LIKE A KITTEN






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「ふああ…」

 オレ…綾坂竜吉の朝は、いつもあくびから始まる。

 心地良い体温の残る枕の感触を惜しみながら、むくっとベッドから上半身だけを起こして、まずはひとやすみ。次いできょろきょろと視線を泳がせ、壁かけの時計をようやく発見する。時計の針は、現在だいたい6時半くらいだということを教えてくれた。いつも通りか、むしろいつもよりもちょっと早いくらいの起床時間だった。

 気だるさを全身に纏わりつかせたまま、部屋の床に降り立つ。特に何を考えるまでもなく、毎朝の行動パターンはすでに体に染み付いているので、多少眠気が残っていても滞りなく体が動いてくれるのはありがたい。ドアを開けてのたのたと階段を降り、一階のリビングに向かうと、この時既に室内にいた家族全員の視線が一瞬、オレの方に集中した。
 オレもまた、室内の面子をぐるりと見渡す。ここまではまったく普段通りの行動だ。しかしリビングの中に見慣れない顔を二つも発見した瞬間、オレの体から眠気はスパッと消えてなくなった。

「あ、おはよう」

 朝の挨拶を口にしながら、オレの脳は急速に機能しだした。そう、昨日、それまでずっと行方知れずだった我が綾坂家の長男・龍彦が、突然帰ってきたのだった。それも、小学生の子供・純を引き連れて…。見慣れない顔とは、つまりこの親子のことだ。

「おはよう、竜吉。結構早起きしてるんだな」

「兄さんたちこそなんでこんな早いんだよ」

 綾坂家の朝は、早い。オレはオレなりにかなり早起きをしているつもりなのだが、両親は夜明けと同時に起き出しているし、オレが起きる頃には妹の瞑子もほぼ例外なく起きて既に食卓に着いている。毎朝家を出るまでのリズムのようなものがあるので、今以上に早起きする必要はあまり感じられないのだが、自分の起床が家族で一番遅いというのは、ちょっぴり時間を損しているような気もしないでもない。でも、1時間早く家を出たからといって1時間早く学校が始まるってわけではないので、結局のところ、学生は早起きしてもあんまりメリットはないのが実情だろう。瞑子のように毎朝自分の弁当を作るとかいうのなら別だけど。

「いいから早く食べちゃって。片付かないじゃないの」

「はいはい」

 母の一言に急かされて、ぱたぱたと食卓の方へと移動する。リビングのテレビからはニュースの音が流れているが、昨日のニュースとどこがどう違うのかさっぱり判らない。まあ、真剣に聞いているわけではないので当たり前か。
 いつものように椅子に腰掛け、いつものようにたまごやきの方に箸を伸ばして……ふと、オレは思い出した。

「あ、俺今日休み」

「何言ってんの」

 流し台に向かっている母が、こちらを振り向いてすかさず口を挟んできた。

「開学記念日。今日学校ないんだよ」

 昨日、担任の先生が幾度もそう告げていたことを思い出す。毎年、何人かの学生がうっかり登校してしまうらしいのだ。
 日本の年度始めは四月であり、なんでこんな中途半端な時期に開学記念日が存在するのかちょっぴり不思議ではあるが、終日休講となるのは単純にありがたいことだ。学校によっては大規模な催し物を行ったりするケースも多いようだが、うちはただ単にお休みになるだけなので、学生思いな学校だと思う。

「そうなの?」

 オレに向けられる母からの問い掛けに、オレの代わりに答える声が、リビングの方から届く。

「ああ、そうそう。あったあった。なんだ、竜吉もあの高校通ってたのか」

「兄弟だから頭のデキは一緒だよ」

 返事をよこしたのは、兄・龍彦だった。オレと彼は言ってみれば同窓生という関係でもあるのだ。
 オレが兄の通っていた母校と同じ高校を進学先に選んだのは、別にこれといった深い理由があるわけでもなく、ただ単に『合格率100%』の烙印が押されていたからである。競争倍率1.01倍という、まことに牧歌的な受験戦争を勝ち抜いて、見事に合格を果たしたのだが、あまり大きな達成感は得られなかった(そりゃそうだ)。

「なんだ、休みなの。じゃあ朝ご飯作る必要なかったわね」

「学校があってもなくても朝ご飯は食べるってば」

 母も仕事に出掛ける身の上のため、朝ご飯は7時までには片付けないといけないらしく、オレがこういう時間に起き出してくるよう習慣づいたのも、その事情に拠るところが大きい。ていうかそれが全てだ。

「平日に休めるなんていいなあ。私もそこ受けようかな〜?」

 リビングにてソファに腰を下ろしている瞑子が、軽い口調で言う。

 親の口から、妹はかなり成績が良いらしいことは聞かされているので、入試を受ければたぶん左手で解答を書いたって合格できるだろう。でも、たった一日の休みに憧れて進路を選択するのは、どうか…。

「どうせなら式典とかのある学校に入った方が得だぞ。そっちのが思い出に残るからな」

 なんとも真っ当な長男の言葉に、妹は小首を傾げる。

「そうかなあ? 純ちゃんはどう思う?」

「え、ボク…?」

 瞑子はふと視線を、隣に座っている純の方へと向けて、尋ねかけた。先程からじっと黙ったままソファに体を預けているだけだった純は、少し意外そうなイントネーションで口を開いた。昨夜話した時に感じた利発さが、なんだかなりを潜めてしまっているように感じる。

「ボクは、え……」

 そこまで口にしていながら、純は唐突に言葉を切った。大きく息を呑む音が、聞こえた。そして。

「えくちっ!」

 聞き慣れない破裂音が、部屋いっぱいにこだました。キッチンの方にいたオレや母の視線も、一瞬にしてリビングの方へと引き寄せられる。
 そこには、背中を少し丸めて気恥ずかしそうに首を竦める、純の姿があった。
 龍彦が、怪訝そうに純を見据える。

「なんだ、風邪か?」

「そうかも…」

 コクリと頷きながら小さく返した純の声は、いかにも続くくしゃみを我慢しているようだった。
 オレはすかさずたまごやきの最後の一切れを飲み込んで席を立ち、リビングの方へと歩み寄った。

「湯冷めでもしたのか? 昨日はちゃんと風呂を熱めにして切ったはずなのに」

 と、純の方に問い掛けてみると、何故か隣に座る瞑子の方が、目を丸くしてオレを見上げてきた。

「やっぱりお兄ちゃんだったの? あんなに湯船熱くして上がったの」

「あれ? お前俺の前に入ったんじゃないのか? いつもはお前が入ってから俺の番だろ」

「あの時は龍彦兄さんがリビングにいたから、なんか恥ずかしくて、お兄ちゃんの後から入ったのよ」

「げ」

 瞑子とオレはわりと気の合う兄妹同士だが、湯船に求める適温だけは、まるっきり正反対である。基本的に毎日、瞑子が薄めたお湯をオレが沸かし直して入浴するという構図が確立しているのだ。オレは昨日もその調子で、お湯を熱めにして風呂から上がった後、いつものように湯沸しの元栓を閉めてしまったのだった。

「てことは……純は瞑子の後から風呂に入ったわけか? もう沸かすことができない、ぬるま湯の湯船に…」

「…うん」

 なんか静かにしているなと思ったら、風邪を召してしまっていたわけだ。慣れない環境に突然飛び込んできた緊張感なども関係しているのかもしれない。

「あらあら。じゃあ今日は一日温かくして横になってなさい、純ちゃん」

 心配そうにキッチンからやってきた母が、ここ数年見せなかった母性全開の表情&声色で、優しく告げる。
 突如現れたとはいえ、母から見れば純は初孫に違いないわけで、可愛くて仕方が無いのだろう。純の方も初対面の祖父母に素直になついているように見えるし、なんとも円満な具合だ。

「私は出掛けなきゃいけないけど、今日は竜吉が休みみたいだし、ちょうど良かったわ」

「ん?」

 母の言葉の意図が見えず、オレはしばしきょとんとする。
 何気なく純の方へ視線を落とすと、ちょうどピタッと目と目が合ってしまった。その瞬間、オレは母が言わんとしていることが全て理解できたような気がした。そんなことは知る由もなく、母はそのまま言葉を続ける。

「というわけで竜吉、純ちゃんの看病よろしくね」

 それだけ告げると、母はスッとオレの隣の抜け、出勤の支度をするべくリビングを後にしようとした。

「ちょ ちょっと待ってよ。なんで俺がそんな……母さんってば」

 孫には甘いくせに、息子にはとことんつれない母の背中は、みるみる遠ざかっていった。
 しばし立ち竦むオレのそばでは、瞑子がすくっとソファから腰を上げていた。

「元はと言えばお風呂のガスを切っちゃったお兄ちゃんが悪いんだからね。今日一日、純ちゃんの言うこと何でも聞いてあげるのよ?」

「バーロ、直接の原因はお前がお湯を薄めたからだろうが」

「じゃああたし、そろそろ学校の支度してこなきゃ」

 まるで風のように颯爽と、或いはメタルスライムのごとくあっさりと、オレの言葉をスルリとかわして、瞑子はすたたたっと階段を登っていってしまった。『学校の支度』が免罪符として通用してしまうあたり、オレもつくづく人がいいよな、と思う。
 父は皆より一足早く出掛けているため、今現在リビングに残っているのはオレと純、そして龍彦だけとなった。オレからの視線を感じたのかどうかはしらないが、龍彦は読んでいた新聞をたたんでテーブルに置くと、わざとらしそうに大きな背伸びをしてみせた。

「あ〜……はぁ、俺もそろそろ支度しないとな」

「げ。兄さんも出掛けるのかよ」

 なんとなく気配を察して覚悟はしていたものの、いざ言葉にされてしまうと、どうしても追及せざるをえない。

「外せない用があるんでな。純、今日はおとなしく寝てるんだぞ」

「うん」

 慣れた手つきで純の頭をぽふぽふと撫で、次いでオレの方へと視線を向ける兄。

「つーわけで、こいつのことよろしく頼むぜ」

「ん〜…解ったよ」

 今日になっていきなり用事が出来るわけもないから、おそらく昨日突然こっちに舞い戻ってきたのは、今日の用事とやらに都合を合わせてのこともあったのだろう。
 兄が客間の方へと去っていって(とりあえず客間を部屋として使うことになったらしい)、リビングに残っているのはオレと純だけになってしまった。純は少し居心地悪そうにしながら、ソファに座ってじっとしている。時折り、テレビの方やオレの方へと視線を動かしているようだ。
 越してきていきなり風邪を引いてしまって、しかも親にはいきなり外せない用事が入ってしまっていて、心細さは隠し切れないのだろう。それともまさかひょっとして、家でオレと二人きりになることが純を不安にさせてるとか、そういうこともあるのだろうか。慣れない看病を任されたことで、オレの方こそむしろ不安になってるわけだが、この不安を表情に出すと、ますます純を不安にさせることになるかもしれないから、なんとかそれは我慢することにする。
 それにしても、こういう時はいったいどうすればいいものなのやら。これまでに幾度か風邪で寝込んでしまった時のことを思い出しつつ、オレはしばし逡巡した。

「そうだ……とりあえず、熱を計ってみよう」

「あ、うん」

 ソファに体を預けたまま、純はこくりと頷いて返してきた。それを見ながらオレは部屋の一角にある小さな棚の前まで移動し、取っ手を引いて中をごそごそと漁ってみる。そう何秒もしない内に、指が目的の物を探り当てた。かなり初期型の電子体温計である。発売するなりすぐに買って、それきりずっと買い替えていないのだ。年にそう何度も使うものではないから、古いも新しいもそれほど気にはならなかったが、外からやってきた人に使ってもらうことを考えると、あまり古いものをずっと使っているのもなんか貧乏くさいかな、と思えてしまう。まあ純は昨日からとはいえ家族の一員なわけだし、そこまで気を遣うこともないだろう。

「ほら、これで」

「ありがと、タツキチ」

 ひょいと体温計を手渡すと、純はこちらを見上げて、ようやく微笑を浮かべた。こうやって接して、少しずつでも不安や緊張感を溶かしてやることが今日オレがやるべきことなのかな、と、この時ふと思えたのだった。


◆ ◆ ◆


 家族みんなが出掛けた後の、本来なら静かな家の中。オレや瞑子が手がかからなくなったのを理由に、母も仕事を持つようになったため、基本的に日中の綾坂家は無人となる。普段通りであれば、風邪ひきの純を一人残して全員出掛けてしまう所だったのだから、今日オレが休みであったことは、良い巡り合わせだったと言えるだろう。

「毛布でも出すか?」

「ううん、いいよ」

 客間の真ん中に布団を敷いて、その上に純が横になっている。二階のオレの部屋に較べて、天井が高くて風通しがいいし、襖を開け放しておけば隣の部屋のテレビも見れる位置なので、日中寝っ転がるにはわりと良い場所かもしれない。まあ、昼間にやってるテレビなんて見ててそう面白いものでもないけれど。
 その布団のそばに、オレはとりあえず楽な姿勢で腰を下ろして、純を見下ろしている。
 看病しろと言われても、風邪なんてよっぽどひどくない限り、寝てれば汗と共に自然と体の外に逃げていくもんだと思うし、オレは何をどうすればいいのか、いまいちピンとこなかった。それでとりあえず、そばで『看て』みようと思ったわけである。
 退屈するといけないかと思って一応テレビは点けてあるのだが、純の視線は、もっぱらこちらの方へと向けられているようだった。

「タツキチ、今日はずっと家にいるの?」

 深々とかぶった布団のへりをキュッと掴んでオレの方を見上げながら、純は心細げに尋ねかけてくる。
 母や兄から純のことを任された身とあっては、おいそれとそれを放棄して外出することなどできないわけで。

「ああ、ずっといるぞ。だから安心して寝てろ」

「よかった…」

 諭すように言ったオレの言葉に、少しは不安を取り除かれたのか、純は目を細めて頬を緩め、安堵の表情を浮かべてオレの方をまっすぐに見つめてきた。視線が交錯し、数回瞬きする間、じっと見つめ合ってしまう。
 純の澄んだ瞳の中に、自分の姿が映っているのが、明瞭に見てとれた。今の純にとって自分の存在はどんなだろう、という考えが、ポッと浮かぶ。慣れない環境の中で、かつ心細い状況の中、ただ一人頼れる人間が、ひょっとして自分なのではないだろうか…。そう思えた。

 …どき。

 なんだか急に気恥ずかしくなって、オレの方からふいっと視線を逸らしてしまった。
 全幅の信頼を寄せられているような感じが視線を通して伝わってきて、心なしか胸が熱くなってしまった気がする。こんな経験は初めてだ。これはますます、看病するに際しての不安なんか顔に出すわけにはいかない。

「医者は行かなくても大丈夫か?」

 なんとなく尋ねてみると、純は一瞬目をくりっと丸くして、気持ちだけ体をこちらに寄せた。

「連れてってくれるの?」

 と、いかにも乗り気なように応え、しかし言葉を続ける。

「でもやっぱりいいよ。注射とかイヤだしね」

「あ、こいつめ」

 と、冗談まじりで拳を振り上げながら言うと、純もまた満面に笑みを浮かべて「や〜ん」などと言いながらすっぽりと布団の中にもぐりこんでしまった。これだけ元気があるようなら、医者にかかるほど深刻な病状ではないだろう。内心ホッと安心する。

「でも、ゴメンね。せっかくの休みなのに」

 不意に布団の奥からひょいと顔を覗かせつつ、純はすまなそうな口調で言ってきた。

「今朝になって思い出したくらいだからな、予定なんて何もないし、気にすることないさ」

 言って笑うと、純もくすっと微笑み返してくる。こうやって少しずつでも和ませてやることで、まだ多少はあると思われる綾坂家に対する心の垣根を無くしていくことができる筈だし、気分の浮上の手助けにもなることだろう。風邪をひいた時ってのは、意外とメンタル面のケアも重要だ。病は気からって言葉通り、風邪なんて苦難の内に入らないと思いながら居れば、闘病なんて一日あれば大概事足りるものだ。

「そんなことより、純は風邪治すことだけを集中してりゃいいんだ。ゆっくり寝てれば、日暮れまでには良くなるよ」

「うん」

 オレの言葉に、純は落ち着いた表情で頷き返してきた。

「じゃあ、ちゃんとしっかり休むんだぞ」

 言って、オレはスッと立ち上がる。
 純はハッとしたかのように目を丸くした。

「あれ、どっか行くの?」

「部屋に戻るだけだよ。オレがここに居たら、眠れないだろ」

 と言葉を返すと、純は少し不機嫌そうに唸った。

「さっきまで寝てたのに、そうそう寝られないよ。テレビも点いてるし」

「じゃあテレビは消しといてやるから。一回眠って目を覚ました頃には、体もずいぶん楽になってるもんさ」

「うー」

「じゃ、おやすみ」

 せがむような視線を背に受けつつも、オレはスッと部屋を移動してテレビのスイッチを切り、肩越しに目配せをした後、階段の方へ向かって歩き出した。
 少し悪いような気もしたが、別に外出するというわけではないし、時折り様子見に降りてこようと思ってもいるし、さして問題はないだろう。今日は特別予定があるわけではないが、今度休日があったらやろうと思っていたことがあったのを、ふと思い出したのだ。純が眠っている間に、それを片付けてしまおうと思い立ったというわけである。

 階段を登ってドアを開け、自分の部屋へと入る。朝食を食べた後はずっと純とリビングや客間で一緒にいたから、ベッドの上は朝起きた時のままになっている。時計を見ると、針は普段ならもうとっくに出掛けている時刻を指している。とりあえずパジャマ代わりに着ていたシャツを脱ぎ捨て、普段日曜の昼間に着ている服に着替える。これで、頭の中が完全に休日モードに切り替わるというわけだ。

「…さてと」

 独り言をぽつりと呟きつつ、オレの目はまっすぐにベッドを捉えていた。
 そして、逡巡の後……オレは、作業を開始した。


◆ ◆ ◆


 予想以上に、作業は難航した。
 何をしていたって、それは……アレな本の整理だったりする。
 龍彦からリークがあったとはいえ、隠し場所が純に速攻で発見されてしまったのは、オレとしてはなかなかショッキングな出来事だった。母が日中家を空けるようになって、知らない内に勝手に部屋を掃除されるというような余計な心配が無用になったということもあって、ついつい油断してしまっていたのだが、こんな判り易い場所にいかがわしい本を中途半端に隠しておくのは、考えてみればあんましカッコ良くない。こういった本は、絶対見つからない場所に隠しておくか、でなければ何の負い目もないかのようにドンと本棚にでも並べておくのがベターなのだ。
 龍彦が帰ってきてしまったため、絶対に見つからない隠し場所というものは無くなった。かといって純や瞑子がいるのだから、堂々と本棚に並べておくのも気が引ける。ましてずっと同じ場所に隠し続けておくのは、それこそ気が気じゃない。そこでオレは……最もつらい選択肢を採ることにしたのだった。
 一冊一冊を手にとり、感慨を抱きながらしぶしぶ処分していく。そんなことを続けていくうち時間は飛ぶように流れ、ようやく全てを一括りにし終えた頃には、もうお昼も間近という時刻にまでなっていた。

 ふと、あれから一度も下に降りていないことに思い至った。純の様子を見に行くつもりが、いつの間にかこんな時間にまでなってしまっていたのだ。

「いけね…」

 つまらない作業にうっかり気を取られて、今日の本分を見失っていた。焦り含みの言葉が自然と口を突いて出る。
 そんな時だった。

 コンコン…

 ちょうど目の前にあったドアが、部屋の外からノックされた。

「純か?」

「うん…」

 括った本の束を放り出してドアに駆け寄り、ノブを捻る。その向こうには、案の定純が立っていた。しかし、朝方よりも顔色が優れないように見える。心なしか、息も荒い。

「…どうした?」

 肩を抱くように室内へ招き入れつつ、短く尋ねてみる。触れてみて初めて、肩が小さく震えていることが判った。

「…一度眠って、起きたら……そしたら、誰もいなくて、天井を見てたら、なんか急に不安になって、そのうち頭が痛くなってきて……」

「純…」

 しまった、と思った。不安にさせないつもりでいたのに、このザマだ。歯をギュッと噛み締めても、自分に対する戒めにはならない。

「タツキチ…あのさ」

 そんなオレの心情を知ってか知らずか、純は心細げな瞳でオレを見据え、言葉を紡いだ。

「この部屋で寝ても…いいかな?」

「え?」

「だって…独りはいやだもん」

 その何気ない一言は、オレの胸にグサリと音を立てて突き刺さった。自責の念に駆られる。
 家族から純の看病を任されていながら、今のところ、オレは何の責任も果たせていないのだ。ただ寝かしつけておくだけで看病とは言えない。自分のことに夢中になっていては、他人の心配まで心が及ばない。瞑子が言っていたように、今日一日は全て純に尽くすつもりでかからないと、朝に立てた目的は果たしようがないのだ。

「わかった。俺のベッドで横になって、待ってろ。今、濡れタオルでも作って持ってくる!」

 切なげな純の瞳に射抜かれて、オレの中で何かのスイッチが入ったようだ。さっきまでは全然気が回らなかった看病のあれこれが、ようやく脳裏に浮かび上がってくる。純をベッドに横たえさせると目深な位置まで布団をかぶせ、その足ですぐに階段を駆け下り、未使用の手拭いを引っ張り出して見様見真似の濡れタオルをこしらえる。
 なんで最初からこれができないのかな…と自重気味な疑念が脳裏をもたげるが、何てことはない、人間は追いつめられて初めて機知が利くものなのだ。そして一度行動と結びついたアイデアは、知恵として蓄えられ、その後はいつでも引き出せるようになるのだ。
 ぱたぱたと早足で階段を駆け上がり、部屋に戻ると、オレのベッドにすっぽりと収まった純が、にっこりと笑顔で迎え入れてくれた。こういう何気ないことで、人間の心ってのは結構満たされるものだと、知った。

「ほら、これで少しは楽になると思うぞ」

 言いながら、適度に水気を含んだタオルを、仰向けに寝る純の額にそっと乗せる。
 頬に珠の汗が光る純の笑顔が、弾けた。

「うわあ、冷やっこ〜い!」

 爽快な響きの声が耳に心地良い。やっと純の役に立てたような、そんな気がした。

「気持ちいい…ありがと、タツキチ!」

 その素直な喜び方が、オレの中深くに眠る保護欲というか奉仕欲のようなものを呼び覚ます。埋め合わせをする自己満足にすぎないかもしれない…が、何もしてやれなかった時間の反動の分だけ、何かしてやりたくてたまらなくなったりもする。

「ゴメンな、気がつかなくて…」

 これは、素直な気持ちだった。
 でも、もう大丈夫だと思えた。少なくとも今日だけは、念頭から純のことが消えることは、もうない筈だ。
 勉強机から椅子だけを引っ張り出してベッドに横付けし、その上に腰を下ろす。こうやってすぐそばに居てやるだけでも、随分と安心感が得られるものなのだとすれば、この午前中はリセットして、もう一度朝からやり直したい。今度は絶対に不安になんかさせない自信があるのに。

「もうお昼だな。…何か食べたいものとか、あるか?」

 ふと時計の方へと目をやりながら、オレは尋ねた。窓の外の太陽はもう、真南に昇っているのだ。
 尋ねておきながら、実のところ料理の心得はほぼ皆無に等しく、期待に応えられる可能性は限りなくゼロに近いものがあるのだが、時間が時間でもあるし、オレだけ昼食にありつくわけにはいかない。

「う〜ん、今はあんまり食欲はないけど……」

 問い掛けに対して、純はしばらく言葉を切り…。

「なんか冷たいものが食べたいな」

「え…おかゆとかじゃなくて? おなか壊すぞ?」

「タツキチ、おかゆなんて作れないでしょ?」

 …その通りです。痛い所を突いてくるもんだ。
 自分の分はあり合わせでどうにでもなるだろうけど、純の分はそういうわけにもいくまい。オレが用意できる範囲で、純の希望を満たすものとは…。しばし逡巡した後、オレの脳裏に、キュピーンと閃く何かがあった。これだ。

「わかった、ちょっと待ってろ」

「え…うん」

 言って、純の髪をぽふっと軽く撫でた後、オレは机の上の財布を掴んで、気持ち小走りに部屋を出た。


◆ ◆ ◆


 机の上に盆を置いて、ベッド脇に寄せた椅子に腰を下ろす。何事か、と上半身だけゆっくりと起こしつつ、興味深げにオレの動向を見守る純の目の前に、オレは盆の上から手に取ったガラスの器を、ひょいと出してみせた。丸い瞳がいっそうクリッと見開かれて、純は思わず声をあげた。

「あ…桃だ!」

「風邪引きの時は、やっぱこれだよな」

 ガラスの器の中に盛られているのは、瑞々しい色つやを放つ桃缶の桃である。純の注文を受けてオレの脳裏に閃いたもの……それは、風邪引きの時、その食感と甘味でしばし病床のつらさを忘れさせてくれる珠玉のフルーツのイメージだった。幼い頃、風邪で寝込んだ布団の中で食べさせてもらったあの桃の果実の味は、思い出の中に今も燦然と輝く、愛すべきアルバムの1ページとなっているのだ。

「これなら冷たいし、甘いし、たぶん栄養も満点だ。桃、嫌いじゃないだろ?」

「大好き。ありがと!」

 無邪気な笑顔を零して、純は言った。
 オレも頬を緩めながら、盆の上に載せてきたフォークをひょいと手に取って、器の中に盛られた桃の一かけらに、つぷりと突き立てる。それを軽く持ち上げると、純の方へと掲げてやる。

「ほら」

「え?」

「食えよ」

 純はぱちくりと瞬きして、オレと桃とを交互に見較べた。
 そして、一瞬の間の後。

「ええ〜っ!?」

 なんかみるみるうちに顔中を真っ赤に染めて、純はいかにも意外そうに目を何度もしばたかせた。
 しかしオレは、頬に笑みを浮かべたまま続ける。

「いいんだよ、今日だけは徹底的に甘やかしてやる。不安がらせちゃったからな、その償いさ」

 なんとなく口を突いて出た言葉ではあるが、これはオレの心情そのものでもあった。
 純は、さらに耳まで真っ赤に染めてしまった。

「い いいよボク、そんな」

「熱もあるのに、無理すんな。ほら…」

 自分でも『嘘だろ?』と思えるくらいの優しい声で諭すように語り掛けると、純は少し伏し目がちにオレの方を見据えて、小さくコクリと頷いた。

「うん……あーん」

 瑞々しい水気たっぷりの桃を一口含み、ゆっくりと咀嚼する様を、まじまじと見つめる。体全体が熱ぼったい時、冷たい果実は一口あたりの効用がとてつもなく高いものだ。口腔に果汁が広がり、それがあたかも全身に沁み通るかのように錯覚できるのだ。純の表情を見ていても、それがよく実感できた。

「……えへへ」

 オレからの視線に気付いたのか、純はちょっぴり照れくさそうに笑った。

「甘〜い。美味しいよ、タツキチ!」

 どき。

 その笑顔を間近に見て、思いがけず、鼓動が一回飛ばして打った。
 なんとなく頬が熱くなるような感じがする。やっぱりお互い、ちょっぴり気恥ずかしいものがあったようだ。しかし純の方は、もう完全に乗り気なようだった。

「ねぇ、はやく〜」

「え? お おう」

 急かされるように次の一切れにフォークを突き立てながら、オレはにわかに浮き立ちかけた心の手綱を、少し緩めた。


◆ ◆ ◆


「…まだ少し、熱が高いな」

 昼時も過ぎてしばらく経ち、改めて純の体温を計ってみたところ、数字は朝からあまり改善していなかった。
 先程まではけらけらと元気そうに笑っていた純も、今は少し疲れたのか、額や頬にじっとりと汗を浮かべて、オレのベッドにおとなしく横たわっている。オレの言葉を聞いて、やや不安げな表情さえ浮かべている。

「…治らないの?」

「栄養も摂ったし、後はじっくり寝てれば、自然に良くなるさ」

 というより、他に治し方を知らないだけなのだが、純もこの言葉にはそれなりに納得したようだ。
 全身から力みを抜いて体躯の全てをベッドに預け、肩を出さないように深めに布団を被っている。呼吸に乱れはないし、ちょっと熱が高いことを除けば、何も心配するには当たらないだろう。でもそれはオレの視点からの捉え方に過ぎないのであって、純本人にしてみれば、オレが思う以上の不安に駆られているかもしれない。孤独に耐えられなくて、布団から起き出してしまうくらいに、不安というのは一度膨らみ始めると、際限なく大きくなってしまうものなのだ。
 もう二度とそんな心境に陥らせはしない、と、オレはベッド脇の椅子からじっと動かずに純を見守った。

「ねぇ、タツキチ…」

「ん…?」

 仰向けに寝たままクイッと顔をこちらに向けて、純はオレの名を呼んだ。

「もう、何処にも行かないでね?」

「そのために俺の部屋に来たんだろ?」

「うん……えへへ」

 オレの切り返しに、純ははにかむように頷いて応えた。少し汗に濡れているせいか、昨夜よりも肌の艶が増しているように見えた。熱のせいで肌が火照っていることもあるのだろう。
 そうしているうち、純は仰向けの姿勢に戻り、じっと天井の一点を見据え始めた。眠りにつこうとしているのかと思ったが、そういうわけでもないらしい。瞳には、まだしっかりとした光を宿している。

「…午前中、客間で寝てた時ね……小さかった頃の夢を見たんだ」

 オレの方を見るでもなく、純はふと語り始めた。

「ボクはよく覚えてないんだけど、3歳くらいの時、一回ひどい病気にかかったらしくて。たぶんその時のことをぼんやりと思い出したんだと思うんだけど……お父さんとお母さんがこう、苦しんでるボクの手をぎゅって握り締めてくれてて……それだけですごく気持ち良かったんだ。けど、それは夢で、目が醒めたら誰もいなくて……」

 話の腰を折るまいとじっくり話に聞き入っていると、不意に、オレの手に触れる何かがあった。視線を落としてみると、ベッドの中から伸びてきた純の指が、軽くオレの指にかかっていた。

「お願い……手、握って…」

 ふと視線をこちらへ向けながら、純は消え入りそうな声で言った。少しずつ、意識に帳がかかり始めているのだろう。オレは答える代わりに、遊んでいた両手で純の左手を包み込むように握った。想像していた以上にしなやかな指の感触が、少々の驚きとなって指先から脳へと伝わる。

「眠るまで…離さないで」

「解ってる。眠ってる間、ずっと握っててやるよ」

「えへへ……夢の中まで、連れていくから」

 その一言の後、しばらくじっと見守っていると、次第に呼吸のリズムが規則的になっていくのが解った。そして一分と経った頃には、もう完全に純は寝息を立てていた。握り込んでいた手は、少々力を緩めながらも、約束を今度は破るまいと思い、ずっと離すことはしないでおいた。
 手の平から伝わってくる指の感触が、またこうして間近に見る寝顔の顔立ちが、オレの中の勘を狂わせるような気がする。昨日も感じたことだが、この純に関して、オレが今まで人付き合いの中で形成してきたセンサーは、どうもまともに機能しない。測りかねている部分が、まだどこかにある。
 純の口から初めて聞けた父や母に関する思い出…そのことに関わりがあるのだろうか。それとも、もっと単純などうでもいいこと、或いは単純だがとても大切なことなのだろうか。考えてもすぐには思い至らない。

 今、こいつはどんな夢を見ているのだろう……ふと、そんなことが気になった。
 父や母の思い出に換わって、オレの出る夢でも見ているのだろうかと、ふと、そんなことを考えてみたりもした。夢見の中まで窺い知ることはできないが、少なくともオレの目の前にある純の寝顔は、少々の汗を滲ませてはいたが、安らかだった。


◆ ◆ ◆


「ふああ…」

 オレの一日は、今朝もあくびから始まった。

 純が風邪で寝込んだ日が明けた翌日。今日は開学記念日というわけではないし、平常通りに学校へと向かわなければならない。うっかり早起きしてしまった昨日とは違って、今日はイヤでも早起きせねばならない日であると言える。にも関わらず、起きてまず眺めた時計の針が指していた時刻は、いつもならとっくに起きて朝食まで済ませている時刻であった。

「げ!」

 不測の事態が起こった時だけ、眠気は一瞬で吹き飛んでくれるものである。オレはいつもの1.5倍程のスピードでドアを開け、一階へと続く階段を駆け降りた。

「あ、タツキチ、おはよー!」

「ん?」

 リビングに着くなり、元気のいっぱい詰まった朝の挨拶が、オレに投げかけられた。釣られて声の聞こえた方向へと視線を向けると、庭に面したリビングの奥まったスペースに、瞑子と純が並んで立っていた。瞑子はまだ学校指定の制服に着替えてはいないが、純は我が家にやって来た初日(一昨日)と同じ、細めのズボンにやや大きめのジャンバーを羽織って、背にはランドセルを背負っている。どうやら今日は学校へ転入の手続きを行ないに行くらしい。

「おはよう、純。風邪はもうすっかり良くなったみたいだな」

「うん! タツキチのおかげでね」

 言って、純は弾けるような笑顔を浮かべた。その隣では、瞑子が指を軽く顎に当てて、なんだか難しそうな表情を浮かべている。

「ねえ純ちゃん、やっぱりそのランドセルは変よ?」

「そうかなあ?」

 ふと、瞑子が『変』と言うそのランドセルをまじまじと見つめてみる。妹の目にはどう映っているのかは解らないが、少なくともオレの目には、特に変わった点は見当たらない。赤の塗装も特に剥げているわけでもないし、形が極端に変形してる様子もないし……。

「って、赤!?」

 オレは思わず声に出していた。純や瞑子が、きょとんとしてこちらへと視線を送ってくる。

「なんでランドセルが赤いんだよ?」

「やーねぇお兄ちゃん、そもそもランドセル自体、今時もう流行らないわよ?」

「じゃなくて、色だ色」

 二人のそばへと歩み寄りながら、オレは事態の理解に努めていた。純は、ちょっぴり心配そうに柳眉を下げ、オレのことを見上げてきた。

「…似合ってない?」

「いや、似合ってるけど………つーかなんでこんな似合うんだよ?」

 オレの頭はもう、すっかり混乱していた。
 センサーが正常に機能しないわけ。それがまさか、最も初期の対象認識の段階で誤りがあったためだとしたら…。
 勝手に混乱するオレのことなど知る由もなく、純はなんだか照れた風にやや俯いて、上目がちに微笑を浮かべた。

「えへへへ……ありがと、タツキチ!」

 一瞬、目の前が真っ白になったような気がした。確認するまでもない、状況証拠が現実の全てを物語っている。オレは力の無い笑みを顔に貼り付けたまま純たちに背を向けて、リビングの真ん中でゆっくりと新聞に目を通している龍彦のそばへと歩み寄った。

「おい兄さん……あれは『息子』じゃなくて、ひょっとして『娘』って言うんじゃないのか?」

「ん? 俺は純のことを指して『息子』だなんて一言も言った覚えはないぞ?」

 しれっとして、よくもまあ…。
 返す言葉もなくただリビングに立ち尽くしていると、不意にキッチンの方から、声が飛んできた。

「ほら竜吉、さっさと食べちゃって! 片付かないじゃないの!」

「あ…はいはい」

 母の言葉通りキッチンの方へと向かいながら、しかし、オレの混乱は今日一日は止みそうになかった…。


 こうしてオレの『今日から叔父さん』ライフは、たった一日で急転回を迎えてしまったのだった。
       






−つづく−




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