●いつか見付ける●

 堅い革靴の爪先で、こん、と足下に有った、小さな石を蹴とばしてみる。
かつんかつん、と乾いた音を立てて、アスファルトの上を、二、三度軽く跳ねたそれは、通りの反対側に佇立する瀟洒な邸の、小さな門に阻まれて、その動きを唐突に停められる。
ゆるりと佇む彼女の眼前に建つ、高くも低くも無い、所謂、一般家庭に良くある白塗りの鉄門は、ほんの少しばかり開かれた侭になっていて、まるで、人の訪れを誘っているかの様に見えた。
仰いだ邸の、そこから見える二階の窓には、全て、厚くカーテンが引かれていて、内の様子は解らない。
ひっそりと、静まり返ったその様子からは、人の気配は、まるで感じられなかったが、けれど、まことには奇妙な確信が、あった。
彼女達二人は、間違いなく、此処にいる、という。
皙い邸を見上げながら、暫の間、所在なげに、その前を幾度か往復していたまことは、きゅ、と唇をきつく結ぶと、漸くの様に、鉄の扉に手を掛ける。
きい、と音を立てて、見た目よりもずっと重量感の有る、観音開きの扉を押し開くと、するりと中へ入り込んで。
玄関横の植え込みの枝が、時折、気紛れの様に通り抜ける風に、ゆら、と戦ぎ、それにつれて、白壁に落ちた灰色の影が、音も無く揺らめいていた。
――――………
インターフォンの呼鈴に指を伸ばし掛け、寸前で、躊躇う。
『おはようっ』
気付いたのは、登校して、直の事。
何時もは、静かな光を湛えている湖の瞳が、今日に限って、酷く落ち着か無げに、あちこちと揺れていた。
まるで、見知らぬ場所へ迷い込んでしまった、迷子の仔猫の様に、おどおどと辺りを窺う、その頼りなげな様子に、どうかしたの、と、尋ねてみても、何でも無い、と首を横に振るだけで。
そして、昼休み、一緒に昼食を摂ろう、と教室を訪れてみれば、早々に早退して仕舞った、と、彼女の級友達に告げられて。
『早退?』
何時?どうして?
『さあ…』
理由は知らないけど、三時間目には居なかったから、その前に帰ったんじゃ無いの?
出欠を取る時、何も言って無かったから、先生なら、多分、知ってると思うけど。
どうしても知りたければ、そっちに聞いた方が早いんじゃない?、とあからさまに迷惑そうな顔をして、さっと奥へと入って仕舞う。
だが、そんな相手の表情は、まことの眼に入っては来なかった。
確かに、彼女にしてみれば、中学校レベルの勉強など、今更なものでしか無い上に、団体生活、というよりも、人と人との付き合い自体を、得意としていない亜美にとって、此迄経験した事の無い、同年代の人間達が、沢山集まる学校という場所は、決して、居心地の良い場所では無かった筈だ。
けれど、それでも、律儀な彼女らしく、不必要に欠席する事は、此迄一度も無かったので。
職員室に掛け込んで、そろそろ、初老に入ろうかという、担任の数学教師を捕まえてみれば、具合が悪そうだったから、二限目の終わりに帰らせた、と御茶を啜りながら、のんびりと頷いて見せる。
『今年の風邪は、性質が悪いと言うからな』
毎年、必ずといって良い程出現する、常套句を口にして、自分の判断は確かだと、悦に入った様に笑うその教師に、軽く頭を一つ下げて、職員室を後にする。
そして、胸の内に燻る、形を成さずにもやもやとしていたものが、はっきりと不安という形を形取った時、居ても立ってもいられずに、まことは、何かに駆り立てられる様にして、学校を飛び出してしまっていた。
――――亜美ちゃん…
最低限の物しか入っていない、潰れた、軽い鞄を小脇に抱え、心当たりを覗いて回る。
時折出掛ける公園に、行き付けの喫茶店、誰に邪魔される事も無く、静かに本を読める、と嬉しげに話していた大きな図書館や、マンションに付随する広々としたプール。
けれど、結局、それらに彼女の姿を見付ける事は出来ず、その他立ち寄りそうな場所を、改めて思い返そうとして、まことは唖然として仕舞っていた。
自分が亜美のプライベートな事に関して、殆ど知らない事に気付いてしまったので。
確かに、彼女に関する噂話は、幾つか耳にしていたけれど、それは、一寸、噂好きの人間ならば、誰でも知っている様な、世間一般の情報程度のものであったし、何より本人に確かめた訳ではない。
けれど、元来、口の重い人間ひとだから、と、自分から投げかけてみた幾つかの質問は、何時の間にか、他の話題に摩り替えられていて、どれ一つとして、まともに解答を貰った事など無かった事を、今更ながらに気が付いていた。
自分が知っているのは、儚げで、引っ込み思案で、不器用な、けれど、何処か毅然とした部分を持った、優しい少女。
秋の初め、初めて出会ってから、仲間として、友人として、最も多くの時間を共に過ごして来て、その性格や考え方などは、良く識っているというのに、でも、こういった時、自分が、彼女の何をも識らないという事を、否応無く思い知らされて、それは彼女の心に、暗い影を落としていた。
――――知ってるのかな、美奈子ちゃんは…
つい最近合流した、金色の光を纏った少女の顔を、ふと思い出す。
どういった理由わけからか、初めて出会った時から、敵ばかりで無く、彼女はこちらの内情にも、中々に詳しく通じていた。
ルナとアルテミスを経由して、情報が行っていたとはいっても、それだけでは解らぬ筈の、細かな事情に関して迄にも。
――――………
どうしたものか、と考えて、人気の無い公園の、少々傷んだベンチに腰を下ろす。
見上げた空は、既に陽が傾き出していて、まことは唐突に時間を思い出していた。
『不味…っ』
そういえば、先刻から、見慣れた制服と、幾度も擦れ違っている様な気がする。
スカートのポケットに押し込んであった、五人御揃いの腕時計を引っ張り出して、盤面を覗き込んだ途端、座ったばかりのベンチから、まことは跳ね上がっていた。
『電話っ…』
ゆるゆると進んでいた筈の短針が、何時の間にか、百二十度程、右下に傾いている。
授業を終えて、直様、直行するつもりで、夕刻からの、ミーティングを了解したのだが、現在(いま)からでは如何焦っても、間に合わない事は明白で。
非常時以外は、極力、通信機は使用ない、という暗黙の了解の下、漸くに捜し当てた電話ボックスで、受話器を通して聞こえてきた、少しばかり遠い、レイの声には、けれど、些かの憤りも含まれてはいなかった。
『ああ、レイちゃん?あたし、まこと』
『まこちゃん?』
良かった、心配したのよ。
うさぎなら兎も角、時間に正確なまこちゃん迄来ないから、何かあったのかもしれない、って。
レイの言葉に、素直に、御免、と謝罪する。
普通の人間には、少しばかり大袈裟に聞こえるその言葉も、現在(いま)の自分達にとっては、決して大仰なものでは無かったので。
『それで、レイちゃん』
悪いんだけど、さ。
私、まだ出先で、急いで行っても、もう暫く掛りそうなんだ。
必ず行くから、先に、ミーティング、始めててくれないかな。
けれど、それに返ったのは、まことにとっては、酷く衝撃的な言葉、で。
『ああ、その事なんだけど、気にしないで大丈夫よ』
『え?』
『さっき、美奈子ちゃんからも、連絡が入ってね』
一寸、今、手が放せなくて、亜美ちゃんと二人、遅れるから、って。
場合によっては、来られなくなるかもしれない、って言うから、一応、ミーティングは明日に延期する事にしたのよ。
ルナによれば、うさぎも補習だって話だし。
全く、あの娘ってば全然懲りないんだから、と、呆れた様な口調で溜め息をつくレイが、実は、誰よりも、そのおっちょこちょいの少女を、大切にしている事を、まことは知っていた。
『だから、今日は来なくても大丈夫よ』
『解った。有り難う、レイちゃん』
受話器越しに笑ったレイに、礼を言って受話器を置く。
――――一体、どういう事、なんだ?
暫、宙を睨んで、首を傾げる。
彼女の言葉が正しいとすれば、亜美と美奈子は、二人、一緒にいるという事になる。
待ち合わせでもしていたのか、それとも単なる偶然か。
どちらにしても、自分が捜していた間、ずっと二人でいたらしい、という推測は、まことの胸に、きりきりと、鋭い痛みを齎していた。
――――亜美ちゃん…
初めて出会ったその瞬間(とき)から、心に住まわせて仕舞った、大切な、人。
何も語ろうとしない彼女が、その持てる能力(ちから)の全てを掛けて、自分達を護ろうとしてくれているのを、知っている。
けれど、全てを背負込んでしまいがちな大事な人の、滅多に無い相談事を、毎回引き受けているのが、自分で無いというその事実は、まことを酷く苛立たせる原因となっていた。
この、訳の解らないもやもやとした気持ちが、所謂、嫉妬、であると、まことがはっきりと自覚するのは、もう少し、後の事になるけれど。
「居るんだろ?二人共」
相も変わらず、きっちりと閉ざされた侭の、二階の窓に向かって、ひっそりと囁き掛ける。
ゆるり、と過る風に嬲られ、乱された髪を、手櫛で軽く整え直して。
まことは、再度、大きく息を吐き出すと、俯いていた面をすいと上げ、真っ直に正面の、木製の扉を確りと見据えてから、インターフォンへと長い指を延ばしていた。



「まこちゃんの、亜美ちゃんに関する勘の鋭さって、本当、普通じゃ無いわよねえ」
場所迄は、レイちゃんにも、知らせなかったのに。
くっくっと、喉の奥で笑いながら、面白そうな面持ちで、まことの貌を覗き込む。
何時もそうだ、この人は。
他の人間に対しては、決してそんな態度をとる事など無いのに、まことと二人きりになると、途端に、酷く揶揄いを含んだ物言いになる。
面白がっている様子を、隠しもしないで。
「…別に、最初は確信があって、此処に来た訳じゃないよ」
唯、二人一緒だって聞いたら、何となく。
「此処に居るんじゃないかって、思ったんでしょう?」
口にしようとしていた言葉を、するりと引き継がれて黙り込む。
こういった様子の時の美奈子には、何を言っても、それは、揶揄いの材料としかならないのだという事を、まことは良く知っていたので。
「何となくでも何でも、それが当たる確率から考えれば、大したものよ」
だって、他の事に関するまこちゃんの勘って、当たる事の方が珍しいじゃない?
自分の肩に凭れて、眠っている人間を起こさない様、細心の注意を払いながら、それでもくすくすと笑い続ける。
あれから。
『…はい、どちら様?』
インターフォンから流れ出て来たのは、予想通りの、けれど、何処か少し抑えた様な、聞き慣れた声。
『美奈子ちゃん?私、まこと』
『…まこちゃん』
然程、意外でも無さそうに、まことの名前を一度だけ繰り返すと、一瞬の沈黙の後、まるで内緒話でもしているかの様な、小さな声で囁く。
『御免なさい、今、動けないの』
鍵は開いている筈だから、悪いけど、勝手に入って来てくれない?
突き当たりの、何時ものリビングにいるから。
当の本人に、そうして欲しいと頼まれたとはいえ、他の人間の家に、案内も無しに上がり込むのは、中々に、後ろめたさが付き纏う。
しん、とした廊下に、時折響く、フローリングの床が、きしり、と軋む音さえもが、ひやりと神経を波立たせ、まことには、玄関から室迄の、然して長い筈も無いその空間が、酷く長いものの様に感じられた。
『美奈子ちゃん?』
けれど、小さくノックして、扉を開いたまことの瞳に映ったのは、ソファーに深く腰を下ろした美奈子と、彼女に寄り掛り、静かな寝息をたてている亜美の姿、で。
――――…………
全てを悟って頷き合うと、音を立てぬ様、足音を忍ばせて、そろそろとその傍らに寄る。
亜美の眠りは、浅い。
普段なら、人の気配ですら目覚めて仕舞う彼女を、良くもこんな昼間から、此程深い眠りに就かせる事が出来たものだ、と半ば感心しながら、何気なく巡らせた、視線の先に飛び込んで来たのは、空になったワインの瓶と、その半分程を紅い液体で満たされた、二つのグラス。
『美奈…っ』
確か亜美は、アルコールには、極端に弱い性質だった筈、なのに。
慌てて振り返った途端、けれど、しいっと唇に、人差し指を当てられて。
『御願い、まこちゃん、静かにして』
先刻(さっき)、やっと眠った処だから、もう暫く、起こしたく無いの。
認識っていながら、理解っていなかった事態を指摘され、拳をぎゅ、と口元に押し付ける。
そおっと、その皙い貌を覗き込み、未だ眠りから醒めていない事を確認すると、二人は、ほう、と息を吐きだしていた。
『…安心して』
飲んだのは、殆ど、私。
貴女だって、識ってるでしょ?
此の娘がアルコールなんか、殆ど受け付けられない体質だって事、位。
でも、薬以外にはその位しか、眠りを誘えるものなんか、他に思い付かなかったから。
最後に、ぽそりと付け加えられた言葉が、掠れて良く聞き取れず、え、ともう一度聞き返す。
けれど、美奈子は何事も無かったかの様に、何気ない表情の侭、眠っている人を、そっと引き寄せるばかり、で。
「そういえば、美奈子ちゃん」
その…、如何して、亜美ちゃんと一緒、だったんだい?
調査か何かなら、私達にだって、きっと、何か出来る事があるから、声を掛けてくれれば、何時だって…。
漸く、笑いの発作を治めた美奈子が、沈黙したのを幸いに、訊きたくて、でもタイミングが掴めずに、それ迄訊けなかった事を、恐る恐る尋ねてみる。
言い難そうに、口籠るまことの言葉を受けて、けれど、美奈子は、ふる、と一つ、首を横に振っていた。
別に、亜美が、自ら自分の下へと、やって来た訳ではないのだ、と。
「…ううん、一緒になったのは、唯の偶然」
街を歩いているのを見付けて、うちに連れてきただけ、なの。
そう、あれは、単なる偶然でしか、ないのだ。
美奈子にとっては、非常に、残念な事ではあるけれど。
けれど、あんな危うげな瞳をしたこの人を、あの侭放っておく訳にはいかなくて。
『亜ー美ちゃん』
日本の中学の中で言えばそれ程ではないものの、それでも国外のそれと比較すれば、まだまだ、くだらぬ規則の厳しい学校にうんざりして、何時もの通りに抜け出した。
中学位は日本で、という母親の希望で、一人、帰国したものの、此だけは如何しても、納得出来るものでは無くて。
流石に制服の侭では、具合が悪いから、と、私服に着替える為に、一旦、自宅に戻り掛けた美奈子は、けれど、その途中、ふらふらと街を彷徨っている、亜美の姿に気付いていた。
『如何したの、こんな処で?』
何か、気になる事でも、あった?
何時もにも増して、ぼんやりしているその様子が気になって、さっと横断歩道を渡り、ぽん、と薄い肩に手を乗せる。
『…美奈子、ちゃん?』
唐突に他人(ひと)に触れられて、びくり、と躯を竦ませた亜美は、けれど、耳元に囁かれた聞き慣れた声に、ふっ、と強張っていた肩から力を抜くと、ゆうるりと振り返っていた。
――――亜美ちゃん……?
柔らかな線を描く小さな貌は、光の加減の所為では無く、酷く蒼褪めて見える。
丈夫ではない性質の所為もあるのか、元々、肌に血の気の少ない人ではあるものの、現在(いま)のそれは、そんな程度の表現では、済まされる程のものでは無くて。
『大丈夫?気分、悪そうだけど』
『ん……』
鈍い反応に、首を傾げる。
元来、万事におっとりとした人で、また、思考が先行して仕舞いがちな所為か、少々ぼんやりとした部分も、持ち合わせている人には違いなかったが、これは、余りに、らしくない。
どちらにしても、何時迄も、此の場に留まっている訳にはいかない、と少々強引に、その細い手首に手を絡ませると、美奈子はその手を掴んだ侭、すたすたと歩き始めていた。
明らかに授業中の筈の、しかも違う制服の中学生が、二人揃ってぶらぶらとしていれば、目立つ事、この上ない。
幾ら御互いに、内申書の類を何とも思っていないとは言っても、矢張り、面倒事は、出来るだけ避けたかった。
この世の中には、常識が絶対の基準だと信じている、おせっかいな人間が、沢山存在する事を、美奈子は非常に良く知っていたので。
そして、連れ帰った自宅で、温かなココアを注れ、ゆるりと心が解れて来るのを待った、美奈子の宥める様な促しに、暫の間、重く唇を閉ざしていた亜美は、やがて、途切れ途切れに言葉を溢し始めていた。
『美奈子ちゃんは…違和感って、感じた事、ある?』
『違和感?』
少しばかり、首を傾げて、小さな人を見詰め直す。
彼女が何を言おうとしているのか、咄嗟に理解することが出来なくて。
そして、そんな美奈子の視線から、然り気なく瞳を逸らすと、亜美は、こくりと小さく頷いて見せていた。
一体、如何表現したら、巧く伝わってくれるのだろう?
幼い頃から、幾度も味わって来た、あの、感覚。
何時もと同じ時間、変わらぬ風景、生活する自分の場所。
何も変わらない筈なのに、けれど、何かが違うと、身体の何処かが叫んでいる。
拭い切れない、違和感。
多分、それは、酷く些細な相違、でしかないから。
例えば、それ迄、必ず右に立っていた人間が、その日は偶然、左に立っていた、等の程度の。
だが、日々、少しずつ変わっていく、そんな、当り前の変化とは違う、酷く不自然な差異。
いや、変化したのでは無く、元々違っている世界に、自分が紛れ込んで仕舞ったのだ、と考えた方が、良いのかもしれない。
一見、何もかもがそっくりな、けれど、根本的な、本質的な何かが違う、そう、パラレルワールドにでも、誤って入り込んで仕舞ったのだ、と。
自分の言葉の拙さを、心の中で罵りながら、それでも、考え考え、一番近い言葉を捜し出す。
訥々としたそれらの言葉を、じっと聞いていた美奈子は、けれど、だからこそ、内に潜む、彼女の苛立ちを、はっきりと感じ取っていた。
『亜美ちゃん…』
何と声を掛けて良いのか判らずに、思わず呼び掛けが口を衝く。
だが、それも届かなかったかの様に、亜美は、辺りを彷徨わせていながら、実際は、何をも映していなかった瞳を、ふっさりと閉じていた。
『…理解ってるわ』
そんな事、有る筈なんか無い、私の思い込みにすぎないんだっ、て。
でも、此の世界の中で、自分だけが異分子だって気持ちは、如何しても振り払えなくて…、堪らなかった。
震える唇から紡ぎ出される、吐く様な呟きに、はっ、と胸を突かれる。
誰に否定されようとも、己の意識だけは、欺けない。
前世の、月の人間としての意識を併せ持つ、亜美や自分は、此の地球上においては、所詮、異分子にしか過ぎないのだ。
間違いなく、現在いまの自分のものではない筈の記憶を、極自然に、自分のものとして受け入れてしまう感覚を、美奈子は良く解っていた。
ふと、何気なく思い浮かべていた光景が、実は、前世のものである、と気付いて仕舞った瞬間、襲い来る得体の知れぬ何かに、押し潰されてしまいそうな錯覚に陥る。
此の世に存在するのは、自分、唯一人なのではないか、と。
とはいうものの、既に、前世の自分が、現在(いま)の自分の形成要素となって仕舞っている以上、事実を受け入れるしか、方法は無く。
それは、亜美の言う、『自分から視た世界』とは反対に、『世界から視た自分』という、視点を採っていたものの、自身の孤独感に因っている事には、変わりなくて。
他の人間には、決して理解して貰えぬと考えながら、それでも、亜美が、その胸の内を明かしてくれたのは、自分が、彼女と同じ立場に在る、唯一の人間であるからかもしれなかった。
――――亜美ちゃん…
ほわほわとした猫っ毛を、そっと指に絡ませる。
結局、それらの感覚から脱するのに必要なのは、自分の場合と同様、気持ちの切り替えであると結論付けた美奈子は、自分も良く使用う、同時に最も手っ取り早い手段を、その場で実行に移したのだ。
単純に言ってしまえば、つまりは、睡眠、である。
アルコール、と言う名の、寝つきの然程良く無い彼女には、最も有効な睡眠薬を摂取させて。
その種の成分を含む飲食物には、過分に反応する性質の人間は、グラスに半分流し込んだだけで、それを目論んでいた美奈子の方が、気が抜ける程あっさりと、深い眠りへと落ちて仕舞っていた。
「…美奈子、ちゃん?」
窺う様な、半ば遠慮がちな声に、面を上げる。
新緑色の瞳が、心配げな色彩いろを湛えて、覗き込んでいるのに気付いて、美奈子はふわりと微笑んで見せていた。
「ううん、大丈夫、何でも無いの」
一寸、先の事、思い出してただけなのよ。
そういえば、まこちゃん、何か私達に、用事があったんじゃ、なかったの?
亜美ちゃんだったら、無理だけど、私への話なら、何でも聞くわよ。
不意に話を転換されて、困った様に、まことは貌を俯ける。
特に、何か用事があって、二人を捜していた訳では、なかった。
唯、レイに、二人が一緒だと聞かされた瞬間、胸の内を走った食い込む様な痛みと、如何し様も無く、はっきりしない、もやもやとした気分に突き動かされて、訳も分からない侭走り出し、気が付けば、何時の間にか、此の邸の前に佇んでいたのだ。
何て顔、してるのよ、と額を軽くつつかれて、別に、と明後日の方向に、ふいと視線を泳がせる。
自分自身にも良く理解らぬ感情を、他人に巧く説明する事等、出来る訳が無い。
けれど、その様子をじっと見詰めていた美奈子は、いともあっさりと、その解答を導き出してしまっていた。
「あら、意外」
まこちゃんでも、妬く事なんか、あったのね。
心底、意外そうな声を上げられ、かあっ、と頬が熱くなる。
――――嫉妬?これが…?
思ってもみなかった、美奈子の言葉に、思考が混乱し始めて。
気が付かなかった。
これが、嫉妬、という感情だったなんて。
それ迄、度々、このもやもやとした気分に、苛まれて来たまことだったが、それが、自身が最も醜いと思っていたものであるのだ、と他の人間から指摘され、振り払う様に、ぶん、と頭を一つ振る。
「違っ…別に、私は…」
「でもね、まこちゃん」
言い掛けた言葉を遮る様に、けれど真剣な眼差しで、美奈子がまことを仰ぎ見る。
「幾ら妬いたって、これは、仕方の無い事、なのよ」
私はヴィーナスで、貴女はジュピター。
担っている役割が、違うのだもの。
「けど…っ」
納得する事が出来なくて、上げ掛けた声を、強い視線に諌められる。
だが、空を思わせる蒼の眼差しには、何か大きな哀しみが湛えられていて。
「…だけど」
亜美ちゃんが私に、自分を見せてくれるのは、私がヴィーナスだから、なのよ。
愛野美奈子、だからじゃないわ。
逸らされた瞳が、ゆらり、と揺らぐ。
本当は、そうであって欲しかった、と。
「でも、まこちゃんは違う」
亜美ちゃんが、まこちゃんに自分を見せるのは、あくまで、貴女が貴女だから。
貴女が妬く必要なんて、だから、全然、ありはしないのよ。
先刻まで見せていた、揶揄う様な様子を引っ込めて、自分に凭れ掛って、眠り続ける人を気にしながら、それでも、真摯な口調で語りかけて来る人の、言葉の意味が理解らない。
――――私が……何?
最も、美奈子にとっては、その方が都合が良かったのかもしれない、が。
「この娘は、まこちゃんに、…ううん、皆に、自分を見失わないでいて欲しくて、現在(いま)の状況を保たせてるの」
それこそ、全身全霊を掛けて。
皆が笑って迎えられる、結末を得る為に。
だったら私達は、時が来る迄は、黙ってそれに応えるのが、筋っていうものでしょう?
混乱が、一層激しくなっているのを知りながら、柔らかな調子の侭畳み掛ける。
けれど、その言葉とは裏腹に、美奈子はぼんやりと考えていた。
もしかしたら、こういう人間ひとだったからこそ、亜美は、此の人間を選んだのかもしれない、と。
そして、そんな美奈子の静かな言葉に、まことは、すう、と自分の頭から、嵐の様な惑乱が、去っていくのを感じ取って。
多分、美奈子は理解っているのだ。
亜美を援けてやりたいという、一見、他人ひとを想って出たかの様に見える行動が、実は、自分の利己的な感情の、発露だったのかもしれない事を。
――――美奈子ちゃん……
ふと、思った。
もしかしたらこの人も、自分同様、此の小さな人を、想っているのかもしれない、と。
けれど、その時掠めた思考は、小さく声を上げた人に気を取られ、残る事無く消えて行って。
「ん……」
「亜美ちゃん?」
幾らアルコールが入っているといえども、頭の上で、ぼそぼそと話し続けられ、眠りが浅くなったのだろう。
ごそごそと頭の位置を変えて、身体を小さく丸めると、再び、すうっと眠りに入る。
あどけないその様子を、息を詰めて見詰めていた二人は、顔を見合わせ、ふふっと小さく微笑んでいた。
「起こすのは可哀想だし、隣りの客間に寝かせましょうか」
私もそろそろ、肩が凝っちゃったわ。
「そうだね」
ミーティングも、明日に伸びた事だし、急ぐ必要も無いか。
起こさないよう、押し殺した声で囁き合い、普段なら、間違いなく眼を醒ましているだろう人を、極力、揺らさないよう、まことがそおっと抱き上げる。
――――今日は、励ましちゃったけど、本来、私は、ライバルなんだからね
私が、人の良い人間だった事に、感謝して貰わなくちゃ。
小さく一人ごちて、まことを先導してやる為に、ゆるりと立ち上がって。
ぱたりと扉を閉められた、薄暗くなった室内には、二つのグラスが、寄り添う様に残されていた。


END