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人通りの少ない、薄暗い廊下。 ふつふつと音を立てて、切れ掛った蛍光灯が、ついたり消えたりを繰り返している。 中庭に面する窓からは、光が入って来ているにも拘らず、場所柄か、それとも、見る者の心の所為か、そこは、酷く重苦しい空気を持っているように思われた。 ――――教授… 逸る心を抑えながら、口慣れた呼称を、胸の内で呟く。 こつこつという、自分の足音だけが、やけに大きく耳に響いて、亜美は自分を落ち着けようと、大きく息を吐き出していた。 『はい、水野です』 普通なら、出なくて当たり前の、常識外れの時間帯。 唐突に鳴り出した電話のコール音に、けれど、それ程待たせる事も無く、受話器を取り上げた亜美が、まるで、誰かを気遣うかの様な、静かな口調で相手に応える。 『Hellow
Ami』 ある程度、予測はついていたのだろう。 いきなり流れ出して来た早口の英語にも、少しも動じず、寧ろ当り前であるかの様に、彼女もまた流暢な英語を操って。 『…御久し振りね、お元気でしたか?』 誰何する迄も無く、声だけで、電話の向こうの、眼には見えない相手が誰であるかを悟り、無意識の内に、声に、躯に緊張が走る。 彼女は、どちらかと言えば、以前から、亜美に好意的な人間では無かったので。 最もあの国に、自分を育ててくれた博士以外、親しい人間など、存在しなかったが。 『ええ、元気よ』 貴女もお元気そうね。 案の定、少しばかり刺の含まれた口調に、身を竦ませる。 そして、その気配が、相手に伝わらない様に、と、亜美は然り気なさを装って、本題に入る様にと促していた。 決して親しい間柄ではなかった彼女が、わざわざ国際電話を掛けて来なければならなかった程の、大きな何かがあったに違いない、と考えて。 勿論、意思の疎通の無い、無味乾燥な冷たい会話を、早々に打ち切りたかった事もあったけれど。 『処で、何かあったのですか?』 何か、お急ぎの様子、でしたが。 『ええ』 彼女が、同様の事を考えていたかどうかは定かではないが、珍しくもあっさりと、亜美の質問に頷く。 そして、彼女の次の言葉に、亜美は鋭く息を呑み込んでいた。 『教授が、お倒れになったわ』 彼女が教授と呼ぶ、唯、一人の人。 それは、あの頃の亜美にとって、最も身近だった人物、で。 『………っ』 それで、容態は…。 一瞬、真っ白になった頭の中は、けれど、次の瞬間には、冷静に、そして常に無い速さで回転を開始する。 何時、如何なる時であっても、沈着さを失わない、いや、失えない自分を、亜美は疎ましく思っていたけれど。 『癌、ね』 でも、未だそれ程進行していないらしいから、直様、どうこう、という事は無いみたいね。 取り敢えず、担当しているのは、貴女とチームを組んでいた事もある、彼、よ。 『取り敢えず?』 含みを持たせた言い方に、引っ掛かって繰り返す。 歳こそ若いが、彼は、非常に優秀だと評判の人物で、そんな暫定的な扱いをされる程度の医者では、無かった筈、だったので。 そして、その事実から導き出される、彼女のこの電話の意味を悟って、亜美は、その白い額に深い皺を刻み込ませていた。 『…つまり、私に、担当しろ、と?』 『ええ』 話が早くて、助かるわ。 つまりは、そういう事、よ。 先生の、御要望でね。 優秀な医者が近くに居るのに、何もわざわざ、物好きにも、日本で学生なんかをやっている人を、呼び寄せる事はないと思ったんだけど。 そう言った、彼女の怒る気持ちも、解らないではなかった。 自分が好意を寄せている人間が、好きではない人間の為に、理不尽な扱いを受けているのに、怒らない者が何処にいるだろうか。 けれど、彼女の気持ちに迄、思考を回したのは、その一瞬だけで、直様亜美は、今後のスケジュールを頭の中で組み立てていた。 『解りました。兎に角、今日の便で、そちらへ飛びます』 そして、その言葉通り、朝一番の便で成田を発った亜美は、空港から直接、現在、彼が入院しているという、嘗て、彼女が勤務していた、この病院を訪れたのだけれど。 ――――変わらない、此処も… 足早に歩みを進めながら、そっと呟く。 実際、彼女が此処を離れていたのは、一年にも満たない、短い時間である筈なのに、それは、酷く遠い事だった様に思われた。 ――――教授……… 四歳の時から、約十年もの間、自分を教育してくれた人間ひと。 今だからこそ、思う。 機械の様に、全ての感情を制御してしまっていた、あの頃の自分には、彼の言葉の半分も、届いていなかったに違いない、と。 「………」 階段を上った、突き当たりの、目的の病室の前で足を停め、確認するかの様に、扉の横のプレートを仰ぎ見る。 久し振りに対面する、親とも言える様な人に、どんな顔をして会えば良いのだろうか、と小さく息を吐き出して。 亜美はノックをする為に、持ち上げていた右の掌を、ぎゅっ、と握り締めていた。
『………リー…』 耳から聞こえる訳ではない、酷く哀しげな微かな声が、頭の中に直接響いてくる。 朝靄でも掛った様な、白い霧の立ち籠める、けれど、何処か薄暗い、ふわふわとして、まるで実感のない空間。 『御免なさい、マーキュリー』 御免なさい… 先刻よりも、少しばかり大きく聞こえてくる、声の主を確かめようと、亜美は、辺りを見回そうとして、それが出来ない事に気付く。 ――――………何……? 思考も何もかも、自分のものの筈なのに、身体は自分の命令を、受け付けてくれない。 そして、言葉さえもが、思い通りに操れない事を悟って、亜美は自分が、意志を持った一人の人間の中に、傍観者として、意識だけが存在している事を理解していた。 多分、身体の主にさえ、気取られる事も無く。 『御免なさい、マーキュリー…』 その間にも、響いて来る声は、ますます、大きさを増して来て。 ――――え……… 視界がぼんやりと明るくなり、その中に、一つの人影が滲み出す。 自分の意思とは関係なく、すっ、と片膝をついた亜美は、礼を取る様にゆるりと深く頭こうべ
を垂れて。 ――――誰……… でも、あの声。 何処かで、確かに聞いた事がある。 優しくて、温かくて。 同じ気持ちを、この躯の主も、感じ取っているのだろうか。 胸をきりきりと刺す様な、痛みと懐かしさに包み込まれて、亜美は、何時の間にか、自分の頬を一筋の涙が流れている事に、気が付いていた。 ――――どうして…… 説明のつかない感情に、戸惑っている亜美を余所に、すい、と顔を上げた彼女は、今やはっきりと浮かび上がった、白い光を纏い付かせたその人の、小さな手を取っていた。 『マーキュリー…』 ぽろぽろと、大粒の涙が頬を伝う。 自分の為に溢されたそれは、とても美しくて、けれど、胸に、きり、と鋭い痛みを齎した。 『泣かないで下さい、王女(プリンセス)…』 私は、自分が不幸だとは、思っておりません。 この躯では、きっと、あれが、私に果たす事の出来た、唯一の役目。 そして、その事も、これから為さねばならない事も、決して、自分がマーキ ュリーだからではなく、私が自分の意思で、行っているのですから。 『でも、でも…』 宥める様に触れていた手を、反対に、ぎゅ、と握り返し、しゃくり上げる。 その手の温かさに、縋って来る様な頼りなさに、亜美は口元に、ふわりとした笑みを浮かべて見せていた。 『大丈夫です、王女(プリンセス)』 私には、永の間、ずっと支え続けてくれた、彼女達が居りました。 この出会い以上に、私にとって、価値あるものなど、きっともう無い事でしょう。 『…………っ』 何か言いたげに、何度も口を開きかけて、けれど、それ以上、言葉を見つけることが出来なかったのだろう、大粒の涙だけを零し続ける。 ――――ああ、この人は… 込み上げて来る胸の熱さに、理解する。 この人は、眼の前に立つ彼女の事を、酷く大切に思っているのだと。 けれど、そんな亜美の思考には、気付く事無く、別人の様に、きっ、と表情を引き締めて。 『それでは、行って参ります、王女(プリンセス)
』 触れていた手を少しばかり引き寄せて、そっと唇を一つ落とす。 『必ず皆で、還って来てね』 誰一人、欠ける事無く、皆一緒に…。 そして、それに対する自分の返答を聞きながら、亜美は、自分の意識が、深い闇へと呑み込まれて行くのを、ぼんやりと感じていた。
「王女(プリンセス)…」 呼び掛けた自分の声で、浅い眠りの淵から引き上げられる。 ぽやりとぼやけた視界と、頬を伝っていくものの感触に、自分か泣いている事に、亜美は気付いていた。 ――――また、あの夢… ベッドに上体を起こし、ほう、と大きく息を一つ、つく。 そう、あれは。 月と地球との闘いが、勃発する直前の事。 深い森に囲まれた、滅多に人の訪れる事の無い、水の邸を、本来ならば、城から出る事も殆ど許されない王女(プリンセス)
が、供も付けずに訪れて。 『矢張り貴女も、参加する事になったのね?マーキュリー』 大きな瞳に哀しげな色彩(いろ)を浮かべ、今にも泣き出しそうな表情で、丁度、 邸を出ようとしていた自分の、瞳を覗き込んで来たのだ。 全てを知った者の、眼で。 ――――メッセージ、なのかもしれない ふと、脳裏を掠めただけの筈の考えは、けれど、亜美には、即座に否定する事は出来なかった。 何の、などと、今更自問する必要も無い。 それは、今の亜美にとって、過ぎる程に自然な事で。 ずっと昔、まだ、物心がついたばかりの頃、毎晩の様にあの夢が訪れ、マーキュリーとしての記憶が蘇った。 だから、もしかしたら今回も。 そして、まさか、と半信半疑の侭、調べてみた亜美に、突き付けられた事実は、あの時と同様の、まさに地球レベルでの変化、だった。 異常気象。 犯罪率の、増加。 説明のつかない、不可思議な事件の多発。 そして、何より亜美を驚愕させたのは、ベルギーのブリュッセル太陽黒点観測所から取り寄せた、黒点データで。 ――――これは… ばさり、と大きな音を立てて、手から冊子が滑り落ちる。 忘れもしない。 嘗て、月が、銀千年王国(シルバーミレニアム)が崩壊する直前に、太陽と地球に起きていた変化と同じ。 また、あの時の悪夢が、繰り返されようとしているのか、と。 ――――一体、どうすれば… ぞくり、と背筋を悪寒が走る。 何十万年もの栄華を誇った、あの銀千年王国(シルバーミレニアム)さえ滅ぼした、忌わしい魔の物。 確かに自分は、マーキュリーとしての意識や記憶は、取り戻している。 しかし、まだ、戦士としての能力迄は、蘇らせてはいないのだ。 あれを倒すとなれば、どちらにしても、一人では不可能な事だったけれど。 ――――…先ずは、皆を見つけ出さなくては 自分一人、此の地球に、転生しているとは思えない。 あの最期の瞬間に、自分達の魂を、此処迄送り届けてくれたのが女王(クイーン)ならば、少なくとも、出会える可能性を残す為に、その生の時代位は、同じ時期を祈っているに違いなかった。 流石に、場所迄等しくするのは、難しかったかもしれないが。 「でも…」 右の掌で瞼を覆い、広げていた資料の上に、顔を伏せる。 交通網が発達し、昔に比べ、幾ら地球が狭くなったと言えど、五十億もの人間の中で、ほんの数人を見つけ出す事は、奇跡に等しい。 自信は、あった。 一目見れば、自分には解る。 だが、その会える確率というのは、砂漠で、一粒の石を見つけ出すことの出来る確率と、大して変わりはしないのだ。 そして、更に、亜美の脳裏を過ぎったのは、彼女達を、再び闘いに巻き込んでしまって、本当に良いのか、と言う事で。 ――――マーズ、ジュピター、ヴィーナス… 大好きで、大切だった、仲間達。 何度転生を繰り返しても、魂自体は変わらない。 優しい彼女達ならば、きっと、それ迄の平凡な生活を捨て、此の地球上の何処かで、時を同じくして生きているに違いない、王女(プリンセス)を護る為に、躊躇う事無く、剣を取るだろう。 例えそれが、命がけの闘いになると、解っていたとしても。 ――――………っ 両の掌を、爪が肉に食い込む程に、きつくきつく握り締める。 解っていた。 どれだけ考えても、出て来る結論は、同じなのだと。 やるしか、無いのだ。 あれ、が復活するという事は、何もせずに放って置けば、どちらにしても、世界は死滅する。 それも、永遠に。 自分の大切なあの者達は、何も知らぬ侭、あれ、の手に落ちてしまうのだ。 そうなってしまえば、転生すら、二度と不可能になり、勿論、再び会い見える事など、出来なくなってしまうだろう。 だが、辛い想いをさせても、哀しい想いに包まれたとしても、セーラー戦士として闘えば、生き残れる可能性は、ゼロではなくなる。 少なくとも、チャンス位は、作れるのだ。 「皆…御免、ね……」 血が滲んで来る程、ぎり、と唇を噛み締める。 広げた資料はその侭に、き、と真っ直上げたその表情は、最早、それ迄の彼女のものではなくて。 セーラーマーキュリー。 智を司る者。 どんな時でも、冷徹さと集中力を失う事の出来ない自分は、彼女にとって、それ迄、決して良い結果ばかりを、与えてくれはしなかったけれど。 世界中の、ほんの僅かな変化も、見逃さぬ様に、と意識を凝らし、亜美は更に情報を収集する為に、キーボードを叩き始めていた。
「おお、来てくれたのかね、亜美」 躊躇いながらも、部屋に踏み込んだ亜美を、迎えてくれたのは、そんな朗らかな声だった。 白い壁、白いシーツ。 陽の光が出来るだけ多く入る様に、と病院にしては、大きめの窓を設えられた、明るい病室。 そして、その窓辺に置かれた寝台の上に、上体を起こした、そろそろ七十になろうかという男性が、にこやかに彼女を見詰めていた。 「お久し振りです、教授」 お身体の具合は、如何ですか? 「ああ、今は大分良い」 それより、そんな所に立っとらんで、こっちに来なさい。 すっと頭を一つ下げ、促されるに従って、ゆっくりと歩みを進める。 勧められるが侭に、傍らの椅子に腰掛け、亜美は、ふわりと口元に笑みを浮かべていた。 ――――相変わらずだ、この人は 病気の所為か、幾分痩せてしまった様には見受けられたが、頑固そうな、引き締まった口元は、嘗ての侭。 ――――でも… 優しい、温かな瞳に見詰められ、表には出さず、ひそりと呟く。 傍らで過ごしていた、あの頃から、この人はこの様な瞳で、自分を見ていたのだろうか、と。 どういう訳か、然して古い記憶ではないのにも拘らず、亜美の中では、日本に戻る以前のそれは、酷く色褪せてしまっていたので。 それは、まるで、古びて黄ばんだ、白黒の写真の様に。 ――――……… あの時。 『日本へ、帰ります』 引き留め様とする教授に向かって、きっぱりと、そう言い切ったのは、自分だった。 見つけたのだ。 嘗てのセーラー戦士だったかもしれない、人間の一人を。 『これ……』 数日遅れで手に入る、日本で発行されている、大部数の新聞の一つ。 偶然目に留まった、小さな記事。 『セーラーV』と名乗る少女が、東京のあちこちで起こる不思議な事件を、次々に解決しているという。 慌てて詳しく調べてみれば、彼女は、一年近くも前から、あの決して眠る事の無い都を中心に、活動しているらしい事が解って。 ――――まさか…… V………ヴィー…………ヴィーナス。 自分は、そう呼んだ事は余り無かったけれど、長い名称を嫌って、仲間内で時々使われていた、頭を取った略称。 ヴィーナス。 だから、ヴィー。 違うかもしれない。 けれど、もしかしたら。 此の広い地球上、たった三人の仲間を、どうやって見つけ出したものか、と考えあぐねていただけに、それは、一筋の光明だった。 ――――確かめなくては そう思ったら、居ても立ってもいられなくなった。 数年前、父と離婚した際に、便宜上、引き取り手となった母と、直様連絡を取り、一旦、帰国する旨を伝える。 場合によっては、それ以上になるかもしれないが、取り敢えず、日本の義務教育、つまりは中学校卒業迄、という事で。 後から考えても、これ程衝動的に行動したのは、生まれて初めての様な気がする。 それは、何かに突き動かされている、と言った方が、相応しいと思える程で…。 「亜美」 改めて、名前を呼ばれて、はっ、と顔を上げる。 いつの間にか、自分が思考の海に、沈んでしまっていた事に気が付いて、亜美は、慌てて、彼に視線を向け直していた。 「はい、教授」 「こちらに戻って来る気は、無いのかね?」 病院の方は、その気があるなら、何時でも打診して来てくれ、と言っているよ。 前と同じポストを、用意させてもらうから、とね。 温かな言葉に、申し訳なくなる。 傷ついた心を護る為、とはいえ、実の両親以上に、想ってくれているだろうこの人に、全てを拒否していたあの頃の自分は、気付く事も出来なかった。 「…お気持ちは大変嬉しいのですが、今は、日本を離れる気はありません」 あの土地で、私には、やらなければならない事が、ありますので。 見詰めて来る、真摯な色を湛えた瞳から、そっと視線を外し、後半は、半ば自分に言い聞かせる様に呟く。 少しの間、沈黙の帳が降り、掛けられる言葉を待って、全身を緊張された亜美に、けれど、贈られたのは、納得した様な、深い吐息、だった。 「そうか…」 矢張り、な。 残念だ、という響きと共に、どことなく安堵の色が感じられるのは、どうしてだろう。 「最初に入って来た時、多分、そう言うだろうとは、思ったんだよ」 此処にいた時とは、まるで別人の様な、活き活きとした表情をしていたからね。 俯いた侭、握っていた両の手に、力が込もる。 そう。 確かに、自分は変わった。 覚醒する以前でも、自分のIQの高さなど、人が呼吸をして生きている、と言う事を理解する程度の自然さで、認めてくれた、仲間達。 壁を作る必要など、もう、無いんだよ、と、でも、それを自分が悟る迄、腕を広げた侭、待っていてくれた。 「仲間が…友達が、出来たんです」 それは、自分の命などよりも、遥かに大切な。 「そうか…」 だったら、私の出る幕ではないな。 私の病気の担当を君に、と言ったのは、実は、君を此処に呼び寄せる為の、単なる口実に過ぎなくてね。 直に君に会って確かめたかったのだが、私は身体がこの通りで、日本を訪れるのは、難しかった。 「確かめる…?」 不思議そうに繰り返した亜美に、ああ、と一つ頷いて、窓の外に視線を巡らせる。 硝子玉の様なその瞳は、酷く遠くて、そこに有るものを映してはいなかったけれど。 「日本は、突出した者を、排除しようとする国柄だ」 皆と同じものしか、認めない。 同じ枠に入り切らないものは、全て、異分子と見なされ、枠に入る事を強要される。 そして、トップレベルの医師である君が、思った通り、日本では、単なる中学生としてしか扱われていない、と知った時、考えたんだ。 君は、日本に居るべきではないんじゃないか、とね。 このアメリカでも、その様な事が全く無い、とは勿論、言えないが、少なくとも、そういった者が、力を発揮出来る環境にはある。 だから、確かめたかった。 日本に戻った君が、如何変わったかを。 もし傷を負っているなら、浅い内に、手当てしてしまった方が良いのは、解り切った事だからね。 「…………」 彼も、覚えのある痛みなのか。 どう答えて良いものか、言葉を見つけられずに、黙り込む。 日本、という国を表現した彼の言葉は、決して、間違ってはいなかったけれど。 「だがそれも……無用の心配、だった様だ」 ふ、と口元に寂しげな、それでも嬉しそうな小さな笑みを造り、ゆっくりと亜美に眼線を戻す。 愛しげに細められた、真っ黒の瞳。 苦労して苦労して、遠い異国の地で、今の地位を築き上げたこの人には、家族というものは存在せず。 もしかしてこの人は、自分を実の娘の様に、思っていてくれるのかもしれない。 それは、これ迄、考えもしなかった思い付きだったが、何故か、妙に納得出来て。 「教授…」 「亜美、その友達を、大切にしなさい」 多分、君になら、言う必要もない事だろうが。 ゆっくりと伸ばされた手が、ぽん、と右の肩に乗せられる。 かさかさになった大きな手は、けれど、とても温かくて。 ――――教授…… 今更ながら、の後悔と、それでも、気付く事の出来た喜びが、胸の中を交錯する。 失うものが多すぎる、救いの無い闘いだと、当初は思っていたけれど。 マーキュリーではなく、水野亜美の、凍っていた心を解かしてくれた、四人の仲間達。 ――――巡り合った事で、彼女達が、こんな、温かな気持ちを、少しでも感じていてくれたら… 海の向こう、極東の、小さな島に存在る、大切な人達の事を想って、亜美はひっそりと瞼を閉じていた。
がやがやとした人のざわめきと、若い女性の、館内アナウンスの声。 そこ此処の、再会を喜ぶ人々の輪からは、時折、はしゃぎ気味の、大きな笑い声が聞こえて来る。 そして、亜美は、それら周囲の人間に、眼をくれる事も無く、賑やかな空間を、足早に通り抜けていた。 『亜美ちゃん』 不意に、何処からか、名前を呼ばれた様な気がして、立ち止まる。 ――――え? 声の主を捜して、ぐる、と周囲に視線を巡らせて。 けれど、そこ此処に小さく集う、人込みの中に、それらしい姿を眼にする事は出来ず、気の所為だろう、と再び亜美は、外へと歩みを進めていた。 ――――空耳か、でなければきっと、同じ名前の人が、居たんだわ これだけ、沢山の人がいるのだから。 それに、良く考えてみれば、皆が、此処にいる筈も無いし。 けれど、そんな亜美の思考を遮る様に、今度ははっきりと、決して、気の所為、などではなく、聞き慣れた声が呼び掛けて来て。 「亜美ちゃん」 ぽん、と肩を軽く叩かれ、びく、と全身を竦ませる。 慌てて振り返ってみれば、してやったり、と、悪戯っぽい笑みを浮かべたまことが、すんなりと佇んでいて。 「お帰り」 「まこちゃん…如何して…」 此処に、と続く筈だった言葉は、余りの驚きに、途中で途切れる。 今日帰るなんて、誰にも知らせなかったのに、と。 戸惑いを隠せず、口を何度も開き掛けては、結局、何も言えずに閉じてしまう亜美に、まことは、先刻とは違う、温かなそれで、にこり、と微笑んで見せていた。 「如何してるかと思って、昨日、電話してみたんだ」 何しろ、突然、アメリカに行く、なんて言い出して、しかも、その後は、二週間も音信不通。 大体、発つ時の電話だって、私が家を出る直前だった上に、空港から、だっただろ? 碌々、話も出来なかったし、何か、らしく無かったから、一寸心配になっちゃってね。 それに、レイちゃんや美奈子ちゃんは兎も角、うさぎちゃんが大騒ぎして、さ。 矢っ張り私じゃ、亜美ちゃんみたいには、巧く宥められないなあ、と、楽しげに笑って、それから、安堵した様に、大きく息を吐き出す。 色こそ違ったが、それは、教授が自分を見ていた瞳と、酷く似通った輝きを孕んでいる様に、亜美には思えた。 「…元気、だったかい?」 囁く様な、短い、けれど、何十万もの想いが込められている様な、そんな問い掛け。 覗き込んで来る翡翠色の瞳に、言葉が見付けられず、ぎこちない動作で、こく、と一つ頷いた。 「そう。で、用事は、ちゃんと済んだのかい?」 「ええ、全部済ませてきたわ」 「なら、良かった」 心底、そう思ってくれている事が解る様な、酷く嬉しげな表情で、小さく呟くと、下げていた小振りのボストンバッグを、ひょい、と、亜美の手から取り上げて、まるで重さを感じさせない動作で、肩に引っかける。 「荷物はこれだけかい?」 「え?ええ」 突然、肩に食い込んでいた重みが、ふっと無くなった事に戸惑いながらも、もう片方の手に下げていた紙袋も、持つよ、と手を伸ばし掛けられて、大丈夫だから、と、やんわり押し戻す。 そして亜美は、そろそろ行こうか、と背中を押そうとするまことを押し留めて、先刻から、いや、もうずっと気になっていた問を、唇に乗せていた。 「皆は…どう?元気だった?」 怪我や病気、していない? 私が居ない間、ダークキングダムの動きは、如何だったの? 立て続けの質問に、驚いた様に、まことの瞳が、大きく見開かれる。 一瞬の沈黙の後、ふわり、と笑みの形に相好を崩すと、相変わらずだね、とそっと頬に手が当てられた。 触れ合う箇所から、じんわりと相手の体温が伝わって来て。 「大丈夫」 亜美ちゃんが心配する様な事は、何も無かったよ。 先も言った通り、皆も変わりない。 知らず、強張っていた亜美の肩から、力が抜ける。 自分が欠けている間、もし彼女達に何か有ったら、多分、自分は一生、自身を許せなかっただろう。 やむにやまれぬ事情が有った、とはいってもだ。 そして、そんな亜美の心中を悟ったのか、まことは、でも、と言葉を続けていた。 「そんなに気になっていたんなら、一度位、連絡くれれば、良かったのに」 どうせ、用事も無いのに電話を掛けるなんて、とか、迷惑なんじゃないかとか、そんな事を考えて、電話、出来なかったんだろ? 見透かされている事に、俯く。 緊急の時はいざ知らず、何も無い、普段の電話というのが、亜美は苦手だったので。 「でもね、亜美ちゃん」 そんなの、全然気にする事なんか、無いんだよ。 電話なんて、掛けたい時に、掛ければ良いんだ。 そりゃ、今回なんかは時差があるけど、例え真夜中だって、亜美ちゃんからの電話を、迷惑に思うなんて事は、絶対に無い。 直接会えない分、声を聞ければ安心だし、別に普段だって、相手の声が聞きたい、って言うのは、立派な電話を掛ける理由、だと思うよ。 一つ一つ、ゆっくりと染み込んで来るまことの言葉に、心が、温かくなって来る。 勿論、そう言われたからといって、直様、気楽に電話を掛ける事が、出来る様になるとは思えないが、それでも、幾分、心が軽くなったのは確かで。 ――――あら?そういえば… ふと気が付いて、首を傾げる。 電話をした、と言うが、確かまことは、英語を話せなかったのではなかろうか、と。 そして、そのことを指摘されたまことは、照れ臭そうに微笑んで。 「ま、ね」 半分以上は、勘の世界。 でも、エアプレイン、て言ってたし。 地名や数字が出てきたから、多分、そうだと思って、調べたんだ。 流石に、間違っていたら困るから、皆は連れて来なかったんだけど。 少しばかり、頬を紅くし、明後日の方向に視線を逸らす彼女の横顔を、信じられない思いで見上げる。 では、確かとは言えないその情報に、それでも、まことは、こんな所迄来てくれた、と言うのだろうか。 無駄足になる可能性が、多分にあるのを、解っていながら。 ――――まこちゃん… 胸の奥から、何か、大きな熱いものが込み上げて来る。 何気ない、例えば今回の様な、彼女達にしてみれば、多分、極、自然な事なのだろう行動が、酷く嬉しい。 じわ、と薄く視界が曇るのを、寸での所で留めながら、亜美は、自分が酷く幸せな人間に思えていて。 『その子達を、大切にしなさい』 最初に見舞ったその時に、彼から贈られた言葉を思い出す。 自分一人では、決して持つことが出来なかっただろう、沢山のものを、与えてくれた、大切な大切な人達。 彼女達に出会わなければ、彼の心に気付く事も、そして、今、この様な思いをする事も、多分、一生無かったと思う。 ――――護る、からね。まこちゃん あれ、の手から、貴女達を。 例え、命を失う事になっても、私の全身全霊を掛けて。 気付かれぬ様に、そっと眼を瞬せ、もう、幾度も繰り返した、誓いの言葉を胸にする。 それは、生まれ変わる度に、必ず自分自身にする、堅い想い。 これだけは、変わらない。 例え、幾星霜の時を経ても。 「さ、そろそろ帰ろう?」 皆、待ってる。 「ええ…」 無理矢理、話題を逸らそうとするかの様な、ほんの少し粗雑な仕草で、背中を、半ば押される様にして歩き出す。 珍しく、すっきりと晴れた冬の空の下へと、二人はゆるりと足を踏み出していた。
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