●Intermission●  
 

 「知ってるわ」

 質問に対する回答は、意外な程にあっさりと、そして簡潔にして明瞭に返された。

 

 「婚姻が禁じられていたローマ人とキリスト教徒の婚姻を執り行った罪で、ローマによって、聖バレンタインは処刑された。それ故彼は愛を司る聖人とされ、二月十四日は聖バレンタインデーとされる。現在では主に、男性がデートのセッティングをしたり、プレゼントを贈ったりする事が多い…」

 人目を気にして電気を落した薄闇の中、ゲームの筐体に取り付けた簡易キーボードをかなりの速度で打っていた亜美が、モニターから視線を逸らさぬままに、その頭脳にインプットされた一項目を、まるで辞書でも読み上げているような淀みの無さで、淡々と告げる。

 学問ばかりでなく、雑学に通じているという事実を、なんでもない事のようにさらりと示して見せた彼女の、その知識の幅広さに半ば感心しながらも、自分と彼女のバレンタインデーに対する認識の余りの落差に、まことは大きく溜め息をついていた。

 『亜美ちゃん、バレンタインデーって知ってる?』

 考えてみれば、馬鹿な事を尋いたのかもしれない。

 彼女は五歳でアメリカに渡り、以来、この歳になるまでずっとキリスト教圏で育ってきたのだ。

 幾らなんでも、バレンタインデーを知らないということは無いだろう。

 だが、亜美には、何となくそう思わせる所があるのだ。

 本に載っているような事柄は兎も角、所謂俗な知識がごっそりと抜け落ちている様に思えた事が、これまでに幾度もあったのだから。

 そして、この場合、自分が尋きたかったのは、「日本におけるバレンタインデー」についての有りように対する知識を持っているかという事で、彼女の応えから推察するに、矢張りというか、それは予想に違わず、日本の現状は彼女の知識の対象範囲には入っていなかったらしい。

 「違った…?」

 どう説明したものか、と思い悩んでいるまことに、不安を感じたのだろう。

 少しばかり離れた場所から、作業を見詰めていたまことを肩越しに振り返る。

 キーを叩く指の速度は、相変わらずのままだったけれど。

 「いや、そうじゃないよ」

 軽く首を傾げてみせた、その仕種の無意識の愛らしさに、とくりと胸を高鳴らせる。

 血液の流れる音がやけに大きく聞こえて来るのを誤魔化そうと、まことは大袈裟に片手を振ってみせていた。

 「ただ、日本ではお菓子業界が結託して、『チョコと共に告白を』なんてキャッチフレーズを前面に押し出してキャンペーンをするもんだから、何時の間にか日本では、バレンタインデーといえば、『女性が男性にチョコレートを贈る日』の代名詞みたいに認識されているんだ」

 元々の起源なんて知っている人は殆どいないし、だから義理チョコなんて称してお世話になった人に配る、なんて事も結構されてるしね。

 「ふうん…」

 言われてみれば、確かにお菓子売り場に、何かコーナーが設置されてた気がするわ。

 今月に入ってから、随分とチョコレートを見掛けるし…。

 然して興味の無い様子で呟くと、再びくるりと背を向ける。

 宗教絡みの行事であろうと、単なるお祭りイベントに変えてしまう、日本企業の逞し過ぎる商魂に、若しくはそれを平然と受け入れる日本人の無節操さに、それ以上のコメントは差し控えたものの、流石に呆れた表情だけは隠し切れないようだ。

 尤も、ダークキングダムとの決戦をそう遠くない未来に控え、作戦参謀としての任務を全うする為に、夜毎、このゲームセンターに通い詰めている彼女としては、そんな事に拘う暇など無いというのが、実際の所のようだったが。

 「…それで?」

 「え?それでって…」

 短い問い掛けに、何を問われているのか理解出来ず、今度はまことが首を傾げる。

 「態々話題に出したという事は、何か話したい事があったんでしょう?」

 「……」

 的確すぎる指摘に、彼女の巡りの良さを改めて知らしめられ、ほう、と気付かれぬように息を吐き出す。

 亜美の指摘は正しい。

 それはもう、反論の余地など無い位に。

 その通り、まことは世間話の一環として単なる流れでバレンタインを話題にした訳ではなく、意図的に持ち出したのだから。

 とはいえ、正面切って指摘されると、羞恥心が煽られる事この上なかったが。

 ――――もう少し、遠回しな物言いを覚えてくれると、私の心臓の負担も減ってくれるんだけどなあ…

 心拍数が跳ね上がった心臓の上に、さり気無く手を当てながら、心の中で慨嘆する。

 何の感情も交じる事無い、歯に衣を着せぬ亜美の言葉は、その多くがずばりと核心を突くもので、しかし、だからこそ、時として酷く冷たいものとして耳に響く。

 少なくとも、彼女が悪気があってそういった言い回しをしている訳ではない事を、十分に承知しているまことをして、次の言葉を奪われてしまう程度には。

 だが、余計なお世話と理解っているものの、亜美を大切に想っているまこととしては、彼女のこういった部分は、正直、何とかしたかった。

 世の中、自分達のように、彼女を理解ってやれる人間ばかりではない。

 表面だけを見て、判断する人間のなんと多い事か。

 どうにかしなければ、その気はなくとも、自然、無用の敵を造り捲る事になる。

 事実、彼女に関する噂は良くないものばかりで。

 興味の無いその他大勢にどれだけ嫌われようと、亜美自身は一向に気に掛けはしないだろうが、彼女の真実の幾らかを知っているまことにとって、それは酷く歯痒く感じられる事だった。

 「えーと、実は…その、折角一年に一度のイベントだから、当日、チョコレートケーキを焼こうと思ってるんだ」

 ダークキングダムとの闘いも大詰めで、この所、皆張り詰めてばかりだし、だから、少しでも気分転換になればと思って。

 本当の所を言えば、張り詰めているのは、皆、という訳ではなく、主に頭脳(ブレーン)たる亜美と、リーダーである美奈子、更に言うなら、何かを感じ取っているらしいレイだ。

 彼女達が何を背負い、何故話してくれないのかは、まことは識らない。

 ただ、自分達が預り知らぬ部分で、三人が酷く苦しんでいるのだけは、見ていれば判る。

 日に日に緊張感を増し、陰りと疲労の色とを濃くしている彼女達に、だから、まことは自分に出来る精一杯を、してやりたかったのだ。

 そして、何をしてやれば良いか知恵を絞り、出てきた結論は、こじ付けでも何でも、兎に角彼女達の神経を、一時的にでも休ませてやる事で。

 「それで、その…出来れば亜美ちゃんに、試食を御願いできないかと思って」

 「試食?私が?」

 躊躇いがちな申し出に、此れ迄何があっても止めなかったキーを打つ手を止め、心底意外そうな表情で亜美が振り返る。

 それは、当然の反応だろう。

 四人の中で、亜美は一番食に関する関心が薄い。

 順当に考えるなら、試食係は食べる事に情熱の大半を掛けているうさぎになる筈で、如何見ても亜美はその対極にいるのだから。

 「うん、まあ、普通はそう思うだろうけどね。でも試食係としては、どちらかといえば、うさぎちゃんは不向きだよ」

 「どうして…?」

 意外な事を聞いた、とでもいうように、亜美がほんの少し眼を見開き、首を傾げる。

 普段、無表情な彼女にしては珍しくも戸惑った表情に、まことは巧く亜美の気を引けた事を悟り、内心快哉を上げていた。

 まことの目的は、単なる三人の気分転換だけでなく、試食と称して、当日だけでなくそれ以前も、亜美を早めに連れ帰り、休ませる事にあったのだから。

 この場合、美奈子とレイはその対象から洩れてしまう事となるが、真っ先に倒れる事となるだろう人物を優先的にフォローするのは当然の事だろう。

 尤も其処に、亜美を想うまことの気持ちが、思い切り絡んでいたのも事実ではあるが。

 「考えてもみてよ。確かにうさぎちゃんは食べる事が大好きで、何でも『美味しい、美味しい』って言ってくれるから食べさせ甲斐はあるけど、でもだからこそ向いてないんだ」

 それは、どんなものでも美味しいと感じるって事で、つまり、それを好きじゃない人の気持ちが理解らないって事だからね。

 特に今回は、亜美ちゃんやレイちゃんみたいな、甘いものが得意じゃない娘にも、食べられるものを作りたいんだ。

 うさぎちゃんじゃ駄目な理由、理解るだろう?

 まことの言う通り、どちらかに合せなければならないならば、許容範囲が狭い方に合わせようとするのは当然の事だ。

 悪戯っぽい口調で理由を綴ってみせながら、じっと見詰めてくる亜美の視線に、本当の狙いを見透かされているような気がして、内心、心臓を跳ね上がらせる。

 明るい所で見れば湖の色彩を放つ亜美の瞳は、深く澄んでいて、薄闇の中にいる現在も、深遠な輝きを放っている。

 室の低い気温にも拘わらず、うっすらと汗をかきながら、此処が表情の見え難い、薄暗い場所で良かったと、まことはこっそりと呟いていた。

 「………」

 そして、暫しの見詰め合いの末。

 表面上は兎も角、実際としては必死だった、かなりにこじ付けっぽい説得の甲斐あって、亜美はゆっくりとひとつ、首を縦に振っていた。

 「そう…そういう事なら、私は構わないけど…」

 「良かった。有り難う」

 こっくりと頷いてくれた亜美に、ほっと肩から力を抜くと、にっこりと笑みを浮かべてみせる。

 「若しかしたら、反対されるかと思ったよ」

 「…どうして?」

 不思議そうに問われて、言葉に詰まる。

 理由を述べて、矢張り止めたと言われたらどうしようかと思いながら。

 「だって…さっき、日本のバレンタインデーについて、説明したろ?」

 亜美ちゃん、イベントってあんまり好きじゃなさそうだし、本来のバレンタインの由来なんかも知ってて、外国での様子も見てきてるから、こういうのは嫌がられるかもしれないって思って。

 「…確かに日本の企業のやり方には驚いたけど、そんな事で反対なんかしないわ」

 元々の由来なんて差し置いて、恋人の日になっているのは日本も外国も変わらないんだもの。

 企業に躍らされている訳でないのならば、そういう日があるのは、決して悪い事ではないと思うし。

 勿論、起原を知った上で行なうなら、言う事はないのでしょうけど、でも、知っていたからと言って現在の自分の何が変わると言う訳でもないでしょう?

 「そうだね…」

 思ってもみなかった意外な亜美の見解に、感心したように小さく唸る。

 ――――理解していたつもりなのに、まだまだだね、私も

 てっきり批判的な意見を聞かされるものとばかり思っていたまことは、ほんの少し自嘲して、けれど同時に、改めて知った亜美の柔らかな考え方に嬉しくなる。

 「それじゃ、亜美ちゃん、早速だけど今夜から宜しくね」

 「え?」

 「ほらほら、電源落として。あ、荷物はこれだよね?」

 「え、一寸、まこちゃん?」

 湧き上がる温かな気持ちに素直に従い、放り出されていた為に、冷え切っていた鞄をひょいと取り上げると、ぽん、と薄い肩を叩く。

 唐突に動き出した時間に戸惑い、半ば混乱している亜美に、パニックに乗じて畳み掛けると、反論も出来ぬ様子で指示に従う。

 何時ものように論破される事を怖れ、冷静さを取り戻していない今の内、とばかりに、口を差し挟む間も与えずぽんぽんと指図していくと、撤退準備が完了するのに、然程時間は必要とし無かった。

 「それじゃ、行こうか、亜美ちゃん?」

 並んで立っても、自分より、大分低い位置にある亜美の肩に手を廻し、強引に外へと押していく。

 ――――来年は、こんな形じゃなく、ちゃんとバレンタインデーを過ごせると良いね

 最後にシャッターを下ろしながら、傍らに佇んでいる亜美に、心の内だけで囁いて。

 

 空に湛えられた銀の光は、手を繋いでゆっくりと歩く二人の姿を優しく照らし出していた。

 

                                     END