた。 全ての迷いを吹っ切ったような彼女の笑顔からふと目をそらして、僕は半分だけ開いた窓の外を見やった。 夜空には、一片の雲も漂ってはいなかった。いずれ夜が明ければ、澄み切った青い空がこの街を覆うだろう。 |