一途召しませ




−8−




 秋も深まりを見せ始めた、十月の終わりのことだった。大学が休みでバイトも非番の久々に終日の自由が確保された僕は、およそ半年以上ぶりに、客としてチェリールージュを訪れていた。綺麗に磨き上げれらたガラスの戸を開けると、聞きなれたベルの音がカランカランと鳴り、店内のほわっと暖かい空気が僕を包んで迎えてくれた。
「いらっしゃいませっ!」
 上質のフルートを奏でたような柔らかく澄んだ声が、店内に優しく響く。
「…あら、笙さん?」
「なんだお前、今日はオフの筈だろ」
 若葉とマスターから続けて言葉がかけられたが、とりあえずそれには答えずに僕は入り口から手近な席を引いて、ペタンと腰掛けた。
「今日は、客として来たんだ。ちょっと待ち合わせの約束があるんでね」
 ちょっとだけ偉そうに客ぶって座っていると、ウェイトレスの制服もいつしか完全に着こなした若葉が、トレイにお冷やを乗せてパタパタと僕のそばまでやってきた。
「はい笙さん、お水です」
「ん、さんきゅ。たまにはもてなされるのも悪くないな」
 僕が冗談まじりに言うと、若葉は口元にそっと手をあてて、クススッと笑った。
「はあ。今日はなんだか、色んなお客さんが見えられる日ですね…」
 困ったような笑みを浮かべながらチラリと肩越しに後方を見やる若葉。その時、カウンターの向こうからマスターの声が響いてきた。
「ったく、本当に今日の彼女にゃ困ったもんだよ。仕事中にデートの約束なんか始めるし……ちゃんと聞こえてんだぞ?」
「ええっ!」
 マスターの言葉に、若葉は焦ったように真っ赤になって、カウンターの方を振り向いた。彼女が動いたお陰で、僕は彼女が先程視線を向けていた人物の姿を拝むことができた。窓際の席に腰掛けながら、マスターと若葉のやり取りを笑顔まじりで見ている男…雅の姿が、そこにあった。僕が見ていることに気付くと、雅はこちらにむけて軽く「やぁ」と手をかざした。
「今日は閉店ギリギリまで手伝ってもらおうかなぁ…?」
「ああっ、マスターさん、そんなっ!」
 店内には他に客の姿もなく、若葉は「そりゃないよ」と言わんばかりの甲高い声をあげながらカウンターごしにマスターに楯突いた。そのやり取りに僕が思わず吹き出すと、向こうの席では同じく、雅も可笑しそうに目を細めていた。
「そっか、それじゃしょうがないよな。約束はまた今度にするか?」
「ああっ、雅さんまでっ!」
 こうなると、僕の笑いはもう止まらなかった。気が付くと、若葉がなんだか困惑したような目で僕を見下ろしていた。その瞳は、初めて会った頃といくらも変わらない…いや、むしろ輝きを増して宝石になったかのようにも思えた。…そんな目をして見つめられると、困る。
「ははは……は」
「笙さん………」
 解った、解ったよ。じっと視線で何かを訴えられかけたような気がした僕は笑うのをピタッと止めて、とりあえず数メートル向こうに座っている雅に向かって声をかけた。
「なんだよ雅、お前も冷たいな。ほんの何時間くらい待ってやるのも甲斐性だぜ?」
「うるさいなぁ…説教するほど偉くなったのかよ、笙?」
 僕の挑発的な言葉に、雅はあっさり乗ってきた。
「あ、なんだ。じゃ今晩、若葉はフリーなわけだな?」
「なっ…なんだよその言い方……まさか、お前…」
「な〜んだ、そうかぁ。今晩はフリーかぁ…」
 わざといやらしい口調で同じ内容を反復してみる。すると、こちらに背を向けて座っていた筈の雅がいつしか完全にこちらに視界を向け、ガバッと身を乗り出すようにして言った。
「ダメだ、ダメダメ! 今晩は俺が先に約束したんだからな! ていうかお前、俺の女にばっか手を出してんじゃねーぞ!」
「…だそうだよ、若葉?」
 僕がそこでひょいと若葉の方に振ると、雅はハッとしたように顔を赤くした。若葉は若葉で、恥じらうより他に手だてが無いようだった。
 その時、僕のすぐそばにある店の入り口の戸が開いた。カランカランとベルの音が鳴り、店内のみんなの視線が新たな来客の方へと注がれた。そこに立っていたのは……
「有里菜…さん? いらっしゃいませ!」
「こんちは! あら、雅までいるのね。なんで?」
 新たな来訪者は、髪をバッサリ切ってすっかりイメチェンした、有里菜だった。イメチェンしたとはいえ、颯爽とした独特の雰囲気は、以前といくらも変わりがない。彼女は店内に雅や僕の姿を見かけると、軽くマスターの方にお辞儀をしたあと、トコトコと僕の座る席の向いへとやってきた。
「ゴメンね笙、なんか遅れちゃった」
 彼女はそう言ってペロンと舌を出して、ストンと席に腰を下ろした。僕の待ち人とは、つまり彼女のことだったわけだ。なんというかその、あれ以来僕と有里菜の二人は、復縁していた。もともと互いに嫌い合って縁遠くなっていたわけではないし、つき合い始めたところで、雅や若葉に対する背徳感はほとんど湧かなかった。当初こそ有里菜と若葉の間はギクシャクしていたものの、僕の説得が奏効して有里菜の方が若葉を許容するようになったとたん、雪解けが一気に進んだようだった。それからというもの、結構仲良くやっている様子だ。
「おい、お前ら……俺の店を私物化するんじゃないぞ」
 カウンターの奥から、苦笑いを浮かべたマスターが口を挟んできた。
「ちゃんと売上貢献してんじゃないの。若葉ちゃん、私レモンティーね」
 マスターの言葉を受け流すかのように有里菜が注文をすると、若葉は笑顔で元気に返事をして、機敏にマスターの方へと駆けていった。そんな彼女を見る僕は、自然に目を細めていた。見知らぬ世界にやって来てから二ヶ月…。彼女はしっかりと自分の居所を見つけ、そこに安らぎと幸せを見出しているようだ。そして僕もそれなりに、幸せを今手にすることができているわけで。彼女と僕が過ごした時間は、きっと無駄ではなかったのだ。
「あら…笙さん、ご注文がまだでしたけど?」
 こちらにくるりと振り向いて、若葉が小首を傾げた。言われてテーブルの上に視線を落とすと、確かにそこには水の入ったコップが一つ置かれているだけだった。この店のラインナップは熟知しているし、とりあえず何か頼もうか…と視線を若葉の方へと向けたその時。僕が口を開くよりも一瞬早く、雅が言葉を発していた。
「笙は、若葉の手作り料理が食べたいとさ」
「なっ…!?」
 その内容に僕が言葉にならない抗議の声をあげると、雅も有里菜も、そしてマスターまでもが、口元に手を当てて小刻みに肩を揺らした。ただ一人、若葉だけがパンと胸の前で一つ手を打ち鳴らして、僕の方にキラキラ輝く瞳を向けていた。
「笙さん! 私、一生懸命頑張りますっ!」
「え? あ い いやあははは」
 彼女のとびきりの笑顔の前には、僕の中の抗いたい心なんて一秒持たずに霞んで溶けて消えてしまう。心なしか引きつった笑顔を浮かべながら僕は、嬉しそうにいそいそと厨房の奥に向かっていく若葉の背中をただ、見送ることしかできなかった………。幸せ…なのかな〜?


−おわり−



あとがき
戻る