Eyes & Tears
- A love makes her alone -












 大都市パーツィから丘陵を一つ隔てた所にある、虚村アープ。

 今では立ち寄る旅人すら滅多にいないその村に活気は無く、日の高い内であっても人々はただ疲れきった顔で道を行き交うだけ、その日の仕事をして夜にはただ眠りに就くだけという日々を過ごしていた。それゆえに、アープの村は夜の訪れと共にの家屋からも灯りが消え、時折雲間から射す月の光と星の瞬きだけが照らし出す、静寂と闇の領域と化すのだった。

 日が沈んで既に数時間。村人の誰もが夢の世界をたゆたっている頃…アープの村で最も高い建物である教会の屋根の頂点に、一つの人影が音もなく、フワリと降り立った。

 宵闇に溶けるように調和した細くしなやかな肢体を自らの手で抱くようにして立つ、その少女のような影は、切れ長の目を丘陵に向け、夜の風に吹かれるままに空を覆う雲が晴れるのを待った。やがて雲間が開き、月の明りが辺りを照らし始めると、闇色に染め抜かれていた世界が輪郭を持ち始め、少女の姿もその自然のライトの中、綺麗に浮かび上がってきた。

 夜の国の使者かとも思えるその少女の名はリリト。特徴的な長い耳が表しているように、『魔族』と呼ばれる種族の一員である。

 魔族は古来から、同じ世界に住まう最大多数の種族『人間』を、不倶戴天の敵として、争いの歴史ばかりを歩んできた。その血統に生まれたリリトもまた、人間との共存という選択肢を選ばずに生きてきた一人であった。

 その可能性を正面から見つめたことは、一度だけあったのだが…。

 ピク…。

 ただ漠然と丘陵の全景に注がれていたリリトの目が、何かに注目するようにただ一点のみを捉えた。月の光を受けて浮かび上がるその景色は、深い緑に覆われていたが、その中にただ一箇所だけポツリと、闇の濃い点が存在していたのだ。真一文字に結ばれた艶やかな唇が、小さく言葉を紡ぐ。

「…見つけたぞ」

 ニィ…と浮かべたその微笑は、冷たく、あでやかで、まるで夜に咲いた一輪の花のようだった。

 そして、月が再び雲に覆われて村が闇につつまれた時には…既に彼女の姿は、そこから消えていた。


◆ ◆ ◆


 木々が生い茂る森の中に建つ、一軒の古い洋館があった。

 誰が建てた物なのか、今では誰も知る者がいない。それ程古い昔から、この館は主不在のままで放置されていた。

 館そのものの存在は人々に広く知られていたが、過去に人が住んでいたという話は無く…いつしかこの洋館は、魔の者が住む館として恐れられるようになり、やがてこの近辺には誰も近寄らなくなっていた。そのことがさらに館の風評を悪化させ、この館と世間との距離は絶望的なまでに遠ざかった。大都市パーツィを見下ろす丘の中腹にある、そんな不気味な洋館。そこには人間は誰も住んでいないが、確かに魔の者が息づいていた。


「いい夜だ…」

 徐々に光を失っていく室内にて…煤けてひび割れた窓から天を見上げながら、その男は小さく肩を揺らした。

 先程まで見えていた月は完全に雲の向こうへと消え、森の中の洋館はほとんど漆黒の闇に覆われていた。その中においてただ一箇所だけ、淡い光がぼんやりと照る空間…その男が立つ空間。彼の手に握られた紅色の円水晶が、その光源となっている。

「こんな素晴らしい夜に……何の用事だ?」

 背後に広がる闇に向かって男が振り返る。それに伴って動かされた円水晶の光が、そこに立つ人影をおぼろげながらに照らし出した。闇の中に佇むその相手は…リリトだった。

 紅い光を浴びて一層複雑な輝きを増すイヤリングを軽く指で弄びながら、リリトはおもむろに口を開く。

「シャカール。貴様が持つ『それ』を……頂きに来た」

「何のためにだ?」

 男…シャカールは表情を変えないまま、しかし少し語調を強めて言った。その声には、明らかにリリトを拒絶しようとする響きがあった。

「貴様には関係のないことだ」

 リリトもまた抑揚の無い…しかし馴れ合う意識が欠片も無いことを充分に察知させる声で、返した。

「生憎だが、俺は『これ』を他人に渡すつもりは無いな」

 シャカールは明瞭と言った。リリトの表情が、少し柳眉を上げた。両者の距離は変わらないまま…しかしリリトの姿は少しずつ闇に侵されていく。シャカールが円水晶を彼女から遠ざけたのだ。

「…私も、訪ねればすんなり手に入ると思ってここに来たわけじゃない」

「ならばどうする?」

「貴様を倒してでも、奪い取るしかあるまい」

「ふ…はははは…!」

 淡々と答えるリリトの言葉を聞いたシャカールは、突然気が触れたかのように高らかと声を上げて笑い始めた。明らかに、リリトを格下と見下した笑いだった。

「何がおかしい!」

「これが笑わずにいられるか? 一度人間ごときに敗れているお前が、この俺を倒すだと!」

「…貴様っ…!」

 思わぬ古傷を責められ、リリトは瞬間言葉に詰まった。闇を射るような眼光が一層鋭さを増し、シャカールを睨む視線にも力がこもる。

 そう、彼女は以前に一度、人間と戦って敗れていた。それは彼女にとって別段忌むべき記憶では無かったが、魔族としての彼女の地位を貶めるには、充分な出来事なのだった。

「同じ魔族として、俺とお前の力の差は歴然だ…。人間に敗北したお前には、魔王様の加護がない」

「そんなモノが実在するのなら…最初から私は負けることなど無かった!」

「まあそう吼えるな。綺麗な顔が台無しだぜ」

 そう言うと、シャカールは再びリリトに円水晶を近づけ、その顔を照らし出した。そして徐々に光を下方へと移動させていく。室内中に立ち込める闇の中にぼんやりと、リリトの姿が浮かび上がっていく。淡い光を受けて瑞々しい艶をたたえた肢体を眺める視線は、まるで体躯にまとわりつきそうな程に粘着質だった。リリトは自然と身震いして、無意識のうちに四肢を強張らせる。

「戦って死なせるには惜しい身体だ…お前、俺の女になれ」

 薄もやがかかったような輝きを放つ円水晶を持ったまま、薄笑みを浮かべるシャカールが告げたその言葉に、リリトの中で何かが弾けた。

「ふざけるなっ!」

「来るかっ!」

 バチィッ!

 激しい閃光…両者の放った『エネジー・アロー』がその中間で交錯し、相殺して火花となり砕け散った。衝撃の反動でビリビリとしびれの走る右腕に力を込めながら、リリトは一気にシャカールへの間合いを詰め、跳びかかっていく。研ぎ澄まされた爪が淡い光の中で閃き、幾筋もの光の軌跡を残して男の体躯目掛けて降り注いだ。しかしシャカールは、特に焦る素振りも見せずに後方に身体を動かすと、いきなり床を強く蹴り、煤けた窓へと背中からぶつかっていった。

 ガシャアン!

 甲高い音を夜空に響かせながらガラスは塵と砕け散り、シャカールの身体は屋外へと踊り出た。それを追うように、リリトも窓から飛び出すために足をグッと踏み込む。しかしその刹那、彼女の脳裏に閃く危機感があった。本能の打ち鳴らす警報に従うままに、追撃に飛び出すことをワンテンポ遅らせる…その時、彼女の眼前で、窓枠の大きさ一杯に飛び込んでくる『エネジー・アロー』が炸裂したのだった。周囲の壁まで巻き込んで、爆風は窓枠を原形をとどめない程粉々に吹き飛ばしていた。もし勢いにまかせてシャカールを追っていたら、今の一撃で窓枠と一緒に全身を灼かれていたかもしれない。

(…強い。それだけに、こいつと戦わせるわけにはいかない!)

 リリトは胸中呟くと、今度こそ床を蹴って、真っ黒に砕けた窓枠から真夜中の森へと踊り出た。

 館から少し離れた木の根元にシャカールは立っていた。魔族特有の切れのあるつり上がった瞳がランと輝き、その表情からは好戦的な愉悦すらも感じられる。

 シャカールは、リリトやカイルと同じく魔族である。しかし彼が今のリリトと異なる点は、きっかけさえあれば人間を殺すことに何の躊躇いも感じない、純然な魔族精神を持ち続けている者だということだった。

「どうした、怖じ気づいたか?」

「誰がっ!」

「勿論お前がだ、リリト」

 反応を愚問を断罪するが如き態度で、シャカールは返し、続けた。

「下等な人間ごときに敗れたお前が、俺に勝てる道理など無い」

「…下等な人間、だと?」

 シャカールの無造作に言い放った言葉に、リリトはピクリと肩を震わせて反応した。

 瞬間、彼女の脳裏に自分を負かした人間の顔がよぎった。そして、その傍らに居た少女のことも。

「雅は…強かった」

 高まる感情が押し出させるように、リリトの口から言葉がこぼれた。

「あいつを冒涜する権利など、貴様には無い!」

「ふははは、人間に敗れた挙句、その人間の肩を持つのか! 堕ちたな、リリト!」

「貴様に何が解る!」

 その瞬間、真夜中の森に眩い光が弾けた。放たれた光は、次第に一点へと収束していく。まるで、その光を全身に纏うようにしながら、リリトは全身に激しく昂ぶる力を満ち溢れさせた。シャカールの表情が変わる。挑発に乗って安直な攻撃を仕掛けてくるものだと予測していた彼の思惑を超え、彼女は、力を爆発的に高めたのだ。それこそ、彼の能力を凌駕するほどに…。

「この術…『エーテル・マキシマム』! し しまった…!」

「いくぞ、シャカール!」

 獲物を狩る猛獣のような勢いで、リリトは一瞬にしてシャカールとの間合いを詰めていった。対するシャカールもさすがに素早い反応で体勢を整え、彼女を迎え撃つ。しかしその決着は、一瞬でついた。


◆ ◆ ◆


「この円水晶は…頂いていく」

 まだシャカールの体温がかすかに残る円水晶を手に握り締めたリリトは、スッと彼の傍らから立ち上がった。地に伏したままそれを見上げるシャカールの瞳は、言い知れぬ負の感情で満ち溢れていた。

「待て…リリト!」

「喋るな、傷に響くぞ…」

「俺を殺せ!」

 シン…。

 その叫びはリリトの鼓膜を射抜き、夜の森の静寂を割いて辺り中に響き渡った。叫びには、常人には耐え難い負の感情が迸っていた。リリトは耳の奥の震えが収まってもなお、心の中に食い込んでくるどす黒い感情をひしひしと感じ、胸が悪くなるのと同時に……少しだけ、救われたような気がした。

「やはり…私が来て正解だった」

「……何を言っている?」

「あの子は、私やカイルのような甘ちゃん魔族しか知らない。貴様は、あの子に会わせるには毒が強すぎる。私は……貴様とあの子を会わせたくなかったんだ…」

 それを告げてリリトは、スッとシャカールから視線を逸らした。

 しかし彼女の背中に、容赦なく魔族の声が浴びせられる。

「そんなことはどうでもいい! 俺を殺せ…さもないと、いずれお前を殺しにいくぞ」

「…そんな言葉を吐くな!」

 振り向きざま、リリトは激昂した。シャカールの放つ強硬な視線とリリトの視線とが空中でぶつかり、両者はその眼に力を込める。

「そんな…憎しみに満ちた声を吐くな。そんな言葉をかけられたら、あの子の心は一瞬で砕け散ってしまう…」

 リリトの瞳の中にある感情は、怒りにも似た悲しみだった。

「…それに私は、もう殺しはしないと誓ったんだよ…」

 それきり…リリトはシャカールから目を逸らした。そして二度と振り返ることなく、森林の中の古びた洋館から遠ざかっていった。夜の闇が支配する暗き森の中に…梟の声さえ聞こえない静寂の中に、強く何かを踏みしめるようなリリトの足音だけが、聞こえていた。


◆ ◆ ◆


 パーツィの街から徒歩で5日程離れた所に位置する街、イードニア。時刻は真夜中をとうに過ぎ、もうしばらく待てば空も白み始めるという頃。街で唯一の宿屋の2階バルコニーにスッと足音も無く、リリトは降り立っていた。物音一つも立てないよう静かに、バルコニーの仕切り戸を開錠し、澄んだ夜の空気と共に部屋の中へと入り込んでいく。部屋に一歩を踏み入れた彼女の気配に気付く素振りも見せないまま、ベッドですやすやと寝息を立てているのは…少女・紅若葉だった。

 リリトと若葉との間には、とある一件をきっかけに、奇妙な縁があった。若葉は純然たる人間であり、リリトは魔族の一人である。にもかかわらず、2人の間には固い友情にも似た関係が成り立っていた。

 カイルのように人間の存在を許容する魔族もいないではないが、基本的な魔族のスタンスは、人間を拒絶するものである。リリトも以前はその例にもれず、人間と敵対…もしくは一方的に敵視する生き方をしていた。しかし彼女がそんな自分の生き方に疑問を投げかけるきっかけとなったのが、二度に渡る若葉との出会いだった。それ以来彼女は、種族の違いという垣根を越えて、こうしてしばしば若葉の元に訪れるようになっている。もっとも、今夜のように若葉が眠っている間にこっそり訪れるというのは、これが初めてのことである。

 室内に入るとリリトは戸を丁寧に閉めてベッドの傍らに立ち、静かにじっと若葉の寝顔を見下ろした。邪気の一かけらも持たぬかのようなその天使の寝顔は、眺めているだけでリリトの心に潤いを与えてくれる。若葉の説得でなかったら、果たしてあの時自分は耳を傾ける気になっただろうか…? とうに答えの出ている考えを何となく自問自答しながら、リリトはさわさわとくすぐるように若葉の安らかな寝顔を撫でた。シャカールに見せていたような魔族としての自分の面は、固く心の底に仕舞い込んで。

 室内を覆う闇の気配が、時間の経過と共に少しずつ薄まっていくのが判る。窓の向こうでは今まさに、夜と朝とが入れ替わろうとしていた。強い夜風が窓を揺らし、愛撫に没入していたリリトの意識をハッと目覚めさせる。

(…若葉)

 ス…

 リリトは若葉の寝顔を見つめながら、そっと懐から赤い円水晶を取り出していた。紅色の淡い光が、薄闇の室内をぼんやりと照らす。規律正しい寝息を立てる若葉のあどけない寝顔も、柔らかな光の中に照らし出された。それを目を細めて見つめつつ……円水晶を紐つきの皮袋に詰め、若葉の枕元に置こうとした…その時。

 カチャ…

 微小な音を立て、部屋のドアがゆっくりと開かれた。思いがけない物音に、リリトは若葉を背に庇うようにそちらの方へと振り返る。廊下からの灯りが細く伸びる光の道を辿った先にあったのは、「しぃっ」と言わんばかりに人差し指を口元に立てている吟遊詩人・ロクサーヌの姿だった。その表情は、いつもと変わらない微笑をたたえていた。

「リリトさん。こんな朝早くに何をしておいでです?」

「朝早くって……。フ、あんたにはかなわないね」

 きどらないロクサーヌの言葉に毒気を抜かれて、リリトも軽く微笑み返した。そして、ベッドの上に置こうとしていた皮袋をひょいと持ち直して、ロクサーヌの前に差し出した。

「これ…確かめてくれないか?」

「なんです? ……をや、これはもしや…」

「どうなんだ?」

 心なしか緊張の面持ちで、リリトは小声でロクサーヌに回答を急かした。ロクサーヌは特に急かしに応ずるでもなく、しかしよどみのない動作でその皮袋から円水晶を取り出し、まじまじと観察しながら、口を開いた。

「間違いないですね…これは『魔宝・赤の火輪』が姿を変えたものに違いありません」

「そうか…良かった」

 リリトは切れ長の目を彩る眉を下げて、胸を撫で下ろした。そして…少しだけ視線を伏せながら、言った。

「若葉が目覚めたら…これを彼女に渡してやってほしい」

「ええ、それは構いませんが…貴女の手からじかに若葉さんに渡した方が良いのではないでしょうか?」

 ロクサーヌのもっともな意見に、リリトはつられて承諾しそうになった。

 しかし、ふと思い直して、ふるふると首を横に振って応える。

「いいや、いい…。それは私からの、最後の手向けだ」

「最後の…?」

 怪訝な表情を浮かべて、ロクサーヌが半歩リリトに近付いた。

「どういうことですか?」

「私はたぶん……若葉の理想に応えてやることができない」

 リリトの声は…悲痛だった。

「私は若葉の説得にほだされて、改心した…これは事実だ。だがやはり、私は魔族…牙人族やフォーウッドと違い、人間とは本来仇なしあう関係。いつか若葉を…シャカールのように…『殺したい』と思う日が来るかもしれない」

「リリトさん…」

「それに、いつか若葉も知るだろう…魔族が人間にとって、いかに忌むべき種族なのかを。その日が来て、若葉が私をそういう目で見るようになることが…私は怖い」

 リリトは視線を横に逸らして声を震わせ、言った。しかし、対するロクサーヌは別段表情を暗くすることもなく、普段通り掴み所のない表表情で、彼女を正面からジッと見据えた。

「それで…若葉さんが雅さんを追って異世界に旅立とうとすることに、陰ながら協力しようとなさったわけですね」

「…そういうこと」

 リリトは一瞬の間をおいて、頷いた。廊下の灯りと円水晶の光を同時にうけて複雑な輝きを発するイヤリングが、小さく揺れる。

「若葉は…雅と一緒にいるのが一番幸せなんだ。私は、若葉が幸せならそれでいい」

 目を伏せながら、リリトは自分にも言って聞かせるように言った。それを聞いたロクサーヌは、こくりと頷いた。

「貴女がそう仰るのなら、私はもう何も言うことはありません。了解しました、この魔宝は間違いなく若葉さんに手渡しておきましょう」

「…恩に着る」

 ロクサーヌの言葉に、リリトはおそらく今まで彼女が生きてきた中で一番素直に、礼を言った。

 ふと、リリトは廊下の側から、開いたままのドアの向こうを見た。そこには若葉が、可愛らしく寝息を立てている。この世界で得た全てを捨てて、異世界へ飛ぶ決心をした若葉…彼女のことだからひょっとしたら、そこまで深い考えがあっての決断ではないのかもしれない。しかしそれが、若葉とリリトの永遠の別れを意味することに、変わりはない。

「若葉を無事異世界へ……雅の元へ、送ってやってくれ」

「それを決めるのは私ではありませんが………できる限り、力にはなるつもりです」

 リリトは微笑んで、そのままスッとロクサーヌに背中を向けた。若葉にはさよならを告げないまま。今、一度でも言葉を交わしたら、離れられなくなってしまうかもしれない……そんな思いが、彼女の中にはあった。自分と言葉を交わせば、里心に駆られた若葉に迷うが生じてしまうかもしれない。…それ以上に、自分が若葉との別れを許容できずに、取り乱してしまうかもしれない。

 それに、かける言葉も見つからなかった。頑ななまでに人との交わりを避けて生きてきた彼女は、まだ別れの悲しみに対し、無防備すぎた。

 じわじわと沁みてくる淋しさを、無意識に感じているのだ。

「貴女も…御無理をなさらぬように」

 その言葉を背中に受けながら、リリトは寝息を立てる若葉に背を向けて、ゆっくりと歩き出していた。徐々に光が射し始めたイードニアの街並みの中を、一人歩く。これでけじめはつけた。若葉と出会う以前の自分に戻ろう…。戻れるものなら……。そう考えながら。


◆ ◆ ◆


「リリト…!」

「?」

 イードニアから少し離れた、街道上でのことだった。失意のままぼんやりとただ歩いていた所を不意に呼び止められ、リリトは思わずきょろきょろ辺りを見渡した。そして…表情を凍りつかせた。

「シャカール…!?」

 街道沿いの並木に体重を預けるようにしながら、そこに彼が待っていた。その視線には憎悪と呼ぶべき感情が満ち溢れ、今にも迸らんばかりのすさまじい殺気が彼の周囲に渦巻いていた。ある程度覚悟していたこととはいえ、リリトはさすがに背筋が凍る思いがした。

「どういうことだ…あの一撃は、決して浅くはなかった筈だが…?」

「精霊魔法だよ」

 リリトに向かって一歩を踏み出しつつ、不敵に口元をつり上げながらシャカールは言った。

「お前さんの攻撃を受ける直前に『アース・シールド』を使ったのさ。さすがに無傷というわけにはいかなかったが、致命傷を避けるには充分すぎる効果があったぜ」

「…ちっ」

 死を観念した節のあったシャカールの言動が、まさかブラフであったとは…。最強魔法の一角『エーテル・マキシマム』を使っても倒すことができないとなれば、あとリリトに残された手段はなんとかして長期戦に持ち込み、相手のスキを窺って反撃に転じる他はない。

「『魔宝』は…どこへやった?」

 シャカールは充分にリリトとの間合いを詰め、尋ねた。リリトはその問いかけに答えることはせず、逆に聞き返す口調で言った。

「…あれが『魔宝』だと、知っていたのか?」

「手に入れる経緯で知った。あれを全て集めれば、どんな願いも叶うということもな」

(こいつは…)

 リリトが知っている限り、若葉たち一行は全部で5つの『魔宝』のうち、既に3つまでを入手していた。それらに今日リリトが届けた1つを加えて、残り1つの状態にまで進んだ筈である。

 しかしどうやらこのシャカール、『魔宝』の独り占めが当面の目標であるらしい。ようするにリリトが気を回すまでもなく、遅かれ早かれ若葉とシャカールはどこかで鉢合わせる運命だったのだ。リリトもこれにはさすがに、頭が痛くなった。

 彼の気を引き、標的を自分だけに向けさせることで、若葉の危険を事前に排除したつもりになっていたのだ。しかしシャカールは、このままでは確実に若葉一行を襲うことになる。その可能性を摘むためには、ただ『魔宝』を取り上げるだけでは、不十分だったのだ。

「つまり…倒すしかない…ということか」

「今回は、黙って倒されてやるわけにはいかんな…お前を倒して、『魔宝』の行方を聞き出すしかなさそうだからな」

 ゆら…

 言いながら、シャカールの体躯が不気味に揺れる。一瞬のフェイントを介して、シャカールは問答無用でリリトめがけて跳びかかってきた。先の交戦では一度も攻勢に出なかったシャカールの突然の動きに、リリトの判断は遅れる。

「くっ!」

 とにかく、間合いを広げないことには話にならない。リリトは後方に退き、上手くシャカールの攻撃を受け流した。さらに相手のスキを窺って精霊魔法を発動させ、『アース・シールド』にて身の守りを固める。術者の守りを堅固にするという効果を持つ精霊魔法で、1対1の戦闘の際、この魔法に勝る効果を得られる術は少ない。先の交戦でリリトの必殺の一撃をシャカールがやり過ごした事実からも、効果の確実性が見てとれる。しかしそれでも、シャカールの勢いは止まらなかった。

「それがどうした、寿命がほんの数秒延びるだけのことだ!」

「えっ…?」

「『エネジー・アロー』!」

 ヴァッ!

 力ある言葉と共にシャカールが作り出した光の矢は、リリトが知るどの術者のものよりも眩い輝きを放っていた。以前に窓枠を灼き尽くした時の一撃…あれに相当する以上の熱量があることは明白だった。これの直撃を受けたら、例え『アース・シールド』が生きていたとしても無事で済みそうな気がしない。強力な精霊魔法とはいえ、万能無敵の守りを成すわけではない。

 かといって、彼女が急いで光の矢を作り出したところで、これと相殺できるだけのモノが作れるかというと、疑問がある。ゆえに彼女は、痛みを覚悟でその攻撃を防御するより手だてが無かった。

 バチィッ!

「うあ!」

 術が炸裂すると同時に、激しい衝撃がリリトの体躯を襲った。万全の防御で待ち構えていたのだが、直接術を受け止めた腕は完全に感覚が失われ、処理しきれないダメージの痛みが瞬間的に流れ込んできた脳はパニックを起こし、目の前が真っ白になる。シャカールが嬉々として話す声だけが、なんとか彼女の意識を繋ぎとめていた。

「ふははは! 『アース・シールド』展開中は防御してもたいして意味がないことを知らんのか?」

(…何言ってる?)

「なんにせよ、次の一撃でお前はもう終わりだ、リリト。降伏するか、死かだ!」

「くっ…」

 なんとか目のチカチカも消え、リリトは痺れる腕でその身を抱きながら、なんとかシャカールを睨みつけた。しかし彼女に余裕はなく、状況はかなりマズイ進行を見せている。

(降伏…?)

 その言葉をふと考えて、リリトは脳裏に過ぎし日の記憶を思い出していた。

 それは若葉と、そして雅と初めて出会った日の記憶だった。魔族として存分に生きていた彼女の生き方に波紋を起こし、人間と解り合える寸前まで行くに至ったその全ての始まりが…雅との闘いと、そして敗北だった。雅の強さの前に屈服し、叩き折られた自尊心を、若葉の慈愛に救われたのだ。

 敗北とは確かに、人生を変えるターニングポイントに成り得るに足る出来事であると思えた。そして自分が雅への敗北をきっかけに、違う生き方に開眼できたことも彼女はよく知っていた。しかし、ならば、そうやって得た人生観を、別な敗北によって再び修正されることが、果たして是なのだろうか…? 自分が納得して選んだ生き方に殉じる時があってもいいのではないか…?

(ここでまた折れたくない…。若葉との、雅との絆を…こんな形で断ちたくはない!)

 シャカールを捉えるリリトの瞳に、力強い光が戻ってきた。負けたくない、という気持ちがある。同時に、再び魔道に堕する前に終わりにしたい、という、自暴自棄に似た心境にもあった。ここで死ぬなら、本望であると。

「さあ…降伏か、死か!」

「降伏はしない!」

 強硬に選択を迫るシャカールを真っ直ぐに見つめたまま、凛とした声で、リリトははっきりと言い放った。シャカールの顔が、醜く歪んだ。

「そうかよ…ならば、死ねっ!」

(若葉…ごめん!)

 自らの死を覚悟し、リリトはギュッと瞼を閉じた。

 カッ!

 強い光が閃き、瞼を通してでも自分の身体が強い光に包まれていることが解った。「これから自分は死ぬのだな…」と、ある意味冷静な思考が胸中にあり、リリトは不思議と痛みを感じることはなかった。それどころか、先程まで身体を襲っていた猛烈な痺れやダメージが消え、心の雫の一滴までも癒されていくような…そんな感じがした。その極めつけに、まるで天使のような優しい響きを伴うキャンディボイスが、彼女の名を連呼するのだ。

「リリトさん、リリトさんっ…しっかりしてください、リリトさん!」

「えっ…あれ?」

 ふわっ…と意識を取り戻したリリトが横たわっていたのは、さっきまで寝顔を見ていた少女・若葉の胸の中だった。

「良かった、『ホーリー・ブレス』が間に合いましたね!」

「あれっ…じゃあさっきの光は、若葉の…?」

 『ホーリー・ブレス』。人を癒す力を持つ神聖魔法の、最上位とされる術の名だ。シャカールの放った特大の『エネジー・アロー』がリリトの身を焼くよりも早いスピードで、若葉の『ホーリー・ブレス』がその傷を癒したのだ。そのため、痛みの一切を覚えることもなく、むしろその身を焼かれていながら快楽を覚えるという、史上稀に見る体験を、リリトはしたことになる。

「はい! それよりも、痛む所はありませんか…?」

 両腕でしっかりと抱きながら、若葉は心配そうにリリトの顔を覗き込んできた。リリトはなんだか感極まって、その目尻にうっすらと涙を浮かべてしまう。

「若葉…すまない、私は…」

「どんなに離れても………ずっと、お友達ですよ。ね?」

「…ああ」

 リリトは瞼をギュッと閉じて、自ら若葉の胸に顔を埋めていった。今まで彼女が味わったことのないぬくもりが、そこにはあった。心の乾きの全てを癒して、さらに潤いを与えてくれるような包容力…思い悩んだ末に空虚になりかかっていたリリトの心が満たされていく。

 その時ふと、リリトは自分が戦闘中であったことを思い出した。

「そ そういえばシャカールは?」

「えっと、あちらに」

「あっち?」

 ひょいと若葉が手のひらで指した方向に、リリトは視線を向けてみた。そこには………

「うち、もうキレたで〜!」

「ボクだって!」

 しゅばばばっ!

「うぎゃ〜!」

 敏捷値999の二人組を相手にえらい目に遭っている、シャカールの姿があった…。


◆ ◆ ◆


「すみません、私って尋ねられると何でも答えてしまう性分なもので」

 リリトの前に顔を出すなり、特に悪びれもせずにロクサーヌは言ってのけた。しかしそのおかげで命を拾ったこともあり、リリトからすればむしろ嬉しいおせっかい焼きであった。

「びっくりしましたよ…リリトさんが訪ねてこられて、ついさっき帰られたと聞いたときは」

 ちょっとだけ声色に棘を持たせ、若葉は言った。普段温和な彼女だけに、そのいつもよりも力のこもるイントネーションはリリトだけでなく、傍観者として話の成り行きを見守る腹積もりだったアルザやキャラットの胸にも、ドキッとした衝撃を走らせた。

(わ 若葉が怒っとる…)

(ボク、初めて見たかも…)

 二人が固まってこそこそと会話している横で、リリトはなんとなく居づらさを覚えつつソファに深く身を沈めた。ここはイードニアの宿屋…つまり、若葉たちが宿泊している建物である。

「さ さっきすまないって言っただろ…?」

 まるで場を繕うように、リリトはやや声を上擦らせつつ言った。しかし若葉はじっとリリトの瞳を見つめたまま、かたくなにその視線を動かそうとはしなかった。2人の視線がうまく合わないまま、数秒が経過する。

「黙ってさよならなんて…そんなの、寂しいですよ」

 不意にリリトの手をグッと取って、若葉は言った。リリトがハッとして顔を上げると、すぐ正面の若葉と目が合った。若葉の瞳の奥に様々な感情が混じり合っていることが、リリトには何となく解った。

「…だけど若葉は、もう行ってしまうんだろ? 雅の所へ…」

 高まりかけた気持ちが、しかしすぐにフッと力を失い、リリトは目を伏せた。若葉が息を飲む音が、聞こえた。

「だったらやっぱり、サヨナラじゃないか」

「…たしかにさよならかもしれません。けど、まだこれで最後じゃない筈ですっ!」

「え?」

 突然若葉が言った言葉に、リリトはきょとんとして再び顔を上げた。若葉は、なんだか今にも泣き出しそうな顔をしていた。リリトの胸が、ギュッと締め付けられる。

「まだ最後の魔宝を見つけていませんから…まだ、最後じゃないんです」

「…バカね、泣いたりして…」

 若葉の頬をつたう涙を指ですくいながら…リリトもうっすらと、涙を浮かべた。それを端から見ているアルザとキャラットも、なんだか胸いっぱいでもらい泣きをしてしまっているようだ。ロクサーヌだけはただニコニコと、いつも通りの微笑みをたたえていた。

「わ 私方向オンチですから…最後の魔宝を見つけるのにどれだけかかるか判りません。ひょっとしたら、まだまだ何度もリリトさんとお会いできるかもしれないんですから…」

「気休めはさ…いいよ。でも確かに、さよならをするのは寂しすぎるかもね」

「…はい!」

 若葉は涙をためた瞳を輝かせて、にっこりと微笑んだ。その笑顔を見られただけでも、リリトは今こうしてここにいられたことを幸せだと感じた。そして、いつかはこの笑顔が雅だけのものになってしまうことを思って、ちょっとだけ胸にチクリと痛みが刺した。若葉と雅…どちらに対して起こった感情かは、彼女にも判らない。

「いつまでも私たちは友達…そうでしょ、若葉」

「はい!」

 言葉を交わせて良かった……今となっては、リリトは切にそう思えた。あのまま別れていたら、自分は今後どんな生き方を選んだか知れない。ひょっとしたら、残りの人生の全てを後悔と共に生きていくことになっていたかもしれなかった。それに較べれば、今の自分はなんていい気分でいられることだろう…。確かに、若葉と一緒にいられる時間はもうごくわずかに限られているかもしれない。しかしそれでも、二人は意思を交し合えたのだ。

 離れていても、ずっと心は友達同士であると…。

 リリトはスッと、いつのまにか自分の頬を濡らしていた涙を指ですくった。さっき触れた若葉の涙と交じり合ったその輝きは、両耳に光る自慢のイヤリングの輝きよりも、美しかった。




−おわり−




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